第四章「特務内容」
わかめと豆腐が入った味噌汁。今や伝承も途絶えた、大豆と塩のみを原料とした八丁味噌の旨味と渋みが利いたコクと香りは、日本国民のDNAを活性化させていく。
出汁を込めた焼きたて卵焼きの触感は、まるで赤ん坊のほっぺた。大ぶりの鮭の塩っ気と身の脂の混合度合いときたら、もう芸術の一品。パリと焼かれた海苔、熟成梅干しといった小物は、食の彩りと栄養価の名バランサー。
なんといっても米! ササニシキやコシヒカリといった名種を上回る米が、いやおうなく食欲を増してくれる。名水で炊かれ、粒の立った米、米、米っ! これで箸を止めるなんてことは、日本人なら不可避っ!
「そう……無理なの、無理なのよぉっ……!」
「なに呻いてんのよ、まりも?」
「…………っ、っ(肉厚梅干しを丸かじりして、ぶんぶん顔を振っている)」
衝撃の事実を告げられたあの時刻から、5時間ときっかり24分。
神宮司まりも軍曹は何度目になるか判らない――数えるのがそもそもおかしい――衝撃に見舞われていた。
地球人類初であろうイゼルローンへの来訪という目的を聞かされ、しかもそれが自分たち人類と同種の民だという事実を聞かされ、重力と慣性が制御された宇宙船の中で一晩を過ごす。
初日にしてそれだったというのに、二日目の朝(外が宇宙空間なので実感はないが)、とにかく朝。
歴戦で鍛えられた鋼の精神でなんとか睡眠を取ったまりもの耳に、艦内放送が入った。なにやら到着前に何か軽食をどうかという連絡だった。
ここで護衛対象の女性博士からとんでもない質問――いや要望、いや命令か?――が入った。
「ねえ、和食って出来ます?」
こっちは鳥肌どころか髪の毛まで逆立つほどの内容だった。この友人の心臓と肝臓には毛でも生えているに違いない。
さすがにそれは想定していなかったのか、「少々お待ちください」という声の後、「30分ほどかかりますが……?」という答えが帰ってきて、思わず「出来るのっ!?」と大声を上げそうになった。
そして運ばれてきた品々。前日の夜のコースを上回る衝撃。けっして豪勢ではないが、郷愁を誘うメニューに、神宮司まりもの精神(食欲)は完全屈服した。香りや匂いとは、かくも胃を収縮させるものなのだと思い知らされた。教え子たちがここにいなくて本当に良かった。
――でも本当になにを考えているのよっ……。
八十八の命が籠もる一品を残さず綺麗にし、鮭の皮にこびりついた身も食べきったまりもは、目の前の席を見た。
「ん? ずいぶんと綺麗に食べたじゃない」
「…………っ、っ(鮭の小骨を除くのに苦闘している)」
いろいろと言いたいこと、聞きたいことがBETAの数ほどあるのだが、盗聴器もあるだろうし、ただジーッと半目で見つめるしか出来ない。
「やれやれ、まりもー、あんた分かってないわね~。いい、まず、この米よっ!」
やれやれという感じで大げさに手が振られた瞬間。
こつんとテーブルの下の膝の上、何かの感触がした。表情は変えず、さもトンデモ発言にガクッと首を曲げたかのように、下を見る。
そこには、手のひらに収まるサイズの網膜ディスプレイがあった。すばやく手の中にいれ、テーブルに左肘をつき頭を抱えるポーズをとる。
「はぁっ……なにがですか、博士?」
「分かんない? これ間違いなくカマドの味を再現しているのよ!? あの30分でここまで準備できるなんて……イゼルローン、おそるべしよね~」
「……………(お椀にこびりついた米粒をどうキレイに取るべきか思索中)」
ぺらぺらと雑談を続ける夕呼に適当に相づちを打ちながら、手で隠した映像を確認する。
【このデータは一度きりしか再現しないようにしているから。字幕を見落とさすんじゃないわよ】
基地の執務室をバックにして、もう一人の香月夕呼が左目に映る。
