偉大な観測者として、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトがと言う小説家が居た。
彼は一般人でありながら、クトゥルフ神話の雛型を作り上げた人物である。
それまで古代の魔導書でしか語られなかった邪悪な神々や、異世界や並行世界での出来事を、彼は無意識に小説と言う形で残し、後には友人の作家であるオーガスト・ダーレスの手によって一つの神話体系として確立させることになった。
彼の存在は当時、魔術師業界を震撼させた。
彼は生涯己の小説は評価されずにいたが、当時の魔術師たちは戦々恐々と彼の物語を読んでいたものだ。
ある程度、魔術連合が彼の書く小説を規制していたと言うのもある。
盟主リュミスの素早い対応のお陰で、彼に接触しようとした魔術師から彼の身を密かに守り、彼が病死するまでその状態は続いたとされている。
その後、ダーレスが体系化したそれは様々な賞賛や批判を浴びながら、今日に至る。
当時、魔術師たちはこぞってこの体系を極めようと躍起になったが、その結果がどうなったか語るまでも無い。
クトゥルフ体系の魔術は使用が非常に困難である事も有り、発狂者が続出し、魔力暴走事故が多発した。
そして、なにより盟主リュミスが恐れた事は、この世界にも神話の邪神達が存在すると観測してしまう者が出現する事である。
今まで影や形も存在しない者でも、それを居ると知ってしまった時点で生じてしまう可能性が有る。
そんな事が起これば、世界は瞬く間に終わる事だろう。
そうして、ラヴクラフトの死から百年近い月日が流れ、ようやくそれは落ち着いたと言って良い。
しかし、忘れてはいけない。
知識が有る限り、そこには力が生じると言う事を。
それは即ち、我々はいつ訪れる滅びに怯えながら、未知の力と法則に相対しなければならない覚悟を持つと言う事である。
混沌魔術の権威、ギリア・S・ハーベンルング。
「下っ端の眷属とは言え、神の下僕だ。
神の加護を受けて神性を帯びた攻撃を喰らったら、“人間”の領域にいるなら死は確定だ。」
ハムレットの哀れみにも似た言葉が投げかけられる。
水妖の触手が、三百六十度全方位、壁や天井、床から現れた水溜りから出現して二人に殺到する。
邪性を孕んだ攻撃は、魔力侵食と精神破壊の特性で掠っただけで致命傷だ。
『防壁を意識して最大にしろ、薄紙同然でもないよりマシだ。』
カーレスは即座にルーシアに憑依しながら叫んだ。
同じ眷属の下っ端でも、先ほどの悪魔とはレベルが違う。
とりあえず二人はバックステップで距離を取りながら、触手の攻撃を回避する。
前はルーシア、後ろは朝美と言う布陣で移動の邪魔になる触手は斬り捨てる。
斬り捨てるたびに凄まじい異臭を放つ不気味な血を撒き散らす触手に、二人は防戦一方だ。
ハッキリ言って、二人にクトゥルフ系統の召喚魔術の相性は最悪だった。
邪神の眷属、所詮は下っ端とは言え、物量と再生速度でほぼ朝美の物理攻撃と動きは封殺されていた。
かと言ってルーシアにこの触手を一掃する火力は持ち合わせていない。
唯一の希望は、ウェルクなのだが・・・・・。
「あ、お取り込み中みたいだね。」
文句を言う暇すら無かった。
彼は迅速に何らかの魔術で従業員だけを回収すると、目の前の怪物を見ない振りをして奥へ篭城してしまった。
その後、彼の悲鳴―――と言っても、間違えてお湯の入ったコップを足元に落としてしまった時みたいな情けない―――を挙げていた事から、向こうでも触手に襲われているのだろう。
カーレスにあのように行った手前、逃げる事も出来ない。
元より、覚悟は決まっている。
「ルーシア、合わせろ!!」
「分っています。」
背中合わせに二人が位置取ると、朝美が直刀に刻まれた術式を開放した。
霊剣・布都御霊剣と対応された直刀から、雷撃にも似た斬撃が迸る。
全方位に伸びる雷撃の枝が触手を斬り捨て、触手が再生する一瞬の隙を朝美は突破した。
「抜けたか、そう来なくちゃな。」
まだまだ序の口なのか、ハムレットは余裕を崩さなかった。
