※この作品はシベリア抑留について書いたものです。少しでも多くの人に読んで貰うために、以前より読みやすく改訂しました。よろしくお願いします。
異国の丘に倒れし友の霊に捧ぐ
64年前の懐古
◆昭和20年
・5月23日
アイグン入隊 276連隊15236部隊(関東軍56部隊)
・6月24日
通化に移動
・7月20日
満州37801部隊に転属 歩兵(有線通信兵)
・8月15日
この日こそ我々の、いや日本国民全員の忘れることのできない当日である。私は、通化市内で師団通信隊にて通信教育中であった。
同隊が町中より学校に移動しつつある時、15日12時にラジオは一斉に停戦を報ずる。我々有線班は部隊の荷物を学校へと移動する。無線班は市内の警備に出る。町の中は相当にざわめいている。朝鮮系の兵隊は解除される。あちこちで兵隊の酔っぱらいが激しくざわめいている。
・8月20日
元の部隊である、37801部隊に帰隊。
中隊長は若くはきはきとした隊長で、「御馳走でも作ってゆっくりやろう」と言って、前の56部隊の空兵舎(病院になり、病人若干名入院中)に入り、毎日風呂を沸かし入浴。前部隊の米、酒、粉、食糧品、ピーナッツ、石けん、ありとあらゆる物を持って来て、ドーナツを作り、ウドン汁など毎日毎日が大宴会。通化は満州でも有名なぶどう酒の産地故、2箱3箱と買ってきてお茶がわりにのむ。寝ても起きても御馳走の山積みである。
部隊は兵器類の返納、馬具類バンド、被服などをどんどん燃やす。我々も持てるだけ持つ。毛布3、4枚、服も4、5着、日用品も身につくものは持てるだけ持ち、みんな別に荷物を大きく造っている。毛布なども満人に売り、みんな現金で3000円4000円も持って、毎日がぶどう酒びたしである。
・8月24日
師団長がうちの部隊に来て話をする。
「お前らはしばらくの間労働に服さねばならない、辛抱してくれ。」と言ったが、この時は捕虜なんかになるとは誰も考えてはいなかった。
1日か2日がたって召集兵の解除がある。我々若い連中は主として残された。24日付をもって、13日に陸軍一等兵に進級し、給料も8月迄の給料と増俸があった。
・8月26日
朝、山田君と分隊のぶどう酒を1箱買いに行く。昼の御馳走として乳牛を1頭殺したその肉を貰い、うどんに入れて肉うどんという御馳走を作っている。
ぶどう酒を買ってくると、部隊が出発だと言って騒いでいる。うまいうどん汁も忙しいのであわててかきこみ、ぶどう酒を水筒につめて出発だ。
駅付近ではロスケの兵隊が見受けられる。
出発したのは夕方、吉林に向かってである。兵器は返納したため、わずか分隊に小銃が2、3丁のみ。また、どこどこの小隊は隊長以下全員が山の中に入ったとの噂が飛んでいる。
・8月28日
吉林駅につく。ロスケの兵隊将校がわからぬ言葉でわめいている。
構内には缶詰、カンパン、羊羹などがごろごろしている。
駅前広場にアメリカ製の十輪車が待っている。荷物を積み込み、皆は行軍。師導大学に向かう。町中は皆戸をしめて、日系の人の姿はまれに見るだけである。
大学に着いたが雨が降っている。天幕を立てて寝る準備を行わなければならない。地面はびちゃびちゃである。毛布をといて寝床をつくり、潜り込むことにした。
あくる日の早朝に出発。日本語の話せるロスケ「日本人ナゼ集合オソイ。ハヤクハヤク」と言って、急いで集合させる。「地図、カタナ、写真機、ジシャクありませんか。みんな置きなさい。持っているといけません。アトデシラベルモシアルトコロシマス。アリマセンカゼンブダシナサイ」
食料のカンパンなどを持つ人はいない。遠い所へ行くのと違うだろうか。
それが、なんと1キロも行かぬ所の師範学校である。途中日本の将校あたりは、メガネなどを「ヤツ等にやってなるものか」とぶんなげてメチャメチャに壊している。また、先祖伝来の名刀なども取り上げられ山積にしてあり、薪割などに使われている。
・29日から学校において。
水は湧き水で、赤い泥水である。その水で飯をたいてたべる。満人が野菜や1ヶ5円も6円もするマントを売りにくる。みんなそんなものを買いに行く。中には柵外に出て購入しに行く者もいたため、射殺されてしまった人もいる。
3、4名部隊の編成を行う。202大隊2中隊。
清水教官は将校として集められる。隊長が逃げてしまった同中隊でも、ここに来てから脱走した者も大分いるが、皆捕まってきている。
他の部隊は次々と出て行き、また入ってくる。いよいよわが部隊も出発することとなった。1000名が客車に乗る。ロスケ将校「お前等は牡丹江を廻って、ウラジオ港より日本へ帰る」と言う。みんなはそれを聞き、すっかり日本へ帰る気になる。
一夜あければ、汽車は北へ北へと向かっている。みんな騒ぐと、ロスケは「牡丹江方面は水害のため不通であるから、黒河にでてそれからウラジオに廻る」と言う。
開拓団や地方人はどんどん南下している。「兵隊さん助けて下さい」という声はいく度が聞いた。ロスケが来て裸にされ、着物もみな取られてしまったとか、色々と悪いことばかり聞かされる。荷車にこぼれる程にすし詰めにされ、着のみ着のまま金はなしと語る人々、聞く我が身のつらさ。どうすることも出来ない自分が情けない。
ハルピンあたりで日本人が駅ではたらいている。ハルピンを少しすぎた所は線路の付近まで大水がきている。
孫呉あたりでは人一人としていない町で、道路の近くには所々弾薬がおいてある。戦の準備であったと思われる。
食事は停車中に列車全員の飯を炊く。時間が少ないので、生煮えの時もある。持参の金でマントウ1ヶ5円、菓子、野菜を買って食べる。またローソクの火で白米をたいたこともある。
・9月22日
黒江駅に着く。一宿。包米に芋を入れて、マントウを焼いたり南瓜の煮しめなど、案外おいしいものだ。
歩哨は程度が悪く、車中で2回も検査に来て、時計、万年筆など、めぼしいものは皆取り上げていく。
・9月23日
黒河のふちに二泊。我々は付近の整備に使われる。この時に各自が米や大豆、乾燥野菜などを持ち帰る。
川べりには、小銃、食料など小山の如く野積みにしてある。それが菊の紋章のついている銃かと思えば涙が出てくる。
・9月25日
古の画に見る水車船にのり、さいはての地シベリヤに……。
――住みなれし 故郷も今が みおさめか 我がみいづこに つれ行かれなむ
対岸のブラゴエウインクスに渡る。黒河は、この日アメ玉程の大きさのヒョウがばらばらと降っている。みんな家の影やトラツクの下などにもぐりこむ。まるでドラムをたたく様な音だ。船に荷積の最中であったが、一時中断することとなった。荷積みでは、菓子、キャラメルなど、自分の食糧としてもずい分積込む。
上陸地から駅まで約1キロ程夜行軍。荷物は山程有り、這々の体である。
幕舎を立てる地面はぐちょちょだ。それでもみんなごろ寝である。よくもこれで病気にならぬものだ。
朝になると霜が降りている寒さ。シベリヤに渡ってしまったことを今更ながら実感した。