9、「待っています」~Muv-Luv:RedCyclone~
***1987年 6月19日 ソ連領アラスカ タルキートナ国連軍基地 基地司令室***
ザンギエフとユーリーの"実機演習"から一週間。
セラウィクから帰ってきたヴィクトール・ガスパロフ基地司令は執務室で数年ぶりに友人であるミハイル・ザンギエフと再会した。
「久しぶりだなミハイル」
「ああ」
「直接会うのはハバロフスク以来だな。私は国連軍のこんな後方にいるが君の噂だけは相変わらずよく耳にする」
ザンギエフは大佐、ガスパロフは少将だが二人の会話には階級の壁がない。
それは国連軍とソ連軍という垣根が齎した気安さであると同時にガスパロフのザンギエフに対する信頼の表れでもあった。
「オレもちょくちょく貴様の噂を聞く。それで、例の手続きは済んだか?」
「済んでいるとも。あとはミハイル、君がここにサインすれば終わりだ」
朗らかに笑いながらそう言ってガスパロフはデスクから取り出した書類をザンギエフに手渡す。
書類には国連軍の公用語である英語で国連軍タルキートナ基地が備品の譲渡に合意する旨の記述がされており、ソビエト連邦政府が幾つかの付帯条件に加え2100億ルーブルを支払うことでオルタナティヴ計画の産物である"生体部品"を買い取るとされている。
「しかし……今更ながら馬鹿げた話だな。たかだか人工ESP発現体の2体……いや、実質1体だったか。原価2億ルーブルもしない物のために国連にこんな大金を払うとは。君は一体この予算をどこから引っ張ってきたんだ?」
「殆どは先月KGBが逮捕した我が国の政治局長官が米国への脱出資金として不正に貯蓄していたものだ。立場から事件を公にするわけにはいかず、かといって悪戯に官僚どもに使わせるには多すぎる金額だったので宙に浮いていた」
「ふむ、では残りは?」
ザンギエフは黙って懐に手を入れると内ポケットから黒いカード――ソビエト連邦内で使われている電子マネーカードを取り出して見せる。
「なるほど。だがいくら世界的英雄といえどこれだけの散財は厳しいだろう。そもそも、何故それほどあの子供にこだわる?」
「……理由は色々ある。だがその最たる物はオレの直感だ。あの子供はきっと党と祖国奪還を待つ同胞の役に立つ。故に金など惜しくない」
「相変らずの頑固一徹め。それで大抵うまくいくところが羨ましい。……ところで"もう一つの条件"も忘れていないだろうな? 君の要望を通すために私は随分苦労したんだぞ」
いくらホスト国であるソ連が大金を出すと言っても国連――特にアメリカは他国がオルタネイティヴ計画を私物化するのをよしとするはずが無い。
故にザンギエフが払った金額の一部はアメリカの外務省高官や国連の官僚たちを買収するのに使われ、残りの買収を受け付けない人間――特に以前からソ連とオルタネイティブ3の癒着関係を批判していた国連事務次官補のゲンジョウサイ・タマセを中心としたグループを説得するためにこの国連軍少将はこの一週間殆ど寝ずにアラスカとアメリカ中を渡り歩いていた。
「……わかっている。議会にいる私の"友人"に頼んで党のポストを用意させた。あと一週間もすればお前が指名した通り、同志ヴァシチェンコはしかるべき役職を得るはずだ」
「素晴らしい! これで国防省とKGBへのおおよその根回しは完成した。あとはこのオルタネイティヴ計画を成功させれば、私は晴れて党中央委員会入りだ」
「ヴィクトールよ。お前は党に入って何をするつもりだ?」
ソビエトの中央委員会とは民主主義国家で言う国会のようなものだ。そこは国家の最高意志決定機関であり未だ外国人が参加できたためしはない。
「何を、とはくだらないことを聞くのだな。私が望むのは真の公正と平等を体現した国家だ。だが社会主義化したソ連は外からでは変えられん。ならば中央に入ろうというのは当たり前の考えではないか」
「そうか……お前は変わったな」
「私が? そうかな?」
「ああ。以前の――チェコ動乱で過激派や腐敗した政府を相手取っていた頃のお前ならこんな回りくどい手は使わなかっただろう」
チェコ動乱。
1978年に発動されたパレオロゴス作戦の失敗によって起こった歴史上二度目の"プラハの春"である。