「だが、甘い。」
嘲るような笑みを、朝美に向けた。
その直後、彼は袈裟懸けからバッサリと切り裂かれた。
「―――――ッ!!」
朝美は、反射的に跳び退った。
その判断は正しかった。
切り裂かれたハムレットは、人としての形状を失い、どす黒い粘液へとその姿を変えた。
その粘液の中では、人間の物とは思えない臓器や器官が不気味に鼓動していた。
そして、ぎょろり、と無数の眼がどす黒い粘液から生じて、朝美を凝視する。
テケリ・リ、とその液体は鳴き声を挙げた。
「ショゴス!! あれの召喚と使役はネクロノミコンの記述でしょう!!!」
アンカーと巧みに動かして触手と対抗しているルーシアが声を挙げた。
普通の魔力糸では、すぐに侵食されて破られてしまう。
「あれは便利だからな、覚えておいて損は無いだろ。まぁ、流石に反乱されちゃ堪らんが。」
水溜りの中から浮き出てきたハムレットが言った。
なんて事は無い、トリック系の魔術の応用だ。
それに、ショゴスは人間に変身する事も出来る。
偽装するくらい、訳無いのだ。
そもそも、召喚師タイプの魔術師が馬鹿正直に人前に姿を晒すなんて、まず有り得ない。
「お嬢ちゃんはそれで遊んでな。」
どどどどどど、と天上から朝美の周囲に無数・・・いや、大量のショゴスが降ってきた。
「くッ!!」
ショゴスの特性は、見ての通り粘液なので物理攻撃が全く通用しないと言う事だ。
朝美にとって、それは最悪の敵であることを意味する。
ショゴスをただの粘液と思って甘く見れば痛い目を見る。
最終的には彼らの創造主たる、地球を最初に支配していたと言われている“古きもの”達をほぼ壊滅させたのは彼らなのだ。
無尽の生命力と物量、そして自立進化こそ彼らの武器なのである。
「我らが大いなる■■■■■と争っていた“古きもの”の奉仕種族を使役するって言うのも、中々洒落が利いているだろう?」
口調こそふざけているが、ハムレットは一手一手と朝美たちを追い詰めていっている。
魔術戦とは、持っている駒が限られている将棋のようなものだ。
兵法では戦略が重視されるが、勝てる駒が無ければ、戦略で勝てる勝負にも勝てないのが魔術の世界だ。
ショゴスは先ほどの触手よりずっと格の低い、それこそ適切な対処法を知っていればただ多いだけの粘液だ。
魔術師の戦いとは、いかに相手が苦手とする適切な一手を使って、確実に仕留めるかなのだ。
無駄な動作など殆ど無く、明らかにこの魔術師は二人より戦い慣れていた。
最低限の魔術で、最大限の戦果を。
非常に、非情なほど合理的な魔術師らしい戦い方だった。
そして、朝美を封じ、決定打の不足するルーシアを目の前にして、彼は王手を掛けた。
このまま押し切れば彼の確実な勝利がやってくるだろう。
対立する種族の眷属同士を操っていることから、彼の技量は魔導書の力を込み入れても相当な物だ。
朝美が身動きの取れない今、ルーシアが彼を打倒する事はかなり難しい。
触手をアンカーで絡めとって動きを封じ、現状は拮抗しているように見えてこれ以上数を増やされたら一巻の終わりだ。
それに、相手は異界の化け物。人間など初めから相手になるはずがないのだ。
このまま邪神の眷属の蠢く異次元の魔海に引きずり込まれたら、どうなるかはルーシアにも分らない。
なんて事は無い。
完全に舐められているのだ、二人は。
「―――――こんな事をして、貴方の目的は何ですの?」
「んんぅ?」
両手の塞がっているルーシアに出来る事は少ない。
精々、口を動かすくらいだ。
「それを訊いちゃう? 聞きたい? 教えて欲しい?」
対して、ハムレットの反応は予想以上に素直なものだった。
強大で真理の探究に一途な魔術師ほど、理想を語るのが好きなものである。
なぜだか反射的に自分の兄の顔が浮かんでしまったルーシアだが、急いでその想像を首を振って掻き消した。
「だって理解できませんもの。
わざわざそこの猿どもに魔術を教えるなんて、特殊な趣味嗜好が有るとしか思えませんわ。」
「そりゃあ、傍から見ればそうだろう。
しかし物には使いようって諺がこの国にはあるだろ?
