春野サクラがうちはルイを見かけたのはほんの偶然だった。
病院に見舞いに行ってもサスケの行方が知れず、意気消沈している中、癖毛の長髪を靡かせて忙しく疾駆するルイの姿を目撃する。
(……いつもおさげなのに珍しい――じゃなくて、あれ? ルイも病院で絶対安静だった筈なのに、一体何処へ……?)
予選での治療でチャクラを使い果たし、その間々寝続けている事は人伝に聞いた話である。
――もしかしたら、彼女はサスケの居場所を知っていて、其処に向かっているのかもしれない。そんな突拍子も無い思考が渦巻いた瞬間、サクラは居ても立ってもいられず、ルイの後を追った。
(――速っ。病み上がりの癖に全然追いつけない……!)
忍ぶ事を忘れて全力で追跡するが、サクラとルイの差は開くばかりだった。
酸素が不足して脳に行き渡らない中、三日も寝続けた彼女にサスケの今の居場所なんて知る由も無い事に気づく。サスケが居なくなった事自体、ルイは知らないかもしれない。
そうと気づけば追う理由など無いのだが、それでもサクラはルイを追い続けた。
激しく息切れする中、サクラの脳裏に過ぎったのは学院時代の彼女の在りし日だった。
成績は常に最下位に近く、何をやっても出来ない落ちこぼれの少女だったが、うちはサスケの一番近くにいたのは間違い無く彼女だった。
サスケの事に関しては一歩先んじていると劣等感を抱くも、全てにおいて遅れを取る劣等生の彼女には優越感を抱いていた。
(……情けない。私は、あれから――)
――けれど今は、そのルイの後ろ姿すら見えない。
その優越感がもはや過去のものに過ぎないと、サクラの中で完膚無きまで崩壊した。
「はぁ、はぁっ……崖? ルイは、何処に……」
目の前に聳え立つは断崖絶壁。ふと空を見上げれば、ほぼ垂直に等しい絶壁を飛び登るルイの姿があり――恐らくは一度も下を見向く事無く頂上へ消えて行った。
まるで天高く舞う鷹であり、それに対して自分は地を這いずり回るだけの蛞蝓だとサクラは自嘲し、心が折れそうになる。
自分ではあんなに軽快に登る事は出来ない。不可能だ。諦めようとした時――やる前から尻込みする弱気な自分に苛立ちが頂点に達し、サクラの中で何かがぷつんと切れた。
「――なめんなコンチクショー!」
サクラは自身に喝を入れ、足裏と両掌にチャクラを集中させる。
登るだけならばいつぞやの修行でやった木登りと同じ要領だった。集中させたチャクラに吸着力を生んで、ひたすら攀じ登っていく。
先程のルイのように、チャクラの瞬発力によって止まる事無く上がるのは初見で出来そうに無いが、不可能と思えた断崖絶壁をサクラは見事に乗り越えた。
「ユウナ、遅かった、ね――!?」
頂上に居たのはいつも通り、一本の三つ編みおさげに結ったうちはルイであり――普段との差異は、その眼に浮かぶ色鮮やかな三つ巴の写輪眼だけである。
巻の20 其々の修行が始まり、ルイの堪忍袋の緒が切れるの事
「――なんで此処に来たのか、聞いて良いかな?」
普段より一段と低くなった口調で、無表情のルイから掛け値無しの殺意が放たれる。
チャクラの質が禍々しく変異しており、まるで二次試験で呪印に支配されたサスケ――否、その呪印を与えた大蛇丸に相違無いとさえ感じる。
「ま、街で見かけて、それで、その……」
サクラが敵意に飲み込まれながらも言い返せたのは、二次試験で大蛇丸の殺気を体験していた事と、ルイへの対抗心の強さ故だった。
「そうかぁ――」
自身の冷静さの欠如と迂闊が招いた失態である事に、ルイは顔を歪ませて内心舌打ちした。
それと同時に、この事態を如何に収拾つけるか、全力で思索する。
(うわぁ、サクラの追跡に勘付けないほど冷静さ欠いていたのか。流石は大蛇丸、夢に出てきただけで破壊力抜群だぜ)
場の雰囲気に呑まれ、ヤクモと他二人は固唾を呑んで見守る。
とても今から「おお、それはまさに写輪眼。ついにルイも修行の末に発現したかぁ!」などと誤魔化せる空気ではない。
ルイの事だから短絡的な行動を取る事は無いだろうと思うが、既に草薙の剣の柄を握って殺す気満々な気配でいるのは眼の錯覚と信じたいヤクモだった。
(……これが、ルイ? これじゃまるで音隠れの奴等に襲われた時のサスケくんじゃない……!? それに写輪眼……いや、ルイもうちは一族なんだから不思議な事じゃない。けれど、まるで見られたくなかったような反応、何らかの理由で隠していた……?)
