1.
昼間は一族の多くが修練に使う木造建築の道場は、広い。日向ヒナタにとっては広すぎた。
誰もいない真夜中は静謐が落ちる。
大きく開かれた扉からは下弦の月が視界に写る。自分の姿を暗示しているようで、心がざわついた。
――誰も私を見てくれないの。
小さな声がどこかから聞こえてくる。
まとわりつくソレがとても不愉快で、ヒナタはひたすら拳を振るった。
"柔拳"。
木の葉最強の一つと謳われる日向一門にのみ伝えられる体術――いや、この表現は正しくないかもしれない。伝えられるではない。日向一門にのみ使える体術と言うべきか。
何故なら柔拳を使いこなすためには日向の末裔にのみ顕現する白眼という血継限界が必須なのだから。
白眼。
名前の通り、白い瞳だ。あらゆるものを見通す特殊な瞳は、人体に流れるチャクラの経穴すらも肉眼で捉えてしまう。己がチャクラを経穴に叩き込み、チャクラの循環を人為的に阻害する。人体の内部を破壊することが極意の――拳術だ。
選ばれし者のみが習得できる最強の武門。それこそが柔拳。
だが、ヒナタには才能がなかった。
汗を滲ませながら振るう拳は――遅い。
――日向の面汚しが!
拳が、止まり、だらりと落ちる。
板張りの床に雫が落ちていく。力が抜けていくかのようだ。
しとしと。
雨が降り始めたのだろう。視界が滲むのはそのせいだ。
地震が起きたのだろう。立っていられないほどに足が震えるのはそのせいだ。
突風が吹いたのだろう。両腕で胸を抱きしめてしまうのは寒くなったせいだ。
――人は決して変わりはしない。
ある人の口癖。
その言葉が常にヒナタの心を縛っている。
可能性を決め付けて、限界を知る。それはきっと幸せとは遠いのだろうけど、苦しむことはない。自分の可能性を決め付けるという行為は、才能のないものや心の弱いものにとってはとても優しい。
進もうとするから傷つく。壁の高さに絶望する。
いつだって、そうだ。
努力しようとしたら壁がある。才能という名の巨壁が自分の道を遮っている。
だけど――
――初対面だろ?
思い出したいのはこの言葉じゃない。
けど、思い出すだけで視界が晴れていくのは何故だろうか。
くすくすと口から零れる陽気な声音は誰のものだろうか。
――通りで変な目してるわけだ。
違う。違う。違う。
思い出したいのはこの言葉じゃない。ほんわかと心が温かくなるけれど、こんな言葉じゃない。
現実に立ち向かって、努力して、倒れて、泣いて、悔しがって、それでも立ち上がって――誰にともなく呟いた台詞。たまたま耳に届いた彼の本音。それを思い出さなきゃいけないんだ。
あのときはそう――どんなときだったか。思い出せない……。
よろりとしながら、立ち上がる。
ふらふらと揺れる四肢は生命力を感じられず、そよ風が吹いただけで倒されそうだ。
ひた。ひた。ひた。
冷たい床を素足で踏みしめて、銀の月が照らす世界へと、ヒナタは歩み出た。
「……聞かなきゃ」
掠れた声は、風へ溶け込んでいく。
◆
木の葉が、風になびいた。ふんわりと漂う柔らかな香りに、サクラは思わず思考を止めていた。
我ながら細いと思うしなやかな足を抱きとめる人影を見て、ほうと息を吐く。
柔らかく、それでいて強く――抱きしめられた足は身動きを許さず、まるで月の光に狂わされたかのように身体が、熱い。
ひやりと冷えた地面に背中をつけて、冷たい双眸に近づくために起き上がっていく。
震える。
じんわりと汗が滲み出る。うなじにぴったりと張り付いた自慢の桃色の髪が鬱陶しい。
息ができないほどの過緊張に蝕まれながら起き上がると、常ならば無愛想な表情ばかりのサスケが、かつてないほどの優しげな微笑みを浮かべている。
心臓が、高鳴る。
「あ、くぅ――ふぅぅ……も、もうダメ……限界……」
もう、限界だ。バクバクと鼓動する心臓は、今にも口から逆流してしまいそうで。
熱さから逃げるために、少しでも冷やすために、サクラは地面へと勢いよく倒れていった。