少しばかり効率的に手下が必要だったんだが、やっぱ無理が有ったかなぁ。今回の一件で身に染みたわ。こいつら使えん。
せっかくこの国は宗教の自由とか何たらとかが有るから、戸籍とか買って上手くやってたんだけどなぁ・・・・予想以上に役立たずでむしろ笑えるわ。師匠と違って俺はやっぱり人に物を教えるのは向いてないわな。
ジャパニーズは宗教観が薄いからいけると思ったんだが。」
ふふふふふ、とハムレットは自虐的に笑いながらそう言った。
人を物としか考えない、清々しいほどの外道だった。
「やっぱり、最近魔術師を片っ端から集めてる弟弟子のところから横取りすっかね。
いや、あいつを組み伏せて服従させた方が都合は良いか。あのガキと羽虫も一緒に居るって話しだし。
となると、もうこんな国にも長居は無用だからな。適当に奪ってハイ終了。」
「なぜ、そんなにも魔術師を必要としますの・・・・」
何だか自分だけの世界に入っているようで、まるで周囲との会話が成立していないが、それだけはルーシアも理解できた。
「手と、贄さ。」
ハムレットの出した答えは、実に簡単だ。
彼だけでは決して行えない超大規模儀式魔術を決行するための人員と、それを行う為に必要な代償。
とても簡単な、黒魔術の基本だった。
「馬鹿げてる、邪神でも召喚する積りですか!!」
例えば彼なら、遥か異世界の海底に沈んだルルイエの奥底に眠る邪神を呼び覚ますことだってするだろう。
しかし、存在するだけで世界を滅ぼすような存在が出現すれば、彼だってただでは済まない。
「そこまで俺も馬鹿じゃない。
神とは崇高で絶対だ、眠っているのなら起こすのは憚れる。起こしてと、頼まれなければな。
だけど、一信者として、一人の魔術師として、・・・・・アダムとイヴが追放された楽園を夢見るように、聖地をこの眼で拝みたいとは思うだろう?」
彼は心底外道だが、しかし、とても純心であった。
思わず、ルーシアが身震いしてしまうほどに。
「――――――――古代都市ルルイエの浮上。」
「ご明察。」
ハムレットは、殉教者のように笑った。
神の為なら、それこそその身を投げ打ってしまえるような、そんなおぞましい覚悟がその瞳には有った。
それは、盟主リュミスが最も恐れた事の一つだ。
この世にルルイエなんて都市は海底に沈んでなど居ない。この世の神話の全てが事実ではないように。
だが、それが物語として成立している以上、必ず何処かの数限りない並行世界に存在している。
正確には、『古代都市ルルイエの召喚』だ。
だがそれは、そこで眠る邪神をひっくるめた、事実上の神の召喚だ。
敢えて着眼点をずらし、難易度を下げている。
それに邪神を召喚するには、粘土板に記されていると言う『ルルイエ異本』の原典が必要だ。だがそれは既に破壊されて紛失しており、知識の欠落した写本ではそれは不可能だ。
だが、最低でもルルイエの沈没についての記述が有るのならば、それを浮上させる方法も書いてあるはずだ。
殆ど詐欺みたいな手法であるが、魔術とはそもそも詐欺みたいなものだ。
「ルルイエの都市が浮上した事実を記した小説、『クトゥルーの呼び声』で何が起こったか知っていてやる積りですの?」
「当然だろう。魔術師にとって無知とは死に値する罪だ。」
「・・・・・・」
曰く、邪神クトゥルーは、ルルイエで眠っている。
海底火山の影響でルルイエが浮上し、その際に見る夢がテレパシーとなって世界中に広がると言う話だ。
普段は大量の海水にて遮られているそれも、ルルイエが浮上してしまえば障害も無くなる。
そして、感受性の高い子供や芸術家が酷い悪夢で魘され、重度の精神ショックや自殺衝動に見舞われるのだ。
理解できない、してはいけない法則に接触すると言うのはそう言う事だ。
その被害は計り知れない。
「別に構わないだろう。世界が滅びる訳でもなし。」
「綺麗さっぱり一瞬で滅びない分、むしろそっちの方が酷いと言えば酷いですわね。」
「俺たちには、関係無い話だ。」
エゴイスト。
その言葉は、まさに魔術師のためにあるような言葉だった。
「そうかもしれませんが、少なくともそうなるとわたくしは非常に困りますの。
ええ、原住民の猿どもが幾千幾万死のうと知ったことじゃあ有りません。
――――――――ですが、その中に一人、死んで欲しくない人が居りますから。」
歯を食い縛るように、ルーシアはその言葉を搾り出した。
「良いねぇ、そう言うの。情熱的なのは好きさ。
だけどこうしてベラベラと話すって事は如何言う事か、分ってるだろ?
