うっお、マジ胸が痛い。壁に手を着きつつ日向邸を目指す俺。一休みしたいんだけど、何故だか無性に帰宅しなければならない気がするのだ。何これ。天罰でも下ったか? いやいや、ジェントリーな俺が罰せられるなど、有り得ない。 in Wonder O/U side:U何かを木槌で打ち付ける音が聞こえ、薙乃は脚を止めた。首を傾げつつ、どうしたのだろう、と屋敷を見上げ、脚絆を脱いで音の元へ向かうことにする。気になったこともあるが、彼女の主である玄之介が外に行ったまま帰ってこないため暇だったのだ。朝顔さんも早く玄之介様を解放すれば良いのに、と内心で愚痴るも、決して口には出さない。まあ良い、と溜息を吐き、屋敷の廊下を進む。日向宗家でこんな音がするのは珍しい。工事をしている場所も近くにはないはずだ。たたら翁の作業音だって、ここまで響くことはない。階段を上り、耳を澄ませてみる。打音はハナビの部屋から聞こえていた。何をしているのだろうか。まあ、きっと玄之介様に変なことを吹き込まれたのだろうが、と当たりを付ける薙乃。そしてハナビの部屋へ辿り着くと、少しだけ障子を開けて中を窺う。夕闇が差し込み、薄暗い部屋。その中には、ハナビらしき人物がいた。らしき、というのは、彼女のしている行動が薙乃に理解出来なかったからだ。「……何をしておられるのですか」思わず声を掛けると、ハナビは木槌を振るう腕を止め、こちらを見る。「え? 別に何もしていませんが」「いえ、その……」言いつつ、ハナビの正面にある柱に視線を注ぎ、「……何故、藁人形に五寸釘など」『玄之介』と書かれた紙の貼ってある藁人形を呆れた目で見た。「ああ、これですか。 父上が、『早く帰って来ないと呪う』、と念じて釘を打ち込めば玄之介が帰ってくると言っていたので」「……ほう、そうですか」頬がひくつくのを自覚しつつ、薙乃は藁人形を柱から抜き取る。「紙を貸していただけませんか? あと墨と筆を」はい、と筆と紙を手渡され、ハナビに見えない角度で『日向ヒアシ』、と書く。そしてその紙を藁人形に埋め込むと、玄之介の名が書いてある紙を剥ぎ取った。「何をしたのです? 薙乃」「ええ、ちょっとしたカスタマイズを。これで玄之介様の札を貼らずとも効果が出ますよ」わーい、と素直に喜ぶハナビに気付かれぬよう、薙乃は溜息を吐く。玄之介の前では仲の悪い二人だったが、彼のいない場所ではそうでもなかった。それにしても、と薙乃は思う。なんだろう。話に聞いていた日向宗家よりも、ここは荒んでいる気がする。これも玄之介様のせいだろうか? いや、そんなことはないだろう。きっと。「……ところで、まだヒアシ様から教えられたことはあるのですか?」「特には。せいぜい、藁人形を丑の刻に燃やすぐらいです」「……その効果は?」「玄之介が無事に帰ってこれるように、という効果らしいのです」「そうですか。……火遊びは危ないので、やる時は私に言ってくださいね」えー、と不満そうにするハナビを宥めつつ、宗主は何をしているのだろうか、とこめかみに青筋が浮かぶ。なんて地味な嫌がらせだろう。「しかし、何故こんなことを?」「……玄之介、また私と遊んでくれなかったから」「だから、早く帰ってきて欲しい、と?」はい、と俯き加減で頷くハナビに、どうしたものか、と薙乃は嘆息する。普通の子供ならばハナビの欲求は真っ当はものだろう。まだ五歳児なのだ。遊び盛りなのだから、しょうがないとも言える。しかし、彼女は日向宗家の跡取りと、誰もが口にせずとも認めている者だ。このような弱音を吐くのは――いや、そうか。そこまで考え、薙乃は苦笑する。彼女を年相応の子供にしているのは、やはり玄之介だ。彼が人並みかそれ以上にかまうことで、ハナビは子供らしさを失わないのだろう。甘い人だ、と思う。同時に、玄之介様らしい、とも。玄之介には、周りのことを顧みず、自分の考えを貫くきらいがある。そのせいで、いや、お陰と言うべきなのか。日向ハナビは、今のような性格となったのだろう。良いか悪いか、と問われれば、悪いはずだ。