第8.5章「忠犬伝説?」
日露戦争当時。旧日本軍において、肉と野菜の栄養バランスを簡単に取れ、調理も手軽な食事として、海軍にカレーライスが導入されたというのは有名な話である。
しかしながら、同じ材料――肉、じゃがいも、タマネギ――さえあれば、醤油と砂糖を加えて作れる、とある料理も軍隊で生まれたことは余り知られていない。
誕生の由来が、かの東郷平八郎が艦上食としてビーフシチューを導入しようと命じたが、ワインもデミグラスソースもなかったため、醤油とみりんを使用して生まれたという説もあるが、これは些か眉唾であろう。
まあとにかく、その料理は日本発祥かつ家庭的なモノとして、現帝国軍でも脈々と受け継がれているものである。
で。
「ええっと……入れる順番を間違えなければ調理は簡便であります」
「肉を炒めた後、4分後シュガー、7分後ソイソース、11分後コンニャクとジャガイモ、28分後タマネギ。調理から30分で出来上がりね」
だけど、どーして。
「味付けは調味料の量さえ間違えなければ大丈夫です。ただ煮物ですので、ジャガイモを煮くずれさせず、タマネギには軽く歯ごたえを残せれば、尚よろしいですね」
「単純な料理が一番奥が深いのね、分かるわ」
……どうして自分は、地球人類未到の地で、しかも最高議長(エプロン姿)に『肉じゃが』の作り方を教えているのだろう?
――ほんとう……私、なんのためにイゼルローンまで来たのかしら?
突然、副司令官に特命任務を命じられて。
いきなり、宇宙の果ての軍事要塞まで連れてこられて。
訳の分からないまま、未来軍事技術を教えてもらえることになって。
なんだかんだと、すったもんだと。成り行き任せのまま、こんな場面になってしまった。
――ほんと……私ったらそんなにお酒に弱かったなんて……。
前線の中では、死への恐怖や死者への後悔のため心身を病み、薬物やアルコールに逃げてしまう兵士も少なくない。自分はそんなもので自分の“罪”から目を背けたくなかったから。だから成人してからも一切口にしてこなかった。
――そのせいで夕呼だけじゃなくて、イゼルローンの皆さんまで……ヤン閣下にまで迷惑をかけてしまって……。
この場にフレデリカ議長やキャゼルヌ夫人がいなければ、あぁぁっと壁に頭をつけて思いっきり猛省したいところだった。もちろんそんな無様な姿は見せられないので、この場での自分の役割を果たすことに正心する。
「さっきは取り乱しちゃってごめんなさい」
議長が突然、こちらに謝罪してきた。視線は鍋に固定したまま、具材を崩さないようかき回している。
「そ、そんな、こちら、いえ小官こそ、大変なご無礼を致しまして、大変申し訳ありません」
「ううん。あの人が嘘をつくわけ無いって解っているのだけど、ああいうことは初めてだったから……なんて言えばいいか。ちょっと口を開いたら、後で頭を抱えたくなるような暴言を吐いちゃうかもしれないって……」
後ろで別の料理を盛りつけていたキャゼルヌ夫人は、くすくすと笑いながら話に参加してきた。
「あらあら、そういうときはね、フレデリカさん。ちゃーんと亭主にひとこと釘を刺さなきゃダメよ。甘やかすとつけあがりますからね」
さすが軍人の妻だった。亭主が任務で不在の時でも、二人の娘を立派に育てあげているだけあって、胆力は女性陣一番だった。
――夫人もいてくれて助かったわ……。
先ほどからちょいちょいと、何か空気が悪くなりそうな気配があったら、キャゼルヌ夫人が言葉を挟んでくれていた。おかげで雰囲気も悪くならず、しかもお互いが無言にならずに過ごせていた。
「そうそう、フレデリカさんも元々は軍人さんだったのよ」
「あ……やはりそうだったのですか?」
話題を盛り上げようとしてくれた気配を感じ、それに乗っかることにする。
「やっぱりって……知っていたの?」
「ええ、立ち居振る舞いに隙がありませんでしたし。それに、さりげなく周りをいつも注意されておりましたね」
「あらやだ、気づかれちゃっていたのね」
軽く苦笑して、またお玉で鍋をかき回していた。
「こう見えて、わたし子供のころ、手が早いことで有名でね。男の子とケンカするたびに、こう、背中と腕を伸ばして平手打ち〈スパンク〉してね。『どうして泣かせてきたのっ』って母によく叱られていたのよ」
「それはまた……」
「でも軍隊に入ってからは、お淑やかに見えるように見えるように……って、それはもうっ、猫の毛皮を三、四枚は着込んだもの。なかなかの努力だったのよ?」
どこか自分と似たところのある――でも全く反対の彼女に、私も自分を語りたくなった。
「小官は……いえ、私は逆ですね」
あいつのことを思い出すと、古傷が痛む。
でも一昨日、夕呼が言ってくれたように、忘れてしまうことの方がもっとつらいという言葉を思い返し、彼女にそれを語る。
「訓練校で同期だった男が『女は戦場に立つべきじゃない。だから女みたいな言葉遣いはどうにかしろ』って、いっつもいつも突っかかってきて……いつの間にか、男みたいな口調や態度が癖になっちゃいました」
「あらやだわ。わたしだったら『なら、あんたは軍を脱退して“貰い手”を探しにいってきなさい、このbarrow〈去勢された牡豚〉』って言い返してやっちゃうのに」
見た目にそぐわぬ議長の過激さに、ぷっと笑いが漏れてしまう。でも自分も思い返せば、『あんた自分がカマ掘られたいから、私が邪魔なんでしょう? 競争相手は減らしておきたいものね』とか、負けず劣らずな事を言い返したものだと、二重に笑いがこみ上げてしまう。
「そして、今は軍を脱退され、政治の世界に?」
軍人が退役後、政治の世界に入るのはそれほど珍しくない。だからなのだろう、と軽い気持ちで尋ねてみた。
「…………約半年前かしら、わたしたちはこのイゼルローンごと未来世界からやってきたの」
いきなりの新情報に絶句するしかなかった。
「元々、イゼルローンは最前線の軍事要塞だったし、たまたま政治家の人は一人もいなくて。だからどうしても、誰かが政治上の代表者になる必要があったの」
情報を残さず取り入れると同時に、ふとした疑問が出てきた。
「あの……ヤン閣下は?」
「その意見はもちろん出たわ。というより、その意見が大勢だったわね。ヤン提督なら最高指導者として、この方舟をアララト山まで届けてくれるだろうって」
旧約聖書における伝説と重ね合わせた比喩に、なるほどと思われた。
「でもやっぱり、あの人は静かに、断固として辞退したわ。『最高指導者は文民でなくてはならない。軍人が支配する民主共和制なんて存在しない』ってね」
「……文民統制〈シビリアン・コントロール〉ですか」
「そう、民主政治における軍人は、政治的運動に関与するためには職を辞さなければいけない。でもあの人以上に用兵術を究めた人はいなかった。だから私は、あの人の副官を辞して、この手を挙げたの」
それもまた小さな衝撃ではなかった。
「ヤン閣下の副官だったのですか……!?」
社からヤン・ウェンリーの来歴はつぶさに聞いてきたが、その他の人物については情報がまだ不十分だった。
「――ある女の子が14歳の時、中尉になったばかりの軍人さんに会ったの」
ことことと鍋を煮詰めながら、議長はとある物語を語り始めた。
「その人は黒ベレーも板に付かなくてね、いかにも駆け出しの、これが初陣だって感じの軍人さんだったわ」
それは社から聞いていた。不敗伝説の始まりともいうべき、エル・ファシルの英雄の誕生だった。
司令官が民間人三百万人を見捨て逃げ、軍艦も無い中で若い中尉が奇跡の策を講じ、ただ一人の犠牲も出すことなく、包囲網からの脱出を見事に果たした。まさに英雄譚。
しかもそれが、最前線で指揮を執った、初の実践での壮挙というのだから―――
――……本当、私なんかとは天と地の差だわ……。
暗い嫉妬と後悔の想いを振り払って、笑顔で話を促した。
「きっと周囲の民間人も、安心してその軍人にコトを任されていたでしょうね」
「ううん、全然」
…………。え?
