第六章「不思議の国のカスミ」
社霞は今までにない「色」を多く見ていた。
――……みんな、明るい?
すれ違う人々から見えてくる色の形。それは赤、青、黄、紫、様々な色相があり、彩度も異なっていても、どれも共通しているのは同じだった。
それはみな、明度が極めて高い――つまりは誰も落ち込んでおらず、不安な感情を抱えている者は極々微少だということだった。
それは社霞がこれまで見た人の群の中では、会ったことの無い“現象”だった。
どんな組織であれ集団であれ、暗く重く淀んだ「不安」や「緊張」の色があったはずなのに、ここはいつも朝の木漏れ日のように優しく和やかだ。
「……どうして」
だから霞は“任務”を果たすべく、隣でエスコートしてくれている男性に向かって、その疑問を投げかけた。
「なんでここの人たちはみんな…………不安そうでないんですか?」
霞よりずっと高い身長のその人は、ちょっとだけ考える仕草をして、霞に優しく笑いかけた。
「それはきっと、提督がいるからなんだ」
霞の眼に、穏やかにベンチで読書をしている男性の姿が映った。その色は、このイゼルローンの誰よりも柔らかで淡い色をしていた。
――社霞は人の感情を「色」として捉え、人の思考を「画」として感じ取れる。その特殊な能力がゆえに――それ以外にも様々な制約や思惑もあって――香月夕呼はイゼルローン訪問の三人目に、霞を選んだ。
出発の前夜、夕呼は社に任務内容を伝えていた。
『いい、社。あんたの役目はイゼルローン側が言ったことの是非を見分けることよ』
ただし、と夕呼は指を一本立てた。
『会話の流れは私が作る。同行するあんたはその中で、相手がウソをついている――もしくは何かを隠そうとしているのが分かったら、すぐに私に投影〈プロジェクション〉なさい。詳細は後でいいわ』
ただし、ともう一本、夕呼は指を立てた。
『イゼルローンの出方次第だけど、私と社が分断される場合もあるわ。その際のあんたの任務は情報収集。出来る限り疑問を呈して、イゼルローンについてあれこれ訊きなさい』
こくんと社が肯くと、夕呼は手を口元に当てながら指令を詳しく伝える。
『ただ……下手なこと訊いたら、警戒されて逆効果になるかもしれないからね。そこらへん、会話の機微や駆け引きや誘導が必要なんだけど……』
夕呼がじ~っと社を見た。それから、はぁっとため息をつく。
『ま、難しいことは訊かなくていいわ。あんたが見たもの、聞いたもの、疑問に思ったことを素直に訊きなさい。それを糸口にして「なんで? どうしてですか?」ってどんどん尋ねること』
ついでに相手が警戒色を出した際のレクチャーを受けた。
『相手が警戒してきたらね、こー、目を伏せがちにして手を組んで、もじもじしながら「すいません……私、施設育ちで何も知らなくて……」って言えばいいわ。相手が男だったら、これでコロッて騙されるから』
かんらかんらと笑いながら、しかし次には真剣な顔をした。
『――でもイゼルローン側が敵意、あるいは殺意の感情を出してきた時。その時は相手に向かって、ありったけの“平和”に関するイメージを叩き込みなさい。イゼルローンが本当に未来人類なら、たぶんそれで通じるはず』
それを話した時の夕呼の感情は揺れ動いていた。その方法はかつてBETAに試し、しかし何の効果も上げないまま失敗したものだったからだ。イゼルローンが人類ならば一応は効果がでるかもしれないが、それでも限界はある。
だからそれは、最後の手段。社霞に出来る唯一の守り刀だった。それを抜くときは、すなわち霞が自らの力だけで自身を守らなければならない最悪の状況だということだ。霞自身もまたそれをよく自覚し、この任務の重さを学んでいた。
――のだが。
「提督のこと聞きたい? うん、いいよ」
すごく。あっさりと。先ほどから男性は霞にいろいろと教えてくれていた。しかも、今まで案内してくれていた中で一番の柔らかな優しい色を映しながら、そのイメージを伝えてくれる。
「そうだな……聞いただけだと信じられないような逸話が、提督にはいくつもあるんだ」
商店街のメインストリートのベンチに腰掛けながら、青年は嬉しそうな色を出しながら、社に彼の最も敬愛する者の物語を話してくれた。
社もまた、彼が勧めてくれたフルーツたっぷりのクレープをぱくもぐと食べながら、その話に耳と目を傾けた。
曰く、中尉の時、上官が見捨てた民間人三百万人を、彼が率いて軍艦一隻も用いらず全員を救った。
曰く、准将の時、潰走寸前の艦隊の指揮を任され、最悪の状態から全滅を防ぐことに成功した。
曰く、少将の時、半個艦隊を率いて、三個艦隊が六度攻めても不落だった要塞を攻め、ただ一人の部下も失わず攻略・奪取に成功した。
曰く、中将の時―――