【この映像を見ているってことは、とりあえずイゼルローンへの潜入に成功したってことね。じゃあこれから本作戦の詳細を伝えるわ】
盗聴や盗撮を――イゼルローンだけでなく地球側の組織も――警戒して、こんな回りくどい方法を採ったのだろう。常に布石を打つ友人の手腕に改めて感心させられる。
【1月の上旬、イゼルローン側から私のところに接触があった。内容は地球側に技術の提供をしたいから、物理博士号を持つ私をぜひ招待したいって】
表情は変えないまま、内心の動揺は限りなく抑える。
【その連絡の中に――ああこれは今、あんたにもう伝えたかは分からないけど――イゼルローンは異星人でなく地球出身の未来人だってこと内容があった】
事前に聞いていなければ仰天を抑えられなかった内容に、なるほどだから前日にわざわざ伝えたのかと納得できた。
【一笑に付す内容だったけど、私の研究テーマとも合致するところも多かったしね。それにBETAのリアルタイムの情報なんかも入っていたわ。――監視衛星を失った人類側では計れなくなったはずの生のデータがね】
なるほど。技術的な線から某国の陰謀という可能性を消していって、信憑性の方が大きいと判断したのか。
【向こうからの具体的な指示は少しだけだったわ。日時、場所、指定した人員以外で同行できるのは“1名”まで。あと平服でお越しください、料金とお車はもちろんイゼルローンもち、デートプランはお楽しみに、ですって】
案内役をしてくれた中佐の軽さを思いだし、イゼルローン流の冗談なのか、それとも夕呼のジョークなのか悩んだ。
【……彼らが何を意図しているのか、正直私も読み切れない。でもこの数ヶ月の空白の意味、彼らの目的、彼らの持つ技術。BETAの情報を知る以上に、彼らを知ることは地球人類の存亡に関わってくる】
そこはまりもも強くうなずく所だった。イゼルローンに関しては、未だ何もかもが未知のままなのだから。
【人類のタイムリミットは、あんたが思っているより少ないわ。最悪なのは制宙権もBETAに取られてしまったことね。アレのせいでリアルタイムの情報の精度がどれだけ落ちたか知っているわね】
心の中で二度頷く。確かにBETAの侵攻はここ数ヶ月ウソのように落ち着いているが、それは大嵐の前の静けさに等しい。奴らは数がある程度整うと、雲霞のごとく侵攻を始めてくるのだから。
【……そこが虎の穴だろうが、竜の洞だろうが、ハイヴの中だろうが、この機会を逃すわけには行かない。どんな大きな犠牲を払おうが、どんな些少の情報だろうが、彼らの生態・目的・文明を調べ尽くす。そして彼らの技術を盗んで、地球に持ち帰る。これが今回のミッションの目的よ】
まりもはようやく、これまでの夕呼の行動を理解した。
たびたび食事にリクエストを出したのも、彼らを知るための一手だったのだ。
――彼らは、和食を、の一言でこれほどのものを出してくれた……。
ということは。彼らは自分が想像している以上に、地球人類を(しかも一地域の文化まで)知り尽くしている。
なるほど、確かに未来の地球人ということにも若干の信憑性がでてくる。
――しかも注文から30分以内でこれだけのものを……。
彼らが持つ料理素材の質と種類の豊富さ、そしてレシピ。それらをあらかじめこの船に準備していてくれたことから、賓客としてもてなそうという姿勢も読める。
――いや、でも、私たちがそう読むことも、向こうも承知の上かも……!?
政治のステージなど立ったことのないまりもだが、「私たちはこれほどのことが出来ますよ」というアピールが、いかに他者を懐柔する上での圧力になるかは理解している。
これはもしや、イゼルローン側からの無言の攻撃だったのかもしれない……。
――夕呼は最初からずっと、こんな無言の戦場にいたのね……!