「駆け出しの軍人さんだもの、尊敬する理由も信頼する根拠もなかったわ。それどころか、周りの大人達は露骨に見下して、『あんな落ちこぼれになんて任せちゃいけない』って言い出していたわ」
「そ、それも、確かに……そう、ですね」
「でも女の子は、一生懸命がんばっている中尉さんを、何もしない人たちがとやかくいう資格は無いって怒ったの。……ただ、本当はそれだけじゃなかったのだけど」
議長はほほえみを浮かべた。
「女の子はつくづく思ったの。こーんなに頼りなげで。とっぽい感じで。軍服姿のままソファーで眠って、朝起きたら顔も洗わず、ひとりごとを言いながらパンをかじるような男の人。わたしが好きになってあげなきゃ、誰も好きになってくれないんだろうなーって……」
その微笑みは単調なものではなく、長い時を経て熟成されてきた深く複雑な想いを多分に含んでいた。
「でも当時の女の子ができたことは、せいぜい食事と飲み物を差し入れてあげることくらい。中尉さんはそんな助けが無くても、不可能としか言われなかったことを本当に成し遂げちゃったわ」
「……だから、その女の子は軍人に?」
「そうっ。何も出来なかった自分も、いつの日か、本当の意味であの人を支えられるようになりたいんだって!」
それは陳腐で、ありきたりな動機。崇高とはとても言えず、とても小さくて、幼い子どもが抱くような想い。同年代の、同姓の軍人の発言だとは思えない。
でも……どうしてだろう。どうして、こんなに、彼女がまぶしくて、私は、羨ましいのだろう。
どうして私は、こんなに、彼女を――ううん、イゼルローンの人たちを見ていると、胸が暖かくなるような、切なくなるような、懐かしいような、そんな気持ちになれるのだろう。
だって……それはとてもちいさな、とてもおおきな、とてもたいせつな――
――……そうか。
……わかった。このイゼルローンが軍事要塞でありながら。遙か未来の軍隊でありながら。BETAと戦い続けてきた訳でもないのに。本当は私たちとは、とても遠い存在のはずなのに。なんでこんなに身近に彼らを感じることが出来るのかが。
そう……ここには、私たちが失ってしまい、無くしてしまい、忘れてしまった“未来への情熱”があるんだ。
悲壮な覚悟ではなく。決死の責務でもなく。
自らに言い聞かせるためのものでもなく、大義名分の旗に立たされているからでもなく。
イゼルローンの人たちはみな、それぞれの希望と未来のために戦っているんだ。
それはまるで、春の学園祭のように、賑やかさと生のエネルギーに満ちた青春。
それはまるで、夏の盆踊りのように、全ての参加者を巻き込むような祭囃子〈まつりばやし〉。
そして、それらを煽動することも鼓舞することもしないのに、皆を最大限の志気に保ち続け、祭りの夢に誘っているのはきっと――
「ヤン閣下は……」
瞼が不意に熱くなる。
「とても……不思議なお方なんですね」
私がこの数日で出会ってきたイゼルローンの人々。瀟洒な中佐、不敵な中将、謹厳な中将たち。
普通、軍人というのは所属している軍のカラーに染まっていくはずなのに、それぞれの個性を失うことなく、十二分に才幹を発揮していた。それはきっと、ヤン閣下が司令官として在るからだ。
これは拙い考察だと思う。でもあの人は、歴戦の将帥として数々の伝説を築いてきたという。猛将を越え、智将を越え、部下に不敗と不死の信仰を抱かせてきた、その武勲。
そして何より、人を威圧することなく、淡々と未来と過去を語るその語り口が、どこか不安や不信を包み込んでしまう。
頼りないようで、でも、あの夕呼と同じくらい、どこか人を信じさせる何かがある……と思う。
「そうね……でもあの人は、わたしが政治の代表者になることは余り賛成じゃなかったみたいなの」
「それは優秀な副官を失いたくなかったからではありませんか?」
「ありがとう。でもそういうのじゃなくて…………うん、たとえばヤシロさんの案内をしているユリアンなんだけど」
フレデリカ議長は直接は質問には答えず、彼のことを語った。
「ヤン提督はよくわたしに語ったわ。ユリアンは何をしても不思議と絵になる子だって。料理人になって人を喜ばすことも、フライングボールの選手になって観客を感動させることも出来るのに、なんでわざわざ軍人なんかに……って」
ヤン閣下の養い子だった彼は、間近で英雄を見てきたことによって、強い憧憬と尊敬を抱き、自ら軍人になることを志願したと。でもヤン閣下はそれをあんまり喜ばなかったらしい。
「……解ります。正規兵になれば、もはや明日の保証も無き身。前途有望な若者が自分より先に亡くなるかもしれない……と。それを躊躇うのは当然かと」
「そう、だからあの人も悩んでたわ。提督としての立場と、養い親としての立場でね。だけど……」
プッと、フレデリカ議長は吹き出した? 思い出し笑い?