当時のチェコはチェコスロヴァキア共産党政府つまり事実上ソビエト連邦の支配下に置かれており東側陣営として東ドイツやフィンランドなどの東欧国家と共にワルシャワ条約機構の一員としてBETA戦線を支えていた。だがパレオロゴス作戦以降、BETAはユーラシア北西部で猛攻を開始、頼るべき盟主であるソ連は広大な領地の東西で分けられ支援の手は途絶えてしまう。
東からは間もなく押し寄せるであろうBETAの波、最悪の場合海を隔てたイギリスや合衆国、それにアフリカに退避できる西側諸国と違い単なるソ連の衛星国家でしかないチェコには逃げ場が無い。
この極限状況においてチェコスロヴァキア政府はまったく突然にワルシャワ条約機構からの脱退とソ連の管理下を離れて自由主義経済への転換を宣言した。それは一部国民の意志もあったがほとんどは国家を実質的に取り仕切っていた共産党の幹部達の暴走から行われたことである。
だがそんな独断の結果、後方支援を担っていた工業国家の突然の撤退は東ヨーロッパでBETAと戦っていたワルシャワ条約機構に少なくない被害を与え、西側諸国も何の相談も条件も無く勝手にBETAとの戦闘を放棄したチェコスロヴェキアを公式に非難するなど諸外国からの政策に対する反応は最悪と言えるものであった。
また国内でも準備期間の無い国家改革に選挙法や経済法の変更などが間に合うはずも無く、組織体制や官僚や政治家の意識は強権的だった社会主義国家であった頃のまま。しかも自由主義への転換によって長年チェコ人から受けていた民族差別や貧しさから解放されるはずだった少数民族スロヴァキア人やハンガリー人はそのねじれを解消するために今まで以上の重税や差別に晒されることになる。
「あの頃か……そうだったな。とにかく恐ろしい時代だった。我が国はBETAの脅威に加え、外からはソビエトとアメリカから外交圧力、私の住んでいた田舎町でも夜になれば血に飢えたスロバキア人やモラヴィア人が我々チェコ人を襲おうと外をうろついてた。……尤も、その逆の場面も何度も目撃したがね。ともあれ、当時はまだ守るべき祖国があった。滅びは確実だったが同胞の名誉と地位を守るためなら私はどんな手でも使っていただろう」
そして1980年に入り中欧にまでBETAの足音が近づくとチェコスロバキアで加熱され続けていた民族問題、経済格差、外交的軍事的政治的問題など人類が知る限り殆どの社会問題が一斉に爆発する。単なる暴徒でしかなかったそれぞれの民族主義の過激派は軍閥となり、それを抑制すべき旧共産党チェコスロヴァキア政府の上層部は立場を利用して自分の亡命先を探すためだけに腐心し始める。
つまりこの時点――BETAの大規模侵略を目前にした1980年の時点で―チェコスロヴァキアという国家は空中分解し無政府状態になったのだ。本来なら、あるいは世界情勢が健全であれば周辺国家はチェコスロヴァキアがこのような事態に陥る前に援助の手を差し伸べただろう。経済援助、移民先の確保、又は軍事的介入があればチェコスロヴァキアはこうも簡単に崩壊しなかったはずだ。
だが当時は混迷の時代。まだ国連の力も弱く、大国からも東西両陣営に同時に喧嘩を売った国家に手を差し伸べようという意見がでるはずもない。
かくして一時は工業国家として世界中に名を馳せた国家チェコスロヴァキアは一夜にして人類の欲望と怨嗟の渦巻く地獄の釜ような場所となった。
ヴィクトール・ガスパロフの名が聞こえ始めたのはこの頃である。
「……まあ昔のことはもういい。それよりもミハイル。これからどうするつもりだ?」
これ以上の回想は無用だと判断したガスパロフは話題を打ち切ってザンギエフに新たな話題を振った。
「ひとまずはアイツが目覚めるのを待つ。その後はA-01の衛士と一緒に前線に連れて行くつもりだ。元々私はこのタルキートナ基地には教導の為に来たのだからな。他の人工ESPの第五世代とやらがまだ何年も戦術機に乗れない以上私がここを離れることに問題はあるまい」
「やれやれ、A-01はあの子供のついでか? 無事に帰してくれるんだろうな?」
「今はBETA共もヨーロッパの蹂躙に忙しくこちらへの圧力は弱い。多少危険でも将来ハイヴ突入を考えるのならばA-01は今の内にノギンスクハイヴの間引きや北欧戦線で力をつけておくべきだ」