オルタナティヴ計画を先導していた友人の政治力に、改めて感服する。
そう、これは第二のパレオロゴス作戦なのだ。参加して散った衛士たちと同じく、自分は今、全くの未知の場におり、何が何でも生還して情報を地球に届けなくてはならないっ。
自分の一言、一動作が彼らにどう評価され、どう判断されるのか。それを考えてしまうと、身と心がこわばっていってしまうのがよく分かる。
――だから夕呼は、あえて私に何も伝えなかった。
情報の漏洩防止ももちろんだけど、早い段階で伝えられていては自分がどれほどぎこちなくなってしまったのか、想像はたやすい。
ああ、自分はなんと浅はかだったのか。一月上旬にコンタクトがあったということは、夕呼は現在まで様々な根回しをしていたはずだ。それこそ、自分たちが帰還できなかった時のことも考えてっ!
――だから夕呼は、この社という娘も連れてきた。
夕呼がいなくなればオルタナティヴ4の計画も水泡と化す。乾坤一擲の場として、何か特殊な意味をこめて、この社霞を同行させたのだと。
――そうだ、だから夕呼は私も…………。
…………。
あれ?
――私が同行する意味はなに?
ちょっと待て。この動画でも一名まで同行可とあったではないか。約束の場までの護衛ということであれば、残していけば良かったはず。なんでわざわざイゼルローンまで一緒に?
………………。
ちょっと待って、夕呼ストップ、もしかしてだけども……。
――わたし、イゼルローンへの献上品……ってわけ、ない、わよね?
まてまてまてまて。そんな古代の戦争よろしく、相手国への貢ぎ物で我が国の女性をなんて暴挙を…………やる。この友人は必要とあれば、遠慮なくヤル。どーぞどーぞ、少々嫁ぎ遅れの凶暴ですがと、リボン巻いて送る。
――もしかして、妊娠しているかなんて訊いたのもそのせい!?
先ほどまでとは別種の、なんかイヤな汗が背中を伝う。
いや、あの、うん、私ももちろん、帰れないかもしれないなんて覚悟、とうの昔に済ませているし、地球人類存亡のこのさなか、貞操や人権とか振りかざす気も無い………けど、有明はいや! なんだ有明って、あそこは何もないだろう。
混乱しかけた自分の網膜に、最重要情報が映る。
【それでイゼルローンについた後のあんたの役割は―――】
それを見逃さんと、血液の限りを尽くしてクワッと目に力を込めたっ!
『皆様、すぐそこにイゼルローンが見えます』
「ついに来たのねッ!?」
「…………(キレイに食べ切り、仕事をやりきった女の顔をしている)」
あっ。……しまった。声に気を取られ、つい顔を上げてしまった。ここでまた目を覆い隠すのは明らかに不自然だ。かといって、肉視窓に向かって直球した夕呼に尋ねるわけにもいかないし……。
――ああ……あの子たちに偉そうなこと言えないわ。まさかミッション内容を見落とすなんて……。
失敗はなんとか取り戻すしかないとスイッチを切り替え、自分も席から立ち上がる。
さて、とうとうイゼルローンだ。だが、どんなところだろうか?
基地内でも色んな意見が出ていたものだ。地球みたいな惑星だろう。いやいやきっと宇宙に浮かぶ人工基地みたいなところだ。植物星、ガス星、もしかしたら恒星のことかも。などなど。
――さあ、どんなところかしら。あんまりオドロオドロシくなければいいのだけど。
友人の頭の隣に目を乗せ、進行方向の右前面を視る。遠くにあるのだろうか、見えるのは遠くの星々と小さなシャボン玉くらいしか……。
――……宇宙にシャボン玉?