全ての歯車がぴったり噛み合うような感触を得て、サクラは今の状況が如何に危ういか理解し――それでもルイの写輪眼を強く睨み返した。
「写輪眼の事を黙秘する代わりに――私に、医療忍術を教えて」
揺るぎ無く毅然とした物言いにサクラは自分で褒めてやりたくなった。
ルイの殺意が一段と険しくなる。値踏みするようにサクラの眼を見抜いた後――同性の彼女すら見惚れるほどの凄艶な微笑みを浮かべた。
「――見直したわ、サクラ。いや、見縊っていたかな。医療忍術を教える代わりに、私が写輪眼を使える事を絶対に他言しない事。特にサスケに伝わるような事になれば問答無用で殺すから。この条件で良いかしら?」
そんな理不尽な条件を突き付けておきながら「我ながら最大限の譲歩だね」とのたまう神経の図太さに眼を疑う。
その初めて見せる一面は恐ろしいほど彼女に似合っており、普段からどれだけ猫を被っていたのかとサクラは恐ろしく思う。
「いいわ、その条件で。……その、よろしく」
気恥ずかしげに右手を差し出すサクラに、ルイは一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、握手を交わした。
ルイは面倒事が増えたと内心溜息付き、サクラは一番の強敵と化したルイへの対抗心を熱く滾らせた。
「……あれ、なんで春野いるの?」
その異次元じみた光景を、崖から登ってきたばかりのユウナは己が白眼を疑いながら眺めたのだった。
「ところで、貴女は……?」
サクラからしてみれば、予選の時にルイの右肩に乗っかっていた黒犬を両手で抱える黒髪紅眼の少女、ナギとは初対面であった。
「あっ、私は岩……ごほごほっ、如月ナギサです。初めましてサクラさん、よろしく」
ナギは一瞬本名を言いかけたが、咳き込んで誤魔化し、焦って慄きながら丁寧に御辞儀する。
(木ノ葉の下忍? 確かに忍装束だけど、木ノ葉の額当てを持っていない……?)
同年代の少女でありながら一切面識が無いナギに、サクラは何処か怪しいと疑いの眼を向ける。
見るからに疑われているナギは掻きたくない冷や汗を流した。
「あの、ナギサさんは――」
「はい、ストップ」
サクラの言葉を遮ったのは今まで傍観していた青桐カイエだった。
一難去ってまた一難。カイエは頭を掻き、酷く面倒臭げに重い腰を上げた。
「サクラ君、事情が事情でね、悪いんだが彼女に関しては一切詮索しないように。好奇心は猫をも殺すというが、人間は九つの魂を持つ猫を片付けるより手間だと先生思うんだよなぁー」
まるで冗談のように軽く言うカイエにサクラは呆気を取られるが、それがどれほど恐ろしい事かは、じわじわと気づく事になる。
それは正真正銘、最後通告だった。その超えてはならぬ一線を超えようものなら容赦無く始末しなければならない。カイエは溜息付いた
――木ノ葉が六尾の人柱力を匿っている。これを知る者は少なければ少ないほど良い。サクラが踏もうとした地雷は、ルイの写輪眼など比にならぬほどの不発弾である。
「サクラ、そんな事はどうでも良いでしょ。医療忍術について話すから清聴するように」
「う、うん」
有無を言わさぬ話題の方向転換にサクラは根深い疑念を抱く。けれど、同時に探らない方が身の為だと直感的に悟り、自身に言い聞かせた。
「最初に言うけど、私の医療忍術は完璧なまでに生兵法よ。その道を極めたければ私の教えを鵜呑みせず、専門の者に師事して貰ってね」
「……投げ槍ね、最初から」
やる気無く講釈するルイに、サクラは半目で睨む。
ルイにしてみれば今の状況は不本意そのものであり、写輪眼の事が無ければ三忍の一人である綱手に全部任せたい処だった。
紹介しようにも当の本人は今何処にいるか不明であり、残念でならない。
「仕方ないでしょ、専門分野じゃないんだから。とりあえず医療忍術の基本である掌仙術――私なりの修行法を伝授するわ」