もう動かないぞ。
怠惰な姿を思うさま見せつけるのは乙女という言葉からはほど遠い。
しかし、可愛い女の子ぶる必要はないのだ。
薄く鋭い銀月と、街灯で照らされる公園の中、サクラはとうとうブチ切れた。
「無理だって。初日から腹筋五百回とか無理だって!!」
「だってよ。どうする、サスケ」
「まだ頑張れるだろ?」
頭上ではナルトがににやにやと笑いながら座っており、サスケはサクラの足をがっちりと掴んで放さない。
もうやだ、頑張れない。ふるふると首を横に振って懸命に意志表示するが男二人は通じないようだ。
アカデミー内では『気が強い』やら『黙ってたら可愛い』などといろいろ言われたサクラではあるが、この二人にも適用されるとは思っていなかった。仲良くなればなるほど、性格が悪くなっていくように思えるのだ。
ぶんぶんと手を振り回す。一発でも殴らせろ、という思いでナルトに放った拳は、あっさりと受け止められた。
この二人、自分よりも強いのだ。性質が悪い。
「元気そうだな。サスケ、足きっちり持ってるか?」
元気じゃないです、とサクラは言い返すが、その言葉は木の葉が擦れる音に掻き消されているのだろうか、二人は全く反応しない。
「任せろ」
何を任せると言うのだろうか。即刻足を放してくれるということだろうか。
もしそうならば、サクラは感激の涙を雨のごとく降らせながら、家へと向かって一目散に走り出す自信がある。体力馬鹿二人に付き合っていられるほど乙女の身体は頑丈にできていないのだ。
サクラの脳内をきっちりと把握しているのだろう。
受け止めた拳を握りしめたまま、にぃと口角を吊り上げて、手放した。
逃げしてくれるのだろうか。
一瞬でも期待した自分を殴り殺したくなる。そんな奴なわけないではないか。
ナルトは印を組むと、影分身を一人生み出した。
ぼそぼそと影分身に話しかけ、「おっけー」ととても良い笑顔を浮かべて、影分身が印を組み始める。
それはとても見覚えのある印だった。アカデミーで習う初歩中の初歩――変化の術。
何をする気だろうか。
じっと見つめてしまった。
銀月に照らされる金色の髪がよく生えて、流麗に印を組んでいく姿がとても美しい。さきほどまでの悪戯を忘れてしまいそうになるほどの幻想的な光景。
だが――幻想は泡沫となって消え去ることになる。
変化の術にともなう煙とともに出てきたのは――サクラのよく見知った虫だった。
わさわさ、わさわさ。
多足を動かしながら、びちびちと羽を動かす茶色い物体。
それを手に掴むと、ナルトはサクラの顔の横に、置いた。
そして、笑った。白い歯が印象的だったが、今はそんなのどうでもいい。
問題は――
「じゃあ、腹筋やろうか」
「ひぃぃぃ! ゴキブリやめてぇぇぇ!」
にじり、にじり、近づいてくる。
恐怖。
茶の間で飛び掛かられたトラウマが鮮明に蘇る。
サクラの動きは実に速く、的確なものだった。
足が押さえられて逃げられない。ならば、腹筋で起き上がるしかない。
「しゃーんなろー!」と男らしい雄叫びとともに、サクラは腹筋をした! これが四百四十九回目である。ぴくぴくと痙攣する腹筋は煉獄の如き苦しみを与えてくるが、今味わっている恐怖に比べれば随分とマシだ。
「失礼な。ゴキブリじゃない。ゴキブリに変化した俺の影分身だ。ほらほら、地面には俺が待ってるぜ?」
「さっさとやれ」とサスケがサクラの広大な面積を誇るおでこを突く。
それだけで弱り切ったサクラは地面へと舞い降りていくが――視界の端に写るゴキブリのせいで再び腹筋を繰り返す。
「いやぁぁぁぁ!」
「まだまだ余裕だったみたいだな。はい、後五十回」
「この鬼! 悪魔! 変態!」
「サスケ――サクラの言っている意味がわからない。何て言ってるんだ?」
「腹筋六百回やりたいです、だろ?」
「なるほど」
じゃあ六百回行こうか、とナルトが呟くのをサクラは確かに聞いた。
そんなものを望んではいないのに!