近づいているせいか、銀色に美しく光るシャボン玉がだんだんと大きくなっていく。天体にはあまり詳しくないのだが、ああいう惑星ってあるのだろうか? なんか水銀で覆われた星みたい。
「……開いた口が塞がらないって、まさにこのことね……」
夕呼はすでに何か気づいたのか、窓に爪を立て、キレイな犬歯を見せていた。きらきらしていた目がギラギラ充血しだしている。
自分もなんとか観察をし、彼女の思考に追いつこうとがんばる。
そうこうしている間に、シャボン玉はもはや小さな惑星くらいまで大きくなり、船の前方に壁となって現れた。
表面はつるつるの液体で覆われているが、波紋が前方にできてキレイに上下に分かれて…………。
大きく目の前の壁が分かれて…………。
「………………質問を宜しいでしょうか、香月博士?」
「………………なにかしら、神宮司軍曹?」
目の前で星の壁が真っ二つに裂けて、その奥に明らかな人工金属の壁が映った。
いや、ちょっと待って。これ確かに、数百メートル規模の戦艦を、一万隻以上収納できるスペースが十分あるけど……。
「これ……BETAみたいに星を削って、地下とかを改造したんでしょうか……?」
「…………外部と内部の構造を見ると、多分、一から造ったんじゃないかしら」
「……おおきいです」
余りに巨大すぎる物体――究極の人工物を目の当たりにして、体と顎と膝からガクっと力が抜けていき、窓に手を突きながら、ずるずるずるずると体が下に滑っていく。
「あ、り、え、な、い、でしょぉぉぉぉっ……!!」
イゼルローンは、人工惑星だったッッ!?
隣の夕呼はスコープを取り出して「目測、約50、ちがう、まさか60km超ですって!」とか「なんてこと、このサイズ、質量の基地を維持するための一日の総エネルギー量は……!」とか、物理学者らしくデータの収集と解析と計算に一生懸命だった。あるいは彼女もそーいう風に計算していないと、このスケールに踏みつぶされそうな気持ちなのかも。
――……ああ、これは地球人類どころか、BETAなんかが適うはずがないわよね……。
二日目でもう泣きそう。
この情報一つで、国連のメンバーが全員椅子からひっくり返って、脳天をしたたかに打つに違いない。
人工衛星? 宇宙ステーション? 恒星間移動船? イゼルローンから鼻で笑われてしまう。
地球側とは技術以前に、構想と実現のスケールが違いすぎた。
「……おっきいです、とってもとっても、おおきいです」
社もまた本人なりに衝撃を受けている様子だった。イゼルローンのあちらこちらに視線を向けている。
表面を覆っていた液体が分かれ、およそ四層もあったゲートが開き、その中へと船は入っていく。
外から見えた美しさとはまた異なり、内部は上下左右がメカや金属の固まりになっており、そこに大小さまざまな艦隊が浮かび、外側にぽつんぽつんと人らしき粒も映っていた。
外見の有様とはことなり、中はかなり理解可能なメカドッグになっている。
「まるで基地……そうか、ここは軍事基地っ! イゼルローンは星や地名でなく、宇宙基地の名前だったのねっ!」
「……ざっと概算したけど、ここだけで数百万、基地としての機能を外せたら一千万人以上が居住可能ね」
「……ひろいです、おっきいです」
建設中の横浜基地でも、せいぜい一万五千から、最大で二万くらいの兵士しか常駐できないだろう。それ以上になると土地以前に、補給の困難さが出てくるからだ。最新鋭の基地でもそうなのだ。
しかしイゼルローンは違う。彼らはこの人工惑星一つで、大都市まるまる――いや下手をすれば、一国家に相当する人員を養うことができるのだ!
――これが、イゼルローン……要塞っ!
脱力していた体に戦慄がほとばしる。そうだ、これは星でも基地でもなく、もはや一個の『要塞』だ!
彼らは地球側の助けなんて何も必要としない。これ一個だけで全てをまかなうことができるのだから……。
唾と汗が、体の内外で同時に落ちる。
――いったい……彼らは地球側に何を要求する気なのっ……!?
これほどの規模と技術と人員を持つ彼らだ。おそらくはテラフォーミング技術も持ち合わせているだろう。作物を作るための土地は必要としない。資材は星丸ごとを削って取ってこれるだろう。エネルギーはこんな要塞を支えるほどあることから、おそらく無限大。
――なぜ遙かに劣る地球側に、技術を伝えたいなんて言ってくるの!?
まりもは恐ろしくなってきた。いや、恐ろしさの実体が目の前に現れたというべきだろうか。未知なる故に不安、そして既知なるが故に恐怖。まさにイゼルローンがそれだった。
彼らはその気になれば、半日もいらず地球を焼き払い、地球人類を搾取し、奪い、自らのものにできる能力を備えているのだと。
――イゼルローンが要塞である事実。これはなんとしても、地球に伝えないとっ!