このような甘さなど、日向宗家の次期当主には不要のはず。しかし人としてならば――どうだろうか。少なくとも、普通であれ、と他人を変える玄之介を、薙乃は心地良く感じていた。生まれる場所を間違えてしまったような人だ。血継限界を受け継ぐ如月一族に生まれなかったら、一般人として人生を謳歌していただろう。ただ、その間違いのお陰で薙乃は玄之介と出会うことが出来た。過ぎた甘さと優しさを紙一重で持つ彼の後ろを、歩むことが出来るのだ。「……薙乃? 顔が赤いですよ?」「そ、そうですか?」不思議そうに顔を覗き込んできたハナビに、薙乃は後じさってしまう。「……薙乃。何を考えていたのです」「いえ、別に何も」「……そうですか」「……ええ」気まずい気分になりつつ、ハナビから目を逸らす薙乃。さて、どうやってこの部屋から脱出しようか。そんなことを考えていると、玄関から玄之介の声が聞こえた。「あ、玄之介だ!」さっきまでの雰囲気を忘れたように、ハナビは部屋から飛び出し、すぐに階段を駆け下りる音が響く。仕方のない人達。苦笑しつつ、彼女もハナビの後を追い、部屋を出る。「ただいまー」「おかえりなさい!」屋敷に上がると、コンマ数秒でハナビちんが素っ飛んできた。叫ぶと同時にダイビングしてきたので、吹っ飛ばされないように踏ん張る。……うお、重い。「もー、遅いよ玄之介」「いやあ、ごめんね。 すぐに帰ってくるつもりだったんだけど、なんでか胸が苦しくなって歩けなかったのさ」ふむ。なんだったんだろうねアレ。死ぬんじゃないか、と思うほどに苦しかったというのに、十分ぐらい前に収まったしさー。なんか持病でもあるのかこの身体。いやいや、まさかねー。「……もう、大丈夫なの?」「うむ。この如月玄之介、元気ハツラツで御座いますよ」と、応えると、輝かしい笑顔を浮かべるハナビちん。可愛ゆい。よし、ハイスピード高い高いをしてあげよう。「おかえりなさい、主どの」「う、ぐ……た、ただいま」懸垂の如くハナビちんを上下させていると、薙乃さんがやってきました。「……何をやっているのですか」「いや、高い高いを……」あー、きっと外から見たら変な光景なんだろうね。はしゃぐハナビちんと対照的に、俺は顔を強張らせてるし。いや、懸垂よりもキツイよこれ?「……仲が良いのですね」「まあねぇ。……は、ハナビちん、もうそろっと終わりで良い?」「だめー」酷い。「な、薙乃ん。交代! 交代して!!」「駄目! 玄之介じゃなきゃやだ!!」OH。嬉しいこと言ってくれるね。よろしい。ならばスピンを追加だ。回す毎に長い黒髪が振り回されて、独楽みたいになってますよ。……ぐおー、腕が疲れる。「主どの。あまり高い高いをすると、頭蓋の中に酸素が行って身体に悪いと聞いたことがあります」「で、ですよねー。そういうわけで終わり」「えぇー?」ぶーたれるハナビちんを降ろし、一息。「もう終わり?」「終わり。もうそろそろ晩ご飯でしょ? ハナビちんは猫被って師匠のところに行きなさい」きっともうバレてるだろうけどね、猫被り。まだ満足していない様子だったが、ハナビちんは言われた通りに屋敷の居間へ。俺も夕食の手伝いしないとな。「主どの。帰ってくるのが遅かったのですね」「うん。なんか急に胸が苦しくなったんだ。持病とかあったのかな、俺」「あー……それは、大丈夫です。今後は起こりません」「そうなの?」「ええ」ふむ。何故に断言しますか薙乃さん。まあいい。「厨房行こうか。少し出遅れたから、気合い入れるぜ」「ええ」そう言い、俺の一歩後ろを着いてくる彼女。さて、今日の晩飯は何かしら。翌日のこと。「げ、玄之介」「なんでしょう」いざ稽古、と庭に出たのはいいんだけど、そこには胸を押さえた師匠が。「よもや貴様が、呪詛返しを会得しているとはな……」え、何それ?っていうか、俺に呪いを掛けたのかアンタ。うわー、昨日のは師匠のせいかよ。やることが地味だなぁ。なんて、本気で苦しそうにしている師匠を白い目で見ていると、「自業自得です」と、薙乃の得意げな声が後ろから聞こえてきた。なんなんだ一体。