その夜、仮面を新調した暗部の男は火影邸の警護に務めていた。
素顔を晒すという、暗部の者にとって最大級の失態を犯した彼は未だに立ち直れず、酷く意気消沈していた。
早い段階から暗部に選抜され、他の凡庸の忍とは違うという強い自負心があっただけに、上忍ながら凡庸を絵に描いたような男に劣っている事実が悪夢の如く圧し掛かる。
この失態を当然のように聞き流し、何の御咎めも与えなかったダンゾウの対応も、彼の自尊心を深く傷つけた。
――この如何無き実力差が、さも当然という認識だったからだ。
気が滅入る中、任務中に私情を挟むなど言語同断だと内心叱咤し、彼は火影邸の警護に全力を注ぐ。
音隠れと砂隠れの戦から二十日も経過し、夜襲や侵入など皆無に等しい。慢心するべきではないと戒めるも、心の何処かではもう安全だと確信していた。
まずはこの簡単な任務を完璧にこなし、傷ついた自信を再構築させて行こう。暗部の男が自分自身を鼓舞して空元気で立ち直ろうとした時、忍としての卓越した聴覚が微かな異音を捉えた。
この奥の通路には封印の書の保管庫に行き着くが、忌々しい九尾の小僧が侵入した経緯から警護の者が常駐している。
それ故に万が一もあるまいと思うものの、彼の中に過ぎった悪寒が拭えない。念の為、彼は保管庫まで赴く事にした。
(――? 警護の者がいないだと? 一体何処に……!)
既にその時点で異常事態と言えた。警護の忍が勝手に持ち場を離れるなど在り得ない。何らかの外的要因が無ければ、今の状態にはなるまい。
警戒の度合いを最大まで引き上げて――この場で踏み込むか、他の者に知らせてからにするか、その二択が脳裏に過ぎる。
侵入者を取り逃がす可能性を犯してまで援軍を呼ぶより、彼は単独で汚名返上する道を選んだ。これこそ失った自信を取り戻す絶好の機会だと信じて疑わずに。
意を決した暗部の男は保管庫へ踏み込む。其処で彼を待っていたのは仁王立ちする一人の青年だった。
(――!?)
眼が合った瞬間には、勝敗は決した。
暗部の男の四肢と咽喉に巨大な楔が何時の間にか打ち込まれていた。身動き一つ取れない上に、身も捩れないほどの激痛で声も出せない。
敵の幻術に陥った事を悟ったが、今の彼にはゆっくり歩み寄る死神の姿を黙視するしか出来ない。
青年は赤い雲模様入りの黒衣から気怠げに右手を出す。手には何も持たず、その薬指には〝朱〟の文字が入った指輪が嵌められている。
しかし、幾ら侵入者の特徴を克明に覚えようとしても無駄な事――自分は此処で殺される。男がそう覚悟した時、その右手は力無く暗部の仮面を鷲掴みにした。
死に際にさえ素顔を暴かれるのかという悲観は、自身のチャクラを吸い尽くされていく絶望的な虚脱感に打ち消される。
意識が途絶える最中、暗部の男はその青年の両眼に輝く写輪眼と横一文字に傷つけられた木ノ葉の額当てを網膜に焼きつけ――これが齢十三で暗部の分隊長になった男かと内心嘆き、一日に二回目の敗北を喫した。
音も無く崩した暗部の男を見届け、暗闇に佇むうちはイタチは煙の如く消え失せた。
その影分身が蓄積した知識と経験は、或る少女の下へ齎された――。
巻の38 色めく夜の陰謀と少年少女の純情の事
「ふふ、完璧ねっ。我ながら自分が恐ろしいわぁ!」
「……そりゃそうだろうな。敢えて突っ込まんよ」
火影邸から数百メートルほど離れた廃屋にて、うちはルイは首尾の良さに満開の笑みを浮かべる反面、共犯者の日向ユウナは精神的な疲労感を隠せずにいた。
「……どうせこんな扱いだと思っていたよ。何処まで行っても便利な望遠鏡扱いだとも、解っていたとも」
「不貞腐れているねぇ。私とユウナの、初めての共同作業なのに」
ルイは顔を俯き加減にしたまま、目だけ上へ向けてユウナの顔を覗き込む。
俗に言う上目遣いの仕草に、ユウナは一瞬動悸が激しくなるが、ルイの真っ黒な性根に騙されるものかと首を振って、一時の気の迷いにから生じた煩悩を退散させる。
「……その共同作業が味方に被害を及ぼす奸計じゃ、千年の恋も冷めるぞ」