これを第一級の情報として脳裏に刻む。
彼らにしてみれば、この程度のことを見せても問題がないという裏返しだろうが、それでも彼我の差を正しく知れたことは大きい。相手の大きさを知ることこそ、攻略の第一歩なのだから。
……攻略?
――なぜ、私はイゼルローンが敵になると想定しているの?
今までは――昨日まではそんなことを思ってなかったのに。
あの八月の日、宙からやってきた宇宙艦隊がBETA共を駆逐しつくしてくれたとき、この胸にあったのは口にもできないほどの感動だった。それからの沈黙の期間は不満と不安もあった。だが、彼らの実体を知り始めた今日からは「恐れ」――そう「畏れ」の感情が胸を締め始めていた。
――なんなの、これ……?
それが何故かは判らない。だがまりもは、この情報を地球に持ち帰らなければいけないという、先ほどまでの信念じみたものに疑問を抱いた。そしてまた同時に、なぜ疑問を抱くのかということにも疑念が沸いた。
第二のパレオロゴスとも言える本特務のはずなのに、どうしてか、まりもは情報を持ち帰ることに一瞬の躊躇を得た。
「……………」
気づけば社がこちらを見ていた。いけないと頭を振り、荷物を片づける。
しばらくして無事ドッグ内に入ったのか、軽い振動が伝わってきた。部屋のドアが開き、そこには小型艇を操縦していた主。オリビエ・ポプラン中佐が立っていた。
「これは麗しきご婦人方! 昨晩はごゆっくり休まれましたかな? イゼルローン共和政府へのご入国おめでとう御座います。ささやかではありますがっ、小生が出迎えの花を見繕って参りました、どうぞどうぞ」
宇宙服を脱ぎ、軍服……なのだろう。ベレー帽に収まりきらないほどの不適さと陽気さと瀟洒さ……まあつまり洒落っけ溢れる雰囲気を醸し出していた。
耳と口元にマイクみたいなものがついているところから、おそらく、あれが通訳の機械になっているのだろう。そうでないと、いくらなんでも日本語が巧すぎる。
あといったいどこから調達してきたのか、三色三種の花束がその腕の中に収まっていた。たしか一緒の船に乗っていたはずなのだけれども。
「あらデンファレね。花言葉は知っているのかしら、お若い中佐さん?」
「それはもちろん。有能、魅惑。まったく貴女には相応しい言葉かと」
「それとわがままな美人、かしら?」
「美人が我が儘であることに文句を言う奴がいるとしたら、そいつぁは自分が我が儘にできないからでしょう? いい男はいい女を飾るもんですっ」
まったくね、と笑い返して、夕呼は一輪だけ赤い蘭の花を受け取った。あの夕呼がそういう態度を返すのは案外珍しいので、ちょっと驚いた。
中佐がちらとこちらへ視線を向けてきたので、先手を打っておく。
「中佐殿、小官は任務中のため、私物を受け取るわけには参りません。どうかお引き取りを」
「まあまあまあ、花に罪はありませんから、どうか香りだけでもお受け取りください。ささっ」
……そういわれては流石に断りづらい。いささかの警戒を胸にそのオレンジ色の花に鼻を近づける。
「……これ、金木犀〈キンモクセイ〉ですね。思い出しました」
ああ……とても懐かしい香りだ。まだ子どもの頃は、秋になると野端にこの香りが溢れていた。
「花言葉は『謙虚』。花そのものは気づかなくても、そっと香りで相手に気づかせる。まさに謙虚な貴女そのものです」
「へ~……ま~り~も~♪ とうとうあんたにも春が、いや秋がきたのかしらね~」
いや~な笑いを向こうで浮かべてこっちをカラカってくる。……あれは演技だろうか、素だろうかと疑問符を浮かべてしまいそうだ。
――でも……本当に懐かしい。
BETAの侵攻のせいで地球の生態系は狂ってしまい、大気も大きく汚染されてしまった。今はもう、季節の草花さえ実らなくなってしまった。だからなお、郷愁をくすぐられる。