「ううん、ユリアンが十六歳の時、スパルタニアンで初めて出撃して、敵機三機と巡航艦一隻を撃破したの」
「それは……! 大戦果ですね、まさに天稟といっていいほどです!」
実際にあの単座式戦闘機や巡航艦を見学した今では、彼我の戦力差は把握できる。
三機というのも対BETAではなく、対戦術機と置き換えるとわかりやすい。新兵としていかに傑出しているか。しかもそれが、まだ少年といっていい年齢でなんて。
「でね、あの人も『これで戦いを甘くみるようになったら、かえって本人のためにならない。真に器量が問われるのはこれからだ』って、厳格な指導者兼教育者らしい態度を取っていたのだけど……」
いざ帰還したユリアン少年に会った時の、ヤン提督は、
「髪をかきながら困った顔で、あの子に『危ないことをしちゃいけない、と、いつも言っているだろう』って」
きっと自分は、目と口で三つの0を作ってしまったことだろう。
数瞬かかって、その言葉とその場面が脳内に再現されていく。それとともに、なんとも抑えがたいモノが胸にこみ上げてきた。
「……ぷっ……くっく……!」
口元を押さえて、胸の中からこみ上げてくる情動を押さえる。だ、だめ、こんなところで笑うなんて失礼無礼にも程があっ……。
「な、なんなんですかっ、それぇっ……!」
努力は無駄だった。むしろ抑えた分だけ、笑いは止まらず、上官としての立場とその言動のギャップがツボにはまってしまい、私は涙をためるくらい声を上げて笑ってしまった。
フレデリカ議長も、キャゼルヌ夫人もまた、斉唱するように朗らかな笑い声で唄い続けた。
とてもとても久しぶりに、私は心から笑い声をあげた。
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それから料理の準備を続ける中で、彼女の口からヤン閣下のエピソードを山のように聞いた。そのたびに、笑い声がキッチンに絶えなかった。
だいたいがコミカルで、でも時に真剣に頷くような言動の数々を聞き、私はヤン閣下の為人〈ひととなり〉を知っていくことが出来た。
そして今、料理の支度が済み、ヤン閣下やキャゼルヌ中将、そして夕呼と社、ユリアンもやってきた。
10人と人数も多いということ、かつ、昼食でということなので、庭の大きなテーブルで食卓を囲むことになった。そしてヤン閣下とはす向かいになり、実際の彼を知る機会に恵まれた。
ヤン閣下は議長によって調理された肉じゃがをつまみながら、一夫婦としての会話をしている。とても世界の頂点に立つイゼルローンの、その政治と軍事の頂点に立つ二人とは思えないほどの団らんだった。
「あの……ヤン閣下に伺いたいことがあるのですが」
食事中に無礼だとは分かるのだけれども、彼にはどこか、気軽にいろいろ訊ねやすい包容力があった。なので、実際の彼がいる場所でどうしても聞いておきたかった。
「なぜ閣下はこれほどまでに、わたくし達に様々に知る機会や自由を与えてくださっているのでしょうか」
それはムライ中将にも訊ねた内容だった。
「香月博士一人になら、まだ理解は出来ます。しかし私のような下士官にまで同等の――しかも単独で行動をしていた昨日でさえ、多忙の中将にご案内をいただくという、破格の待遇をいただきました。これは過分すぎる扱いだと感じたのですが……?」
食卓の雰囲気はとくに悪くはならず、閣下はいつも通りの表情で話を聞いてくださった。私の隣に座っている夕呼もまた、特に制止することなく話に興味を持った様子だ。
閣下は付け合わせのスープを一口すすって、スプーンを卓上においた。
「すべての不幸は無知から始まる。私はそう思うのですよ」
「…………え」
その、言葉は……!?
「ヤシロ君に聞いたかもしれませんが、私は歴史学者になりたかった。それは、歴史を学ぶとは、人類に共通する記憶を共有する行為だと思うからです」
「記憶を共有する……?」
今の声は自分ではなく、ヤシロからだった。彼女もまた、瞳に好奇の光をともらせて閣下の話に聞き入った。
質問をしたのは私だったが、ヤン閣下はヤシロに言い聞かせるように、しっかりと言葉を伝えていく。
「うん、ヤシロ君、人間が一生のうちに新しいことを学べる限界は、だいたい八十歳前後と言われている。これは医学上の寿命が延びた未来でも同じだ。でも人間は、星が瞬くほどもない一瞬にたくさんのことを学べる。それは人間だけが歴史を持ち、教育を扱えるからだ」
私も、ずずずいっと前のめりになっていく。
「ヤシロ君。人間はね、自分だと思っているものの大部分は、過去からの授かり物なんだ。多くのモノを引き継いで、今、君はこうしてここにいる。私もまた同じさ」
このイゼルローンに来る前の無表情とは少し異なり、社はコクンと素直に頷いた。
「ところが様々な事情によって、その教育や学問の恩恵を受けられない人々がいる。一番よくあるのが、内戦や戦争なんかで、政情や経済が不安定な国家の子どもたちだね」
隣の私も、こくこくこくこくと何度も頷いた。
「次世代に受け継がれるはずの教育や文化に一度穴が空いてしまうと、そこから元に戻すには、とてもとても長い年月と労力が必要になってしまう。だから我々が後生に残せるとしたら、やはり平和が一番だ。それに加え、後輩に判断と考察の機会をより多く与えていくのも、その時代を生きた者たちの義務であり責任だと思う」
――ヤン閣下っ……!!
私は頬が上気するのを止めることが出来なかった。だって――だって、それは、彼がいま口にしているそれは。私が軍人を志すきっかけ、そのものであり、そして―――そして、もう諦め朽ちてしまった理想と夢だったから!
「教育こそが人類に与えられた最強の武器! ですね!」
思わず声を大きくして、“軍曹”が“元帥提督閣下”に意見してしまった。
その無礼さにハッと気づくより前に、彼はちょっと苦笑して私に合わせてくれた。
「うん、軍曹の言うとおりだね。ペンは剣より強い。銃火と軍靴をもってしても、歴史と教育という遺産を完全に踏みつぶすことはできない。……次の世代が後の世代への責任を忘れなければ、だけど」
ヤン閣下は苦笑を深くして、彼らの世界のことを語った。
「私たちのいた世界は、それが出来なかったんだ。たかだか数十年の平和を手にするために――今もまだ解決はしていないんだけど――五百年もの歳月と、数千億の人命、数兆リットルの血を必要をした」
議長やキャゼルヌ夫妻も、その話を遮らず聞き入っていた。
「銀河連邦の末期に、市民たちが政治に倦まなかったら。過去の歴史から学び得ていたなら。ごくわずかな想像力があったのなら。平和がどれほど貴重で尊いものか学んでいたなら。人類はより少ない犠牲と負担で、より中庸な道を実現しえただろうに」
一瞬、ヤン閣下に陰りと憂いのある表情が浮かんだ。それを見たとき、私は――とても大きな勘違いをしていたことに、いまさら気づいた。
私はずっと、彼の不敗の武勲にばかり目がいっていた。彼の軍人志望動機の不純さをどこか蔑んでいた。
でも、それは違ったんだ。彼は私以上に、たくさんの部下や上官を、同期の仲間たちを犠牲にしながら、今の階級に至るまで戦い続けてきたんだ。十数年、ずっとずっと、最前線で戦い続けてきたんだ。多くのかけがえのない人たちを失いながら、なお理想を捨てず、過去に亡くなった人々たちを真剣に悼んでいたんだ―――
「無知でいること。自分も他者も過去も未来も知ろうとしないこと。それが、話し合えば済むであろう問題や不和に対し、人々がわだかまり、戦争を続けてしまう原因の一如だと、私は思うんだ」
仰るとおりです! と、また声を大にして同調したくなった。
「ヤシロ君。人間はね、自らが絶対悪であるという認識に耐えられるほどは強くないんだ。人間がもっとも強く、もっとも残酷に、もっとも無慈悲になりうるのは、無知の不知に至らず、自己の正しさを絶対的に盲信した時だ。もっとも純粋な愛はもっとも残酷たりうる、というのもそこから来ている」
社もまた、真剣に深く頷いた。茫洋としていた瞳には、どこか確固たる意志が籠もりはじめていた。
そういえば、なぜかヤン閣下は、先ほどから社に対しても多くを伝えようとしていた。普通、一番立場が高い夕呼に訴えるものだと思うけど……?
