―――ピンポーン、ピンポーン。
昼下がり、来客を示すベルがで響く。
その家の一階に、人の気配はなかった。 誰かいる様子もなく、動くものもない。
……もう一度、ベルが鳴った。
二階、ロケットのポスターが飾られた、いかにも男の子という部屋。
ハンガーには青いブレザーがかかっており、ベッドは堆く盛りあがっている。
そしてベルが鳴る度に、その固まりがもぞもぞと動く。
「たーけーるーちゃ~~ん!
御飯作りに来たよ~!」
大きな黄色いリボンを揺らしながら、明るい色のカットソーワンピースにパーカーを羽織った少女。
彼女はベルを何回もならしつつ、声を上げた。
……その少女は『鑑純夏』だった。 今年で15歳、中学三年生となる。
純夏は今日、両親が出掛けていない武のために、食事を作る約束をしていたのだった。
「タケルちゃーん?」
何回押しても反応がない。 純夏は首を傾げながら、武の部屋の方を見上げた。
「まだ寝てるのかなー。
よーし!」
純夏は自分の家へと駆け戻る。
ただいまーと軽く声をかけ、サンダルを脱いで手に持つと、二階へ急いで上がっていった。
「まったく、タケルちゃんっていっつも約束を忘れるんだから……」
自分の部屋へと戻ってくる。 純夏は一目散に自分の部屋の窓を開けた。
すると、もう一枚窓が見えた。 不用心にも、鍵はされていないようだ。
「やっぱり窓をちゃんとしめてない……よーし」
純夏はクローゼットから『バールのようなもの』を取り出す。
以前、学校の技術の時間に使ったまま、部屋に置いていたのだった。
主に今回のようなときのために。
「よい……しょっと」
腕を伸ばして、バールのようなもので武の部屋の窓を開ける。
「……やっぱり寝てる……」
窓を開けると、武がグカーと大口を開けて寝ているのが見えた。
ふと、純夏の額に血管が浮き出る。 約束をしたというのに、こんなお気楽に寝ている武に殺意が湧く。
さてどうしてくれようか……と思いつつ、純夏は自分の目的とお仕置きの両方を達成出来る方法を思いついた。
純夏はバールのようなものを自分の部屋に放り投げ、部屋の端へと向かう。
そして、ダッ!と勢いを付けて、
「タケルちゃん! 起きろーーー!」
と言いながら、武の部屋へ向かって、跳んだ。
(ガッ!)
「……はれ?」
純夏の計算では、完璧な角度で跳んだはずだった。
自分の部屋と武の部屋の窓、両方をキレイに飛び越えてあちら側に降りられるはずだった。
だが……こういうときの純夏の計算ほど、当てにならないものはない。
「ひ、ひぇ!?」
片足が、部屋の窓に当たってしまったのである。
つっかえてしまった純夏は勢いを失い、窓と窓の間に吸い込まれるように落ちこんでいく。
「ひえええ!」
慌てて、全力で真っ直ぐに手を伸ばす。
ガシッと掴めたのは、白銀家の窓縁だ。
純夏は今、自分の部屋と武の家とを結ぶ、『橋』のような形になっていた。
「た、タケルちゃーん! 助けてーー!
タケルちゃーーん!!」
足は自分の部屋の窓、手は武の部屋の窓に。
純夏は体が落ちないようしっかりと支えている。
だが、彼女の細い腕では自分の体をずっと支えることは出来ない。
少しずつ少しずつ、腕と足に痺れが走り始めた。
「た、た、タケルちゃーーん!!
起きて私を助けてーーー!! うわあーーーん!!」
「……んあ」
純夏の叫びが、ようやく武の意識に届いたらしい。
武は目をゆっくりと開けていき、ファ~とあくびをした。
「タケルちゃーーん!」
「ん?」
上半身を起こし、声の聞こえた左を見る。
―――なんで窓が開いている?
と、武は首を傾げた。
「た、た、タケルちゃん! こっちだよ、私だよぉ!」
「あ?」
ゆっくりと窓から下を見た。
すると、見慣れた幼馴染みである純夏の顔が、大粒の涙を流した表情でそこにはあった。
「…………」
「た、タケルちゃん。 助けて~~」
涙顔で助けを求める純夏。 武は目をゴシゴシとさせながら、無表情にそれを眺めている。
そして、一言だけ呟いた。
「……夢か」
「ちょっ!? ち、違うよーー! 夢じゃないよーー!!」
「おやすみ」
武の顔が純夏の視界から消える。 どうやら再び横になったようだ。
「う、うわああーーん!