「あら、随分と上手い言い回しねぇ」
しおらしい挙動は彼方に消え去り、ルイは嫣然と微笑んだ。
年不相応ながらもルイには相応しい顔だ。そう思考した処で、自分も随分彼女に毒されたものだとユウナは内心苦笑するのだった。
「ナギに刻まれた邪魔な封印が解けて、オマケに近々来るであろうイタチ達の牽制にもなる。一石二鳥でしょ」
イタチに変化した影分身で火影邸に侵入し、封印の書を読み解いて四象解印の記述を丸暗記するのが一番目の目的であり、その際、うちはイタチが侵入したという痕跡を適度に残す事が二番目の目的だった。
イタチに罪を擦り付けるに当たって、一番の障害となるのは漫画の本編では名前すらない、有象無象の分家筋の者が持つ白眼の存在だった。
白眼の透視で発見されるだけならまだしも、一目で変化すら見抜かれ、正体を暴かれてしまっては元も子もない。
其処でルイは白眼に対抗する為に、同じ白眼を持つユウナを強制的に共犯者に仕立て上げた。
「確かに効果的だが、少しは他人の迷惑加減も顧みてくれ」
「大事の前の小事よ。それも取るに足らぬ些細な、ね」
言うなれば、白眼という神視点の透視図を見れるユウナの指示の下、影分身の特性を生かして逐一情報を更新しながら忍び込んだ出来レースだった。
最早、幾多の傭兵の命を救ったダンボールすら不必要なほど上手く行ったのは当然過ぎる成り行きだった。
(――けれど、意図的に使った写輪眼から、私の犯行だと疑う者も少なからず出る恐れがある。まあ、六尾の力と比較すれば取るに足らぬリスクだね)
来るべきイタチ達の襲来に向けて、磐石とは言えないが布石は打った。後は意地でも出遭わないよう立ち振る舞うだけだとルイは結論付ける。
「さぁて、長居は無用。さっさとズラかるわ、よ……?」
ルイがそう言って立ち上がろうとした時、よろけて再び地面に尻餅付けてしまった。意図せぬ事態に、ルイの脳裏は疑問符に埋め尽くされる。
「どうしたんだ?」
「……何でもない。すぐ行くよ」
不思議そうな表情で見下ろすユウナに対し、ルイは平静を装いながら素っ気無く言い返す。
その疑問符が焦りに豹変したのは自力で立つ事も儘ならないと悟った時だった。立ち上がろうとする以前に、足に力が入らない。
病み上がりの身で無我夢中で何キロも駆け抜けたり、影分身を何体も作ったりと、気づかぬ内に無理を重ねていた事をルイはこの時初めて自覚する。
「立てないのか?」
「……」
その思うように動けないルイの様子を見て、ユウナが心配して問うが、ルイは気まずそうに沈黙する。
時間が経てば動けるようになるだろうが、何時までもこんな場所に居ては誰かに目撃されてしまうかもしれない。それはルイ自身が一番理解している事だった。
(……やれやれ。珍しく人に頼ったと思ったのに)
最善の方法が何なのか解っている癖に頼ろうとせず、ルイはある筈も無い別な方法を必死に考えている。
そんな妙に意地っ張りなルイが愛しく、同時に最後まで頼ってくれない事が猛烈に悔しかった。
だからこそ、ルイが躊躇している一歩を、ユウナは躊躇無く踏み越えた。
「病み上がりなのに無理し過ぎだ」
「え、ちょっと!?」
ユウナは立てないルイを無理矢理背中に背負う。
突然の行為に驚いてルイがじたばた暴れるが、今の彼女には振り解くだけの力さえ残っていなかった。
「早く立ち去らないといけないのはルイも解っているだろ?」
「う、それはそうだけど……!」
暫くして諦めたのか、耳まで真っ赤にしたルイはユウナの首下に両手を回し、力無く身を任せた。
「……重くない?」
「軽いよ。これでも男だからな、女の子を一人背負うぐらい容易いさ」
まるでヤクモみたいな物言いだと、ルイは気恥ずかしくなる。
同じ年齢なのに、こんなにもユウナの背中が大きく思える。それが不思議であり、また変な方向へ意識してしまう。
ルイの頬の熱は夜風に晒されても暫く冷めなかった。
(……こ、これは、意外とヤバイな……!)