そのような伝説を作り上げながら、尚も最前線に在り続ける。
軍神、あるいは知神とも称えられる常勝の将、その彼が率いた圧倒的な敵を相手にして、相手をあと一歩まで追いつめた。
部下は問う。ヤン提督の最高の作戦は何か、と。
部下は答える。決まっている、この次の作戦さ、と。
そうして、彼が指揮する兵はみな、最高の士気を保ち続ける。
百以上の戦場を乗り越え、不滅。
数百万の将兵と万の艦を指揮し、不敗
百億の人民を守る軍の頂点に立つ、生きる英雄。
それこそ、イゼルローン最高司令官、ヤン・ウェンリー提督。
軍事的経験など無いに等しい社だが、彼のまっすぐな想いを見て、熱い語りを聞いていて、素直にすごいんだなと肯いていた。
……ちなみにだが、合流後、夕呼とまりもに対してこの話をそのまま伝えて、盛大に二人をひっくり返らせた。一つの逸話を語る度に、夕呼の顔は百面相になり、まりもちゃんに至っては精神崩壊寸前まで行った。
『11階級を13年間でなんて、ウソでしょうぉーっ!? 大尉が6時間だけって何なのッッ!! 何をどうしたら将官が年間で3階級昇進できるっていうのよぉぉぉっ!?』
実際に口にしたわけではないが、彼女の精神と思考はそんな混乱っぷりだったらしい。
どうやらそれはあり得ない昇進のスピードだったらしいと、社も初めて分かった。
『……ふーん、なるほどね。やっぱり、あの男が、このイゼルローンの核なわけか……おっもっしろい、じゃない!』
その一瞬、夕呼の興味関心が未来の知識や技術でなく、ただの一個人に強烈に向かったことが、社にもなんとなく分かった。
それくらい、ヤン・ウェンリーという人は「特別」なんですね、と霞は同行してくれた青年に感想を述べた。
でも年上の青年は、少し複雑な色をした感情と表情を浮かべて、鼻の頭をかいていた。
「うん……でも、提督はそう言われるのはあんまり好きじゃないんだ」
「……どうしてですか?」
純粋な疑問から首を傾げ、斜め45度の上目遣い(夕呼指導)で彼に問いかける。
「う~~ん、説明が難しいんだけど……」
彼はベレー帽を外して、手のひらの上で形を変わらせていた。それは彼の師父がするのと同じような仕草だった。
「提督はよく僕に注意していることがあるんだ」
それは、社霞がかつて感じたことのない穏やかな色と画をしていた。その時、確かに社霞は隣にいる青年――ユリアン・ミンツと共にその話を聞いていた。
『 ユリアン、ユリアン。人間には出来ることと出来ないことがある。私は出来ないことはやらないよ。 』
柔らかく、しかし言葉は揺れず、“提督”は霞にしっかりと伝えてきてくれる。
『 どんな人間でも手足は二本、頭は一個しかない。それなのに個人が何でも出来るなんて考えるのはおかしいと思わないかい? 』
提督は紅茶を口に運びながら、社に教えてくれる。
『 だが軍や国も同じなんだ。軍事は政治の一部分、しかも極めて暴力的な一面でしかない。軍事上の失敗を政治が取り返すことはできる。しかし政治上の失敗を軍事が補うことは決して出来ない。なのに往々にして、一部の政治家や軍人はそれが可能と思ってしまう。 』
「……それは、なんでですか?」
『 権力や武力を持った人間の、万能感の拡大だね。一番厄介なのは、奴ら曰くの人類至上の使命とやらが絡まった時だ。個人が使命を持ち、それに向かって邁進するのはかまわない、個人の自由だ。でもそれが他者を巻き込む最悪のケースが、戦争なんだ。 』
今まで優しかった色に、微かな厳しい色が混じる。
『 でも戦争をする理由が、生命とか食糧とか金銭とかなら、巻き込まれる側もまだ少しは理解できる――と思ってしまうかもしれないがね、ユリアン。民衆はその時訴えるべきなんだよ、もっと別の方法は無いのかとね。 』
何もなかった水面に波紋が浮かぶように、ぽとんぽとんと霞の精神に言葉が浮かんで伝わっていく。
『 思考を停止させないことだ。世の中がこうだから、こんな状況だから、それは仕方ないと言ってしまった瞬間、自分以外の誰かに意志を委ねてしまうし、工夫は何も生まれなくなってしまう。 』
ぽすんと頭の上に暖かな手のひらが乗っかり、くしゃくしゃっと髪をなでられる。不快感はそこにはなかった。
『 大切なのは、お前自身が決める事なんだ。お前が見てきたこと、聞いたこと、それをまとめて、考えて、時には相談して。それから決めたことならば、私はお前を応援したいと思うよ。 』
「………………」
『 たとえ、私と同じ空を見上げていても、お前が同じ星を見る必要はないんだよ。そうやって人は、自らの星を自分で見つけられたらいいね。 』
真剣であたたかな色が、そこにはあった。そんな風に声をかけてもらったことは、社には今まで無かった。
――自分だけの……星……?