タケルちゃん、お願いだから起きてえええええ!
私は現実だよーーー! タケルちゃーーーん!」
……それから5分間、武がようやく覚醒し純夏を助けるまで、彼女はそのままであったという。
「(ぱくぱく)…………」
「(ブツブツ)まったく……タケルちゃんってば本当に気が利かないんだから……」
一階のリビング。 武と純夏は黙々とチャーハンをほおばっていた。
純夏は「怒」という表情を全力で表現し、全力で御飯をかき込んでいる。
一方、武の顔面には大きく殴られた跡が見えた。
この抉られ方と威力から、純夏の必殺技「ドリル・ミルキィ・パンチ」であると推測出来る。
「ていうかよ……お前が馬鹿なことをしたのが原因だろう、と」
「タケルちゃんが約束を忘れてるのが悪いんだよー!
おばさん達がいないから、お昼は御飯作りに行くっていったじゃないのさ!」
キッと睨み付けられる。 武はビビッたのか、思わず視線をずらした。
「へえへえ、俺が悪かったですよ」
これ以上、純夏を怒らせてもしょうがない……武はそう思い、みそ汁を口に運んだ。
「……分かったらいいよ。
じゃあ、後はよろしくね」
食べ終え、純夏は席を立つ。
そしてリビングを出て行こうとするが、ふと思いたったように立ち止まった。
「タケルちゃん、後片付け、お願いね。
私は二階で本読んでるから」
「はあ!? なんで俺が」
武が文句を言おうとすると、純夏は右拳に「ハ~」と息を吹きかけた。
『ドリル・ミルキィ・パンチ』……この言葉を思い浮かべた武は、それ以上文句を言えなくなった。
「これでさっきの件はなかったことにしてあげるから。
じゃね」
「あ、こらっ! 純夏!
……ったく」
二階へと軽快に上がっていく純夏の足音。
その音が遠くなっていくにつれ、自分に厄介事を押し付けた純夏への苛立ちが高まっていき、
そして武は、そのイライラを解消するかのごとく、残ったチャーハンをガーっ!と一気にかき込んだ。
「……なんで俺、皿なんかを洗ってるんだ……」
純夏に言われたとおり、カチャカチャとさっきまで使っていた皿を洗う。
だがその表情は、イヤだな~というのが露骨に現れていた。
「早く部屋に戻って、漫画でも読みたい」……これが、武の正直な心情だった。
そして今回の元凶である純夏を思いだし、武は眉間に皺を寄せた。
「純夏のやつ……幼馴染みだからって、なんでこう干渉してくるかね。
もう少し寝ていたかったのによ……ふぁ」
大声で無理矢理起こされたか、それとも昼食で腹が満ちたためか、眠気が少し襲ってくる。
武は大きく欠伸をしながら、蛇口を捻り水道を止めた。
「さて」
横にかけてあったフキンを取り、洗い終わった皿を拭き、食器棚へと置く。
……「だるい」と思っているのだろう。 拭き方がとても雑で、皿の至る所に水滴がなおもついている。
「はあ、ったく。
なんで俺がこんなことを……」
再び純夏の顔が浮かぶ。 イラッとし、皿を持つ手に力が入る。
……が、すぐに冷静となった。 そればかりか武の顔から表情が消え、皿を拭く手も止まった。
手に持っている皿が、先ほど純夏が使っていたものだと気づいたからだ。
彼女はこの食器が好きで、白銀家で食事をするときはいつもこれを使う。
そして武は、横に置いたフライパンの方へと目をやった。
すると、先ほどフライパンを器用に用い、チャーハンを作る純夏の姿が思い出されていく。
救出が遅かったことを愚痴りながらも、テキパキとこなす様……武にとっては、それが当たり前だ。
武のために料理を作る、例え愚痴や文句を言っていても、自分のためにちゃんとやってくれる。
それが武にとっての『鑑純夏』だった。 今まで、何の疑問も持たずにそれを見続けていた。
―――だが今日の武は、そういう感覚で純夏を見ることが出来ないでいた。
武は先日、中学校で友人達から言われたことを思い出す。
『え! 武と鑑って付き合ってるんじゃないの!?』
『お弁当とか作ってもらうって、普通じゃねえだろ』
『お前はその気がなくても、あっちは本気かもしれねえぞ』
