1991年12月5日 帝国大学隔離区画 執務室「なにか希望はあるかしら?」「そう言われても、こちらにはカードがありませんよ。夕呼先生が具体的になにを望むのかも知りません」 とんでもないカードを数枚隠し持ってるくせに、武はしれっと言ってのけるが、夕呼は一度も実験も検査もしない事で、武に望み――弱点――を見せていない。武が実は知っているのは、未来の知識があるからで、夕呼の責ではない。科学者として最高の実験体を前にしての自制。天才だからと言うだけでは説明の付かない、夕呼が後天的に手に入れた精神力という名の力だ。 ただし、夕呼とて武との会話がこれほど楽しくなければ、実験の誘惑に打ち勝てたかどうか、自分でも分からなかった。ちなみに2001年は事情が違う。検証段階の現在こそ喉から手が出るほど実験データが欲しいのだ。そして2001年の夕呼が自制が効かない子供のように振舞っていたのは、単純に効率的なストレス解消方としてだ。はしゃぐ夕呼を後ろから見つめる冷めた夕呼が、ストレスの減少率を計算していたぐらいである。「また、話が早すぎるのよ。言うだけ言ってくれても良いじゃないっ」 怒ったふりも年齢が若いからか、ちょっとかわいい。「そう言われましても、自明の事なので」「仕方ないわね。あたしからの条件を言うわ」 夕呼はふざけた雰囲気は消し真面目な顔になる1:因果律量子論を含めて並列世界の存在を明かす事を禁ず。2:『皆琉神威の鍔』は会談終了まで夕呼の執務室に保管する。「破った場合はどうします?」「その場で有り得ないと論破するわ」「科学者としての信頼度。因果律量子論の知識。勝ち目がありませんね」「そして、その場合はペナルティで鍔を没収」「それぐらいは、当然でしょうね」「あんたが十日も考えれば、並行世界の話なしで忠告する方法ぐらい思いつくでしょ?」「まあ、可能です」「それをあたしの方でも補強して、お姫様にある程度は信じさせてあげるわ」「なるほど」「それに向こうは、あんたに興味を持ってるわよ」「へっ?」 あまりに驚いたので、武は間抜け面をさらしてしまう。「当然でしょ。自分と同い年の人間が、天才たるあたしの助手をしてるのよ。表面上だけでもあんたを知って、興味を持たない奴がいたら会ってみたいわ。誕生日が同じなのもある。それに向こうが興味を持ってくれたのでもなければ、次代の将軍たる煌武院悠陽様との謁見に、助手を連れて行けるもんですか」 夕呼は最大の計算外で不確定要素だと、心の中で愚痴った。それと夕呼が無理をすれば連れて行けたので『無理をしないで連れて行けるもんですか』が真実。帝国政府は夕呼に近づきたくてしょうがないが、夕呼は国連招聘のために距離を取りたくて仕方がない。この状況は次代の将軍にすら影響を与える。(赤い糸とか縁があるっての? 自説で説明が付きそうなのが、またムカツクわ)「はぁ、そうなんですか」 武はまだ帰ってきていない。「そういうわけだから、これからも会えるかも知れないし、焦る必要はないのよ」「なるほど」 夕呼が重要な事を言った瞬間に、武は自失状態から一瞬で帰還した。(そっちに持っていくのか、さすがは夕呼先生だ。『一緒なら何度も会える』か、リカバーが上手い)「さて、十日後までに忠告を考えておきなさいね。おやすみなさい」「おやすみなさい」1991年12月6日 帝国大学 教室 教室の隅に武が座っていて、となりにやよいが座り、周りの席は空いている。しかし、よく見ると教室全体の人口は明らかに通常より多い。(なるほど、夕呼先生の言う通りだったか、怖くても興味はあるのな) やよいは、この状態をなんとかしたいようだが、武はこの状態こそ最適だと思っている。武が怖がられていない場合を想定して見れば良い。武は大学にいるはずのない八歳だ、容姿はまあまあ整ってる。士官学校の門兵と即座にうちとけるほど如才もない。(つまり『かわい~』と言うしか脳のない女性が寄って来て、それ目当てでナンパ男がオレの友達の面をして寄って来る。と、年齢を越えた友情とかに弱い女性にアピールするにはもってこいだ。ここの奴らは徴兵免除を継続したいから、本当に結婚願望が強い。多産を奨励するなら、数年以内に子供とかも条件にしたらどうだろう。親失格でも訓練校で育て直して貰えるから安心だ) この玉石混合の中から、玉を見つけるメリットと時間消費のデメリットを検討してみた。(そもそも、こいつらが使えるようになるまで何年かかる?政治家志望なら政務官まで20年、官僚志望でも局長クラスまで10年。学者志望なら研究室を貰えてない時点で先が見えてる。そして研究室棟に行く許可は貰ってない。やよいさんのように将来確実の上に現在も有用ならともかく) 武は、外から見て暇そうな時が一番忙しい類の人間になってる。つまり思考を最優先してる。今は一分一秒が大事な時期だ。(それにしても平均が低すぎる。実力で合格したか怪しい物だ。つまり不当な徴兵免除が蔓延しているわけか、ありがたい面もあるな。政敵を潰すのが楽だ。政治家どもはお互い様だから追求しないのだろう) と、ここまで考えたところで、武は榊首相の事を思い出した。榊首相に失脚されては困る。(いや、もしかするとまともな思考力のある人間は、帝国と人類の命数が分かって志願するから、入試のレベルが無茶苦茶に下がってるんじゃないか?それなら不当とは言えないな。入学者の枠を狭くすれば済む事だ) どうも武の精神は軍人だからか、文民への評価が辛いようだ。それとも周りにいた文民が全て、極端に優秀だったからだろうか、人類有数の彼女達を基準にすれば、帝国大学ですら白稜以下に見える。1991年12月12日 帝国大学 廊下 武が廊下を歩いていると、やよいが女性二人と話してる。要するに二人がやよいを説得しようとしてる。武は気まずくなっても意味がないので立ち去った。(実際問題、オレはやよいさんを利用しようとしか思ってないわけで、友人なら忠告するのは正しい。しかし、なぜ二対一で廊下でやるかね) 人間と言うのは多対一になった時点で無意識に心理障壁を張る。場所も相手の部屋ならまだしも廊下。周囲に聞こえよがしの説得が成功するわけがない。とにかく説得だけを優先するなら相手に有利な状況が最適。故事で囚われた英雄が敵の武将を説得して助かる物が典型的な例。単身で乗り込んでの説得とかもだ。 早い話、説得とは相手の隙を突いて、洗脳する事に他ならない。そして不利な状況で心理的間隙を晒す人間はいない。説得と脅迫を混同してる人間がなんと多い事か、脅迫とは交渉の一形態で説得より人道的な物だ。もちろん、武と夕呼のように説得と脅迫が多重螺旋構造を織り成してる場合は、全く別次元になる。 それにしても、あの二人にしてもここの生徒達にしても、例えば武が英雄と言われるようになれば、同じ教室で勉強したと周囲に自慢する事だろう。1991年12月15日 京都 煌武院の屋敷 応接間――御二方とも、よくいらっしゃいました。