ルイを背負いながら、ユウナは激しく動揺していた。
振り落とさないように必死になっていた時は気づけなかったが、冷静になった今はルイの事を強く意識してしまう。
時折首筋に吹きかかる吐息、女性特有の艶かしい香り、普段着の着物からはだけた両太股の感触、背中に当たるほんの些細な柔らかい何かなど、ユウナの理性を沸騰させるにはどれも十分すぎるほどの破壊力を秘めていた。
誰もいない暗い夜道、二人は満月の光を頼りに歩いていく。
掠れる吐息や足音だけが響く沈黙の中、背中のルイを意識しすぎて平静を保てないユウナは何か話題を出して誤魔化そうとし――忙しく彷徨う視線は、天空に輝く満月に行き着いた。
「この世界でも、月は変わらないな」
「……そうね。あれだけは相変わらず綺麗ね」
ルイは眠たげに、されども感慨深く受け答える。
遠い望郷の念が胸に行き渡る。こんなにも既視感が明瞭に蘇る夜だからか、ユウナは相応しくない質問を口にしてしまった。
「なあ、ルイ。今更な事を聞くが、元の世界に帰りたいって思った事はあるか?」
「本当に、今更な話だね。何度思ったか、解らないわ」
当たり前と言えば当たり前の話だった。喋って、ユウナは若干後悔する。
最初に生まれ育った故郷をどうして忘れられようか。最近は思い起こした事は無かったが、日本での家族や友の事を思い出し、ユウナは寂しげに感傷に浸る。
「でも、戻ってどうするの? いや、違うや。戻ったら、どうなると思う?」
「……? 何か問題あるのか?」
ルイの妙な言い回しに疑問符が浮かぶ。
元の世界に戻ったら、まずは家族と逢い、次に友人達とまた馬鹿な話で盛り上がりたい。それから文明の利器や娯楽を存分に堪能し――途端、その他愛無い空想の願望すら、酷く矛盾して破綻している事にユウナは気づいてしまった。
「……時間の流れが一緒ならば死後十二年後、想像するだけで滅入るね。都合良く一瞬の時間しか進んでいなくても、私達は嘗ての私達ではない。こんな姿形で、嘗ての家族や親友に死んだ自分であるとでも、主張する?」
「う……それは」
そんな無情な現実を想像していなかっただけに、ユウナには返す言葉も出なかった。
ヤクモは元より、ルイは隠蔽出来るからまだしも、ユウナ自身は――正確には、ユウナの眼は普通の人間の物とは掛け離れている。
そんな怪奇じみた眼の人間が現実の世界に溶け込めるかと問えば、間違い無く否だろう。
元の世界に帰るなど元々不可能な事だとは思っていたものの、万が一叶っても報われない結末を悟り、ユウナは酷く意気消沈した。
「……意地悪な、言い方だったね。願望そのものは、否定しないわ。問題は――もん、だい、は……」
「ルイ……?」
振り向けば、ルイは静かな寝息を立てていた。
病み上がりで何体も影分身を作り、経験の蓄積を何度も繰り返したのだ。その疲労は無自覚の内に溜まっていたのだろう。
(……眠ったのか。最後、気になる事を言っていたが、またの機会に聞けば良いか)
ルイの無防備な寝顔に見惚れ、また心乱すユウナは早足で我が家に向かう。
こんな無様な姿を誰にも見られたくないと思う反面、ユウナは唯一人の目撃者に気づかず、致命的にも見逃してしまった――。
その唯一人の目撃者はうちはルイが影分身に変化させて罪を擦り付けた当人――ではなく、あれから当ても無く街を彷徨っていて、偶然にも目撃する事になった黒羽ヤクモだった。
ヤクモが二人に声を掛けなかったのは、ルイと喧嘩して気まずいから、ではない。
ルイをおんぶしているユウナの姿が、ルイとサスケが抱き合っていた昼の光景と重なり、二人がどういう関係になっているのか、知る事を恐れてまた逃げ出してしまった。
(……畜生、目も当てられねぇよ……)
頭の中は屠殺場で解体されたようにバラバラで、何一つ正常な思考に至らない。
その癖に思考は悪夢の如く終わらず、一向に眠れる気配が無い。
この間々では埒が明かない。ヤクモは水を飲んで落ち着こうと、頑なに瞑っていた眼を開く。開いて――今度は自身の眼を疑う。
「――は?」
其処は見慣れた自分の寝室ではなく、人間が使う事を度外視した歪な図書館だった。
「此処は――あれ?」
相変わらずの殺風景を見て、大蛇丸に殺された時以来だと違和感無く思い出し、それが最大の違和感である事にヤクモは気づく。
(今まで一回も思い出せなかったのに、此処に来た途端、急に思い出すなんてどう考えてもおかしいだろ――てか、寝てなかった筈なのに何で唐突に来てるんだ!?)
謎が謎を呼び、ヤクモは更に混乱する。
そんな彼を嘲笑うかのように時計の秒針は規則正しく刻まれる。
チクタクチクタクと、耳障りに思い、段々苛立ってきたヤクモの意識を掻っ攫ったのは、聞き慣れた彼女の声だった。
「ヘタレの甲斐性無し。女の様に泣き喚きながら蟲の様にくたばる。君の墓碑に刻むには最適な言葉だと思うんだけど?」
振り向けば其処に彼女が居た。当たり前のように紅茶を啜っていて、衣服と髪型だけはいつもの彼女とは違った。
いつもの忍装束ではなく、また以前の司書姿でもない。
黒を基調とした洋服にレースやリボンなどの装飾が存分に付けられ、また趣味の悪い髑髏や十字架などのアクセサリーが自己主張するゴスロリ風の衣装だった。
髪型も三つ編みおさげではなく、髪を後頭部で一つに纏めて、毛先を尻尾のように垂らしたポニーテールになっている。
ルイに似た誰かは完璧な造型を持った人形のように着飾っているが、その挑発的で邪悪な笑みがその印象を払拭して尚も補い余る、魔的な魅力を織り成していた――。