『中学卒業したらバラバラになるかもしれないし、こっちから告白したらどうだ?』
「……バッカじゃねえの」
友人達の勝手な憶測に、そしてそれを信じかけている自分に、何故か腹が立つ。
「純夏は俺をそんな風には見ていない、単なる幼馴染みだ」と胸の中で反芻する。
武はなぜ自分がそこまで“幼馴染み”にこだわるのか、このとき考えようとはしなかった。
というより、考えるわけにはいかなかったのだろう。 もし自分がこだわっているということに気づいてしまえば、それは純夏を
『意識している』ということと同義だからだ。
武は皿を拭きながら、出来るだけ純夏のことを考えないようにした。
「……………………ったく!」
だが、無駄だった。 考えないように、考えないようにとすればするほど、純夏のことが頭に浮かんでくる。
彼女が自分へと微笑みかけている様が、「自分を好いているからだ」と思えてならない。
そしてそう思う度に、武の中に罪悪感、だろうか? 何か胸を締め付ける感覚が浮かんでくる。
純夏は自分を見ていない、自分も彼女をそのようには思っていない、と強迫にも近い意識があふれ、武を苦しめる。
それなのに純夏をそのう見てしまいかける自分が、腹立たしくて情けなくて、悔しいのだ。
なぜ自分がそう思ってしまうのか、正体も掴めぬままに掴めないが故に。
武は自分の心が、“幼馴染み”である純夏を裏切っているようで、イヤなのだ……。
―――皿洗いを終え、武は二階へ行くために階段を上がっていく。
だが、そのスピードはゆっくりだ。
『え! 武と鑑って付き合ってるんじゃないの!?』
『お前はその気がなくても、あっちは本気かもしれねえぞ』
何度この言葉が脳裏によぎっただろう。
武は歩みを止め、フーッと大きく息を吐いた。
「……だから、そんなんじゃねえんだって……
俺と純夏は……ずっと一緒だった、幼馴染みなんだよ……」
武は思う。 仮に純夏が自分のことを好きだったとして、何がどうなるというのだ、と。
今さらあいつとの関係は変わらない、変えられない。 10年近く、ずっとそうしてきたのだ。
「だから……」と、もう一度大きく息を吐き出し、武は呟いた。
「だから、そんなに気にするんじゃねえよ」
そして武は部屋のドアの前に立つ。 向こうには純夏が、漫画でも読んでいるのだろう。
いつものように過ごそう、そうすれば純夏や自分が意識し合っていないということがはっきりする……と、武は考える。
そしてドアノブを持ち、一気にドアを開いた。
「皿洗い、終わったぜ。 ついでに棚になおしてき……た」
「……ふえっ?」
ドアが開かれた瞬間、部屋の空気が一気に切り替わった。
床の上に座った純夏が、ギョッと武の方を見上げている。
彼女が床に拡げ見ていたのは……武が机の奥に隠していた、男子中学生ならば必ずと言っていいほど持っているだろうアイテム、
―――いわゆるエロ本が、そこにはあった。
しかもそれは友人から借りた、普通手に入らないほどエロイものだった。
「…………」
「…………あ、あううぅ、あうあぅ」
互いに視線を交わらせる武と純夏。 同じ姿勢、同じ表情のまま、動こうとしない。
……いや、正確には武には動きがある。 はじめは感じられないほどの小さい震えが起こり、それが段々と大きくなると、
武は室内へ、大きく一歩を踏み出した。
「純夏あああぁぁ!!」
「うわぁ!? 私はただ見つけただけだよー!」
床に拡げられたエロ本を、顔を真っ赤にした武が慌てて拾い上げる。
「お、おまっ、お前!
何、勝手に人の部屋あさってやがる!?」
「な、なんか面白い漫画とかないかな~って探したんだよー!
ていうかタケルちゃん、何なのそれ!? スケベだよ、いけないんだよ!」
純夏もエロ本をガシッと握り、強く引っ張った。
「何すんだ!?」
「捨ーてーるーの! こんな本読んでたら、タケルちゃんが変態になっちゃうよー!
だから、渡して!」
「それはまずい」と武は思う。 この本はそもそも、友人から借りたものだ。
自分のものではない以上、武は強力にそれを否定せざるを得なかった。
「馬鹿! これはダチのなんだよ!
