5、「ウゥゥゥーーーラァァァァ!!!」~Prologue:Reincarnation~
*今話には若干のメタ、もしくはパロディ要素があります。ご留意ください。
**1987年 アラスカ州国連軍タルキートナ基地 野外演習場***
決意を決めた二人の子供の間を大きな影が遮った。
「作戦会議は終わったか? オレから逃げるなら今のうちだぞ」
「その言葉はそっくりそのまま返ししてやる。逃げるなら今のうちだぜ! 何せ俺のお姉様は今日の熊殺しの記念にお前のダサいモヒカンを持って帰るつもりだからな!」
「何ィ!? キサマ、言うに事欠いてオレのモヒカンを!」
「………………」
モヒカンなんていらない。
リュドミラはそう思ったが、それを言うとザンギエフ大佐のプライドをさらに傷つけるような気がしてどうにも言葉に出せなかった。
「俺はいつでもいいぜ。さあこいよ!」
「許さん……!」
何がそんなに大切なのか。モヒカンのことで大人気なくも挑発に乗ったザンギエフはすぐさま走り寄るとゴムナイフをなぎ払う。恐ろしいことに軍用ナイフを模しそこらの包丁よりずっと大きいはずのゴムナイフですら彼が持つとペーパーナイフ以下に見えてしまう。
「フッ!」
初撃をヒラリを後ろに飛んでかわしたユーリーは己もナイフを抜き取ってトントンとフットワークを刻み始める。
その淀み無い動きを見てザンギエフは目を細めた。
人工ESP発現体には遺伝子的に知能や身体能力にある程度強化が施されている。第五世代であれば身体能力の強化は特に顕著なはずだが、だがあくまでそれはESP能力のオマケであり、軍事・催眠教育と組み合わせて"成人すればオリンピック選手間違い無し"という程度でしかないはずだ。
だがユーリーが持った技能はそれだけではない。
彼には前世で3年近く地球連邦軍に在籍していた経験があり、この世界には無い地球連邦軍流の軍隊格闘技《マーシャルアーツ》を修めている。実はMS戦闘の技能こそジャミル・ニートに劣ってはいたが、前世のユーリーは個人格闘から作戦立案、果てはMS整備までなんでも優秀こなせる希少な万能型軍人だったのだ。
ザンギエフの思考を待ちに入ったと見たユーリーは滑るように巨体の懐に飛び込む。リーチの差から一方的な先制攻撃を取れたはずのザンギエフだがここはあえて懐まで招きいれた。
そして地上すれすれからザンギエフの胸元までユーリーのゴムナイフが振り上げられる。同じくナイフでそれを受け止めるザンギエフ。
だがユーリーにとってそこまでは織り込み済みであった。
「せあっ!」
風を切る音とともに右足が振り上げられると、ユーリーのブーツの爪先がザンギエフの股間にめり込む。
爪先に確かな手ごたえを感じると今度は続けざまにナイフの柄で筋肉に覆われたわき腹を強打、周囲に肉を打つ音が響く。
そして離れ際に背を仰け反らせるとバク転しながらのサマーソルトキックでザンギエフの顎を蹴り抜き、そのまま二回転三回転と華麗に繰り返し距離を取ると中指を突き出してガッツポーズをとった。
「玉無しになった気分はどうだ、熊野郎! 訓練だから急所を狙わないとでも思ったか?」
その圧倒的な戦闘力に周囲のビャーチェノワ達がどよめく。
たったの一瞬、一度の攻防で彼は屈強な大佐の急所を三つも仕留めたのだ。