ただ一度のリーディング、しかも目の前にいないというのに、提督のイメージは社霞の心深くに染み通る言葉を残していった。
「――で、最初に訊かれたことだけど、提督にとっては「特別」な人っていうのはいないんだ。天才はいるかもしれないし、名人もいるかもしれない。でもそれは一個人でしかないって」
ヴィジョンが提督から青年へと移り変わる。
「だからきっと、提督にとっては同じなんだ。提督も僕も君も同じで、かけがえのない一人だってこと」
「……………」
社には応えられなかった。また疑問を口にすることもできなかった。彼女の内に、今まで無かった何かが共鳴しつつあったから。
数分ほど任務を忘れてしまった自分を、しかし隣にいた男性は優しく見守ってくれていたようだった。
と、そこに一人の青年――中年?――が立ち寄ってきた。
「よぉ、お嬢様の護衛はいかがかな、新人執事」
「“哨戒任務”は終わったんですか、アッテンボロー中将」
「ああ、終わった終わった。波高しといえども、天気晴朗。辺塞、寧日ばかり。神、そらに知ろしめす、なべて世はこともなしだな」
「昔の表現ばかりを拝借していたら『新世界紀行』の出版が遅れますよ。確か過去編と未来編を構想なさっているんですよね」
「……お前、ほんっとにどっかの自称キラキラ星の王子に似てきたな」
「皆様の教育の賜物ですね。イゼルローンにいる方々は皆、教師、いえ先生ですから」
「おいこら、お前も何もしなくてもいずれ三十を越えていくんだ。いいか、たとえ俺をそう呼んだとしても、いずれ第二、第三の者たちがお前を中年として……」
「あまり暇だからといって、古典のゲームにはまりすぎないでくださいね。ますます表現が陳腐になってしまいますよ」
「それがどうしたっ!」
ぽけ~っと社はそのやり取りを「観て」いた。彼女の幼いコミュニケーション能力では、互いに毒を吐いて喧嘩しているように聞こえていたのだが、研ぎ澄まされた能力ではむしろ、実にいきいきとした交流の色を発していたのが見えた。
その矛盾が不思議で、ちょっと小首を傾げて、疑問を呈してみる。
「……あの」
「あぁ、すまなかったな、お嬢さん。こちらの執事は粗相をなさっていなかったか?」
「……社霞です。……それとミンツさんは、執事ではありません。中尉です」
目を丸くして黙ってしまった二人を見て、はて自分は何か間違ったことを言ってしまったかなと、小首を傾げる。
「……なぁるほどなぁ……いやこいつは不味い、実に不味いぞ、ミンツさん」
「ええ、僕もそう思えました」
うんうんと頷いて何かを納得している中将さんを見て、ますます訳が分からなくなる霞。思考を見てもよく分からない。
「この深窓の令嬢にこれ以上、わがイゼルローンの汚染をさせては、保護者からどんな苦情・告訴・罵倒・上申されるか分かったものでないからな。空気感染は避けられんが、接触感染はなるべくよそう」
「汚染レベルを自覚なさっているのなら、すいませんがお引き取りを」
「お前さんもかれこれ6、いや7年か。俺に比べればまだ浅いが、気をつけろよ」
霞にはさっぱり彼らの話す内容が分からなかった。もしやこれはイゼルローン式の暗号なのだろうかと、会話の中身だけは記憶しておいた。
「それじゃあ、小官はこれで。――ああそうだ、ユリアン」
雑談を終え、立ち去ろうとした中将がこちらに呼びかけてきた
「お前がそのお嬢さんに、いろいろ教えてやれ。ここで思い出を作っていくのが、たぶん、一番いい」
割と真剣な色が見えた。今まではずっと会話と色にズレがあったのに、その時だけは一致していた。
隣にいるミンツ中尉もこくんとうなずき、また一緒に案内を開始してくれる。
「じゃあ……そうだねっ、ヤシロさんの行ったことのないところへ案内するよ」
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「ふ~ん……なるほどねぇ……」
起床してから約6時間後、つまりお昼頃になって、社は別れていた二人と合流していた。
一つのテーブルの上に昼食を並べ、その間に何があったのかをつぶさに報告していた。
「……元帥……元帥閣下だったなんて……ふふふっ、元帥……」
「……あの、いいんですか?」
「ほっときなさい」