俺のじゃねえから勝手に捨てるわけにはいかねえんだ!」
「そんなの関係ないよー! 捨てなきゃダメなんだよー!」
「だーもう! 放せ、純夏ーーー!」
「ヤーダーーー!」
武と純夏は、互いに全力で引っ張り合う。
ぐぐぐ!と歯を食いしばって引っ張る武と、
む~~っ!と顔を蛸のように真っ赤にして引っ張る純夏。
当然、二人に引っ張られたエロ本はその力に耐えきれず、ピリッと小さく裂かれる音を立てた。
「やべっ!?」
その音を聞いた武は思わず本を放してしまう。
さて、互いに引っ張り合うことで均衡していたのに、一方の力が突然消えればどうなるか。
……答えは明白だった。
「うえぇ!?」
武が本を放したことで、全力で引っ張っていた純夏はそのまま後ろへと倒れかける。
それを見た武は、
「あぶねえ!」
と、手を伸ばした。
純夏も、武へ助けを求めるように必死に手を向ける。
そして武の右手と純夏の左手が、ギュッと重なった。
「どわっ!?」「きゃっ!?」
だが、武は踏ん張ることが出来なかった。 慌てて手を伸ばしたため、体が前屈みになっていたのだ。
そのまま倒れる純夏と共に、武も前方へとバランスが崩れ、そして、
二人はそのまま重なるように、武のベッドへと倒れ込んだ。
「…………」
「…………」
純夏の体の上に、覆い被さる姿勢となった武。
彼の目の前にはベッドの真っ白なシーツと、純夏の赤い髪しか見えない。
だが他の感覚が、純夏の存在を強く意識させた。
Tシャツ越しに感じる、純夏の体温。 男のものとは明らかに違う、柔らかな質感。
彼女が呼吸するたび、強く押し付けられる女性のふくらみ。
武の触感はこれ以上ないと言うほど、純夏の存在をしつこく、細かく、彼に報せ続けた。
次に感じられたのは、純夏の匂いだ。
当然、こんな近くまで迫ったことはない。 純夏の匂いなど、知るわけがない。
それなのに武は、何故か「純夏の匂いがする」と思ってしまう。
呼吸するたびに鼻孔をくすぐる、純夏の髪の匂い。 それを感じるたびに、武の鼓動がどんどん高まってくる。
「こんな近くに純夏がいる」と、強く考えてしまって。
「……タケルちゃん、重いよ……」
「!!??」
ハッと純夏の声で我に返る。
武は、慌てて上半身を上げ、純夏の顔を見た。
耳まで真っ赤に染まった、彼女の顔。 少し涙目なのに武は気づく。
だが、イヤそうには見えなかった。 こうして手と手を重ね合い、じっと見つめ合う行為を、拒否しているようには見えなかった。
「…………」
「…………」
武は自分の呼吸が、段々と荒くなっていくのを感じる。 鼻だけでは追いつかず、口を開けて呼吸を行う。
そして純夏がそのことに気づかないように、息を必死に抑えようとした。
―――それは、彼女も同じだった。
口を半開きにし、そこから呼吸を行う。 自分を落ち着かせようと、深呼吸のように深く静かに空気を吸い、吐く。
そうして時々震える彼女の唇が、武にはとても艶っぽく見えた。
「…………」
「…………」
武の視線が、顔から段々と下がっていく。
純夏の長くて細い首が、妙に色っぽく見える。 この曲線に指を這わせてみたい、という感覚に囚われる。
そこから狭い肩に移る。 ワンピースの肩紐しかなく、白い肌が丸見えだ。
ここに口付けをして自分の跡を残したいと、そんな考えが浮かぶ。
もっと下に行くと、明るい水色のワンピースが妙に盛りあがっていた。
呼吸の度に上下する、女性の証明であるその丘を、武は征服してしまいたいと強く感じた。
そうした感覚が浮かぶたびに、鼓動が早まり、体温が上昇するのが分かる。
体中から汗が吹き出し、熱くて堪らない。 いっそ、全部服を脱いでしまいたい。
武は、「それは純夏も同じではないか」、と思った。
紅潮する頬、開いた胸に光る玉色の汗……
それらを見つけたとき、彼は大きく唾を飲み込んだ。
そして再び、友人の言葉が思い出される。
『お前はその気がなくても、あっちは本気かもしれねえぞ』
この言葉が頭に響いたとき、武の中で何かが崩れていく。
―――目の前の『女』は、きっと自分のことを好きなのだ。 だから、問題はないのだ。
彼の中で熱い熱情が体中を走り、もう、何も考えられなくなった。 「ただ欲しい」と、それだけが渦巻く。
そしてゆっくりと、武は自分の唇を、純夏の肌に近づけていった……
「……さっきの本と、同じことするの?」
「!?」
武の動きが止まる。
そして、先ほど純夏と引っ張り合った本のことを思い出した。
「!!??」
途端に、武の顔が真っ赤になる。
『恥ずかしい』と『腹立たしい』という感情が、一気に溢れる。
欲望に支配され、“勘違いしたふり”のまま、『純夏』を貪ろうとした自分が、情けない。
そして叱咤する。 さっき自分は言ったではないか、純夏は単なる『幼馴染み』だ、と。
それなのに俺は何をやっているんだ、と。
「…………」
「あっ……タケル、ちゃん?」
武は体を起こし、重なっていた手を放す。
純夏の左手が、何回か開いたり閉じたりした。 まるで名残惜しそうに。
それに気づかずに武はベッドから離れ、背を向けたまま、床に座り込んだ。
純夏も体を起こし、胸の辺りを手で隠して、武の背をじっと見る。
「タケルちゃん?」
「…………すまん」
武は背を向けたまま、純夏に謝罪の言葉を伝えた。
「え、えっと……あ、あはは!