「ふぅむ……まあ軍事に関しては君が専門だ。ここは君を信用するよ。だが、こう見えて私の手駒は少ない。全滅は避けてくれよ」
ガスパロフは明らかに納得していなかったが、長い付き合いのせいで自分が文句を言ったところでこのモヒカンの巨漢が衛士の教育にまっとうな手段を使うはずがないのはわかっている。
「約束はできんな。頼むなら俺達が戦うBETAにでも言ってくれ」
「ふん、連中に耳さえあればな……っと」
ガスパロフは己の言葉を遮りLEDの青い光を点滅させる端末に目を落とした。
報告は医務室からだった。
「ミハイル、朗報だ。例の子供が目覚めたらしい」
「そうか。ならば明日には本土へ出発する。世話になったな」
「明日か?」
ガスパロフが本気で驚いた様子で言った。
「久々の後方なんだろう? ゆっくりしていかないのか?」
「私に休息は不要だ。それに…………いや、なんでもない。また会おうヴィクトール。今度会う時はセラウィクの党大会かもしれんがな」
***???***
――懐かしい夢を見ていた。
それは彼の元いた宇宙への移民が当たり前にある世界、MSが躍動し戦う世界、そして自分の死と誇るべき戦友が作った戦後の世界。
だが夢の中の世界はユーリーの思っていた姿とは大きくかけ離れていた。凍りつき穴だらけの大地、僅かな燃料や食料にしがみつく人々、そして戦争で心に傷を負い自責の念で涙を流すジャミルの姿。
こんなはずではなかった。
確かにユーリーは自分の意志に反して連邦軍のパイロットにされたが、少なくともこんな世界を望んであの辛い戦争を戦ったわけではない。自分は戦って戦い抜いて、地球を守り、知り合いや愛した女たちを守り、そしてかけがえの無い戦友をを命がけで救って死んだ。そのはずだったのに――
『こんな……こんな体たらくで、本当に元ガンダムパイロットと呼べるのか……!』
世界の壁を越えて触れたジャミルの心。そこに浮かぶのは全ての元凶たるコロニー落としの光景。究極とも言える後悔と自責の念。
あの戦争がもたらしたのは破壊だけだ。大儀を果たした訳でも平和を手に入れたわけでも無い。死んだ人間に何も残らなかったのは勿論、あの戦争は戦って生き抜いたジャミルにも恐怖と後悔、そして己を知るもののいない孤独の地平だけを残しただけだったのだ。
"ジャミルーーー!! 俺は覚えているぞ! 最強のNTパイロット――ジャミル・ニートがどれだけ強かったか、どれだけ勇敢だったか!"
ユーリーとジャミルという二人の感応能力があれば聞こえるはずの声はしかし、世界の分岐という分厚い壁と片方の能力の喪失によって届かない。
『これが今の私……。私に、こんな! こんな男に価値なんてあるはずない! 君に命がけで助けてもらうような価値などあるわけが、ない……』
"そんなことない! そんなこと、俺は…………"
無力さからサングラス越しに涙のしずくを落とすジャミルの姿がユーリーにはリュドミラを守れなかった己の姿と被って見える。
せめて声を、想いを送れればとジャミルの方へ手を伸ばすがその手は形すら持つ事は無い。
何故ならユーリーはこの世界の人間ではないから。命を失い、肉体を失い、名前さえ失った彼にはこの世界へと干渉するための因果が無い。
『誰か……助けてくれ。誰か、誰でもいい……私では駄目なんだ! クレアと、彼女の娘を……! この町を、ルチルを、ニュータイプを、地球の皆を……私を……』
救いを求めるジャミルに触れるためにユーリーは感応を更に高める。それがジャミルを傷つける行為だと分かってはいたが、それでもユーリーは世界の垣根を超え、再び戦友に声を届けるために全力を振り絞る。
だが突如ユーリーの意識から音が、光が遠のいていく。まるで飴が熱で溶けるように今までかりそめの形として保っていた体は緑色の炎に包まれ形を失っていく。
世界は異物を許さない。
ただ静観しているだけならいい。だが因果も力も無いまま無理矢理に壁を破壊し人の心に触れようとするユーリーの行為にこの世界は猛烈に反発したのだ。
ユーリーの魂が急速にこのジャミルのいる世界から切り離されていく。
"――ジャミル、ジャミル・ニート! 俺が助けるよ! きっと助けてやるよ! だから、俺の名前を呼んでくれ! 俺の力を、感じてくれぇーーーっ!"