「言ってない! 言ってない! 言ってない!」
「はい。黙って腹筋~」
「あぁぁぁあぁぁぁぁっ!」
七班のメンバーによるサクラ虐待――もとい、修行は順調に進んでいた。
とある公園の中での、他人から見れば微笑ましい、サクラからすれば地獄のこの光景。
ほんのりと明るいそこでは人はおらず、七班の三人のみがいただけ。そんな意味不明な修行の景色をヒナタはおろおろとしながら見守っていた。
こんな夜更けにナルトの家に行くのも常識としてどうかと思ったし、お互いの性別を考えるとさらに常識外れだということを知り、当て所なくヒナタはうろついていたのだ。すると、どこからか聞こえてくる聞き覚えのある悲鳴。いったい誰が何をしているのだろう、と思って来たら、これだ。
凄く楽しそうにゴキブリをちらつかせているナルトと、泣きそうになりながら腹筋をするサクラ、無表情なのに笑いを抑えているようにしか見えないサスケ――アカデミーで一緒だった、卒業して以来はぱったりと友好のなくなった七班のメンバーだ。ずっと友達のいなかったナルトが誰かと一緒に笑っている姿は嬉しく、同時にとても寂しくもある。
自分とは違って、上手くやってるんだ。
置いてきぼりにされたような感覚を覚える。なんだか悔しくて、楽しそうにしてる姿が羨ましくて、ヒナタは意を決する。
話しかけなきゃ。置き去りにされる前に。
ぎゅっと拳を握ると、ヒナタはナルトたちのほうへ一歩踏み出した。
「あの、ナルト君……何してるの?」
木の葉では珍しい、紺碧の瞳がヒナタに向けられる。
少しだけ考え込むように頭を捻らせて、「あー」とうめく。きっと名前を思い出していたのだろう。
「ん、あ、あー、ヒナタか。これはあれだ。腹筋だ」
かすかな吐息を漏らしながら腹筋を繰り返すサクラを指差す。
「ナルト――だんだんとサクラが虫の息になってきたぞ」
「あれ? あー、やりすぎたか。じゃあ次は腕立て伏せだな」
「ふざけんなぁぁぁ!」
「おっと、怒ったぞ」
「サスケ君! 信じてたのに! 信じてたのにぃ!」
「フン、ついやっちまっただけだ」
「ついで済まされるものですか……腰がぁぁぁ」
サクラの大声に驚いたサスケが足を放した隙に、サクラは一気に立ち上がった。
腹筋を酷使しすぎた反動で腰に激痛が走り、立つことすらままならず、がくりと地面に膝をつくことになってしまったが……。
そんな醜態を見逃すナルトではない。
屈託なく笑うと、介抱するかのようにサクラの腰を撫でてやり、サスケのほうを見る。
「背筋もさせなきゃ腰に悪いな。サスケ、うつ伏せにして腰を押さえてやれ」
「そうだな……腰に悪いのはダメだ。サクラ、背筋をやるぞ」
サクラは気づいた。
こいつら、楽しんでやがる。
私が悲鳴をあげながら苦しむ様を見物することで、楽しんでやがる!
外道にも劣る畜生どもを成敗したくなるが、生憎と身体が動かない。不健康状態だ。
悪が栄えた試しなし、と誰が言ったのだろうか。目の前で立派に栄えているではないか。
無力な正義に意味はなく、にへらと笑って懇願することしかできない。
「待って。もう限界だって……」
自らの残された生命力が如何に残り少ないかを切々と訴えるが――
「お前の身体が心配なんだよ……」
サスケの一言で陥落した。
心配、と言われた。
意中の人に我が身を心配されたのだ。
何かが致命的に間違っている上に、盛大に勘違いをしているようではあるが、鼻がつきそうなほどに顔を近づけられて、眼を覗かれたとしたら――魅了されるのは無理はないのかもしれない。
気づけば唇は自分の意志に反して「サスケくん――私、頑張る」と呟いていた。
恋の魔法。
それは僅か数秒で解かれることとなる。
「頑張れ」
にやり。
愛情に溢れていた憂いは掻き消えて、悪戯が成功した憎たらしい悪ガキのように笑うサスケが、目の前にいた。
ハメ――られた。
うわぁぁぁぁん、と抵抗するが、既にうつ伏せになっていて、サスケが腰にのしかかっている。逃げ道は閉ざされた。
「で、どうしたんだ? こんな時間に出歩くなんて危ないぞ」
