月は地獄だ――BETAに侵攻された月において戦い続けた、司令官が残した言葉がそれだった。
地球も地獄だ――BETAの侵攻が始まった地球において、戦い続けた衛士たちが口々にした言葉もそれだった。
神宮司まりもも、今日この日まではそれが真実だと思っていた。安全圏などないユーラシア大陸の戦地を転々とした時こそが、もっとも生命の危機を感じた頃であった。
だが、まりもの認識は甘かった。そんなのは、地獄の一階層程度をうろついていた程度だったことを。そうだ――
「ユリアン、お茶のおかわり……入れてもらえるかしら?」
ここが、地獄の底の底だ―――!
第八章「修羅場」
イゼルローン要塞の一室。そこは機密を保持するための会話室になっており盗聴を防ぐためのありとあらゆる技術が盛り込まれている。
部屋は一辺10mほどで、壁にはドアのみがあり、重厚な四角のテーブルが部屋の中央に、それを囲むようにソファーが4つ並んでいるだけの簡素な作りだった。
そのソファーの一つに、イゼルローン議長、フレデリカ・G・ヤンが。
その右隣にイゼルローン最高司令官、ヤン・ウェンリー。左隣には参謀長のムライ中将が。
そしてフレデリカの向かいには、イゼルローンに刻まれた新たな伝説の人物、神宮司まりも軍曹の姿があった。
まりもは周囲からの視線(特に正面)に耐えるように、頭を少しうなだれて、視線を下に、手のひらは太ももの上にキチンと置いていた。
「では……証言者もそろいましたので、あらためて昨夜の被害状況を報告いたします」
証言者こと、昨夜の歓迎会の参加者は――生存者とも言う――壁に背中をつけ、それぞれがそれぞれの表情を浮かべていた。
そんな中、進行役のムライ中将が淡々と事務的に事実を伝えていく。
「まず物理的被害ですが、これは使用させていただいた民間店の被害が最も大きく、追加で注文した飲料や食材の請求費が20万ディナールほど来ております」
うわぁっ……と証言者から――観覧者とも言う――どん引く吐息が漏れ出る。
「……ミンツさん、それはどれくらいの価格なんでしょう?」
「……僕が兵長だった時の初任給が、1440ディナールだったんだ」
16トンの重りが神宮司まりもの頭上にたたき落とされた。
「次に人的被害ですが、多いところではローゼンリッター連隊が14名、空戦部隊からは21名が急逝――失礼、急性アルコール中毒で病院へと搬送されました。総勢45名が救急搬送されましたが、幸い、生命には別状ないとのことです」
参加者60名余の中、その被害で収まったのは幸いなのか不幸なのか。
「千人にて師団に相当する、我らがローゼンリッターの精鋭をことごとく屠るとは。いやはや、あの時の軍曹殿はまさに狂犬といった有様でしたな」
「鯨みたいに飲みやがる、マシェンゴの奴まで撃沈されてましたからな。『これも運命です』って言い残して」
「いちばんの犠牲者はパトリチェフ中将ですかね。『よせよ……酔うじゃないかね』と表情と一致しなかったので、もっともっとと飲まされました」
一個小隊に相当する心優しき牡牛も、勇気を与える心穏やかな巨熊も、覚醒した狂犬の前では無力だったようだ。
ちなみに空戦隊長と薔薇騎士元隊長は、素早く戦線離脱を果たしたようで、ここにいつもと変わらぬ雰囲気で傍聴していた。
「さて。以上の被害があったわけだが、当人たちの証言を聞きたい。ジングージ軍曹は昨夜のことは記憶にあるかね?」
「…………いえ、小官は覚えておりません」
誤って割ってしまった花瓶の前に立たされる、小学生の姿がそこにはあった。
明らかなため息をついて、参謀長はしかたなく、比較的中立に証言をしてくれるであろう少年と少女に尋ねた。
「ミンツ中尉とヤシロ君は覚えているかね」
ユリアンが少しためらったのが分かったので、霞が一歩前に出ようとする。だがユリアンもまた霞を制して、その時のことをありのままに伝えようとした。
「ええと、ジングージ軍曹はお酒が入られた後から、その、ちょっと気持ちが高ぶったようでして、周りに方にお酒を勧められる傾向にあったといいますか……」
まだ幼さの残る少年は、年上の女性の醜態を衆目にさらさず、かなりのオブラートに包んで処方することにした。
「……『みなさんの、ちょーっと、いいとこ見てみたいっ』でした」
霞もうまく言葉にできないので、しゃんしゃかと手拍子を入れて、その時の振り付けを再現することで説明した。
おかげでジングージさんの生命力と精神力は、すでにマイナスに振り切っていた。
――も、いっそ、ころして。
もしこの場に自決用のS-11があれば遠慮なく使っていただろう。いやもちろんイゼルローン内でなく、ハイヴに直行してくるつもりだけど。頭をカプッてされて冷やしてきてもいいかも。
ほら、夕呼だって自分の任官時の肖像を抱えて、朝焼けを見上げている表情になっているじゃない。自分はもう、軍人としても大人としても死んだも同然だもの。だもの。
「まあいいじゃないか、ムライ中将。幸い、取り返しの付かない被害というわけでもない」
「しかし閣下……彼女は――」
「皆、大人なんだ。お酒はそれぞれの分別で飲むべきものだし、限界は個々人が計っていかなきゃいけない。彼女を止められなかった者たちや、むしろ煽った者たちにも責任はある。全員で分割して、治療費やら酒代やら支払っていこう」
――ヤン閣下……っ!