報告を一通り終えた社だったが、神宮司軍曹は完全に意識喪失していた。目から光がなくなり、頭をテーブルにつけたまま、ぷしゅ~~っと白い煙を出しているようにも見える。
「でも上出来よ、社。その調子でコンタクトを続けなさい」
ここはイゼルローンに用意してもらった部屋の一室。さらにあちらの配慮で貸してもらえた遮音力場発生装置――周囲に空気の膜みたいなモノができる――によって、一応は謀聴を防いでいるらしい。
だが昼食をのんびりぱくぱくと取っているのは、社一人のみ。
ほか二人は用意してもらった資料(日本語)を読みながら、これからの準備をしていた。
「ほら、まりも。あんたもいつまでも休んでいるんじゃないわよ。資料も読まずに演習させてもらえるわけないでしょ」
「…………うぅぅ、夕呼~……! 秒間140発でウラン238を撃ち込めるって、これ秒と分を間違えてないわよね~っ……!?」
「ああ、見せてもらった、あの単座式戦闘機ねー。ただ放射能のリスクもあるし、ユーラシア奪還するなら、もうちょっとクリーンにしてほうが各国の反発も少なくていいかも」
「…………それとこっちの、イゼルローンの主砲が9億4200万メガワットって、どれくらいの量なの……?」
「BETAに侵攻される前の、日本の年間総電力以上。大気圏内での荷電粒子砲でも……そうね優に数万発は撃てる電力かしら? でもなに考えているのかしらね。スペックだけとはいえ、ここまで資料を開示するなんて。各国の技術開発局が聞いたら、軒並み発狂するわよ」
「そ、そうね、ふっ……うふふふ……」
ふふふふふふっ………と黒い息を口から吐き出していった。なんか会話を続けるたびに、軍曹の精神耐久度がゼロに近づいていく。というよりマイナス? 理性の綱もだいぶ切れかけてきたせいか、普段は締まりのある言動が幼くなってきているよーな。
代わって、博士の方はもう慣れてきたのか、用意してもらった資料を恐るべき早さで読み続け、砂漠に水を蒔くがごとく、未来の知識や情報を吸収しているようにも見える。
こちらには目を向けず、自らの成すべきこと、そして自分たちに成すべきことを伝えるためにこの場を設けたのだった。
「じゃあ、最終確認よ。私はこれから資料の熟読に、この部屋にこもるわ。明後日――現在から42時間後には出る予定、それまで一切の室内への進入を許可しないわ。イゼルローン側にも伝えてある」
周囲には本や紙の山脈が連なっていた。何でも文明が進んでも、紙媒体以上の優れた記録装置はできなかったらしい(もちろん操作卓〈コンソール〉もあるのだが)。
これら全てをたった42時間で読み切るなんてできるんだろうかと、社は疑問に思ったが、口にはしなかった。この博士は、自らすると言った以上、意地にかけても絶対成し遂げるだろうから。
ちなみに大部屋といったが、もちろんトイレやユニットバス、あとイゼルローンからタンク・ベッドというのが用意されていた。
「まりもはイゼルローンの兵器に少しでも触れて、対BETA戦への構想と運用と戦術案を練って。後でレポートにまとめてもらうわ。艦そのものは、時間もないし今回はパスして。宇宙戦艦一つ造るより、地上戦で使える兵器の数揃えた方が、コストパフォーマンスもマシだから」
「了解ですっ」
実務的な話に移ったのか、少しだけ心の平衡を取り戻せてきたようだった。……まだまだショックは大きいようだが。
「で、最後は社だけど……」
ほんのちょっとだけ、こちらに目を細めて言った。
「あんたは今日と同じでいいわ。そのなんとかって中尉、ヤン閣下の養い子なんでしょ? そいつにまた色々と教えてもらいなさい。特に彼らの文化とか歴史とかね」
コーヒーの入ったマグカップを持ち上げながら、にやりとまた笑った。
「それに、このコーヒー、なかなかうまく淹れられたじゃない」
「はい……ミンツさんに、教えてもらいました」
ミンツ中尉の実父は茶道楽だったらしく、本人も教えられたらしい。本人曰く、紅茶が特にだそうだが、緑茶やコーヒーなども点てられるとのことだった。
いろいろと話をする中で、ミンツ中尉ばかりでなく、自分のことも――極限られたことしか話せないが――話すようになっていた。その中の一つで、博士の助手のようなことをしていると言ったら、ならばと教えてくれたのだった。