訓練時の動きですら捉えられなかった子供たちは改めてユーリーの突き抜けた強さを実感させられた。
「………………」
中指を突き立てるユーリーに対してザンギエフ大佐は身動き一つしない。
「おいっ、気絶してるのか!」
「……違うわ。あの人、ユーリーの攻撃を受けても全然動かなかった」
傍から見ていた分、正確に攻防を把握していたリュドミラが呟く。
反応したのは最初のナイフの攻撃のみ。それ以外は悶絶どころか身を守ることも避けるようとすらしていない。あの瞬間、ザンギエフはまるで山のように不動だった。
その静けさにさすがに不審に思ったユーリーが再び動こうとした時、不意にザンギエフが呟いた。
「……見たことの無い動きだ。少なくとも我が祖国や国連軍がカリキュラムで教えている物とは違う」
「――まさか、耐えられるはずがない!」
ユーリーの声が驚愕に染まる。
防がれる事を前提としていた最初の一撃はともかく後の三連コンボはスピードも体重の乗りも申し分の無い会心の一撃だったはずだ。特に股間は男の共通にして最大の急所。プロテクターでも入れていれば話は別だが、爪先の感触は確かに二つの玉を捉えている。
「ふん。このオレの鋼の肉体に、お前の子供遊びなど効くわけがないだろう。私がストリートファイトで世界中を回っていた頃は車やレンガブロックを素手で砕くような連中を相手にしていたのだぞ」
「ス、ストリートファイトぉ~?」
「そうだ、オレは世界中の軍人やマフィア、格闘家達と戦ってきた。だが、そんなオレでもお前の使う"軍隊格闘技"は見た事が無い。蹴りは日本《イポーニィ》のコブドーでナイフの扱いはイスラエルのベニタリに似ているが……そもそもどちらの格闘技もほとんど知られていないはずだ」
「げっ」
ギクリと体を強張らせるユーリー。
地球連邦軍の制式格闘術は文字通り世界中の格闘技をミックスして作られている。ザンギエフの指摘した通りその中には世界でも有名だった日本のジュージュツやイスラエルのベニ・タリ等も含まれているが、日本のジュージュツが柔道として世界でブームになったのはユーリーの世界で第二次大戦後の冷戦末期、イスラエルのベニ・タリも自国の特殊部隊以外に教えるようなったのは宇宙コロニー建設以降である。
当然、国連軍基地とはいえこんなアラスカの片田舎に何人も数少ない格闘技経験者がいるわけが無い。
「これは、お……オリジナルさ! 名付けてユーリー式熊殺し!」
「おもしろい。これが終わってもしお前が生きていたら貴様、その格闘術をオレに教えろ」
ザンギエフがニヤリと笑う。それはまるで新しいおもちゃを見つけた獣のようであった。
「今更条件をつけようってのか? でもいいぜ。その代わり俺が勝ったらお前に一つ仕事をしてもらう!」
負けた人間は勝った人間に従う。極々単純で子供でも解るルール。
突然の提示だったがユーリーにとってはまさしく望むところだった。
「ほう、なんだ?」
「すぐわかる。なぜなら――」
"俺が勝つからだ"という言葉を切ったユーリーが再び、ザンギエフの足元目掛けて飛び込む。ただし今度は先程の突撃よりもずっと低く早い。
身を屈め地を這う蛇のように走るユーリーは腰を極限まで落として走る。彼の目線はザンギエフの膝どころかスネを捉えるほどだった。
――ユーリー・アドニー・ビャーチェノワの体術はザンギエフには通じない。