夕呼もどこかおかしい。会話に参加しているようで、先ほどから発言を控えている。彼女の表情も――長いつき合いだから分かるけど――どこか硬く、無機質な目が、ヤン閣下一人を逃すことなく観察しているようにも見えた。
でもそんな違和感も、ヤン閣下の大事な話を聞いた今では、あまり気にならなくなっていった。
話を続ける間に、昼食も終わり、キャゼルヌ夫人は娘二人を連れてダイニングに食器を持って行ってくれた。
後に残った私たち軍関係者7人は、ミンツ中尉が入れてくれた絶品の紅茶と、社が入れてくれたコーヒーを口にしながら、さらに歓談を続ける。
「まあ、つまり、その……さきほど食事時にいろいろと、らしくないことを言ってしまいましたが、相手が誰であろうと、知ることを遮ってばかりでは相互に話し合うことも出来ないと思っただけですよ。それだけです」
「need to knowの原則ですね。……でもそれでも、敢えて知る範囲を指示をされなかったのは何故ですか?」
いつのまにか、私も閣下にはあまり遠慮せずに訊くようになってしまった。
“あの”夕呼にそら恐ろしい謀略を投げかけられても自然体を崩さず、私が会ってきた軍人の誰よりも懐が深く、どんな名将よりも先を見据えている不思議な人。そんな彼に、もっと話を聞きたくなった。
「正しい判断は、正しい情報と正しい分析の上に、初めて成立しますから。ちなみに『正しい』とは、日本のカンジで書くと、一に止まる〈とどまる〉と書きますね?」
こくっ(×2)。
「ここで大事なのは二つではないと言うことです。あっちはこういっているけど、こっちはこういっている。しかし二つともを選ぶのは一に止まらない、つまり正しくないということです」
ああ~~っ(×3)。隣のミンツ中尉も斉唱に加わった。
「……ヤン提督。それはどちらを選んでも正しい、ということでしょうか? どちらも間違ってはいないんですか?」
「そうだね、ヤシロくん。一つの正義は余所から見たら一つの悪であり、その逆もしかりさ。この世に絶対善と絶対悪というものが存在するとしたら、人間はもっと単純に生きられるんだろうけどねぇ」
「……じゃあ、どっちを選んでも別に構わない、ということですか」
「いや、それは違うよ、ヤシロ君」
珍しくヤン閣下が彼女を諫めた。
「大切なのは、選んだ――あるいは選ばざるを得なかった当人たちが『納得』することだと思う」
「……納得」
「そこに至るまでに時間はかかる。多くを知らないといけないし、多くを考えなくてはいけない。樽の中で熟成する中で酢になってしまう時もある。でもその過程を経てきたからこそ、一という『自分』に止まりつづけることが出来るんじゃないかな」
そのとき、私の疑問はようやく氷解した。
ヤン閣下は、ずっと私たち自身で判断する権利を委ねていたのだと。
ヤン閣下がおっしゃった正しい情報とは、イゼルローンから一方的にもたらされるものじゃなかった。私自身が見て聞いてきたモノこそが、それだった。だからこそ、ヤン閣下は敢えて知るべきことに制限を加えず、私たちに自由――自らに由ることを許していたのかと。
ぶるぶると体の震えと熱気が止められなくなっていく。ムライ中将がおっしゃっていたように、イゼルローンのこの闊達な空気はヤン閣下がいてこそ実現できていったのだと、さらに確信を深めていけたから。
――ああ、でもだめ、落ち着かないと、そうよ、私!
そう、そうだ。ヤン閣下のお人柄はもう疑う余地もなく素晴らしいものだ。でもそうっ! 将帥としての彼の知略が、果たして本当に地球のBETA相手にも十二分に発揮されるのか確かめないと!
「あのっ、ヤン閣下! 是非ともヤン閣下のお考えになる、対BETA戦への戦略戦術論をお聞かせ願いたいのですがっ!」
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「ねえねえっ、夕呼! ヤン閣下ってすごいわっ!」
「……すごいです」
「あー……はいはいはい、そうね」
両手に資料とレポートを持ち、テーブルにきちんと整理しながら、私は夕呼に何度も訴えかけた。
「特にこの案! ハイヴ攻略戦における戦術機の新運用思想は、地球交流後の戦術機開発と戦術骨子になること間違いないわ!」
あの昼食後、そのままテーブルの方でヤン閣下やキャゼルヌ中将、そして議長を交えて、たいへんたいへん貴重かつ政治的、軍事的な外交をすることが出来たのだ。
まず、夕呼には伝えたという、ハイヴ攻略案。それにも仰天したが、何よりヤン閣下がおっしゃった一言が感動だった。
『 この作戦のいいとこはですね、仮に失敗しても死人が出ないところです 』
四半世紀というBETA大戦の歴史でも、ハイヴ攻略戦が片手で数えるしかない理由。それは、その攻略難易度だけではない。攻略戦にかかる物資、人材、コストの量ときたら天文学的なものになるせいだ。
しかも作戦が失敗するにしろ成功するにしろ、その後、他のハイヴからの逆襲に遭い、深手を負った前線部隊はそれを維持することも不可能になるだろう。
それが無い。これが成功すれば、多くの衛士たちが散ることはもうなくなる!