そいつにゃ悪いが、君らには惨たらしく死んでもらうしかないのさ。」
軽薄な仮面の下に潜む邪悪な狂気が、言葉の端々に滲み出ている。
普通に見えて、とっくに心の底まで悪魔よりおぞましい何かに取り付かれている。
その動機に人間らしさや人間味など無い。とっくに、人を捨てているのだから。
真実に、救いようの無いバケモノだ。
「―――――――死ね、バケモノがぁ!!!」
ズバシャ、と朝美が粘液生命体を無理やりに突破し、ハムレットに斬りかかる。
「へぇ、突破したか。でも暴力は揮うの方が専門なんでね。」
彼の足元の水溜りから津波のように大量の触手が襲い掛かる。
「く、ッ!!」
豪雨のように突き刺さる触手の槍を横っ飛びで躱し、朝美はしつこく追撃してくる触手を切り伏せるが、その圧倒的な再生速度と物量の前にして幾ら彼女とて防戦一方に成ってしまう。
「《ルルイエの館にて死せるクトゥルーは夢見るままに待ちいたり》」
そして、ハムレットの口から異形の言葉が放たれる。
それが詠唱だと分った時には、二人にそんな事を考えられる余裕は無かった。
「 」
「 」
二人の名誉の為に、敢えて彼女達の断末魔のような絶叫は記さない。
いや、その声を言葉で表現できる者は人間では無いだろう。人間の言葉では、表現し切る事は不可能だった。
何の事は無い。
ハムレットの行ったのはただの念波攻撃だ。
出力としてはただの念話に使うような、その程度でしかない。
ただし、邪神の思考を直接人間の脳に叩き付けると言う、高位の魔術師でも廃人なるような精神ショックの伴う念波だった。
「ルルイエが浮上すれば、これが世界中の人間に撒き散らされる事になる。・・・・て、もう聞こえていないか。」
一瞬にして触手の波に呑みこまれた二人をせせら笑いながら、ハムレットは言った。
それどころか、人間としての意識が残っているかどうかすら怪しい。
まあ、これから邪神の眷属の餌と成るのだから、そんなことは詮無い事なのだが。
身も心も徹底的に陵辱されて、永遠に生かさず殺さず搾り取られる事だろう。
さて、彼がこの博物館に来た目的を果そうと動こうとした、その時。
「何ッ!!」
バコン、と天上が砕け散り、何者かが登場したのだ。
それは、カーニバルで使うような派手で華美な仮面を被った長髪赤毛の女だった。
彼女の両手には、二つの実質剛健な長剣が握られており、そこから繰り出された斬撃は最早一陣の風だった。
その斬撃は今しがた二人が呑みこまれた触手を根元から切り裂き、傷口から大きく火傷を起こしている。
その瞬間、二人を飲み込んでいた触手は強制的に魔力に霧散させられた。
切り裂かれた触手は、再生するどころか無理やり召喚をキャンセルしてまで消え失せた。
物理攻撃と魔力攻撃を同判定のバランスの取れた、術式破壊を伴う恐るべき斬撃だった。
しかし、パリンと二振りの長剣は今の一撃で耐え切れなかったのか、柄も残らず粉々に砕け散った。
触手の波に呑み込まれた二人は、気を失って投げ出された。
「ち、」
突然の強襲に動揺はせど、うろたえなかったのは一流の魔術師の証だった。
ハムレットは即座に術式を組みなおして再度触手の召喚を試みた。
彼は周囲の壁や床や天上から浮き出るように湧き出た水溜りから大量の触手が全方位から襲い掛かる。
だが、仮面の女はその指先を流れるように振るった。
その指先は、ある文字を描く。
『Th』
と。
「ルーン魔術だと!!」
一瞬にして博物館は茨に包まれ、それが異形の触手を絡め取って動きを完全に封じたのである。
肝心の魔力侵食で茨を破壊するも、それを上回る速度で連続して茨が触手を絡め取るので歯が立たない。
ハムレットの判断は、迅速にして的確だった。
“仏伊語版ルルイエ異本”を閉じ、強力なクトゥルフ系統の魔術行使を捨てたのだ。