せめて最後に、と思いユーリーは声を張り上げ既に無いはずの手を精一杯ジャミルへと伸ばす――
***同日 タルキートナ基地 オルタネイティブ第三計画医療局***
ユーリーが眠っているベッドに近づく幼い少女が一人。
ドアやカーテンに身を隠してキョロキョロと周りを警戒しながらまるで小動物を連想させるような動きでベッドに近づいていく。
少女は部屋の入り口からたっぷり五分はかけてベッドにたどり着くとその上にかかっている名札を確認した。
「……この人が第五世代のアジン(一番)」
無表情なまま、だが好奇心をもってベッドで眠る少年の顔をまじまじとみつめる。
正面から、上からそして横から。何かを探すようにあらゆる角度から覗き込む。だが生憎と少女の探し物は見つからなかったようで、
「……光って、ないです」
がっくりと肩を落として少女は呟いた。
と、そこで目の前で眠るユーリーの唇が動いていることに気づく。
「――――れ」
「……?」
それは本当に微かな音。
よく聞こうと少女が耳を近付けたその時――
「―――てくれぇーーー!!!」
「ッ!!? ~~~~~~~~~~!!」
跳ね起きた少年の額が少女の頭を強かに打ちつけた。
「なんだ? 目に涙が……? ……ってあれ? ここは?」
キョロキョロと辺りを見回すユーリー。
見れば自分は病室らしき部屋で点滴や計器に繋がれ、そして傍らには……額を押さえた女の子?
「なんだ、お前? 頭でも痛いのか?」
「――――ッ!?」
手を差し伸べられてビクリと反応する。少女にとってはぶつけられた痛みや怒りよりも突然彼が目覚めた驚きのほうが強かったようだ。
頭を押さえながら恐る恐るといった具合にユーリーの方を振り返る。
少女の容姿は銀髪に碧眼、ウサギの耳にも似た奇妙なヘッドセットをつけている。年齢は5,6歳といったところか。
「お前……第六世代か? 珍しいな、シェスチナと会えるのは特殊カリキュラムだけかと思ってた」
「……ラフマニノフ教授に、特別に許可をもらいました」
「へぇ、あの爺さんがねぇ……女の子の知り合いができるのは大歓迎だから別にいいけどな。俺はユーリー・アドニー・ビャーチェノワだ。お前は俺に"なんて呼んで欲しい"?」
不思議な含みを持たせてユーリーは言った。
「…………? 私は第六世代のトリースタ(300番)です。他に型番はありません」
「そうか……ま、いいさ! 特に要望が無いなら、今から俺はお前をチビと呼ぶ。何故なら俺より小さいからだ。いいな?」
「……不合理です。私より背の低いシェスチナはいくらでもいるのに……」
「その時はその時だ。そいつには別の呼び方を考えてやるさ」
「………………」
トリースタは理解しがたい言動をリーディングで読み取るべく彼を凝視する。だが第六世代最高峰と言われた彼女の能力をもってしても彼の特性は破りがたく、僅かに見えたのは感情の残滓のような儚い色だけ。
「で、チビ。お前俺に何か用なのか?」
「……ひかり」
「は?」
「光を見に来ました」
端的過ぎる表現に今度はユーリーがいぶかしむ番だった。
「光? 電灯ならここの天井にもついてるだろ? それとも日の光のことか?」
首を振って否定するトリースタ。
「……どちらも違います。光っていません」
「……なあチビ、ひょっとしてお前目でも悪いのか? それとも頭が悪いのか?」
ユーリーは真剣に目の前の少女の健康を心配して言った。
だが相手は人工ESP発現体、特に第六世代としてESP能力への影響を抑えるために、感情を芽生えさせる要素を徹底的に排除した教育を受けてきた少女である。トリースタは特に考えもせずにに医者の問診のように淡々と自分の状態を答えた。
「……いいえ。私の視覚と脳機能は正常です」
「そうか? うーむ、絶対何かがおかしいと思うんだがなぁ。ま、いいや。よくわかんないけど、俺も一緒に探してやるよ。多分、お前にしか見つけられないものなんだろう?」
「それは……はい」
トリースタは自信なさげに頷く。
確かにF-14に乗ってあの模擬戦を観測したシェスチナの中でも"あの光"を観測できたのは自分だけだ。だが内心ではあれだけ力強く暖かい光を何故他の姉妹達が見つけられなかったのか疑問に思ってもいた。
「その代わりちょっと教えて欲しいんだ。リュー……俺の双子の姉さんが多分この建物のどこかにいるはずなんだが、知らないか?」
「姉さん……? リュドミラ・アドニー・ビャーチェノワ……?」