そしてこんな宇宙の果ての、人工惑星の中でそれがまた嗅げるようになるなんて思ってもみなかった。
「最後に嬢ちゃんにはこれだっ」
先ほどまでの芝居がかった瀟洒さから一転、小さな白い花の束――ああこれもとても懐かしい――シロツメクサの束を社へと渡した。
「…………これは?」
「おう、シロツメクサっていってな。クローバーの花なんだぜ。まぁ、ちょっと見てろよ」
これもまた懐かしい。まだ幼い頃、母がよく作ってくれたように、茎を編んで丸い輪っかにしていく。
「んで、こーして、ほらよ。ちょっと小指だしてみな」
「…………」
小さな小指に小さな白のリングがはめられた。
「シロツメクサの花言葉は約束っていってな。んでもって、小指は約束を守るとこみたいだぜ?」
「……なんでですか?」
「あ~、えっとな~、……まちがってないでありますか、軍曹殿?」
立ち膝になっていた中佐が困ったようにこっちを見てくる。ふむ、どうやら彼らも完全には日本文化を知らないようだ。
夕呼はわずかな沈黙の後、それを教えて上げた。
「社。相手の小指と自分の小指を絡ませてね、『指切りげんまん』って言いなさい」
「……ゆびきりげんまん」
「そうね、それで『ウソついたら、戦術機でなーぐる。指切った』って言うのよ」
ちょっ。
「……うそついたら、戦術機でなぐります。ゆびきり、しました」
「うおっ、そいつはコワい! あれか、戦術機ってあの二足歩行の単座式機体だろう!?」
「……はい。あれで、なぐっちゃいます」
「んじゃ、嬢ちゃんにはウソつかないでおくぜ。あとは何を約束してほしい?」
軽く首をかしげて、かなり考えている様子だった。
「……わかりません」
「そうかっ。じゃあ、また今度でいいぜ。この銀河一のイカした美男子、不死身の撃墜王〈エース〉、ポプラン様にいつでも言いなっ、嬢ちゃん」
「……………………社」
ぽつりと少女がつぶやいた。
「私……社霞、です」
視界に映った夕呼が軽く目を開いた。だが次の瞬間には、薄く目を細くし、何かを考えている様子だった。
「そうかい。まっ、よろしくな、“嬢ちゃん”」
「………………」
わずかに……そう本当にわずかに、社は眉を曲げてポプラン中佐を睨んでいるかのように見えた。
「それでは出口までご案内をばっ。出迎えの準備はもうできたようですので」
その言葉に、再び身と気持ちを引き締める。
これほどの大規模な基地で中佐を出迎える。さぞや規律の整った将兵たちが、毅然と列を成していることだろう。
そうして、タラップへと出た瞬間、わたし達を待ちかまえていたのは、
「「「「「「おおおおぉぉぉぉぉーーーっっ」」」」」」」
…………毅然と、整列して。
「美人だ、隊長が言っていたように本当に美女だーっ!」
「イゼルローンへようこそ、地球のご婦人がたっ!!」
「貴女の誕生日は知らないが記念日は知っていますっ! それはこうして出会えた本日だっ!」
「こらこら勝手に剽窃するな、それは俺がしたためておいた言葉だ」
「おいおい、ドライジン、リキュール、シェリー、アブサン。花束は身銭を切って購入してきたか? キャゼルヌ中将の嫌みが飛ぶぞ」
……整、列。
「……ここって一応、軍事施設よね?」
「……………そう思いたいであります」
「……花が、いっぱいです」
いつから私はVIPになったのかしら? いや確かに地球人類初の来客かもしれないけれど、ちょっともてなしが過ぎる。花束を投げないでください。
隣の夕呼もこれには流石に呆れたのか、周囲を見渡して要塞内部を観察していた。
天井は呆れるほど高く、このドッグだけで横浜基地が埋まるんじゃないかというほどの“容積”を占めている。何十隻、何百隻という船が地平の彼方まで見えており、ああ自分は本当に宇宙に来たという実感がこもる。
その向こうの壁にはいくつもの出口があり、そこからランドカーが近づいてくる。ああいう地球にもありそうな機械を見ると安心する。