この系統の魔術は強力ゆえに難し過ぎて、彼ですら戦闘に使える魔術は五つにも満たない。
むしろ、便利で強力だから遊びで覚えたに過ぎず、彼の信仰も狂気も趣味の範囲でしかない。
だからこそ、彼は神の復活など望んでいない。
ただ聖地ルルイエへの“観光”を望んでいるのだ。―――――――それ故に、彼は狂おしいほどおぞましい。
ぐにゃり、とハムレットがその姿を変化する。
一瞬にして先ほどとはまるで違う、黒魔術師としか思えない漆黒のローブに身を包んでいた。
だが、装備は先ほどと比べるとむしろ悪趣味なほどギラギラと黄金に輝いていた。
両手に黄金のブレスレット、黄金の鎖にダイヤモンドを多数あしらったネックレス、中指にはウロボロスを象った黄金の指輪。
見る者が見れば、重要なのは指輪だけで、その他は全て増幅器に過ぎないと理解できるだろう。
変わっていないのは、触媒に使用される“仏伊語版ルルイエ異本”だけだった。
「その指輪・・・錬金術? いや、それ偽装。ソロモンの指輪か」
仮面の女が、どこからともなく長剣を取り出しながら呟いた。
「ご明察。一目でそれを見破ったのは、アンタが初めてだよ。」
彼の纏う雰囲気すらも変わっていた。
実際には黄金でメッキしているだけで、その指輪は鉄と真鍮で作られている。
彼の本職は、―――――――悪魔召喚師!!!
より正確に言うなら、ソロモン系統の悪魔崇拝者だ。
聖職者が天使や聖人の力を借りるように、彼らは魔神や悪魔の力を借りる。
「《Aim!!》」
ハムレットが命じるように魔術を行使する。
その瞬間、仮面の女に爆発的に燃え上がった。
火事を司る地獄の公爵アイムの放火による発火術式だ。
仮面の女はそれを物ともせず長剣を振るった。
よく見れば、彼女は神聖な力を持った水のベールで守られている。
砲撃じみた斬撃が彼を襲う。
「《Seere!!》」
だが、一瞬その姿がぶれると、ハムレットの姿が消えていた。
地獄の君主セーレの持つ“空間跳躍”の力だ。
そしてセーレは自在に物体を動かす事が出来ると言う。
その力により、いきなり仮面の女は壁に叩き付けられ、持っていた長剣が自らの体の内側から突き出たのだ。
だが彼女はその姿を一瞬で土くれへと姿を変えた。
「《Fuefur!!》」
中央に現れた仮面の女に、上空から雷撃が迸る。
地獄の大伯爵たるフールフールの雷を呼び寄せる力だ。
だが、戦闘の最中に出来上がった瓦礫が意思を持ったかのように彼女の頭上に集結し、その身を守る。
一見、凄まじい攻防でハムレットが押しているように見えるが、それは違う。
「(化け物か、あの女。)」
相対しているハムレットは分った。
相手の魔術に、まるで一貫性が無いのだ。
次々と攻め方を変えていると言うのに、相手は涼しい表情で完璧に対応している。
仮面で表情が見えないとか言う問題ではない。魔術を使うペースに乱れが無いのだ。
勝てる気がしないという戦いをするのは、彼はこれで二度目だった。
ハムレットも一流の魔術師の中でも上から数えた方が早いだろう実力者だ。悪魔崇拝の黒魔術と言うのは、そうぽんぽんと連発できる物ではないどころか、儀式系が多い故に戦闘にすら向いていない。そもそも、大抵の魔術はそう言う物なのだ。
それを神聖魔術の天使を悪魔に対応して大幅に簡略化している点から見て、彼は天才と言っても良い。
その才能を見出され、彼は師に拾われたのだ。
だが、あの仮面の女はそれを軽く上回っている。隔絶していると言っても良い。
才能だけでは辿り着けない、とんでもない物を感じた。
激闘は、それでもまだ終わらない。
「朝美、起きなさい。」
朝美は強烈な衝撃で、目を覚ました。
「―――ほぐぉ!!」
反射的にルーシアを殴りながら。
「この、バカ女ぁ!!」
そしたら、首を締め上げてきた。
『いい加減にしないか。状況を考えろ。』