一体どんな鍛え方をしているのかは知らないが、筋肉の薄いわき腹も、脳震盪狙いの顎も、それどころか露出した内臓と呼ばれる金的への攻撃すらザンギエフにはダメージが通らなかった。
まだ眼球は試していないが、さすがに眼球は身長差がありすぎて狙うのは難しいだろう。
ただの八歳児でしかない今の身には先ほどの三連コンボこそが切り札にして最大攻撃力だったのだ。
ナイフどころか拳銃ですら効果の怪しいザンギエフ自慢の鋼の肉体、だが今ユーリーの手元には彼を妥当しうる唯一の武器がある。
それがこの黒い軟質ゴムでできた模擬ナイフ、これならば自分の力不足も相手の恐るべき耐久度も関係ない。ただ斬って相手の皮膚に黒い線を残せばそれで有効と"判定"される。
ユーリーとしては当初の目的するために体術を絡めてザンギエフを文字通りコテンパンに叩きのめしてやりたかったのだが、勝てば相手に条件を突きつけられるのならもはや遠慮は不要だと判断した。
人差し指と中指に挟んだナイフが大きく弧を描き大男の足首に迫る。その攻撃はナイフで受けるには余りに低く、蹴りで迎撃するには余りに早すぎた。
故にザンギエフは
「なッ! どこへ――!?」
――飛んだ。
直上へ、ユーリーにすら感知させないほど少ない予備動作で跳んでみせた。それが視界の低いユーリーには消えて見えたのだ。
「悪いが下段への攻撃には慣れている。オレを倒したければもっと鍛えるか、ヨガか気功で飛び道具を習得するんだな」
影を見て、声を聞いて、ザンギエフの巨体が頭上から降ってくる事を察知したユーリーは両手を獣の前足のように使い、その進路を直角に変える。
殆ど同時にユーリーの顔のすぐ側の地面を二本のブーツの砲撃が抉っていった。
「ぐぅぅぅぅーー!!」
今の一瞬、ユーリーの判断が少しでも遅れれば、彼の頭は今頃熟れたトマトのように潰されていただろう。
だがそれは攻撃ではない。
着地より一拍遅れてザンギエフの拳が鉄槌のように振り下ろされる。
ユーリーにその拳は見えなかったが、立ち上がろうとしていた彼は脊髄に氷を流し込まれたような感覚を覚え、咄嗟に全身を砂まみれにして転がりながら鉄槌の着弾点から己の体を逃した。
再びの地面が割れる音と大量の砂埃が舞い上がる。
衝撃波は離れようとしていたユーリーの体を吹き飛ばし、唯一の勝機であるゴムナイフを彼からもぎ取った。
「ユーリィィィ!!」
今の攻防の微妙な一瞬を捉え切れなかったリュドミラが己の半身を失う恐怖に耐え切れず叫ぶ。
(――大丈夫だ、リュー! 俺はまだやれる)
心の中でそう呟く瞬間も彼に油断は無い。砂埃が視界を遮る名から間もなく立ち上がって、ザンギエフをかく乱すべく再び走り始めた。
(けどなんて……なんて奴だ! 本当に人間なのか!?)
あの巨体で、あの姿勢で、あの高さまでのジャンプなどそうそうできるものではない。
そもそも自分の攻撃は体格差とスピードを最大限に利用した奇襲攻撃だったのだ。地面すれすれの攻撃は身長2mのザンギエフからすれば限りなく視認しにくいはずだし、ナイフは指で挟むことで限界までリーチを伸ばしていた。一体どれほど戦闘経験を積めばそんな攻撃を察知できるようになるというのか。
そして何よりもあの馬鹿げた拳の威力!
(冗談じゃない! あんなのもらったら一撃でも死んじまう!)