なんか今の、漫画みたいだったね!
びっくりしちゃったよ~。 もうちょっとでタケルちゃんに~、ふぁんとむを繰り出してた…………か……も」
声が先細りする。 純夏の表情が曇っていき、涙が浮かんでくる。
そして純夏は、
「ごめん。 私、帰るね」
と、急ぐように部屋を出て行った。
……そのとき武は、一度も純夏の方を見ることはなかった。
―――7月7日、雨。
今日は純夏の誕生日である。
七夕という美しい伝説がある日だが、あいにくの雨のため、夜空に星を見つけることは出来なかった。
まるで滝のように、ザーッと音を立ててこぼれる雨。 街灯の光のせいか、ラインを引いて落ちてくる大粒の雫。
武はその中を、傘を差して歩いていた。 手に大きな袋を抱えながら。
いつもなら7月7日は、純夏の家にでも上がって彼女の誕生日を祝ったりしているものだった。
『七夕は必ず雨が降る』と純夏をいじり、彼女からパンチをもらうのが恒例行事だ。
それなのにここ一週間、純夏と碌に口すら聞いていない。
理由は分かっている。 押し倒してしまった“あの日”のこと、だ。
あの日からお互いに何か緊張してしまって、話せていないのだ。
押し倒してしまった本人としては、純夏を傷つけてしまったのではないかと不安で堪らない。
せめて純夏から話しかけてきてくれれば……と、武は待ち続け、今日に至ってしまった。
「…………」
横に、昔よく遊んだ公園が見えた。
武は、純夏ともここで遊んだな、と思った。
あの頃は何も考えなくて良かった。 ただ単に『友達』として、そう接していれば良かった。
ケンカしても次の日には仲直りし、その事実すら忘れて、また遊ぶ。 それが当たり前だった。
―――だけど、もう違う。
武はあの日、気づいたのだ。 純夏は『女』なのだ、と。
そして男と女には、超えてはならないラインがある。 それを超えてしまえば、もう『以前』には戻れない。
だから武は苦しんでいた。 自分はもしかして、そのラインを超えてしまったのではないか、と。
「はあ……やっぱまずかったよな……」
……ふと、雨が降りしきる中、水の跳ねる音が聞こえた。
武はそちらへと目をやった。
「……純夏」
そこにいたのは、傘を差し、浴衣を着た純夏だった。
武は驚いた表情を浮かべるが、純夏は無表情に武を見ている。
「ここにいたんだ、タケルちゃん」
「あ、ああ……」
突然現れた純夏を、武は凝視することが出来なかった。
視線をずらし、横に出来た水たまりを見る。
それは真っ黒な平面をなし、そこに雫が幾つも落ちていった。
「……純夏。
誕生日、おめでとうな」
「…………ありがと」
互いのことを見れない中での声のやり取り。
二人の言葉には何の感慨、気持ちも込められていない。 そのためか、形式的としか思えない。
「タケルちゃん。 一つだけ、聞いて良い?」
「ああ」
武はあいかわらず、純夏の方を見れない。
それなのに、彼女は彼の態度など、どうでもいいように言葉を伝えた。
「タケルちゃん……あのとき、私に何をするつもりだったの?」
「!!」
やはりそれか!と心中で叫ぶ。 グッと袋を握る手に力が入る。
武は、純夏があの日のことを、やはり気にしていたということに確信を持った。
そして彼女の質問に、どう答えたものかと考え始める。
結論は明らかなのだ。 あの日、純夏に言われた言葉、
「……さっきの本と、同じことするの?」
の通りなのだろうと武は思う。
しかしそれを伝えてしまえば、もう後戻りは出来ない。 確実に「ライン」を超えてしまう。
だから苦しい、答えが見つからないのだ。
「気の迷い」や「冗談だった」とか、そんなことで終わらせるわけにもいかない。
それは、彼女をその程度にしか考えていない、軽くしか見ていないと伝えるだけだ。
何より、ここ一週間の沈黙がその言い訳の信憑性をかき消してしまっている。
武は他の理由をつけて、何とか『今までのような関係』に戻れないかと、画策するのだった。