背後で行われている阿鼻叫喚の地獄絵図を爽やかにスルーして、ナルトはヒナタに振り返る。
「う、うん。でも、ナルトくんたちこそ何でこんな夜更けに、こんなことを……?」
「あー」とナルトがぼやく。
ナルトの癖だ。何かを誰かに伝えるときに情報を理論立ててまとめるときの癖。だいたいが考え事をするときに出る。
「任務で誘拐された男の子を助けるためにある屋敷に侵入して――そこでサクラの身体能力が低いせいで危機に陥ったわけだ。サクラを鍛えねば! ということで、任務が終わってすぐに筋トレをしている」
「――足が遅いせいで追っ手に追いつかれたのは謝るわ。けど、腹筋は関係ないでしょ……」
「いつ休んでいいって言った?」
「痛いっ!?」
サクラが口を挟むが、その間に背筋の動作が止まったせいで頭をはたかれる。
ほどほどにしとけよー、とナルトは笑いながら言うが、止める気はないようだ。釣られて、ヒナタも笑ってしまう。口元を手で隠して、くすくすと。
「とまぁ、そんなわけで七班のメンバーが集まってサクラに付き合ってるわけだ」
「仲良いんだね……」
「まぁな。初めてできた友達だし」
「ナルトなんか、大嫌い!」
「休むな」
「あうっ」
漫才でもしているのかと錯覚してしまうほどのやり取りは、失礼だとわかっていても笑ってしまうものだ。
鬱屈とした日々で忘れ去っていた笑顔を、ナルトと会っただけですぐ取り戻せたことに驚く。
才能がないことを突き付けられる毎日はヒナタが自分で思っている以上にストレスとなっている。
そう――
「で、どうかしたのか? 随分と顔色が悪いみたいだけど」
ナルトが気づく程度には、顔に出ているのだ。
急に心配されたことによりヒナタは焦る。そんなつもりはなかったのだから。
「え、その……」と煮え切らない態度をとるヒナタに、ナルトはがしがしと髪を掻き毟る。
「場所変えるか? うるさいのもいるし」
「どういう意味よ」
地獄耳。うるさい奴はちゃんと聞いていた。
「喘ぎながら背筋している人が隣にいると話に集中できないだろ」
「私も話しに……」
「サクラ」
背筋地獄から逃げ出そうとサクラは画策するが、サスケの一言で硬直する。
限界まで首を捻って、サスケの顔を覗き見る。
月に照らされた整った顔立ちは冷めているようで――それでいて、緩んでいた。
「サスケくん――楽しんでない?」
「気のせいだ。さっさとやれ」
「う、うぅぅぅぅぅ!」
うめき声をあげながら背筋を続けさせられるサクラを、ナルトは優しげに見守っていた。
その姿が、ヒナタにとって、とても違和感を覚えるのだ。
アカデミーでは常に切羽詰まったような表情を浮かべて、余裕がなかった。ずっと何かに夢中になり、無駄な時間を徹底的に省く合理主義者だったように思える。
それなのに、今は――
「ナルトくん――少し、変わった?」
それとも、変えられたの?
心にかげさす嫉妬の情念が浮かんでは消えていく。
「そうか?」
「明るくなったような気がする」
少しだけ考えるような仕草を見せた後に、ナルトは無邪気に笑った。
「……そうかもな。アカデミーよりも毎日が充実してる。楽しいよ」
楽しいよ。
酷く胸を抉る言葉だ。
きゅっと服の袖を掴んで、瞑目する。
ヒナタは――
「場所、移動していいかな? 聞きたいことがあるの」
「俺が答えられることなら何なりと」
◆
先ほどの場所からは少し離れた、公園の片隅にひっそりと佇むベンチに、ナルトとヒナタは腰を下ろす。
息を深く吸い、吐く。
何度繰り返しただろうか。
聞きたいことがある。けれど、聞いていけないことのような気がする。
ヒナタは逡巡する。
ちらりとナルトの横顔を見た。
目が合うと、口の端を歪めるだけの不器用な笑みを返してくる。
それだけのことなのに――この人なら怒らないかも、と思ってしまう。
「失礼なのはわかってる。けど、聞かせてほしいの……」
ぽつり。
「ナルトくんは、何で頑張れたの?」
聞きたいことは、つまり――