「それにうんっ! 戦車と歩兵の例えも適切だったわっ!」
では、残ったハイヴの攻略はどうするかと訊ねた。イゼルローンの兵器を装備させた戦術機ならば、確かに犠牲は少なくなりそうだが、それでも皆無とはならない。何しろ全方位からBETAの師団が襲いかかってくるのだから。かといって、戦艦があの狭いハイヴ内に突入できるわけもないし、と。
それに対して、ヤン閣下は米国の戦術機運用思想を例に挙げた。
『 たぶん米国は、戦術機をハイヴに突入させるようには造ってませんね 』
それはアメリカ産の戦術機に、近接密集戦用の十分な装備が備わっていないからだと告げた。
ハイヴ攻略をする際、弾丸などの消費装備はどうしても切れる。その場合、欧州産や帝国産のような近接武装――しかも丈夫なものが必要となる。しかしアメリカのモノにはそれはないと。
『 おそらくですが米国は、戦術機にとっての戦車、あるいは大規模爆撃兵器などを開発中なのでしょう 』
つまりは戦術機を、かつて戦車を護衛した歩兵のような扱いとして、大規模な軍団の切り込み役にそちらを当て、残った中規模のBETA群を遠距離から戦術機が掃討する構想なのだろうと。(ちなみにこの考えを告げられた際、夕呼がピクピクとまつげを動かしていた)。
しかし、この戦車に当たるものが、実戦配備されるほどは開発が進んでいないのではないかと。だからイゼルローンから、代わりとなる設計図を提唱してくれた。
それが自律迎撃兵器、アルテミスの首飾り(小型)。
球形であり全方向死角無しのソレをハイヴの坑道に突き落として、そのままコロコロと最深部まで転がせばいいと(無人兵器だから適当なところで自爆させてもいいと)。
ただこれを造るのにかなり時間がかかるだろうから、先に挙げた案でユーラシア大陸を攻略・奪還して、製作するまでの時間と場所を稼いでおきたいと。
その考えを聞かされた時、単に戦術機にイゼルローンの兵器を装着させる方向で考えていた自分は、頭をぶんなぐられた気持ちになった。
普通、大艦隊を指揮する名人ならば、艦隊の運用の方を先に提唱するのに、ヤン閣下はそれに囚われることのない意見を出せた。なのに自分は、つい戦術機の運用や開発のことばかり考えてしまっていたのだ。
そうだ、ヤン閣下は、誰よりも友軍の犠牲を最小にすることを考えられていたんだっ!
「それにまさか、『盾』まで提供してくれるなんて、ねえっ!」
「まー、それは確かに助かるわねー」
私も難しいとは考えていたのだ。イゼルローンの兵器を戦術機のそれに運用していく困難さを。
そもそも、全世界の前線部隊に最新鋭の装備を行き届かせるのは不可能なのだ。ただでさえ時間がかかる開発・生産・運搬・補給の流れ。さらに確実に訪れるであろう、イゼルローン関連技術のライセンス利権、開発特許、工場の誘致やらの問題。下手をしたら、前線に装備が届くまでに数年かかってしまう。
その問題のささやかな(と謙遜されていたが画期的な)解決のため、イゼルローンは一つ兵器を提供してくれることにすると。
ただ工場ラインをイゼルローン内で造ると、政治的にも経済的にもいろいろと面倒な問題が起こるので、加工が簡単な「盾」を渡してくれることになったのだ(しかも初期ロットは無償!)。
その材料はというと――なんとイゼルローン要塞の外壁だった!
直径60kmの球型人工惑星。その表面積は45000平方km(九州より1万平方km大きい)にもなる。その外壁を構成しているのは、耐ビーム用鏡面処理を施した超硬度鋼と結晶線維とスーパーセラミックの四重複合装甲。戦艦の中性子砲にも小揺るぎもしないというそれを、なんと! 戦術機のサイズ、実用可能な軽さと強度にして全前線に送ってくれると約束してくれた!
つまり、光線級や大型種の攻撃をほぼカバーできるようになるということ。更に数多く支給されるので使い捨て(爆弾やパイルバンカーを仕込むなど)も可能。更に開発が進めば、盾といわず装甲板として戦術機全体を覆うことや、近接戦闘用の長刀やトマホークにすることも可能というっ!
もうっ、私は震えるしかなかった。理想と同時に実現可能な案をデザインし、しかもそれを確実に計画・実行・準備をしてくださったヤン閣下とその幕僚たちの有能さに!
そして、明日からは私がテストパイロットとなって、実際に使用した感想と調整役をしていくことになっているのだった。
そんな風に感激し続けていた私だけど――
「……ふーん、本当に何を考えているのかしらねー」
なんか夕呼はあまり熱がこもってなかった。昼食の頃から、こんな様子だった。白けているというより、慎重になっているというか、彼らを疑っているような……。
「なによ、夕呼。ヤン閣下たちが嘘をつくとまだ思っているの?」
「……あんたねー、F-4ショックのこと知らないの?」
「もちろん知っているわよ。でも今回は逆に盾だけでしょ。きっといい意味でイゼルローンショックって言われるようになるわよ」
F-4ショックとは、帝国軍がF-4戦術機の導入を決定し、米国から輸入することになった時の事件だった。正式に契約したのに納品が他国より後に回されて、結局74式長刀のみが送られてきたという屈辱的な話だ。その事件があったからこそ、日本は他力本願な調達ではなく、戦術機の自国生産を目指してきたのだ。
「あたしが言いたいのはねっ、あんまりイゼルローンの『好意』ってものに頼りすぎるのはどうかってことよ」
「……それは解るわよ。だからヤン閣下も言っていたじゃない。あくまで主役は地球の人々で、自分たちはその応援だって」
「それが民主主義の精神だっていうんでしょ? はっ、それもどーだかねー」
「ちょっと夕呼! さっきから貴女おかしいわよ、なんでそんな態度ばかり取るの?」
確かに用意された大部屋に三人だけしかいないし、しかも遮音装置を使っている。だからといって、監視カメラもあるかもしれないし、ここでの発言が彼らの気を害するとも限らないのに。
間にすわる社もオロオロと、交互に視線を向けていた。
「あたしが変? そのまんまお返しするわよ、まりも。あんた、さっきからあたしのこと、夕呼って呼び捨てにしてるわよ?」
…………あっ。
「……大変申し訳ありません、香月副司令官」
「別にそれはいいわよ。ただねー……あんたもたった数日でずいぶん染まってきたわねーって」
うっ。
「まあアンタの言うとおり、ヤン閣下の人柄や軍略についてはあたしも認めるわよ。イゼルローンが嘘もついていないっては明らかだし」
「…………(こくこくこく)」
夕呼の発言に合わせるように、社も真剣に頷いていた。
「だけど、なんでここまで地球側に技術やら物資やらを融通してくれるか、話してないじゃない」
「言ってたじゃない、平和のためだって。ヤン閣下は真剣に本気で、後の世代の子たちのためを想って、色々考えてくださっていたのよ」
