暫し静かなる空気が支配する森の中。
放たれた凶器は実に20を数える。
年若き女性の手から放たれたぞっとするほど銀に煌く細針は、しゅっと音を立てて真っ直ぐに奔った。
女性と、相対する幼年の男子の間を最短の距離で駆けるそれは、名を千本と言った。
針治療に使われるものよりは幾許か太いが、殺傷するためには余りに細い。
正に針穴を通す正確性でなければ死には至らないだろう。
だがこの投擲の意味を考えれば、当然の選択であった。
男子は、その数の多きに声を上げるでもなく、確りと見据えている。
まだ足りない。
心中逸る本能を押さえつけ、更なる接近を待って少年は右上方へと地を蹴った。
どんと鈍い音が地中にのみ響き渡るのと同時、体は遥か高く樹上へと投げ出される。
高みに坐す女性がその隙を見逃す筈もなく、再びの攻撃を加えるべく千本を投げた。
ひゅるん。
広範囲の面を嘗めた一撃目とは違う、局所の点を突くべく数本が束に似た形で纏められていた。
ちょうど少年の着地より刹那の間隙をもって先端が肉に到達するタイミングだった。
空をいく彼は果たして気付いているのだろうか。
少なくとも不自然に曲がった体勢では視界に納めるのは叶うまい。
だが少年は予定通りに高く伸びた樹木の枝に着地すると、瞬きの間も置かずにもう一度空へと体を投げ出した。
自由落下ではなく、飛翔と言える確実な意志をもってのダイブだ。
隣、と言っても数メートルは離れているだろう接する樹の同じく枝へ飛び移るらしく、女性の投げた千本は虚しく樹皮に刺さり音を立てただけだった。
それも予定通りと女性は同じく攻撃を繰り返す。
そしてまた少年は全ての凶器が自身へと到達する以前に空を行く。
鼬ごっこは一体いつまで続くのか。
それは彼らのみぞ知る。
in Wonder O/U side:O
人間、限界ってのは見据えた先にあるとは言っても、そうそう理解できる訳じゃない。
自分の身を削るような無茶を繰り返してやっとその本当の限界が見えてくる。
この世界の忍ならば尚更だろう。
何が言いたいかというと、まあ単純である。
俺、マジ限界。
「ぜはー」
とんちきな呼吸が漏れるほどにと言って解って頂けるかは微妙だが、とにかくもう動きたくない。
足には熱い塊がわだかまっている様な違和感があり、もうずっと取れなかった。
疲労を和らげるために横になっても意味がない。
目前に迫る千本は鋭利な先端がリアルに痛みを想像させ、俺の反射的な恐怖を想起させる。
生物としてどうしようもないそれは、心を削いでいった。
また単純な筋肉の酷使による乳酸の蓄積も酷い。
合わせて考えれば、動きたくないと言うより動けないの方が正しいのかもしれない。
そして、何よりこれだけの厳しい修行が俺の主な目的であるチャクラコントロールではなく、その前段階たる練成の高速化のためのものだと言うのも疲労を加速させる要因だ。
不安になる。
シズネと修行を始めてまだ2週間ばかりだが、俺には時間がない。
早い所、次の段階へと進まなければならないのだ。
「お師匠」
草の上、横たわったままにシズネの方へ顔を向ければ、彼女は俺の持ってきた下忍指導要綱と睨めっこをしていた。
俺の指導の検討か、はたまた現状の確認か。
どちらにせよ俺のために真剣な表情で悩んでくれるのは素直に嬉しい。
「何です?」
彼女はこちらを見ようともせずに、返答する。
いや嬉しいんだが、会話の時はこっちを見ていただきたいのですよ。
そうは言っても俺も寝転がった体勢のままなので人の事は言えないか。
まあいいや。
「俺、今どんくらいですかね?」
色々な意味を込めて、そう聞いた。
今の位置。一般的な忍の位階に例えるならば、また修行完遂に対するパーセンテージ、それらのどれでもいいから答えが欲しかった。
コネを作るためとは言え、前準備に9ヶ月もかかってしまったのは予想外だった。
その分、この世界に馴染めたのだが、それも目的を遂げなければ無駄になってしまう。
不安は俺の心を抉り、苛んでいた。
「そうですね」
存外に真剣な俺の口調を聞き取ってからか、シズネは本を閉じ俺の近くまで来てしゃがみこむと、俺の頭を膝に乗せた。
いわゆる膝枕である。
あー、いい気持ち。
ていうか気恥ずかしいので抵抗したいのだが、どうにも体が動かない。
果たして動かせないのか、動かしたくないのか。
「焦る事はありません」
そのまま頭を撫でられた。
シズネの冷たい掌が熱を帯びた額に心地よい。
「君は十分に成長しています。及第点でしょう」
「及第点、ですか」
評価としては余り高くないその言葉に、俺は落胆を隠せなかった。
着物ごしに伝わるシズネの体温に身を任せていると、余計に不安になってくる。
「勘違いしないで下さい。
私が言いたいのは、修行全工程を考慮に入れた上での及第点です。
このままの成長速度を保てれば、一年と少しで君は目的のものを手に入れますよ」
優しい声音と撫ぜる手、そして雰囲気に思わず呆けてしまった。
こんな表情も出来るんだなと間抜けにも思ってしまったのは、まあ今は関係ない。
投げかけられた言葉は不安を拭うのに十分だったのだから。
「そうですか。良かった」
「ええ」
それだけを答え、なおも俺の頭を撫でる手。
髪は汗を吸って不快だったが、今だけはそれも気にならなかった。
「それじゃあ午後の修行、始めますか」
俺はそう言うとシズネの膝から顔を上げ、立ち上がった。
足に覚えた違和感はもう大分薄れている。
精神の磨耗も癒されたし、体力は寝ていたから回復していた。
完全には及ばないかもしれないが、シズネの言葉が、その込められた優しさが伝わってきたのだから休んでもいられない。
彼女は初めての弟子である俺を成長させようと必死に知恵を絞ってくれる。
俺が返せる一番の物は、その期待に応えるという事だろう。
「そうですね」
立ち上がったシズネは、先程までの慈しみの表情ではない忍の冷酷さを孕んだ顔をしていた。
これよりは師と弟子の本懐。
厳しい修行にあっても、彼女の優しさを知っていれば己を見失う事はない。
俺とシズネの距離が少しづつ広がり、やがて彼我差が10メートルに届きそうになった所で停止する。
「それでは、行きますよ」
シズネの手から千本が投げつけられた。