二人仲良く首を締め合っていると、カーレスが呆れたように言って来た。
「そう言えば、わたくし達・・・・」
ルーシアは何が有ったか思い出せないようだった。
むしろ、思い出したくないと頭が拒否しているような、そんな感じでもあった。
『不甲斐無い。完膚なきまでやられおって・・・』
「・・・・・」
ぐうの音も無いとはこの事だった。
「と言うか、あれ誰?」
朝美は、自分達を助けるように登場した仮面の女を指差した。
指差したものの、二人の戦闘の際に巻き上がった粉塵で指先を見失ってしまう。
「さぁ・・・・・どこかで会った事があるような・・。」
ルーシアが訝しげに首を傾げたその時、カラン、と決着を告げる音が鳴った。
粉塵が晴れ、接近戦で遣り合っていた二人の姿が露に成った。
どちらも致命傷を負った様子も無く、また崩れ落ちる様子も無かった。
ただ、今の攻防で、仮面の女が被っていた仮面が落ちた。
それが決着の合図だった。
「お、お前は誰だッ・・・!?」
どこか慄いたようにハムレットは言った。
そこに先ほどの余裕など、微塵も無い。
だが、彼を笑う事の出来る人間は居ないだろう。
彼女の顔には、目が有り、鼻が有り、眉毛が有り、口が有り、耳が有り、頬が有り、顎が有り、輪郭が有り、前髪が有った。
それを総合的に組み合わせて、漸く“顔”に見えた。
一目で無意識の内に人の“顔”と判断できず、顔を構成する様々なパーツを福笑いのように組み立ててやっと“顔のようだ”と認識できたのだ。
彼女に、顔は無い。
顔無し、無貌。定義できない、混沌。
それはクトゥルフ神話の世界観に於いて、それは最悪のタブーを連想させてしまう。
恐れるなと言うのが、無理な話だった。
「私が、誰かって?」
顔の無い女は、首を傾げて顔面にある無数の筋肉を動かし、涙腺を緩ませ体液を流した―――――と表現するしかない。
それを人間の表情に当て嵌めるなら、悲しそうに泣いている様に見えた。
「――――――そんなの、私が知りたいわよ。」
そして顔の無い彼女は、片手を挙げた。
その手に、名状しがたい漆黒の渦が巻き起こる。ギリシア神話にある定義できない原初の混沌。
何も無い、虚無の空間。
その空間は既存の全ての物質を巻き込む一種のブラックホールだ。
「《Seer―――》」
魔神セーレの空間跳躍術式で逃げようとしたその瞬間、――――――脳内を揺さ振るほどの情報が叩き付けられた。
「(これは――――――)」
先ほど朝美とルーシアに対して使った最後の魔術と、ほぼ同種の魔術だった。
その魔術から発せられた地点を見やれば、ウェルクが件の十字架を持って笑みを浮かべていた。
その直後、成す術無く、ハムレットは何も無い空間に押し潰された。
「貴女、もしかしてカルミアですの?」
「えぇ!!」
ルーシアの恐る恐ると言った言葉に、彼女と面識のある朝美は声を挙げて驚いた。
ちょっと様変わりした、という程度は無いほどの変化だ。
すると顔の無い女―――――カルミアは、唇の筋肉を釣り上げて顔面に自嘲と思わしき表情を浮かべた。
「一体、何が有ったのですか?」
「お家で色々と有ったのよ。」
彼女はそう呟くと、地面に落ちた仮面を被りなおした。
「なんてこと無いわ。私が馬鹿だったってだけ。
お父様に叱られて、“顔”を引き剥がされて、自分の矮小さに打ちひしがれて、今は自分探しの旅の真っ最中。
偶々こっちに寄ってこの近くに滞在していたら、変な魔力を感じて見に来たってわけ。」
今のカルミアには、長年真理を探究してきた老魔術師のような貫禄さえあった。
今まで相当な苦労があったのだろう。
『不甲斐無い弟子達を助けて下さって感謝する、カルミア殿。』
「構わないわよ。どうせ当ても無く浮遊クラゲのように彷徨っていただけなんだから。」