「忍術の授業ではずっと最下位だった。いくら努力しても――どの科目も一位になれてなかった。私から見て、一番努力してるのに……結果が出ないのに何で頑張れたの!?」
風が、吹く。
ざわざわと木の葉がざわめき、もがれた葉が空を舞う。
ひらひら、ひらひら。
真剣な眼差しを向けて、ナルトに言った言葉のように、宙に浮かぶ。
いつ、落ちるのだろう。
ヒナタの瞳をじっと見つめながら、ナルトは黙り込んでいる。
そして、嘆息した。
「……自分が頑張れないから、俺の頑張る理由を聞いてやる気出そうってか?」
図星だ。
妙な罪悪感に蝕まれながら、ヒナタはびくりと身体を震わす。
再び、溜め息。
「参考にならないと思うぞ。俺が頑張っていた理由なんてチンケなもんだしな」
それが知りたいの。
ヒナタは震える眼を意志で抑えつけ、ナルトの瞳を見つめた。
物好きな奴だな、とナルトは呆れる。
「簡単に言えば、『見下されたくなかった』かな」
語られるのはナルトの思考。その根源。
「才能がないと言い訳をして、努力を怠る奴がいた。そういう奴は誰からにも期待されない。進もうとしていないんだからな。だけど、それより下もいる。努力をしていても結果を出せない奴――まぁ、俺だな」
「苦しくなかったの?」
ナルトは、空を見上げる。
下弦の月が雲に隠れて、暗く妖しく光る星たちだけが在った。
「苦しくなかったって言えば嘘になるな。辛かったし、悔しかった。けど、目標があるから頑張れたし、何より舐められるのが嫌だった。俺の頑張る理由なんてそんなもんだよ。根が単純だからな」
苦笑混じりに、ナルトは言う。少し恥ずかしそうだ。
みんなには内緒だぞ、と締めくくる。
沈黙が落ちる。
聞き終えた感想は、ある。早く言わなきゃ、と無意味に焦る。
そんなとき、
「で、お前は何に挑んでるんだ? ぼろぼろに泣き腫らした顔してさ」
心の隙間に入り込んでくるような、その台詞。
見透かされている、と思った。
涙が出そうになるが、ぐっと堪える。
目をぐしぐしと手で強く擦り、無理やり笑顔を浮かべる。
「何に、かな。わからない」
声が、震える。
「お前には才能があるんだから、大丈夫だよ」
「私には、才能なんかない!」
叫ぶ。
日頃大人しいヒナタが、柄にもなく大声を張り上げた。
ナルトは少しだけ驚いたように身を引いている。
やってしまった、と後悔すると、ヒナタは項垂れる。
「――ごめんなさい。大声なんて出して……」
自分が悪い。
悩みを聞いてもらっているのに、逆ギレするなどと……。
「才能がない、ねぇ。木の葉最強と謳われる宗家の娘が、そんなことを言うのか」
攻め立てるようなその言葉。
「誰もが望んでも手に入れられない才能を持ってるのに。そんなことを言うのか」
持たざるものの代弁。
「ナルトくん……?」
何を言われているのか理解できなくて、理解したくなくて。
ヒナタは怯える。身体を竦めた。
「その目は何だ。才能だろ?」
「けど、私には……」
「柔拳が使えない。体術の才能がないからってか? 宗家の娘は言うことが違う」
ぎりり、と軋む。
何かが音を立てて崩壊していく。
不意に、ナルトがヒナタの手を掴んだ。
「え?」とかすかな声が漏れる。そんなことを気にしないのか、ナルトはまじまじとヒナタの手を見る。
「綺麗な手してるな」
急に、褒められた。
顔が真っ赤になっていることが自覚できるほどに、熱くなる。
勘違いだ。
「何を照れてるんだ。嫌味だぜ?」
そう、ただの嫌味。
「努力をしてて、そんなに綺麗な手なものかよ。反吐が出る。やることやってから弱音を吐け」
身体を鍛えているものならば、手が綺麗などということはない。
拳骨には切り傷がつくし、手にはタコができては潰れ、分厚い皮が出来上がる。見た目は決して良くはならない。
お前は努力なんかしていない。
ナルトはそう言っているのだ。
「私は――努力してる!」
「へぇ? じゃあ見せてみろよ。お前の努力ってやつをよ」
息せき切って立ち上がり、ヒナタは叫ぶ。
自分のすべてを否定された。これまでの努力を全て否定されたのだ。