どうにかナイフを見つけて立て直さなければ、と考えた矢先に再び直感が働く。
丸太のように太い足がソバットとして、きわどく身を逸らしたユーリーの喉元をかすめていった。
「今のも見えなかったはずだがな。それがリーディング能力という奴か?」
冷や汗が噴出す。
なんとか声が震えないようにユーリーは己を奮い立たせた。
「……はっ! アンタなんかにリーディングはもったいないぜ! けど……そんなに知りたいのなら教えてやる。ESP能力の凄さって奴をさぁ!」
全ては自由のため。
残る勇気と知恵を振り絞って三度ユーリーはザンギエフに向かって駆ける。今度は両手をまるで眼前で交差させて正面の守りを固めていた。
「ぬかせ、超能力なんてもので倒せるほどこの鋼の体は甘くはないわ!!」
だがザンギエフも今度は立ったままではなかった。先ほどと違い十分に身を屈めて今度こそユーリーを仕留めるべく左足を顔面へと繰り出す。
両手ごと顔を潰す算段のそれをユーリーは地を蹴り両手を振り下ろして、ザンギエフの足に飛び乗る事で攻撃を回避した。
「器用な奴っ!!」
足首を蹴って太ももへ飛び乗る。左右からザンギエフの両手が迫るが、そこから更に胸板と肩を蹴って空中へと飛ぶことで死地から抜け出すユーリー。
高度は実に地上から4メートル。先ほどの地面を這う攻撃とは逆に今度は視界は鳥になったかのように広く、見上げるばかりだったザンギエフの巨体全てを収めている。
だが、彼の目的はザンギエフの攻撃を回避することだけではない。
「そこからどうする気だ!? 膝か、目潰しか? オレには効かんぞ!」
「だったら!」
体術は効かない。そんなことはわかっている。ユーリは素手では勝てない。
それは必須条件。"ユーリー・アドニー・ビャーチェノワの勝利にはナイフが必要"
(そのためには……『リュー!! 今だ!!』)
跳躍しザンギエフの頭上からさにその手を天へと伸ばす。その先には存在しないはずの三本目のゴムナイフがあった。
「なんだと!?」
ザンギエフの顔が初めて驚愕に染まる。
この時点で、ユーリーのナイフはザンギエフの遥か後方にある。ユーリーはその事を知らないがザンギエフはそれを確認していた。ザンギエフ自身も己のナイフをしっかりと保持しておりちょっとやそっとの事で奪い取るのは不可能だ。
そこまで考えた所でザンギエフは己の中にあるESP能力者のもう一つの情報を思い出した。
――プロジェクション能力。それは言葉を交わさなくてもイメージで物事を他者へと伝える異能。
視線だけを巡らせれば先ほど彼が姉と呼んでいた少女が投擲し終えた姿勢で固まっている。
この齢にしてなんという戦闘勘か、とザンギエフは心中で唸った。
もしナイフを持たず無策のまま突っ込んでいたならば、彼はこの後チャンスも無いまま問答無用で肉塊になっていただろう。
もし最初からナイフを持っていれば自分は警戒し、少しづつダメージを与えながらやはり彼を殺していただろう。
ザンギエフはその巨体とファイティングスタイルゆえに頭上から攻撃を苦手としている。意図してかは知らないがこの子供はその能力でこの少女に最適なタイミング、最適な形で必殺の武器を供与させることでゼロだった可能性を再び己の側へ引き戻したのだ。
――だが
(惜しい、実に惜しいな)
若干8歳にしてここまでの能力を持つ少年に詫びる。
この戦いを終わらせてしまうのが惜しい。
自分の手の内を全て見せられないのが惜しい。
そして何より、人類の救世主たり得る子供をこんな所で潰してしまうのが惜しい!
(悪いな。オレは戦士には手を抜かん。それに祖国のために死んでいった者達のために、こんなところで己の名前に土をつけるわけにはいかんのだ!)
――ザンギエフの体を大きく捩られ、右腕が砲丸投げのように大きく引き絞られる。
ザンギエフが空の敵へ相対する最優の選択肢にして己の代名詞でもある技を放つための前準備だ。
それとほぼ同時にユーリーの手がナイフに届いた。
――ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウウ
「取った!」
ユーリーがはっきりとした声でそう叫んだ。
――ビリビリと震える空気と共に両手を大きく広げたザンギエフの体が体幹《たいかん》と軸足《じくあし》を中心に回転を始める。
ザンギエフが好んで使うのはロシアンプロレスとアメリカンプロレスのミックス。だが少なくともこのような技はどちらの格闘技にも存在しない。いや、存在したとしてもまともに扱える人間がいるわけがない。
空気を巻き込み粉砕する様子はまさに竜巻。それは世界に一人。ただミハイル・ザンギエフ一人だけが扱える技。
――即ち"ダブルラリアット"
「ウゥゥゥーーーラァァァァ!!!」
この時点で実はユーリーは勝利を確信していた。
彼にとってダブルラリアットは未知の技だが、腕を振り回すこの攻撃は少なくとも真上にいるユーリーにとって脅威にはならない。
ならないはずなのだが――
(な……なんだ!?)