そう言う今の彼女に、貴族らしい気品など欠片も無かった。
ただどこか疲れたように唇の筋肉を動かすだけだった。
「と言うか、よくクトゥルーのテレパシー受けて廃人に成らなかったね。」
綺麗に丸く抉り取られたクレーターの底に転がっている“仏伊語版ルルイエ異本”を手に取りながらウェルクは言った。
あれほどの破壊が有ったと言うのに、魔導書は表面が汚れる程度の被害しか出ていない。
「思いっきり見捨てたくせに・・・・」
「いやだって、あれは骨折れそうだったから。こいつを加工して武器にした方が良いかと思ってさ。」
朝美の咎めるような視線を受け流しながらウェルクは手にしている“ロレンソの十字架”を示した。
「・・・・・原型も無いですわね。」
呆れたようにルーシアが呟いた。
正しく原型も無かった。と言っても、別段形に変化があった訳ではない。
健全な聖具が、相手に持ち主の考えや主張を強制的に理解させ納得させるという洗脳術式にされている。
どこからどう見てもSランクの危険指定魔具に魔改造されてしまっていた。
「これはもう回収して本部に保管しなければなりませんけど・・・・博物館にはどう言い訳しますの?」
「館長には複製した奴を渡しとけばバレないって。」
「最低ですわね!!」
「これが無かったら仕留め損なってたって。
逃げられたみたいだけど、あれなら致命傷だよ。数分後にはお陀仏じゃない?」
自分の手柄でもないのになぜか誇っているウェルクだった。
「しかし、混沌魔術とか久しぶりに見たけど相変わらず何でも有りで節操無いね。
美しさが足りないよ。泥臭いし悪趣味だね、舐めてるとしか思えない。まあ品位の欠片も無い属性魔術よかマシだけど。」
どっかの魔王さんみたいなことを言うウェルク。
「そっちこそ、その十字架に施した術式は定番過ぎて独創性が無いわ。固定観念に凝り固まった太古の骨董品みたい。」
「僕に意見するとか、笑えるね・・・」
天下のウェルベルハルクに魔術のことで文句を言うなんて前代未聞だろう。
何だかウェルクとカルミアの睨み合いに成ってしまった。
「・・・・・・でも、ユングの提唱した“ペルソナ”の概念を利用した精神防護の遠隔作動は秀逸だったね。
擬似精神を形成してそれを盾に精神を保護して、本物の邪神の念波を防ぐなんて中々出来るもんじゃない。」
「まぁ、そちらこそ洗練された術式とその密度や尚且つ最適に効力を引き出しているのは素晴らしいと思いますわ。」
ウェルクが他人を褒めるのも中々無いが、以前のカルミアならこの態度も無かっただろう。
「・・・・・・とりあえず、今日は疲れたので帰りましょう?」
最後にルーシアが、そう締め括った。
「は、ははは・・・・」
ハムレットは、生きていた。
あの最後の瞬間、不完全ながら空間跳躍の術式が発動し、逃げ延びていた。
生きていると言っても、辛うじて息が有るだけで、両肘からの下半身が丸っきり消滅している。
彼が魔術師だから最後の力で生き残っているが、ウェルクの言った通りもう数分も持たない。
死神が刻一刻と彼の命を刈り取らんと迫って来ていると言うのに、彼の心は晴れやかだった。
彼の野望も、生きる理由すらも如何でも良くなってしまった。
なにせ、あの時、最後の最後の瞬間、ルルイエ語で神託が有った。
――――――――ただ死ね、と。大いなる■■■■■から、命令が下った。
だから、死ぬ。このまま死ぬ。
理由なんて如何でも良くなってしまった。
彼は強い酒に酔ったような陶酔状態であり、成すが侭にするべき事をやり遂げる。
いざ死のうとした、その時だった。
かちゃり、と鉄と鉄がかち合った音が聞こえた。
「あぁ・・・姉貴か。」
聞き覚えのある足音に、ハムレットは笑った。
「お前に姉などと呼ばれる筋合いは無い。」
返ってきた声は、墓の中の土よりも冷たかっただろう。