「まー、確かにねー。だいたい彼らも元の世界へ帰れるメドもたってないし、こっちに根付く可能性も考えておかないといけないみたいだから」
元の世界に帰れない(かもしれない)。それは昼食後、ヤン閣下達から聞かされた衝撃の――というほどでもない?――真実だった。
詳細は彼らも不明だけど、なんでも敵国がしかけた罠のようなモノが残ってて、ワープ事故で座標も決めないまま亜空間に突入し、あわや次元の狭間の漂流者になるところだったと。
なぜこの世界にきたのかは未だ不明だそうだが、地図も羅針盤もない以上、ピンポイントで元の時間と世界に帰るのは不可能(もしくは研究に数十年以上かかる)だと。
「あたしが見ただけでも、男女比の歪さは顕著よねー。っていうか、それが地球を助ける狙いなんじゃない?」
「……まあ、それは、確かにあるかもしれないけど……」
将兵250万近くがいる中で、たぶん女性兵の割合は1割、多くても2割はいっていない。この世界に長い期間滞在しなくてはならないのなら、そこも解消していかなければならないのだろう。
「今ならあんたもよりどりみどりよ。二、三十人みつくろって、地球にお持ち帰りしたら? あ、でもあんたの『狂犬伝説』はもう知れ渡っているみたいだし、数ヶ月でフられてきちゃうかしら~?」
むぅっと頬をふくらませて、ぷいっと横を向く。
「お気遣いいただき、大変光栄であります、香月副司令殿。しかし小官は敵対異星生物を撃退するという使命があります故、そのようなことは戦後に考慮したいと愚考するところであります」
「あんた、ヤン閣下に惚れた?」
机の上空に資料が乱舞した。
「の、ななななのなななっっ!? なにぃをおっしゃいってるのよーっ!」
「きゃあ、意外♪ まさか、アンタ、他人〈ひと〉の旦那に手を出すような趣味があったなんて」
「ゆーうーこぉーっ!!」
ぱしんぱしん、ぱしぱしんと、合成樹脂の天板を叩きながら、顔を真っ赤にして必死に否定する。
「ほほほ、惚れたとか腫れたとかってそんなわけないでしょ! いえ仮にそうだとしても、それはあの人に対する敬愛というか尊敬というか感謝というかそういうものであってヤマシいところなんてこれっぽっちもなくて、だだだからつまり」
「社ー、いまのまりもの頭の中、何色ー?」
「……なんだかとっても桃色です」
ぶちっ!
「こー、づき、ふく、しーれーいぃぃ!!(ギシギシギシ)」
「ぎゃぃいいいたいたいたい、馬鹿やめなさい、入っている締まってるいたいたいたいたい!!(アンアンアン)」
「………(見事なヘッドロックだと感心して見ている)」
タップを何度かされて、少し冷静になった私は悪友を解放した。
「ぜー、ぜー……あ、あんた、この天才の脳細胞を何だと思ってんのよ、いま十億死んだわよ、十億。これで人類滅んだらどうすんのよ」
「はー、はー……いちど長期休暇でもとったほうがよろしいのでは? 頭をまともにしてくる意味で」
互いに息を荒くして、一時休戦をした。
社が持ってきてくれた水を互いに飲んで、ぼさぼさになった髪を整え直し、真剣に話を戻す。
「――イゼルローンが敵対する、とまでは言わないわ。でも気を許しすぎないで。あいつ、あんたが考えている以上に曲者よ?」
夕呼もヤン閣下への敬称を止めていた。それはすなわち、これこそ夕呼の本心だということだろう。
確かに、とは自分も思う。最初にイゼルローン要塞を見たとき、そのあまりの軍事的脅威さに、彼らと敵対する可能性を思ってしまっていた。だというのに、気づかない間に彼らに全幅の信頼をおくようになってきてしまっている。
数日前には想像だに出来なかった場面にいるのに、どうしてこんなにも馴染んできてしまっているのか?
自分が夕呼ほどの責任ある立場にいないせいだろうか? もっと理性的に彼らを疑い、その中でもっと公人たる振る舞いをするべきなのだろうか? それが国連軍所属の兵としての在り方なのだろうか?
……でも。
「それでも……あの人達は、私の教え子たちを助けてくれたのよ」
しんっと静寂が遮音空間の中にも満ちる。
私がヤン閣下たちを信じる根底の理由はそれだった。きっとイゼルローンの兵達も同じ理由で彼を信じているのだろう。
ヤン閣下は、勝ち続けてきたのだ。不敗と不死の信仰をいただかせるほどに。そして民衆と部下を決して見捨てることはなかった。だからこそ、異世界という漂流生活の中でも、イゼルローンの人たちは混乱や内乱などを起こさず、平穏であり統制のとれた生活を送れているのだろう。
――それに……。
私はフレデリカとの会話を思い出す。彼女がヤン閣下の副官として初任官した時、シェーンコップ中将へ戦う理由を話したときのことを。
『今回あなたに課せられた使命は、どだい無理なものだった。それを承諾なさったのは、実行の技術面ではこの計画がおありだったからでしょう。――しかし、さらにその底にはなにがあったかを知りたいものです。名誉欲ですか、それとも出世欲ですか?』
『出世欲じゃない、と思うな。三十歳前で閣下呼ばわりされれば、もう充分だ。第一、この作戦が終わって生きていたら私は退役するつもりだから』
『……この情勢下で退役するとおっしゃる?』
『それ、その情勢というやつさ。今回の作戦がうまくいけば、帝国軍は侵攻のほとんど唯一のルートを断たれる。そこでこれは政府の外交手腕しだいだが、軍事的に有利な地歩を占めたところで、和平条約を結べるかもしれない。そうなれば、私としては安心して退役できるわけさ』
『しかし、その平和が恒久的なものになりえますかな?』
『恒久平和なんて人類の歴史上無かった。だから私はそんなもの望みはしない。だが何十年かの平和で豊かな時代は存在できたんだ。要するに私の希望はたかだかこのさき何十年かの平和なんだ。だがそれでも、その十分の一の期間の戦乱に勝ること幾万倍だと思う』
淡々として、しかし確固たる想いでヤン閣下は語ったと。
『私の家に十四歳の男の子がいるが、その子が戦場に引き出されるのを見たくない。そういうことなんだ』
……ヤン閣下のそのときの想いはきっと、数年経った今でも変わってはいないのだろう。私もまた、ヤン閣下のその理想に同調したい。だからこそ、私も彼らを信じたいんだ。
「………やっぱり、早い内がいいか」
「夕呼?」
何か折れたように夕呼は髪に手を当て、ぽつりと呟いた。
「何でもないわ。それより議長たちにまた呼ばれているんでしょ? そろそろ時間じゃない」
部屋に設置されたイゼルローン時間の時計を見ると、確かにそろそろ出た方が夕食の支度を手伝えそうだ。
「夕呼は行かなくていいの?」
「じょーだん。何が悲しくて女たちだけでお泊まり会なんてしなくちゃいけないのよ。これでもあたし忙しいの」
これも夕呼にしては変だ。イゼルローンの議長まで来てくださるのだから、政治的にいろいろ交渉して詰めていきそうなものだけど。今日はまだ四日目だから、丸々あと二日の滞在時間あるから?