だが、答えなどでない。 一週間悩んで出なかったのだ、今すぐに出るものではない。
「…………」
「……そっか。 何も言ってくれないんだね」
純夏の言葉に、え?と武は顔を上げる。
彼女は、笑っていた。 とても小さく、可愛らしく。
涙を頬に流しながら、純夏は笑っていた。
そして武に背を向けて、
「……ばいばい」
と言うと、純夏は走り始めた。
「純夏!」
それを見た武も純夏を追いかけるために走る。
理由など無い。 追いかけねばならないと、そう思いながら武は駆ける。
「待ってくれ純夏! 俺は、俺は!」
「来ないでよーー! ……って、うきゃっ!?」
慣れない下駄を履いていたためか、純夏は勢いよく前方へと転ぶ。
目の前の水たまりが、ばしゃーっと大きく拡がる。 持っていたピンク色の傘は、道路をころころと動いていた。
「お、おい。 純夏、大丈夫か?」
「来ないで! 来ないでよ!
もう、“前”みたいには戻れないんだから!」
「!?」
武が純夏に駆け寄ると、両腕をブンブンと振り回して、近づかれるのを阻む。
せっかくの浴衣は、泥と雨でびしょびしょになってしまっている。
「タケルちゃん、私を見る目変わったよね?
この一週間、私を避けてたよね?
分かるよ。 私、ずっとタケルちゃんを見てたから」
純夏の声がだんだんと濁っていく。
表情も崩れていき、頬を涙なのか雨なのか、よく分からない筋が落ちる。
「私の勝手な思いこみなのかなって。 あのとき、タケルちゃんに思わせぶりなことを言っちゃったのがいけなかったのかな、って。
ずっと不安だったんだよ。 だから、タケルちゃんに話しかけるのが怖くて……せめて、タケルちゃんから話しかけてきてくれればって。
待ってたんだよ……私、待ってた」
「すみ……か」
―――同じことを、考えていたのか。
武は、純夏が自分と同じ不安を抱えていたことに気づいた。
彼女は彼女で、武に勘違いをさせてしまった……そう思って、声をかけられなかったのだ。
「いつものタケルちゃんなら、絶対、冗談で笑い飛ばすよね。 本気だったら……ううん、それはないけど。
でも、さっきはそんなこと言わなかった。 黙ってた。
それって……それって……」
「そういう女だって、はしたない女だって、思ったからなんでしょ?
私の、ことを……き、きら……嫌いに…………なっ、た……から。
そう、なんだよね? ねえ」
純夏は顔を俯ける。 頬を流れた涙が、水たまりへと落ちていく。
武はそんな彼女の様を、じっと見ていた。 そして、こんな交錯に陥った理由に思い至って、その馬鹿馬鹿しさに腹が立ってくる。
互いに勘違いをしただけではないか。 双方共に相手を傷つけたのではないか、と「自分に対して疑心暗鬼」になり、勝手に混乱しただけだ。
……本当は、前みたいに戻りたかったんじゃないか、と。
「純夏……」
「ひっく……うう、ひっ」
地べたに座り、雨に打たれながら純夏は嗚咽を続けている。
武は一回溜息をつき、彼女の横に自分の傘を立てかけた。
「え……タケルちゃん!?」
「風邪引くぞ」
純夏から離れる武。 大粒の雨が彼を打ち、あっという間に上半身を黒く濡らしていく。
「た、タケルちゃん、傘!」
「俺の傘をお前が使え。 お前の傘を、俺が使う」
そう言って武は、道路に転がっている傘を手に取る。
純夏の小さなピンクの傘は、雨を防ぐのに面積が充分でなく、武の左肩が降られてしまっていた。
にもかかわらず、武はその傘を差して、純夏に近づいていく。
「なあ、純夏。 俺がこの一週間、考えてたことを話してもいいか?」
「…………」
純夏の返答はない。 が、武は構わず話を続けた。
「確かに純夏の言うとおりだ。 いつもの俺なら笑って冗談なんかとばしてさ、きっと有耶無耶にするんだろうな。
でもよ、あのときはなんか混乱してて……何も、言えなかった」
武の脳裏に、
『お前はその気がなくても、あっちは本気かもしれねえぞ』
と再び友人の言葉が思い出される。
これのせいで変に意識してしまったから、何も言えなかったんだと考える。