「冷たいなぁ、姉貴は。あぁ・・・俺の体も冷たいや。ああそうか、死ぬんだっけ俺。」
常軌を逸した反応に、彼に姉貴と呼ばれた人物は、ふん、と鼻を鳴らした。
「師匠の後を継ぐのはカインの兄貴か姉貴のどちらかだと思ってたんだがなぁ。
姉貴はそんなの興味ないっぽいし、カインの兄貴はあの“虚飾”に十年も前に殺されちまって行方不明だし、チャンスは有ると思ったんだけどなぁ・・・・・こればっかりは残念だ。」
「・・・・・・・私は、お前が嫌いだった。」
「なんだ、昔の男を思い出すからか?」
ふん、ともう一度鼻で笑われた。
「まぁいっか。カインの兄貴とは戦いたくなかったし、姉貴には勝てる気がしないし。
ハサンの馬鹿はどんな死に様を晒すのか気になったし、あの口の悪い羽虫とエルシーの漫才をもう一度聞きたかったなぁ。
・・・・・・・・・あ、これが走馬灯って奴なのか。どうしてだろう、師匠とは何の想い出も無いや。」
「・・・・・・・・・・・」
「はは、俺だって魔術師だ。死体を晒す無様はしない。
自分の始末くらい、自分で付けるさ。―――――じゃあな姉貴。」
ごぽごぽ、と徐々に彼の周囲が水没していく。
彼は、このまま異次元の魔海に堕ちるのだろう。
邪神の眷属の供物として、狂気に塗れて死ぬのだろう。
「・・・・・・・・・・」
それは、せめてもの情けだったのだろう。
ぶすり、と彼の脳髄が細いレイピアが貫通した。
「はは、ありがとよ、姉貴。」
「・・・・・・」
それが、彼の最後の言葉だった。
ちゃぷん、と魔海が消えた空間は、波紋となって消え失せた。
「笑わせる。お前を弟などと、あの男を師などと思った事も無い。」
血の付いたレイピアの血糊を払うと、彼女は何の未練も無かったかのように踵を返した。
「死人に、感情など有る筈もない。当然だろう。」
振り払うように零れた言葉に、心は無い。
そしてそこには、初めから誰も居なかったかのように、冷たい風が吹き抜けた。
「本当に来なかったよ、ウェルクさん。」
杏子は、久々に一人の帰り道の余韻に浸りながら、放課後の帰路を歩んでいた。
その足取りは、心成しか重い。
「今頃ウェルクさんは東京の博物館で凄い十字架を見てるんでしょーねー。
お土産とか買ってきて、ふんぞり返って自慢するんでしょうねー。」
心の中は、例えようの無い怒りで煮えくり返っていた。
今にでも地団駄を踏みそうな勢いだった。
「そう言えば、東京土産ってなんでしょう・・・・・・サブレ?」
あのクッキーみたいなの美味しいんですよねー、とか良いながら、バターの効いたあの味を思い出してすっかりと悦に入っている杏子は楽しそうに笑った。
「あ・・・・・」
すると、その時通り過ぎた本屋の軒先に料理本が置いてあるのが目に入った。
「・・・・・・・・」
己の懐具合を財布と長いようで短い相談をすると、彼女は意を決して料理本を手に取り、本屋に入っていった。
そんな感じで、最近キョウコってば青春してるね~、と友人に言われている杏子だった。
「よっし、明日こそウェルクさんの鼻を明かしてやりましょう。とりあえず、明日こそ野菜炒めを―――」
「ふーん。仲が良いんだね。」
ふと、後ろから声が掛けられた。
え、と彼女が振り返った時には、―――――彼女の額に人の手がめり込んでいた。
「じゃ、彼の為に、軽く命を張ってくれない?」
自身の額を貫く細長い腕越しに見た声の主の顔は、この世の物とは思えないほど歪で、ゾッとしてしまうほど美しかった。
「・・・・・・・あれ?」
ふと、杏子が気付くと、夕暮れの帰り道に立ち尽くしていた。
自分が何をしていたのか思い出せないが、まあいいか、と彼女は些細な疑問を頭の中から振り払った。
「さて、明後日にはこの町が地図から消えていないと良いけど。」
魔王の描くキャンバスには、未だ何も描かれていない。