上部をオープンにさせて、そこには二名の男性が乗っていた。
「陸戦指揮官、およびイゼルローン防御指揮官、ワルター・フォン・シェーンコップ中将であります。これよりフロイラインのエスコート係を務めさせていただきましょう」
お嬢様扱いされた夕呼の目がさらにおもしろいモノを見たようなモノに変わっていく。対する男の目も、なにかこちらを品定めしているかのような不適な目をしていた。……なにかスゴく不穏な火花が二人の間で散っているよーな。
年の頃は三十代、しかし余計な脂肪は全くついておらず、精悍かつ歴戦の不適さを全身ににじませている。立ち居振る舞いにまったく隙は見えない。
――多分……白兵戦をしかけても私は勝てない。
試しに何度かシュミレートしてみたが、その瞬間、片手で組み伏せられているのが脳裏に浮かんだ。
「これはこれは。またずいぶんと、やんちゃな子犬を連れてこられたご様子で」
一瞬こちらを見て、そんな毒をシラッと吐かれた。一瞬、怒りの感情が出てきかけたが、こういった挑発は軍で何度も受けているのだ、今更どうこうない。
――こちらが仕掛けようとしたことも見透かされていたか……。
視線だけでどういう風に攻略しようと思ったかも見抜かれていた。なるほど、中将といっていたが叩き上げの強者らしい。もし一瞬でも殺意を出してしまったら、腰のもので脳天を貫かれてしまっていただろう。
今までとは違い、正真正銘の目付役といったところだ。
「ふーむ、しかし……」
視線を夕呼、まりもに向けた後、まりもの後ろに隠れていた社に目を向ける。
「そちらの未成年はいただけませんな」
「……あらっ? 何がでしょうか、ヘレン?」
「これからお嬢様方を、閣下たちのところまでご案内いたします」
閣下――軍部における高位責任者の敬称。おそらくこのイゼルローン要塞における最高級責任者の存在との対談。これが本当の交渉の始まり。
もちろんそうなるだろうと予想はしていたが、あらためて緊張感が全身に溢れてくる。
「ですが、女性未満には少々刺激の強すぎるお話になりそうでして。あいにく、連れて行くのはご遠慮いただきたいかと」
「………………」
……言語翻訳システムに誤作動はないのだろうか。子ども扱いでなく、女性未満ってなに?
「もちろんお暇をさせないよう、姫君のお相手は、うちの坊やがつとめさせていただきましょう」
同じランドカーに乗っていた一人の青年――いやまだ少年か。身長は180を越えているが、まだあどけなさが残る男性が降りてきた。
「中将、坊やは止めてくださいって」
「ああ、これはすまなかったな。で“坊や”、そちらの子としばらく遊んでやってくれないか」
………イゼルローンとはこんな人たちしかいないのかと、呆れてくる。軍上下の規律とか敬いとかはどうなっているのだろうか。
「そうそう、俺の後継者を名乗るんだったら、男の義務から逃げずに、嬢ちゃんを退屈させないようつき合ってやっとけ」
「……社です」
「あ、僕はユリアン・ミンツといいます。よろしくお願いします」
「……」
社は夕呼を見やった。その夕呼もまた僅かな逡巡の後、ほほえみを浮かべてこう答えた。
「ええ、よろしいですわ。でも、あまり悪い遊びは教えないとお約束していただけますか、中将」
「それはもちろん。こう見えても坊やは、我が国最高級の紳士たちに薫陶陶冶されましたからな」
まりもから見たらまだまだ少年のミンツ中尉は、ちょっと苦笑していた。さて、彼を教育した者たちとはどんな人だろうか。
…………。教育か。
――ここには学校もあるんだろうか……。
夢の残骸が意識に浮かんでくる。それを振り払い、まりもは夕呼の後に続き、ランドカーへと乗り込む。
5分ほど飛ばしたあたりだろうか、エレベーターに乗り込み、別の階層へと移動していく。
横浜基地でもかなり深い階層まであるが、ここは文字通り桁が違う。直径数十kmという天体の内部だ、数千にも及ぶ階層があることだろう。