神宮司まりもは、目がにじむ思いだった。まさか最高責任者、しかも自分がもっとも迷惑をかけたであろう相手が庇ってくれるなんてっ。
「……了解いたしました。では私から――いえ、私が訊かねば、おそらくはそちらの傍聴人からの質問があると思いますので――イゼルローンの風紀のためにも、真相を明らかにしなければならない件が、最後に一つ」
…………ああ。そうね、それがあったのね。
「閣下……男女間のプライベートな事情は当人たちで解決すべき問題であると心得ておりますが、それぞれの立場というものがございますので、幕僚長としてお聞きさせていただきます」
自分はこの時のために、死ぬのが定められていたのか。
「昨晩、ジングージ軍曹の部屋で“何か”ありましたか?」
「ない」
即答だった。部屋の空気が重く冷たく固くなる前に、大きくも強くもない声で、だけど断固とした言葉が放たれた。
「昨夜、彼女を部屋まで運んだのは、確かに私だ。しかしそれは寝込んでしまった彼女を運べる人員が少なく、しかも幕僚連中の企みであったと証言させてもらう」
「では彼女の部屋に残った理由は?」
「部屋まで運んだのはいいが、彼女が――彼女の名誉のために証言させてもらうが――寝ぼけて私を放さなかった。そして私の名誉はどうでもいいが、彼女を引きはがす膂力に欠けていたため、そのまま残らざるを得なかっただけだ」
しゅしゅしゅと、まりもの背中が丸く小さくなっていき、赤くなった頬から蒸気があふれ出していく。まさか自分がそんなことをしたなんて。
「軍曹殿は閣下に絡んだ瞬間、嘘のようにおとなしくなりましたからな。閣下のいうことならおとなしく従う、正に忠犬という形〈なり〉でしたかな?」
「被害の拡散を防ぐため、我らが敬愛する提督にお任せするしかなかった次第でして。意識のない女性を任せるなど、このポプランの苦悩たるや暗澹たるもので」
「誰よりも最前線で戦い、誰よりも殿〈しんがり〉を務める。さすが先輩でしたね」
「ヤンも成長したものだな、まさかイゼルローンの両巨頭から女性の扱いを任されるようになるとは」
「すばらしいですわね、閣下。援護射撃が後ろ弾だらけじゃないですか」
「こうやって私の人徳は磨き上げられてきたわけですよ」
漫才なのか本気なのか。場がゆるんだことを悟ったのか、夕呼まで話に乗ってきていた。
まりもにも、急に場の空気が弛緩していくのが分かった。
――……何もなかった、の?