「それで俺、純夏を傷つけたんじゃないかって思ってさ。
だから、話しかけるのが怖かったんだ……はは、馬鹿だよな、俺。
俺が純夏に、普通に話しかければよかったんだよな。 俺が普通にしてれば、さ」
「…………」
武は横の公園へと視線をずらし、話を続ける。
「この一週間、また以前みたいにって、ずっと思ってた。
お前が起こしに来て、俺がそれを面倒くさく思って、暴力を振るわれる。
そんな感じにさ」
「……私、そんなに暴力的じゃないもん」
「はは、だよな」
純夏の方を一瞥する。 純夏と一瞬だけ目が合ったが、すぐに彼女は視線をずらす。
それを見た武も、公園の方へむき直した。
「……でも私、無理だよ。 前みたいなんて、もう」
「なあ純夏……俺たち、この公園で一緒に遊んだりしたよな。
ずっと、一緒だったよな」
「…………」
「家が隣同士になってから、ずっと一緒だったよな」
「…………」
「幼稚園、小学校、中学校……ずっと一緒だったよな」
「…………」
そして武は、純夏の方へとむき直す。
彼女はやはり俯いたまま、その場に座り込んでいた。
それを見ながら武は、少し声を詰まりかけながらも、彼女に言葉を投げかける。
「俺たち、もう一緒にいられないのか?」
「…………!!」
驚き、純夏は顔を上げる。 悲しそうな武の表情を見て、何か言いたそうに口を開けて、しかし言えなくて。
それから苦しそうな表情を浮かべたと思うと、すぐにまた顔を俯け、ポロポロと、丸い大粒の涙を流し始めた。
「……ぅぅ……ヤダ、ヤダよ……タケルちゃん」
「…………」
「わた、し……ひっく……一緒に、いたい……
タケルちゃんの…………うぅ……側に、いたい……でも」
「それでいいんじゃないか? 純夏」
「!?」
純夏が顔を上げると、武は満面の笑みを浮かべて彼女を見ていた。
とても穏やかで、包み込むような笑顔だという印象を受けた。
「俺もさ、純夏と一緒にいたいんだ。
お前がいない生活なんて、想像出来ないから」
「…………」
「前と同じみたいには、出来ないかもしれない。 でもさ、それでも一緒にいたいと思ってるんだ、俺は。
純夏も俺も、互いに“一緒にいたい”って思ってんのに……一緒にいられないって、おかしくないか?
だから……」
スッ……と、武は純夏へ袋を差し出し、
「だから、『仲直り』だ。
また一緒にいられるために、さ」
言い終えると、その中身を取り出した。
「………ふわあ!
ヒルガオだー!」
それは、植木鉢に埋けられた『ヒルガオ』だった。
ピンク色で、まるで「星」のような模様のある可愛らしい花。
それを見た純夏の顔に、少しずつ明るさが戻っていく。
そして、武を見上げた。
彼女に明るさが戻っていったことを、喜ぶ武の表情。 それが純夏を更に励まし、彼女の胸を叩く。
彼女の顔はくしゃくしゃになっていった。 武を見る目は、温かい涙で一杯だ。
「タケルちゃん……私のこと、嫌いになったんじゃないの?」
「ばーか。 嫌いになったら、“一緒にいたい”なんて思うかよ。
お前が俺を起こしに来なくなったら、学校に遅刻しっぱなしになっちまうし、だから」
「……う、うう、うわあああぁぁぁあん!」
「おわっ!?」
純夏は武に、勢いよく抱きついた。
涙が、さっきよりもたくさん彼女の目からこぼれていく。
しかし今度の涙は、先ほどのように無意味で寂しいものではない。
「タケルちゃんの側にいてもいいんだ」という安心感、それが彼女に涙を流させる。
だから彼女は、今はいっぱい泣きたいと、そう思った。
「…………」
―――仲直りに、「うん」とは言ってくれないんだな。
武は彼女が、了承の答えを返してくれなかったことに、一抹の不安を感じた。
だが、今はそれでいいか、と自分を納得させる。
少なくとも、今は一緒にいられる。 一緒にいられれば、また機会はある。
武はそれを信じながら……いや、確信して、今は純夏をしっかりと抱きしめる。
「……?」
ふと、空を仰ぐ。 いつの間にか雨は、止んでしまっていた。