――どんな会議場で待っているのかしら。
そうしてエレベーターを降りた先には、本日何度目かに分からない衝撃があった。
「…………まあ、こういう施設も必要よね」
「…………規模が違いすぎるの、もう……慣れました」
森があった。芝があった。空があり、風があり、気候があり、季節があった。半分ほどが人工物だろうが、半分ほどは本物だろう。季節の花の香りがあり、川のせせらぎが聞こえる。ああ、鳥も放し飼いしている。広さが別次元だけれども。
中将が案内していくその先に、白い丸テーブルが見えた。シンプルだが美しいそこに、一人の女性がいた。西洋のスーツ姿を見事に着こなした、ヘイゼルの瞳と金褐色のショートカット姿。
「“議長”、お客人をご案内いたしました」
女性は席から立ち上がり、こちらに向かって一礼をした。
「初めまして、ドクター・コウヅキ。フレデリカ・G〈グリーンヒル〉・ヤンと申します。遠くの星よりのご来訪、心より歓迎いたしますわ」
「こちらこそ招待状をいただき、ありがとうございます、議長。香月夕呼と申しますわ」
「神宮司まりも軍曹であります」
なんとなくだがこの女性……元々は軍関係者なのかも。立ち居振る舞いにあまり隙がない。
「それでは議長。申し訳ありませんが、お話の方をさっそく」
「あっ……いえ、すいません。ちょっとあの人を呼んでこないと……」
視線の先の一隅にあるベンチに、一人の軍人が横になっていた。議長がそばにかけより、何度か呼びかけると、ぼんやりと立ち上がり、こちらにやってきた。
――あの人が……閣下?
姿勢の正しい思慮ありげな老紳士ではない。分厚い筋肉で覆われた大男でもない。冷徹そうな秀才でもなく、白面の貴公子でもない。どれをどう見ても軍人でない。最上の階級どころか、下士官にも見えない。そもそもさっぱり軍服が似合っていない。
例えるなら……学者? 能力はそこそこあり、もうちょっとで助教授の地位を取れそうだけど、政治力の不足のせいで一講師に甘んじていて、しかも、仕事が増えないからまあいいやと思ってそうなタイプ?
「ああ、すいません、お待たせしてしまいました。ヤン・ウェンリーです、よろしく」
ぺこりと頭を下ろすと、ベレー帽が落っこちてしまった。地面から拾い、払ってもう一度かぶりなおす。
今まで出会ってきた中佐や中将たちとは異なり、とても能力があるようには見えない。威圧感や覇気は見えず、しかも挨拶も端的。2秒で自己紹介を終えてしまった。
「ええと、自己紹介を二度させて申し訳ありませんが、貴女がドクター・コウヅキでよろしいでしょうか?」
こくんと夕呼が頷く。これがフェイクで、本当の司令官は別にいるのではないかと訝しんでいるかもしれない。
「それで貴女が技術官の方でよろしかったでしょうか」
「はっ、閣下! 神宮司まりも軍曹で――」
…………。技術官?
「……あの、技術官とは?」
ここでイゼルローン組の視線がドクターの元へと集まった。そして博士の視線が軍曹の元へと向かい、居たたまれたない気持ちになってくる。
「ええと……理論の方は博士にお伝えできますが、実際の軍事技術を学んでもらう方は別に必要ですので」
…………。
「ですので、軍曹には博士とは別に、研修を受けていただきたいと……あの?」
…………。ああ、そういうことだったのね。あの動画の、もう一人までっていうのは、つまり、そういう意味だったのね。
「あの、軍曹、その……あんまり気を落とさないように」
なんでだろうか、長い関係のはずの副司令官よりも、今出会ったばかりの閣下のお言葉の方が胸に染みるのは。
「いえ、これも、任務ですので………!」
一言一挙動を誤れば、即地球人類の存亡に関わりかねないという、あまりにあまりに重すぎる立場な任務に、神宮司まりもは心の中で涙を流し続けるのであった。