まあ夕呼には、イゼルローン技術をどう地球に活かしていくかの研究をしないといけないだろうから、夜くらいは一人になりたいのだろうけど。
「ほらほら、早く行きなさい。社もあたしの手伝いはいいから、まりもの面倒をしっかり見ときなさい」
むぅ、普通は逆の立場なのに。……昨日の大失態があるから否定できない立場だものね。悔しい。
「……あたしがいなくても、しっかりやんなさいよ。まりも」
部屋から出る直前、夕呼は指で銃をつくってこちらに向けた。なぜかその姿が、高校時代別れたときの彼女の姿にだぶって見えた。
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やっぱり夕呼のことが気になった。
「ごめんなさい、クロイツェル伍長。楽しんでいる最中だったのに、同行してもらって」
「いえ構いません」
案内役(兼、見張り役?)としてカーテローゼ・フォン・クロイツェル伍長に同行してもらっていた。彼女は数少ない若手の女性士官として、フレデリカ議長の護衛を務めているらしい。それ以外にも何か色々と事情があるのか、今日の女性だけのパジャマパーティーにも招かれていた。
ちなみに、社とクロイツェル伍長はすでに顔を合わせていたらしいが、あまり仲が良くないようにも見えた(ミンツ中尉の話題が出ると揉める様子だった?)。
そうして自分、社、議長、キャゼルヌ夫人と娘二人、更に伍長の七人は文化交流という名目で集まり、自分が八個お手玉を見せたり、フレデリカ議長が四枚神経衰弱をノーミスでクリアしたり、社とクロイツェル伍長とがホースマニアというゲームで勝負したりと、大変盛り上がっていた。
しかし夜分になりキャゼルヌ夫人の娘たちも眠った頃、どうも胸がざわつき、夕呼の顔を見たくなった。そうしてクロイツェル伍長を伴って部屋まで戻ったのだが、そこには夕呼の姿は無かった。
「確認を取りましょう、ちょっと待ってて下さい」
伍長は通訳用のヘッドホンに手を当て、通話へ切り替えていた。なるほど、あれには様々な機能を入れているということか。
しかしなかなか捕まらなかったようで、あちらこちらへ連絡を入れても発見できずにいた。
「…………ああ、あいつには繋げたくなかったのに」
苦虫で出来たパイを口に放り込むような表情で、伍長は曲がり角の死角へと消えていった。どうやら会話している相手の声も内容も聞かせたくない様子だ。いったい相手は誰だろうか。
――でも夕呼、どこ行ったのかしら。
イゼルローン時間での深夜、一人で出歩くなんて。機密を盗みに行くとかそういう無謀なことはしないだろうし、もしかしたらヤン閣下のところで話をしているのかもしれない。まったく根拠の無い考えだけれども、そんな風にふと思った。
そうして人気の無い通路でしばらく佇んでいると。
「ウェンリーを探しているの?」
十メートルほど向こうに、小柄な少女がいた。年の頃は社やクロイツェル伍長と同じくらいだろうか? 猫耳を模したフードとフリルのついたワンピースを着て、銀色の長い髪をフードの隙間から垂らしていた。社が黒ウサギならこの少女は白猫といったところだろう。
イゼルローン軍の制服を着ていないところから民間人なのだろうか。胸に抱いているクマのぬいぐるみがまた可愛らしさを出している。
「ミーシャ」
「?」
「この子の名前はミーシャだよ」
天真爛漫な笑顔にふと自分も頬がゆるむ。彼女と視線を同じ高さにして「そっかいい名前ね」と返すと、嬉しそうに笑ってくれた。
「ところで、ウェンリーってもしかして、ヤン閣下のこと?」
「うんっ! ウェンリーはねっ、いま公園のフロアにいるよ。なんか難しいお話しているみたい」
お話。こんな夜分に公園で内密な話とは、やはり夕呼もそこに……?
「ありがとうね。……そういえば、あなたはヤン閣下の娘さんなの?」
議長もミンツ中尉も彼のことをファーストネームで呼ぶことはなかった。呼び捨てにしているし、もしかしたら二番目の養い子なのかも。
そう思ったのだけど、どうも違ったらしい。キョトンとした表情を浮かべていた。
でもそれも数秒。すぐにまた笑顔を戻して、うんっと元気に頷いた。
「そうだよっ! イゼルローンはみんなの家で、わたし達はみーんな家族なんだって。オリビエもユリアンもそういっているよ。わたし達はヤン・ファミリーなんだよ!」
「そっか……うん、よかった」
ぴょんぴょんと跳ねるように喜んでいるこの子を見ていると、どうも嬉しくなった。
「ウェンリーはねっ、すっごく不思議な色をしているの。夜の空みたいに広くて大きくて、でも、とーってもふわふわーキラキラーしてて、キレイなんだよ!」
「うん……そうね、不思議な人よね」
「でもね、ウェンリーはね、今はまだ、あの子に会っちゃダメっていってたの。だからまだ会えないの。あの女には会わない方がいいって。だから会いたくないの」
「???」
どうにもこの子が言うことは象徴的で、つかみ所がない。
「だけど、あなたはキレイな色だから。みんなと同じ、わたしと同じ、ウェンリーのことが好きだから」
顔にちょっと熱が籠もってしまう。さっき夕呼にさんざんからかわれたせいもあって、ちょっと意識しちゃう。でも無邪気で悪意の無い子からの発言なので、軽くかわせた。
「あ。呼んでるから、わたし帰るね。えーと、またね、マリモ」
「うん、ありがとう。またね、よい子はもう寝る時間よ? 子どもには夢を見る時間が必要なんだから」
「はーい♪」
大きく手を振った後、とてててててっと軽い歩調で通路の向こう側に消えていった。
それにしても不思議な雰囲気の子だった。名前を聞きそびれてしまったけど、あちらは自分のことを知っている様子だ。まあそれも当然だろう、こちらが地球から来ている情報は知れているだろうし。
あの白猫の子と話していたのも二~三分ほどだったろう、クロイツェル伍長も戻ってきた。合成青汁特盛りを一気に飲み干したような顔で?
「………繋がりました、もうすぐ部屋に戻ってくるとのことです」
あれ? あの子は別フロアの公園にいると言っていたのだけれども……タイムラグが微妙に噛み合わない気が?