ルイは気怠げにクナイに取り出し、無造作に自身の左掌に突き刺し、駆け抜けた苦痛に顔を少し歪ませながら引き抜いた。
肉が裂ける音が生々しく、真っ赤な鮮血の香りが鼻についた。
「え!? 一体何を――」
手の甲まで穿ち貫いた酷い裂傷だったが、ルイは右掌にチャクラを集中させて左掌の負傷をゆっくりと一撫でする。血を拭えば其処には傷痕すら残っていなかった。
「チャクラを集中させ、傷ついた部位を治癒させる。正確に言えば細胞を活性化させて治癒力を増強させているわ」
本来、医療忍術の実践的な修行には負傷した第三者、またはそれに代わりになるものが必要不可欠であるが、負傷者に事欠かない戦時ならまだしも今の世には絶対的に不足している。
その点、自らを負傷させて治癒するこの修行法なら一人で事足りる。問題点があるとすれば、自分の治癒と他人の治癒では若干勝手が違う事だろう。
「――言わなくても解ると思うけど、私の医療忍術は私の負傷を塞ぐだけのものよ。他人を治癒するチャクラがあるなら攻撃に回すわ」
ヤクモとユウナを横目に、ルイは医療忍者にしてみればあるまじき発言をする。
この正気じゃない修行法を考案したルイが修めたのは、自身の治癒に特化した医療忍術である。それ故に自分の負傷は最小限のチャクラで済むが、他人の負傷だとチャクラが大量に必要になる。
(――目指すものが最初から、決定的に違う、か)
サクラはその事を念頭に入れて、ルイの次なる言葉に耳を傾ける。
「極めて微細なチャクラ操作が必要だけど、サクラなら多分大丈夫。治癒する云々の感覚は自力で掴んでね。最初は治せないだろうから、掠り傷程度で」
講義は終わった、と言わんばかりにルイはおもむろに立ち上がる。
「ちょっとルイ、何処行くのよ!」
「秘密の特訓よ。夕食には帰ってくるわぁ――」
ルイには一ヵ月後の本選があるから仕方ないと、サクラは渋りながら納得する。
そして覚悟を決め、クナイで自身の腕に小さな切り傷を作り、意気揚々と修行を開始した――。
「さて、以前のおさらいだけど、味方識別と手動攻撃は完璧だね。次は――」
「はいはい、形態変化と性質変化ですねー!」
「違うわ」
出来の良い生徒のように答えた私をルイちゃんは非情にも一言で斬り捨てる。
今、私とルイちゃんはサクラの眼が届かぬ場所まで離れ、腰を下ろしていた。
周囲の眼を気にしないようにこんな僻地に陣取ったのに、サクラの眼を気にしなければならない本末転倒ぶりにルイちゃんは自己嫌悪に陥っていた。
その主だった原因が自分にあるので、仕方ないと諦めているけれど。
「え、えぇー!? 前に言っていた事と違うような……」
「後から言った方が正しいのよ。本選まで近いし、尾獣のチャクラを使いこなす修行を優先するわ。あの無尽蔵のチャクラを使わないなんて宝の持ち腐れよ」
確かに形態変化と性質変化は完成する見込みが悲しいほど無い。
私独自の術である混沌の泥は本当にカオスの権化で、どんな形態変化と性質変化が起こるかは術者である私にも解らない始末である。
「あ、そういえばナルトも同じ修行だねー。……えーと、言いにくいんだけど、私はコンちゃんのチャクラはいつでも引き出せるけど全く制御出来ないの。暴走する原因はいつもコンちゃんのチャクラ漏れだったし」
今はルイちゃんがコンちゃんを制御している御陰で何事も無く平穏に暮らせるけど、あのチャクラを使おうとすれば、暴走するのは火を見るより明らかである。
そんな私の弱音を見抜いたのか、ルイちゃんは自信満々にえっへんと慎ましい胸を張る。
「だから私がいるのよ。ナギはナルトで、私はヤマトの役割って事。暴走したら私が抑え込むから、大船に乗ったつもりでチャクラを制御するように」
そう言って、ルイちゃんは自分の写輪眼を指差す。
ああ、なるほど。写輪眼の瞳力なら私の――人柱力としての力を制御出来る。暴走する心配無く、何度でもチャレンジする事が出来るだろう。