「雨が……って!? お、おい、純夏!」
「え、何? タケルちゃ……ふわあ!?」
武と純夏は、二人一緒に空を見上げた。
大きな月と、満点の星空……“天の川”が、雲の間からはっきりと見えた。
「わ、私はじめて見たよ!」
「俺だってそうだ!」
『毎年、七夕は雨が降る』
つまり、星空など絶対に見られないのが、武と純夏の常識だった。
それが今日、二人の頭上ではじめて七夕が現実となったのだ。 織り姫と彦星の伝説が。
「わわわ、私、お願いしなきゃ!」
そう言うと、慌てて純夏は武から離れ、パンパンと柏手を打ち、目を閉じた。
「おいおい……それって神社でやるやつだろ」
「タケルちゃんは黙ってて! む~~……織り姫さん、彦星さん……む~~」
真剣に何かを願う彼女を見ながら、武はクスリと笑う。
やっと、いつもの純夏に戻ったと、嬉しいのだ。
「…………ぷっ」
「ん?」
「あ、あはは、あはははは!」
真剣な顔をしていたかと思うと、いきなり大声で純夏が笑い出した。
「ど、どうした?」
「あはは、な、なんかもう、何で落ちこんでたのが分かんなくなっちゃって。
あははは」
「……ぷっ、そ、そうだな。
なんかアレ見てたら、どうでもよくなるよな」
そして武は、もう一度天の川を見る。
彼は素直にその輝きを、キレイだと思った。
そして思う。 雨が降ったおかげで空気中の塵が完全に取り払われ、こんなに星が綺麗に見えるのだ、と。
天の川を妨げていた雨が、星を美しく見せたのだ、と。
「…………」
空を見上げる武を、純夏はじっと見つめていた。
そして彼女は、さきほど武が言ったことで一つだけ違うことがある、と心中で呟いた。
武は言った―――「俺が純夏に、普通に話しかければよかったんだよな」、と。
だがきっと、それではダメだっただろう。
彼女はあの日、武に何をされてもいいと、そう思ったのだ。
本当に好きならば、好きだから、任せてしまってもいいと。
しかし、武はそれをしなかった。
純夏は、自分の気持ちを武に知られてしまったのではないか、そしてその想いを彼が拒んだのではないかと、不安になった。
だから武が、何の気兼ねも無しに話しかけてきたら、それはそれでイヤだったろうと彼女は思う。
自分のことを何も見てくれていないのだと、その証明になってしまうが故に。
でも、実際は違った。
武は純夏のことを考えてくれていた。 彼女にどんな言葉をかければいいか、苦しんでくれていた。
そして今夜、言ってくれたのだ。 「側にいたい」、と。
彼女の気持ちが伝わったのかどうかは分からない。 けれど、少なくとも「側にいる」ことは望まれている。
だから今は……『これから』ではなく、今は……彼女は、その言葉に甘えようと思っている。
「―――タケルちゃん」
「ん?」
「……一緒に、帰ろう?」
「……ああ」
側にいられれば、いつかまた想いを伝える機会はやってくる。 それが叶うかどうかは分からないけども。
だからこそ、今このときを大切にしようと純夏は思う。
あの日のこと、ケンカしたこと、一緒にはじめて天の川を見たこと。
何があっても忘れないようにしようと。
―――そして武と純夏は、大きなお月様と満天の星空を写した水たまりのある道を、二人並んでゆっくりと歩いていく。
そして家に帰った二人は、改めて七夕と彼女の誕生日を祝う。
この一週間の塞いだ気持ちを、一気に解放するかのように。
そのとき、純夏は武に内緒で笹のてっぺんに自分の願いを括り付けた。
『タケルちゃんと、ずっと一緒にいたい』
そして彼女は、再び天の川に向かって手を合わせる。
この願いが叶うように。 自分の想いが届くように。
武のことだけを考えながら、純夏はじっと祈り続けた―――
―――横浜を天の川が祝福していた頃、九州は大雨に見舞われていた。
そこへ、雨に身を隠しながら、醜悪な侵略者達が上陸する。
人々の願いと想いを食い尽くすために。 運命を回すために。
“1998年7月7日”
全ての悲しみは、この日から始まった。