「そうそう! おお、わかるのか?」
コクンと頷き部屋を立ち去ろうとするトリースタ。
ユーリーは慌てて己にまとわりつく点滴や計器を引き剥がして彼女を追いかけた。
***同施設 B1F 集中治療室***
リュドミラの病室は思ったよりずっと遠くそしてずっと厳重な医療体制が整えられていた。
ベッドの周囲は何層にも渡ってビニールシートのテントによる防疫対策がとられ、部屋の外から見えるだけでもユーリーの身長を超える装置や色とりどりの薬液が入った点滴がいくつも見える。
ただ不審な事にこれほど熱心な治療が行われているにも関わらずこの部屋には医療スタッフが一人もいない。部屋の鍵は勿論、テントの外にはご親切にエプロンや消毒液までもが用意され彼女に会う手はずが完璧に整えられていた。
ユーリーもそのことを怪しく思ったが、あくまで目的はリュドミラの見舞いである。誰の目論見であれ今は有効活用させてもらうしかない。
トリースタとともにシートの前にあった装束一式を素早く身につけると、深呼吸をしてビニールのカーテンを潜り抜けた。
「よお、リュー。元気にしてたか?」
返事は無い。
ベッドにはあの時、演習場で見た姿をそのまま凍らせたようなリュドミラが眠っている。唯一の違いがあるとすればその頭部。頭蓋骨の手術のため彼女が自慢にしていた髪は全て剃られ、変わりに白い包帯が隙間無く頭を覆っているぐらいか。
周囲の機材と彼女のバイタルモニターを見てユーリーはリュドミラがいつ目覚めるともしれない植物状態であることを悟った。
「元気……なわけないよな。ごめんな……俺が馬鹿だったせいでこんな風に……」
そんな彼女の姿を見て改めてユーリーの心に強い悔恨が湧き上る。それは敗北の屈辱や力への渇望を上回る程の思い。過ぎ去った時間への狂おしいほどの郷愁であった。
そっと両手で血の気の無い彼女の手を握る。
「――俺さ、夢を見てたんだ。"昔"の、俺が救った大切な友達が出てくる夢だ。夢の中はすっげぇ寒そうで貧しくて……どいつもこいつも生きるのに必死で殺気立ってて…………アイツ、泣いてたんだ。――ハハッ、酷い奴だよな、俺って。自分には特別な力があるから、友達も地球も救えたから、だから今度もきっと一人で切り抜けてみせるって粋《いき》がって……。でも全部さ……全部、俺一人の思い込みだったんだ。友達は全然救われていなかったし、お前をこんな目に合わせて、勝てるとタカを括っていた戦術機でもザンギエフのおっさんにボロクソに叩きのめされた……!」
思えば生まれ変わって八年。唯一の家族であるリュドミラには自分の秘密や本音を打ち明けたことは一度も無かった。彼女が嫌いであったわけでも無関心であったわけでもない。自分に最も近しい存在であるとわかっていながら、ユーリーは初めて得た肉親という相手にただ戸惑っていたのだ。
「こんなことなら! お前を、アイツを傷つけるだけなら、記憶なんて! 力なんてなければよかった! 自由なんて求めないで、ただ人間兵器としての運命を受け入れていればたとえ…………たとえすぐBETAに殺されるだけの人生でもお前と死ぬまで一緒にいられたのに……」
ユーリーには確かに力がある。前世ではニュータイプまたはガンダムパイロットとして。この世界ではESP発現体であり第五世代として期待された衛士としての申し分ない力を持っている。
だが彼の力は唯一の、そして絶対の物ではない。彼の操縦技術はランスロー・ダーウェルやジャミル・ニート、ミハイル・ザンギエフには及ばず、人類を革新に導くはずのニュータイプとしての感応能力は戦争の趨勢を変えるどころか半径50mまでしか発信できないという欠陥を抱えている。
そんな中途半端な人間が世界を救い、自由を得ようとした結果があのジャミルと今のリュドミラを生んだのだとユーリーは深く後悔していた。
大きく息を吸い、己の決意を胸に決める。
「……リュー、俺はもう自分の未来は望まない。戦って死んでも、オルタネイティブ計画に実験で殺されても文句は言わない。でも……どんなことになっても、どんなに苦しくても必ずお前を元通りにしてみせる。どうすればいいか見当もつかないけど……死ぬまでにこれだけは絶対になんとかしてみせる……!」
固い固い決意を最愛の姉に誓う。
だが変化は彼の心中以外にも起こっていた。それまで彼の隣にたたずんでいるだけだったトリースタが小さな声をあげる。
「―――あっ」
(――――!? 光が! でも、どうして!?)