「う、うん。それは良いんだけど、ルイちゃんは修行しなくて良いの?」
「これは私にとっても修行よ。ナギは強大な尾獣のチャクラの制御を、私は人柱力の力の制御にそのチャクラの吸収・操作――私にとっても魅力的なのよ、その無尽蔵のチャクラは」
前半部分はともかく、後半部分に疑問符を浮かべる私に、ルイちゃんは自身の右掌にチャクラを集中させて見せる。
……うちは一族の人じゃないので見ただけで何の術か解る筈も無いけど。
「過剰分のチャクラは吸引術で貰うわ。この修行が上手くいけばチャクラ不足に悩まずに済むし」
どうやら予選の時に大蛇丸の部下の人から盗み取ったらしい。
(うわぁ、ルイちゃんがチャクラ使い放題になったら完全無欠だねー。多重影分身の術であの修行とかも出来ちゃうし)
益々ラスボスっぽくなるなぁと苦笑するも、コンちゃんのチャクラを制御出来るようになれば自分も同じ事が出来る事に気づく。夢は広がるばかりだ。
「よーし、それじゃ張り切ってやるよー!」
「あ、待って。その前に――」
ルイちゃんは難しい顔して、恐る恐るコンちゃんに触れる。
この時、この修行が文字通り命懸けである事に、私は未だに気づいてなかったのだった――。
リーさんが両足に巻いていたようなベルトを両手足に装着して、黒羽ヤクモと日向ユウナは模擬戦を続けていた。
ヤクモは木刀で、ユウナはチャクラの流し込み無しでだったが、二人の戦いは予選の時と同じぐらい激しいものだった。
(流石にリーさんの重しと同じ重量だとは思えないけど……)
良く此処まで体力が続くものだと私はただ感心するばかりで――私の修行は一向に進んでない事に苛立ちを募らせていた。
チャクラで細胞を活性化させて治癒力を増強させる、言葉にするなら簡単だが、その活性化の感覚が全く掴めない。
幾らチャクラを繊細に操作しても糸口すら見つからず、最初に切った傷の血は既に乾いて凝固していた。もし痕として残ったら――許容出来る出来ない以前の問題である。
「ああもう――なんで出来ないのよっ!」
積もりに積もった苛立ちが頂点に達し、八つ当たりがてら全力で右手を地面に叩きつけ――自分の短絡的行動を後悔した時、堅い地面は在り得ない音を立てて破砕した。
「「「……は?」」」
それは正しく偶然が生み出した新手だった。最大限のチャクラを一気に練り上げ、瞬時に拳に集中させて常軌を超える打撃力に変えた感触が、まだ私の掌に残っている。
――全身の隅々までチャクラを巡らせ、それをタイミング良く使う技術、それだけはサスケくんより上だと言ってくれたカカシ先生の言葉を思い出す。
あの時はたかがチャクラ操作だけと落ち込んだが、今なら解る。これを極めれば文字通り必殺になると。そして――まだ、この程度の領域では済まないと強く確信出来る。
「へ……? あ、あのぉ、この惨状は一体何事ですか?」
ボロボロになったナギサが満身創痍のルイの肩を担いで一緒に帰ってくる。
ルイは写輪眼で破壊された地面と私を相互に眺めた後、ナギサの腕を振り払ってずかずかと歩き寄って来る。
「……ちょっと。なんで掌仙術教えたのに怪力なのよ!?」
「そ、そんなの私が聞きたいわよッ!」
いきなり怒鳴り込んできたルイに釣られ、私は咄嗟に言い返してしまう。
「何が悲しくて医療忍者でありながら最前線で肉弾戦を行う本末転倒の戦闘スタイルになるのよ! そんな馬鹿げた忍者は一人だけで十分だわ!」
「なっ! そもそも貴女の教え方がなってないんじゃないの!」
「言うに事欠いてそれぇ!? サクラなんて破門よ破門っ! 医療忍術教えたのに怪力覚えるなんて一応の師である私の品格と能力が疑われるわ! もう恥ずかしいから私が師事した事は口外しないでくれるぅ?」
「ぬぁんですってぇ~!」
その後、売り言葉に買い言葉が交わされ、感情的になってルイと口喧嘩を延々と繰り広げた。思い返せば、これがルイと出会って初めての喧嘩だった――。