ほぅっと、初めて生きた心地の吐息を出せた。まさか自分が一夜の過ちをしてまったのではないかと思っていただけに。
「ユリアン」
だが、その声で一瞬で場が凍る。
「……紅茶のおかわり、入れてもらえるかしら?」
「あの、フレデリカさん、いえ議長。もう四杯目ですけど……」
「入れて、もらえるかしら?」
「……アイアイサー」
ミンツ中尉はぎこちない姿勢のまま新しいお茶を入れ、議長は結婚指輪をはめた左手でそのカップを持ち上げた。
彼女がカップを持ち上げ、口に含み、そのカップをソーサーに乗せるまでの間、誰も何も口にすることはできなかった。
沈黙が場を占める中、ムライ中将がわざとらしく咳払いする。
「では閣下、以上の証言に嘘偽りは無いと誓えますか?」
「妻と議長とフレデリカに誓って」
おぉっと僅かに傍聴者からも吐息が漏れたが、しかし暗雲を切り裂くとまでは行かなかったようだ。
イゼルローン戦線は未だ膠着状況にあった。議長は「そう」とも何も言わず、ただじっと座っているだけだ。ここで自分が何かを言うべきなのか、いやそれは千年戦争の始まりを告げるに過ぎないのではないか。泥沼は避けるべきなのは分かるが、いったいどうすればいいのか。
この場、この空気で動けるものは一人もいなかった。誰しもが、ここで動いた瞬間、すなわちそれが、この危うく保ったバランスを崩壊させることなのだと分かってしまったから。
そんな時間だけが空しく過ぎていく中、
「――あらあら、みなさん。難しいお話はもう終わったかしら?」
『白い魔女』の登場が、すべての淀んだ暗黒を吹き飛ばした。
「おまえ! どうしてここに……!?」
「はいはい、みなさんもいつまでもこんなところにいないで、それぞれのお仕事をしましょう」
夫のその言葉には答えないで、キャゼルヌ夫人は空気を全く介さず、ぱんぱんと柏手を打った。
「フレデリカさん。今日は久しぶりに、一緒にお料理しましょうか」
「えっ、あの……オルタンスさん……?」
奇襲を受けて慌てる議長にも構わず、反転攻勢を更に仕掛けた。
「それと、えっとジングージさんでよろしかったかしら?」
「はっ……? はいっ! 自分は神宮司まりも軍曹であります!」
「わたしは軍人じゃないもの。だから普通にしゃべってもらえたら嬉しいわ」
「は……はい……?」
にっこり笑って、マダム・キャゼルヌはまりもに手を差し出す。
「あなたも一緒にお料理しましょうか」
仰天したのは男連中のみならず、女性陣もだった。まさか。まさか、今この時の議長と軍曹をセットにすることの、その最悪さを分かっていないというのかと。
「大丈夫よ。わたしは、知っているから」
絶対の記憶能力を誇る議長も、最前線を生き抜いてきた衛士も、この時、訳の分からない予知者じみた発言をした、一主婦に負けた。
渋々というか、有無をいわさないような扱いで彼女の後についていかざるを得なくなった。
「それじゃあ、あなた。今日はヤンさんの所に泊まってちょうだいね」
「お、おい?」
「今日は女の子だけの集まりなの。殿方は外で。今日は深酒を許してあげるから」
それだけを言い残して、白い魔女はまるごと暗雲を連れ去っていってしまうのだった。手を振るだけで家具を動かすかのように、場面を動かしてしまっていった。
そうして、後に残された面々はふかーい深い、疲れ切った吐息を部屋に満たした。
「……おい、ヤン。おまえ、始めから女房を待っていたな」
プライベートな空間になったせいか、キャゼルヌ中将も後輩に対する口調に戻った。
ヤンもテーブルの紅茶をおいしく飲みながら、あぐらをかきはじめた。
「まあ、そうですね。戦線を維持しながら、最大の援護を待つ。そういった次第の作戦でして」
「あら? 閣下は自ら解決しようとは思わなかったのですか」
香月夕呼もまた余裕が戻れたおかげか、気軽にヤンに疑問を呈した。もちろん彼の為人〈ひととなり〉やその思考を知る意味もあったが、彼女もイゼルローンの空気に染まってきたせいもある……かもしれない。
「博士、博士。私はゴルディオスの結び目を強引に斬ることはしませんよ。絡まった糸を解くには、第三者からの目が必要になると思いませんか?」
「へぇ……それでは、あの方はどういった方で?」
「キャゼルヌ夫人は、二人の娘さんと夫を育てた専業主婦ですよ」
さりげなく皮肉を入れたことに抗議した中将を無視して、話を続ける。
「失礼ですがジングージ軍曹は20代後半、つまり私の妻と同年代になるでしょう。同じ年代の女性だけで“そんな話”をしたら、変に捻れてしまう。年上の、しかも既婚者の同姓ほど、その間に立てるうってつけの役はいませんよ」
「全くですわね。でも専業主婦が何かの役に立つのですか?」
