「はあ……」
僕は硬い寝台に腰を下ろしたまま、何度目かも分からないため息をついた。
もう、何がなんだかさっぱり分からない。とにかく、知っている顔に会いたくて仕方がなかった。
そのとき、こつん、と廊下の角からパンプスの靴音が聞こえた。
「…………」
背中まで届く長い黒髪。サイドをリボンで纏めた髪型。整った顔立ちに、ピンと背筋の伸びた立ち姿。何故か着ている、糊の利いた白衣。
そして、いつも何かを企んでいるかのような不敵な笑み。
僕は、思わず叫んでいた。
「来ヶ谷さんっ」
「…………」
不思議なことに、来ヶ谷さんは僕の呼びかけには答えず、ただ僕を冷たく見下ろしているだけだった。
「ねえ、これどういうことなの!? 目を覚ましたら町が壊れてて、学校が基地になってて、学校に入ろうとしたらいきなり捕まって……もうわけが分からないよ!」
「……何故、私の名前を知っているんだ? 不審者君」
僕の必死の言葉にも、ただ彼女は静かにこう言っただけだった。
「何故って……同じリトルバスターズの仲間だからに決まってるじゃないか! ほら、さっきだって一緒に皆で海に行こうとしてたでしょ!」
「リトルバスターズ?」
やっと来ヶ谷さんは怪訝そうに眉をひそめ、首を振った。
「知らないな。聞いたこともない」
「そんなっ……!」
ありえない。
リトルバスターズを潰そうとした高宮さんたちに対して、あんなに激怒した来ヶ谷さんが、そのリトルバスターズの名前を忘れているなんて。
「もしかして……また事故があったの?」
僕は恐る恐る尋ねた。
海に向かうバンが、何らかの形で事故に遭い、その影響で来ヶ谷さんが一時的に記憶を失っていること。
そんなありえない憶測が事実であることを願って。
「……すまないが、私にはさっきから君が何を言っているのか分からない」
当然ながら、ばっさりと切り捨てられる。
「繰り返すが、何故私の名前を知っていたんだ?」
「いやだから、さっき説明した通りだよ。からかうのやめてよ、来ヶ谷さん」
「では、そのリトルバスターズとやらについて聞こうか。それは、一体どういう団体なんだ?」
「どういうって言われても……野球チームだよ。まあ、それ以外にもいろいろしたりするけど」
「例えば?」
「ええっと、缶けりとか、新聞紙ちゃんばらとか、肝試しとか、バトルとか、本当にいろいろだよ」
「バトルとは何だ? 決闘をするのか?」
「恭介が決めたルール……観客から役に立たなそうなものをいっぱい投げ込んでもらって、その中から一つ選んで武器にして、戦うんだ。勝った方は、負けた方に自分で好きな称号をつけることが出来るんだよ。そうそう、来ヶ谷さんは物凄く強かったんだ。あの謙吾や真人でも、手も足も出なかったくらいだからね」
説明しながら、改めて変なルールだな、と実感した。
「なるほど」
説明を聞き終わった来ヶ谷さんは、それだけ言い残すと、僕に背を向けてしまう。
僕は慌てて彼女を呼び止めた。
「待ってよ来ヶ谷さん! まだ話したいことがあるんだ!」
僕の叫びは、暗い通路にこだまするだけだった。
◆
さらに数日後。
また来ヶ谷さんは僕のところに現れた。
長い拘留生活に、僕はすっかり精気を失い、どんよりと彼女の顔を見上げる。
そんな僕にはお構いなしに、来ヶ谷さんは淡々と尋ねた。
「ここから出たいか? 不審者君」
「…………」
「イエスか、ノーかで答えたまえ」
「…………イエス」
◆
それから数時間後、よく分からない書類に何枚もサインをさせられ、僕は来ヶ谷さんと基地の中を歩いていた。
宇宙船みたいな通路に、ただ2人分の足音だけがこだまする。
「来ヶ谷さん、どうして急に僕を出してくれたの?」
沈黙に耐えかねて、僕は来ヶ谷さんに尋ねてみる。しかし、返答はなかった。
やがて来ヶ谷さんはある部屋の扉の前で、通行キーのようなものを入力して、中に入った。僕もその後に続く。
執務室のようなところだった。
床を埋め尽くす、分厚い専門書の山。デスクの上にも、書類や書籍が山積みになっている。
中でも目立ったのは、入って右手に掲げられた、国連の旗だった。
「直枝理樹。両親や兄弟はなし。軍歴もなし。ナルコレプシーに罹患していたが、現在では克服している。遠縁の叔父が唯一の親戚で、後見人でもある。年齢は16歳。市内の全寮制の高校に在学中」
デスク前の椅子に腰掛けた来ヶ谷さんが、パソコンを操作して、僕が尋問中に述べた経歴を読み上げた。
「間違いはないか?」
「う、うん。……そんなことより」
「立場が分かっていないようだな、理樹君」
来ヶ谷さんがすっと目を細めて、僕を見据えてくる。
その視線のあまりの冷たさに、僕は思わず身震いした。
「君は今、非常に危うい状況にある。民間人は誰一人住んでいないはずの市街地から、精巧な訓練生用の制服の偽物を着て、基地に押し入ろうとした自称民間人。……率直に言おう。君が今自分の足で立って歩いていられるのは、奇跡に近いことだ――否、生きていること自体が奇跡だ」