その場で唯一、変化に気付いたトリースタは声をあげ驚きで大きく目を見開きながらリュドミラの方をじっと見つめた。
(どうしてリュドミラ・アドニー・ビャーチェノワ"の中にあの"光"が……?)
それは間違いなく"光"だった。生気のないリュドミラの体を包む光。優しくて暖かい――トリースタがもう一度見たかった心の光だ。
トリースタの思考を疑問が埋め尽くす。あの"光"は突然変異であるユーリーの物ではなかったのか。それが何故、普通のビャーチェノワ、それも昏睡状態の彼女から発せられるのか。双子だから? 姉弟だから? それとも単純に彼に深く関わっているから?
改めてユーリーを凝視してみるが彼からは相変わらず感情の残滓しか拾えない。そして"光"を持ったリュドミラの方も感情や思考はフラットで相変わらず目を覚ます気配はなかった。
――だが考えられる原因はこの男以外有り得ない。この光は試験管で生まれた突然変異にして第五世代"二番目"の一番、ユーリー・アドニー・ビャーチェノワが起こした物だ。
どうやったのかは分からないが、この光は彼だけでなく他人も持つことができるらしい。
じっと自分の胸を見つめるトリースタ。
リーディング能力では自身の感情を見ることはできない。だがこの二人に宿った物は自分の中には無いと断言できた。
(もしも、もしもこのベッドに眠っていたのが私だったら……私がこの人と姉弟だったら……私にもこの光が……?)
思い出の無いこの人形のような自分の中にもあの暖かい光が宿ったのだろうか。とトリースタは考える。
――静かな音と共にICUの扉が開かれたのはその時だった。
「見舞いは済んだか、ビャーチェノワ」
屈み込むようにして扉を潜ってきたのはミハイル・ザンギエフ。彼は無菌状態のカーテンには近づかず壁際にもたれかかったが、距離があって尚これほど大きく見える巨人がトリースタには恐ろしく見えたらしく彼女は俯きながらユーリーの背に隠れた。
「ああ、済んだよ。それと、ありがとうな。アンタなんだろう? リューにちゃんとした治療をさせて、俺のために人払いをしてくれたのは。オルタネイティブ計画の奴らじゃ用済みは即廃棄だからな」
「……事故とはいえ、怪我を負わせたのはオレだ。いつ目覚めるのかはわからんがそれまで責任は取る。その代わり、分かっているな?」
「アンタの下でソビエトのために戦えば良いんだろう?」
「そうだ。貴様は本日より中央政治局直属独立部隊の二等兵として我が軍に登録された。明朝0700時にここを発ち前線に出る事になる」
「二等兵!? おいおい、衛士の階級は少尉からだろ!?」
「特例で認めさせた。正規訓練も受けていない身分なら十分な優遇だろう。……なんだ? 不満があるのか?」
「…………いや、いいさ。階級がなんだろうと同じ、俺は戦うだけだ」
唇を尖らせながらユーリーは渋々自分の境遇を受け入れた。
――クイクイッ
自分の袖を引っ張られる感触にユーリーは振り返る。
「……あの、ユーリー……兄さん。もうここには帰ってこないんですか?」
ユーリーは兄と呼ばれたことに少し驚いていたが、すぐにトリースタの切実な様子に気付くと、励ますように彼女に笑いかけクシャクシャッと小さな頭を撫でた。
「心配するなって! 俺は絶対に帰ってくる。また会えるさ」
「………………」
「その頃にはお前も大きくなってもうチビとは呼べなくなってるかもしれないけどな。大丈夫だ。戻ってきたらちゃんとリューだけじゃなくチビ、お前にも会いに来る。約束するよ」
「……はい。私待っています。きっと、ザンギエフさんみたいに大きくなって兄さんを待っています」
ザンギエフの身長=214cm 体重=121kg
ユーリーは頬を引き攣らせながら、喉から辛うじて"ほどほどにな"とだけ答えた。