「それは博士、女手一つで娘たちを育て上げた主婦の力というのを甘く見積もっていますね。博士の周りにはいませんか、そういう方は?」
夕呼の脳裏に、食堂のドンこと、京塚おばちゃんの姿が映った。
ああなるほど。方向性はかなり違うけれども、あの人と同タイプというわけか。確かにそういう感じだった。
それなら安心だ。自分もあの人には頭が上がらないし、そういう関係のことならば、まりもを任せても問題ないだろう。
「なるほど……しかし閣下、先の質問はそういう意味ではなく、男としての甲斐性を見せようとは思わなかったのですか? という意味でして」
いささか挑発的な呼びかけに、ムライ中将あたりは眉をしかめたが、そのほかの傍聴人は関心をもって見守った。
「いやぁ……」ヤンはベレー帽を脱いで頭をかいた。「情けない話ではありますがね、私はもてないもので。その道の熟練者の助力を乞うのが一番ですよ」
「それでも最初から頼るのですか?」
「初手こそ肝心だと思いませんか? 悪い意味の男の意地を張り、後から戦力の逐次投入をすることは愚行だと思いますがね」
まったくね、と夕呼は心の中で両手を挙げた。BETAが地球にやってきた直後の、中国やソビエトに言ってやりたくなるセリフだ。
本当にうまく、あの最悪の状況を乗り切ったとその手腕に感嘆する。きっとまりもに捕まった直後からこの状況を想定して、連絡を入れていたに違いない。先々を読むその洞察力と、適材適所な配置、そしてそれを可能とする人脈には見事の一言だった。
でもその一方、すべてを解決したからこそ、もうちょっと鮮やかなドラマを見たかったとも思ってしまうのも、心の贅肉。
それはむしろ、幕僚連中も同じだったらしい。
「しかし、やはり閣下も物好きでしたな。結婚という牢獄に囚われていなければ、何の気兼ねもしなかったものを」
「おめでとう、ヤン。これでおまえも、妻にはとても言えないことを持つメンバーの一員となったわけだ」
「結婚へは歩け、離婚へは走れ。小官が独身主義から離れられない理由もそれですなぁ」
「いやいや皆様方、ヤン提督の最大の魔術は、あのとても抑えられなかった野獣を、麗しき姫君へ変えて寝床までお運びしたことでしょう」
「私はコメントを控えさせていただきましょう。しかし閣下、今後は噂の立たないよう、どうか慎んだ行動をお願いいたします」
皮肉と慨嘆と真面目の絶妙なカクテルが方々から飛んだ。
だがその中から、一部とんでもない発言が飛んだ。
「……私、わかりました。ヤン提督は“ヘタレ”なんですね」
だぁぁっと(言った当人以外の)全員がつんのめった。それもそのはず。それを言ったのが、それを言うのとはかけ離れた少女だったからだ。
「や、社? あんた、いつの間にそんなことを……」
「……また失敗しちゃいました」
社霞は眉を悲しそうに曲げて、発言を謝罪した。
「……みなさんみたいに悪口ばかりいっているのに、でもとても仲のいいのが不思議で、真似をしたんですけど……むずかしいです」
「カ、カスミ。前もいったけど、そういうのは無理しなくてもいいんだよ。これは僕たちなりの挨拶だから」
「……わたしは、しちゃいけないんですね……わかりました」
「いや、そんなことはないんだ! だけどそれは上級者の挨拶だから、もっとイゼルローンに慣れてからにしたほうがいいだけで……」
「……はいっ。私、ミンツさんみたいに、がんばります」
仲のよい二人に視線を向けた後、香月夕呼はぎぎぎぎぎっと大人連中に目を向ける。それは獲物を見つけた時の、某狂犬の目の光ににていた。
「では小官は職務がありますので」「そうそう、小官も」「では小官も」「提督、後はよろしく」「おい、ヤン。今日はいっぱい奢れよ?」
敗戦処理を最高司令官に託して、幕僚達は待避を開始する。ヤン艦隊の最大の強さは、逃げるタイミングと速さにあった。
そうして席に一人残された最高司令官の向かいに、今度は黒い魔女が座ってきた。
「ヤン閣下――イゼルローンにおける情操教育などについて、少々、お・は・な・し、していただけたらと、わたくし申し上げますわ」
弱みを見つけたら素早く、そして容赦なくつけ込む。戦場における鉄則を踏襲するのは地球も変わらなかった。
「……あー、ユリアン、紅茶を入れてくれるかい?」
「すいません、提督、さっきので茶葉が切れました」
「……コーヒーなら私、入れられます」
「まあ良かった。じゃあ提督、社が入れたのをどうぞ」
やれやれ。黒い魔女には黒い飲み物がよく似合うことで。
どうやら今度は援護は全く無い、孤立無援の勝ち目のない戦いをしなくてはいけないようであった。
いつものことだろうと割り切って、夕呼が部屋にこもっている間に何があったか、保護者同伴の会談をすることになったのだった。