「それにしても……あんたもなかなかやるわね~。それも買わせたんでしょ?」
「……はい、ミンツさんが、私にって」
彼が自分にと勧めてくれたのは、もう一つ。日記だった。
彼自身もイゼルローンに来た頃から書き始め、今では結構な量になっているらしい。
「…………書いても、よろしいでしょうか?」
「んっ……まあいいわ、ただ検閲が当然入るだろうから、何をした、これこれを見たくらいにしておきなさい」
こくんと頷いた社だが、どうしても気になったことがあった。
「…………あの、なんで、日記って書くんですか?」
紙をめくっていた夕呼の手がぴたりと止まり、こちらに向き直った。
「……忘れないためかしらね」
飲み終わったマグカップのふちを指でなぞった。
「こんな世界で生きていたら、死ぬほどツラくて忘れたい思い出なんてね、みんな腐るほど持っているわ。でもね、社。それを忘れていってしまうほうが、もっとツラいの」
隣に座っていた神宮司軍曹もまた、真剣にその話に聞き入った。
「何があった、これがあったなんて一文なんて、他人からしてみたら本当の意味では分からない。その時その場に――いい、これはよく覚えておきなさい――実際にいた人間にしか、その記録から「本当」を思い出せないのよ」
その夕呼の言葉が、ユリアン――ヤン提督から聞いた言葉とわずかに共鳴した。
「あんたがそこに書き記すことは、私にとっては何の意味も価値もない。だから注意はしても、指示はしない。社自身が書き記して、後になってあなただけの価値が生まれるかもしれないし、そうでないかもしれないのだから」
社はその日記帳に目を下ろす。こんな分厚いものを自分は書き残すことが果たして出来るのだろうかと。
「まっ、人工惑星にくるなんてこと滅多にない機会だから、いいんじゃない、書いておきなさい。男からの貢ぎ物なんて、テキトーに扱っていいんだから」
からからと笑う博士に、半目でじとーっとみつめる軍曹がいた。
「あと、思い出っていうのは、何をしたか、どこにいたかって、それほど重要じゃないと思うわ。一番大事なのは、誰と一緒にいたかだと思う。それさえ忘れなければ、思い出ってのはいいものだから」
にやりと笑う夕呼の答えに、霞はこくんと頷き、まりもも静かに二回頷いていた。
「――さあっ、動くわよっ! せっかくのこの機会! まりもも社も、情報収集を怠るんじゃないわよっ!!」
「了解しましたっ!」
「はい……!」
……こうして、イゼルローン訪問の時は流れていく。夕呼は知識を、まりもは実践を、霞は情報を。それぞれがそれぞれ、掛け替えのない体験をし、2日目を過ごしていった。
その途中、まりもはふと思った。なぜ夕呼はあれほど社という娘に、任務外のことを真剣に伝えていたのだろうかと。時の不可逆性と価値についてあれほど知っている夕呼が。
神宮司まりもは知らない。社霞の特別な出生を。彼女には自身に寄与する思い出など、ほとんど持っていないことを。他者にリーディングすることで、その主幹の欠損を補っていたということを。
色々な意図をこめて、夕呼はこの機会に社が自分自身ということを学んでくれればと、彼女を一人にすることをあえて選ばせた。もちろん情報収集の意味もあるが、それ以上に彼女の能力的な、そして人間的な成長を願って。
――だが。
香月夕呼は気づかなかった。イゼルローンの未来知識を学べるという絶好の機会に目が眩んだばかりに。気づける機会は何度かあったというのに。
ヤン・ウェンリーという男の、見た目に騙されていたといってもいいだろう。あれほどの武勇伝を聞いた後にも関わらず、外見の先入観から抜け出せず、半信半疑な部分を残してしまった。
イゼルローン組がヤンファミリーとも言われる理由の一つ。それは司令官のおそるべき人格的影響力、もとい汚染力にあった。
まじめで堅苦しかった士官のほとんどが、ヤン率いる不良中年組の独特の気風――伊達と酔狂と冗談と趣味で、自ら無謀な戦いに身を投じるという熱気に染まったことを。
純粋無垢で世間知らずな年頃の娘を、そんなたまり場に一人おいていくことが、どれほど「危険」かということを。
香月夕呼はまだ知らない。何より、社霞自身も知らない。
そしてイゼルローンの面々は知ったことではないと、責任はとらないのであった。