ナルトも同様に立ち上がり、ヒナタの前に立ち塞がる。
「軽く捻ってやる」
侮蔑すら混じったその台詞。
心の支えにしていた人物の胸を抉るような言葉に――ヒナタは我を失った。
「う、うあぁぁぁぁっ!!」
混乱した頭とは違い、身体は修練の型通りに動く。
外部を壊す剛拳とは違う、柔らかな足運び。
関節を連動しての足から拳へと力を集約するものではなく、ただ、身体の運ぶだけ。運体。
強く踏み込むのではなく、リズムの隙間を掻い潜る歩法は相手の認識をずらし、容易に懐に入り込む。
そこは柔拳のテリトリー。
流れるような、力のない動作で拳は運ばれて、ナルトの腹に、触れた。
「良い拳してるじゃねぇか……」
「なんで避けないの……?」
歯を噛み締めて、ナルトはヒナタの攻撃を受けた。
ヒナタは動揺する。
思い切り、殴った。
柔拳は内部に損傷を与える武術。打撃のときに触れたナルトの――よく絞り込まれた身体を持ってしても、激痛が走るはずだ。内臓は鍛えられないのだから。
けれど、そんなことは億尾にも出さず、ナルトは歯を剥き出しにして笑うだけ。
「才能あるよ、お前。俺が保証してやる。俺に保証されたからって何の意味もないだろうけど――やるだけやってみろよ」
言葉が吐き出される口の端からは、かすかに零れる血の雫。
「あ、血が……血が……」
「気にすんなって。そこらのヘタレとは身体の造りが違うんだよ」
ドン、と胸を叩く。そのせいで咽ているのが何とも言えない。ヒナタを余計に心配させるだけだ。
ごほごほ、と息を吐きながら、ナルトは何かを思いついたかのよう。
「……あ、そうそう、ヒナタ。躓いたら自分にこう言い聞かせろ」
それはヒナタがもともと聞きたかった言葉。
「俺は天才だってな! 何度も呟くと自分が天才になったと錯覚できる。気休めだけどな」
陳腐極まりない『天才』という名詞。
だけど、わかりやすい。
自分の可能性を決めつけないためには、それが一番いいんじゃないか、とヒナタに思わせるくらいには――わかりやすかった。
俯き、震える。
「ちょっと! なんでヒナタが泣いてるの? ナルトォ……?」
ヒナタの状況を知ってサクラは走って来た。微妙に身体のバランスがおかしい。腰をかばうように走る姿はかなり情けないものがあった。
「何もしてない。ところで背筋はどうした?」
「終わったわよ!」
「次は腕立て伏せだ」
がしり、とサクラの肩に強く置かれる手はサスケのもの。
おそるおそる振り返り、サクラは情けない表情を浮かべる。
「サスケくん……? 私、もう、立つのすらキツイんですけど……」
「知らん」
「いやぁぁぁぁ!」
絶叫しながら引き摺られていくサクラは哀愁漂っている。
ナルトの視界に入ったサスケから悪魔のような尻尾が伸びているように見えたのは錯覚だろうか。
「――さすがにかわいそうだな。助けてやるか」
思わず呟いてしまうほどには、ナルトはサクラに同情していた。
そもそも元の発端は自分なわけだし……。
サクラたちのほうへ歩き出そうとしたとき、ヒナタのことを思い出す。
(そういえば、泣いてるんだっけ)
慰めるべきか、と悩みながらヒナタのほうを見ると、
「ナルトくん……ありがとう。ちょっと、元気出た」
ひまわりのように笑っているヒナタがいた。
目元が赤く腫れていて、やっぱり泣いていたのだろうけど、悲しみは見えない。
大丈夫だな、とナルトは思う。
「そうか? それならいいけど……まぁ悩みがあればいつでも来いよ。話相手くらいにはなってやるからさ」
「うん。じゃあ、帰るね」
「帰るのか? これからみんなを誘って一楽に行くつもりなんだけど……」
「修行――したいから」
視線が交錯する。
お互いに、はにかむ。
「そっか。応援してる」
「うん! またね!」
「またな」
そうしてヒナタは帰路へとつく。
「サスケ! サクラ! 一楽行こうぜ。今日は俺の奢りだ」
「あ、サスケくん! ナルト、ナルトが呼んでる!」
「チッ、仕方ねぇな」
アカデミー時代では考えられないほどのナルトたちの明るい声を聞きながら。