「……僕を、どこかの国のスパイか何かだと思ってるの?」
「いや、その身体つきと物腰を見れば分かる。だが、不幸は芽を出す前に摘むべきだ。そうだろう?」
笑みの形を崩さないまま言う。
来ヶ谷さんはいつもこんな調子だった。本気なのか冗談なのか分からないようなことを、さらりと言ってのける。だけど、人を傷つけるようなことは絶対にしなかった。
ただ、今回ばかりは、冗談であることを願うしかなかった。
「さて、次の質問だ。……何故君はこの基地に押し入ろうとした?」
「押し入るって……そんな言い方ないよ。僕はただ、学校の様子がどうなってるかを見たかっただけなんだ。町の方はほとんど壊滅状態だったから……」
「学校? どうしてここに学校があると思ったんだ?」
「どうしてって……僕が通ってた高校がここに建ってたからだよ。他に説明のしようがない」
「なるほど」
そう言って、来ヶ谷さんは黙ってしまう。
時々まばたきをする以外は、身動き一つしない。
どうか、僕をどうやって処分するかを考えてるんじゃないことを祈りながら、僕は彼女が話し出すのを待っていた。
「時に理樹君。君には軍歴がないそうだな」
「う、うん。別に自衛隊とか興味なかったし、それに、前まではナルコレプシーがあったから、軍隊なんか絶対入れないだろうって」
「自衛隊?」
来ヶ谷さんが、オウム返しに言った。
「本土防衛軍か、斯衛軍の間違いではないのか?」
「本土防衛軍? 斯衛軍? 聞いたこともないんだけど……」
「…………」
来ヶ谷さんは、しばらくパソコンのモニターを凝視していたが、やがてまたいつもの不敵な笑みを浮かべた。
「なるほど。では次の質問で最後にするが……逆に、君の方から何か聞きたいことはあるか? 答えられる範囲で答えてやろう」
少し考えて、僕は訊いた。
「……いろいろあるけど、何で学校に変なアンテナとか、番兵みたいな人が立ってたりするの? もしかして、どこかと戦争中とか?」
「戦争中? ……そうだな。確かにそうだ。私たちは今、非常に強大な敵と戦っている」
「ほ、本当に!? どこの国? 中国? 韓国? それとも北朝鮮とか?」
「いや、違う。私たちの敵は、人間ではない」
「じゃあ、何と戦ってるの? まさか、宇宙人とか?」
「よく分かったな。私たちの敵は宇宙人だ」
あまりに真面目な顔をして言うものだから、ノリツッコミが返ってくるものと思って身構えたけど、来ヶ谷さんはいたって真剣だった。
「1958年、米国、探査衛星ヴァイキング1号が火星で生物を発見。しかし、画像送信の直後に通信不能となり、以後何度も探査機を送り込むも、何れも失敗」
「1967年、月にてサクロボスコ事件発生。国際恒久月面基地「プラトー1」の地質探査チームが、サクロボスコクレーターを調査中に、火星の生命体と同種の存在を発見、その後消息を絶つ。異星起源種がBETA:Beings of the Extra Terrestrial origin which is Adversary of human race――『人類に敵対的な地球外起源生命』と命名される」
「1973年4月19日、中国新疆ウイグル自治区喀什《カシュガル》にBETAの着陸ユニットが落下。中国側は戦況の優勢を理由に国連軍の派遣を拒否するも、およそ2週間後に確認された新種BETA、通称光線属腫の登場により、一気に劣勢へと追い込まれ、甲1号目標、通称オリジナルハイヴの建設を許す」
いつの間にか来ヶ谷さんの背後に、プロジェクターで世界地図の画像が投影された。
中国のあたりに、赤い光点が浮かんでおり、その下に小さくH1と入力されている。
まるで教科書を読み上げるように、淡々と来ヶ谷さんは続けた。
「1974年、マシュハドハイヴ建設開始。ちなみに、この時点で世界人口は30パーセント減少している」
「1975年、ウラリスクハイヴ建設開始」
「1976年、ヴェリスクハイヴ建設開始」
「同年、ミンスクハイヴ建設開始」
「1977年、エキバストゥズハイヴ建設開始」
「1978年、スルグートハイヴ建設開始」
「1981年、ロヴァニエミハイヴ建設開始」
「1984年、アンバールハイヴ建設開始」
「同年、ノギンスクハイヴ建設開始」
「1985年、ブダペストハイヴ建設開始」
「1986年、リヨンハイヴ建設開始」
「1990年、ボパールハイヴ建設開始」
「1992年、敦煌《トンコウ》ハイヴ建設開始」
「同年、クラスノヤルスクハイヴ建設開始」
「1993年、重慶ハイヴ建設開始」
来ヶ谷さんのセリフに同調して、世界地図にポツポツと同じような赤い点が浮かび、その地域周辺が同色に塗り潰されていく。
「ちなみに、2001年現在での世界人口は十数億人だと言われている。見ての通り、人類はBETAに対して圧倒的に劣勢だ。このままでは、もう10年持たないだろうな」
「…………」
あまりのことに、僕は返事も出来ずにただ世界地図を眺めていた。
宇宙人と戦争? 世界人口が十数億人? 10年持たない?