「申し訳ありませんが、軍曹。自分はフレデリカ議長の護衛の本任務がありますので、これで」
敬礼をした伍長は走ると歩くの中間の早さで立ち去っていってしまう。一人残された私は、そのままドアの前でしばらく待つことになった。
一人、誰もいない長い廊下で立っていると、この四日間のことがあっという間に脳裏を過ぎ去っていく。
いきなり夕呼に特務として護衛の任務で呼ばれたこと。イゼルローンへと地球人類初の特使となったこと。ヤン閣下とフレデリカ議長と出会ったこと。色んな軍人たちに出会い、技術を学び、そしてたくさんの思い出と収穫ができたこと。
自分がBETA戦後も生きていたとしたら、西暦2000年という年のことを黄金時代ときっと振り返るだろう。そう思えるくらい、イゼルローンの人々はとても素晴らしい人々だった。願わくば――自分も含め、このイゼルローンの人々が誰一人欠けることなく、一緒に思い出話が出来るように――。
「ああ……ダメね。気を引き締めないと」
まだ滞在も二日もあるというのに、ついつい現役の軍人らしくない気持ちになっちゃう。こんな緩み具合じゃ、基地に帰った後、教え子たちに笑われてしまうんだからっ。
※ ※ ※
で。
「さて、神宮司軍曹。香月副司令が語っていただいた件について、克明な詳細を報告していただきたいものですが」
それから、二日間、まあ色々とまた収穫もあり、再び横浜基地に帰ってきた私だけど。
「そう……滞在先で任務中に男性と同衾したとの事ですが、真偽はどういったことで?」
元&現教え子(女子限定)一個大隊に包囲陣をしかれて逃げ場無く、階級という壁に囲まれてしまっていた。
椅子に腰掛けて対面しているのはヴァルキリー小隊に配属されている伊隅中尉、他二名。圧迫面接さながらのこの事態。昼時をやや過ぎたということで、他の軍人たちも席を譲っている。……あるいは耳をそばだてているかもしれない。なんだかんだで、この子らは横浜基地では有名な秘密任務部隊なのだから。
――困ったわね……。
軍人といえども男女が部隊混合であれば、そーいう浮いた話もぽつぽつあるものだが、あいにく自分には未だかつてその片鱗もなかった。
教導中の上官としてなら叱咤して散らせるのも容易いのだけど、あいにく教え子たちは階級も上。しかも最上級の上官かつ、この騒動の火付け役が夕呼なのだから物理的に止めるのは不可能だった。
「それでそれでっ! 神宮司軍曹、ほんとうのところ、どうなんですかっ!?」
髪を後ろで束ねた、つい半年前に任官したばかりの速瀬少尉が待ちきれないとばかりに飛び出してきた。隣の涼宮少尉がたしなめていたが、そっちも好奇の光を隠しきれていない。まあ、この二人は同期の男性とのことをまだ――どうやら男側が回答を曖昧にしているせいで――解決していないようなので、一層気になるのだろう。
……実のところ、「任務に関することには、一切答える権限はありません」と返せばすぐに散るのだけれども。この子たちだって軍人だ。触れてはならないと知れば探ろうとはしない。…………けど。
『 言葉では伝わらないことは確かにある。でもそれは、言葉を使い尽くした人だけが言えることだと思うんだ 』
……どうも私、イゼルローン空間の空気が抜けていないようだ。あの人たちとの時間を思い返すと、それだけでいいのかなっていう気持ちになってしまう。
この子達には『兵士』として生きる術を伝えてきた。だけど『人間』としての経験を伝え、何かを教えられる機会があるのならば、それもしていくべきじゃないかと今は思ってしまう。
すぅっと一呼吸置いて、慎重に言葉を紡ぐ。
「……性交渉は一切しておりません」
どよっ……と周囲の壁が揺れた。たぶん何も答えないであろうと予測していたのだろう。しかし弁明の一言だけで終わるかといったらそうでもなかった。
「……ただ。あの人はなんというか……大きな樹みたいな人なの」
イゼルローンに関する一切は当然話せない。だから曖昧な言い方でぼかす。
「一見すると何の役にも立たなくて、実も成さなくて。季節が変わっても、いつもぼんやり立っているだけのような人で。でも十年前も十年後も、どれだけ人や社会が変わっても。そこにいけば、彼だけは変わらず、同じように接してくれるような、広い安心感があって」
目をつむりながら、そっと自分の手を握る。
「気負いも気取りもないのに、いつのまにか周囲に人が集まってて。その大きな傘の下でみんなが自然体で過ごせるような、そんな……暖かくて不思議な人で」
いつもベンチでうとうと眠っているような、駆け出しの軍人さんの姿が目に浮かんだ。
「だから何年、ううん何十年離れても、きっと淋しさを感じない。そこにいけばきっと、あの時のあの人と自分にまた出会えるから……」
語り終えた後の、しんっとした静寂。だけどそれもほんのひとときだった。
『きゃあああああぁぁぁぁ~~~~~っ!!』
黄色い声が周囲の壁からBETA来襲のごとく上がった。
「あ、あ、あんですと~っ!? 軍曹が、鬼の軍曹が、花も恥じらう乙女になったですとーーっ!?」
「まことかーっ!? こ、これが大人の女性の恋愛というものなのですかーっ!」
「誰だ出てきなさい、いったいどこの魔術師よーっ! なにをどうしたら一週間でこうなるのーっ!?」
「み、な、ぎ、ってきたぁぁぁーっ! 今のあたしならオリジナルハイヴを単独で落としてみせるっ!」
「いいなーいいなぁーっ! もー、そういう包容力がある男に会いたいぃぃっ!」
「なによその、君が望む永遠な男ーっ! ちょっと孝之ーっ、あんた、そいつ見習ってきなさいー!!」
「……何年たっても変わらない、忘れない…………いいなぁ」
「……そうか、だから、うん、言うことで関係が変わってしまうのが怖いのね、私……」
雄々しいばかりの若さが溢れ、興奮で収拾がつかなくなった。しまった、口調もつい軍隊調のものでなく、素が出てしまった。
――ああ、やっぱりシャキっとしないと、私。
もうじき彼らが本格的に地球にやってくるのだから。それまで私もしっかりしてないと。
そう、イゼルローンの人たちはきっと世界を変える。それはきっと技術や軍事や文明といったものだけじゃない。もっと大事で、私たちが忘れて置いてかざるを得なかったものを再び喚起してくれる。
夕呼が不敵さを更に取り戻したように。社が大きく変わったように。私も昔の理想を思い出せたように。きっと、世界は変わっていく。
陽光が新雪を照らす。希望はきっとある。きっとその先にある未来に向かって、私はまた歩んでいこう。
『そーかいっ! 夕呼ちゃんにも、ついにいい男が見つかったんだねっ!!』
………………、…………、さて。
――さしあたっては、副司令に詳しい話でも聞きにいくことから始めていこうかしら。
腕と肩をぐるぐる回しながら、私は元クラスメートのところに向かうのだった。