衝撃的な事実に、全く頭がついていかなかった。
「……その赤く塗りつぶされたエリアって」
「無論、BETAの支配領域ということだが」
「……おかしいよ、こんなこと」
「おかしい? 何がだ」
「だって、だって……ヨーロッパとユーラシア大陸が、ほぼ全部真っ赤じゃないか! おかしいよ、こんなことってないよ!」
「おかしい? 私に言わせれば、こんなことも知らない君の方がよほどおかしいな」
「そうだ、恭介でしょ!? また恭介が世界を作って、僕を閉じこめて、新しいミッションを始めたんだ、そうでしょ!?」
「……なあ、理樹君」
喚き散らす僕に、来ヶ谷さんはいっそ穏やかに告げた。
「この現実が、君の友達が作った夢や幻だと言うのなら、今すぐそいつにこう伝えてくれ。――――草の根分けても探し出して殺してやる、とな」
「…………っ」
「分かったか? 今の私には、君の現実逃避に付き合っている暇はない。現状を認識しろ。それがまず第一だ」
そう言われても、まだ僕には信じられなかった。いや、信じたくなかった。
僕の住む世界が、こんな絶望のただ中に叩き落とされているだなんて。
「では、最後の質問をしよう。君は兵隊になるつもりはあるか?」
「え?」
「厳密には、ここの基地の訓練兵になるつもりはあるかということだ。現在、君は何の軍事訓練も受けていないし、特別何か技術を持っているわけでもない。つまり、ただいるだけで穀潰し以外の――いや、私が若い男をたらしこんでいるという不愉快な噂が立つとすれば、厄介者以外の何者でもないわけだ。ここまでは理解出来るな?」
「う、うん……」
「となれば、君は若者として、然るべき訓練を受けて人類の盾であり、剣であるところの兵士にならなければならない。だが、どこの馬の骨とも知れない若造が、今の今まで徴兵を免れていたとなれば、帝国軍への入隊は絶望的だ。ならば、私の目の行き届くこの国連軍横浜基地にて従軍する方が、君にとっても都合がいいだろう」
「は、はあ」
「別に君が生産者として、アメリカあたりで農業に携わりたいというのは自由だ。だが君はパスポートどころか、免許証すら持っていない。そもそも、民間向けの船便に乗れる金もないだろうしな」
「……それって、結局イエスって言うしかないんじゃ」
「望むならここのMPに射殺されるという道もある。選択肢が2つもあるなんて、君は幸せ者だな」
「……いや、イエス。イエスだよ。僕はここで兵士になる。それでいいんだよね?」
「さあな。もしかしたら、今すぐここで死んでおいた方がいいかもしれん」
「…………」
「冗談だ。実を言うと、もう入隊手続きは済んでいる。訓練は明日からだから、今日のところはゆっくりしておくといい。ああそうそう、彩乃(あやの)に挨拶しておいた方がいいかもな。あいつは厳しいぞ」
「は、はあ」
「ちょうどいい。しばらくあいつに会ってなかったからな。久しぶりにからかいに行くとしよう。ついてきたまえ」
「う、うんっ!」
デスクに置かれた、学生証みたいなカードを受け取って、僕は執務室を出た。
◆
基地の中は、ほとんど僕たちの学校と同じだった。
食堂を通って、渡り廊下から直接外に出ると、グラウンドが見えた。何人かの軍服姿の女の子たちが、ボール遊びをしているのが見えた。
と、ものの弾みでボールがこちらに向かって飛んできた。
「っと」
来ヶ谷さんに当たりそうだったところを何とか反応して、ボールをキャッチする。微動だにしなかったのは、僕が取ることを見越してたのだろうか。
慌てた様子で、ボール遊びをしていた女の子の1人がこちらに駆けて来た。
「た、大変申し訳ございません。お怪我はありませんでしょうか」
「いや、特に何も。ああ、そうだ。紹介しよう、彼女は君が所属する207B分隊の――」
「…………」
来ヶ谷さんの言葉は、全く耳に入っていなかった。
僕は息をするのを忘れて、彼女の顔を見つめていた。
猫を思わせる、ややつり上がった目尻。
無愛想な口元。
ポニーテールに結い上げられた髪の根本には、鈴《すず》がついたヘアゴム。
「――――鈴《りん》っ!」
かつて、『何かが起こった世界』で、ともに奇跡を起こした少女。
棗鈴が、そこに立っていた。
まことに勝手ながら、あーちゃん先輩の本名を『千場彩乃《せんばあやの》』と設定させていただきました。
年号羅列の部分は、原作が手元に来次第修正していくつもりです。