徐々に、僅かずつユーリーの体が吸い込まれていく。
真下に、ではない。地面に対して斜めに。弱点であるはずの頭上から体勢を崩し、外側の必殺の暴風と貸したザンギエフのダブルラリアットに向けて。
(吸い込まれる―――ッ!! そんな出鱈目な! これがザンギエフ大佐……赤きサイクロンだってのか!?)
逃げられない空中。全く自分の挙動を操作できない。
(だめだ、殺される――ッ!?)
『 』
迫り来る巨腕《ラリアット》が己に触れる直前、視界が銀色のキラキラしたものでいっぱいになる。
――そして衝撃。
ガツン! という交通事故そのものの鈍い音とともにユーリーの体は再び大きく吹き飛ばされた。
土と砂を撒き散らしながらボールのように地面を跳ねて転がる。数度、そして10メートル以上は転がってようやくその勢いは止まる。
「あっ……ぐっ……」
地に伏せた小さな体躯がブルブルと震えている。指は砂利を掴み足は草土を蹴るばかり。
立ち上がろうとして、失敗しているのだ。
「ぐ……ううぅ……」
(動ける……? 俺、生きてるのか? でも……なぜ? どうして俺は生きているんだ?)
生きているはずだ。だが不思議な感覚がある。ユーリーの中には先ほどまであった何かが無い。
震えながら、今度は確かめるようにゆっくりと身を起こす。出血は無い。感覚もある。五体満足で五感も正常。そして今は四つんばいの状態だが手足の力すら戻りつつある。手酷いダメージだが、あれほどの攻撃を受けたにしては全くの無事といっていい状態。
(無事……なのか? だったら……この感覚はなんだ?)
フラッシュバックする激突寸前の光景。
あの瞬間、銀色の何かが……誰かが自分を守ってくれた。
それは誰か。
生憎、この世界で自分を守ろうとしてくれる人間などユーリーは一人しか知らない。
「――リ、リュー? どこだ、リュー?」
声をかける。だがいつもの鈴を転がしたような耳触りの良い声は返ってこない。思えば彼女と過ごした八年間、名前を呼んで答えが無かったことなど一度も無い。
目に付いた地面の血痕。
震えながらその跡を追えば、そこには銀の髪を血に濡らした子供が身動きすらせずに倒れていた。
銀髪碧眼の子供ならばこの演習場には沢山いる。だが一人だけ、その一人だけはユーリーが絶対に見紛うはずがない。
「おい、リュー……ねえさん?」
地面に臥せっていたのはリュドミラであった。
長い銀髪は血に濡れて斑《まだら》になり、深い海のような瞳は閉じられて、子供らしい笑顔に溢れていた顔《かんばせ》は今は人形のように生気がない。そして血溜まりは今この瞬間にも広がって彼女を死の底へと飲み込もうとしていた。
「姉さん! 姉さん!!」
(まさか……そんな! こんなはずじゃ……こんなはずじゃなかったのに!!)
「おい、担架だ、担架!」
「ミス・フレデリカかニコライ先生を呼べ!」
周囲のビャーチェノワが俄かに慌しくなるがもはやユーリーの耳には雑音のようにしか聞こえない。
地面を這うようにしながら恐る恐るリュドミラの元へ向かう。
先ほど以上に体がブルブルと震えだす。
こんなはずではなかった!
深い後悔が冷たい氷の刃のようにユーリーに突き刺さる。
自分は強いはずだ。一人で、何でもできる。
鍛えた体、知識、そして超常の存在であるニュータイプなのだから。
前世からずっとそう信じてきた。だからあの大佐に喧嘩を売った。
どうにかなる。きっと勝てるはずだったから。
だが、あの瞬間。
万策尽きて諦めた瞬間
『(だめだ、殺される――ッ!?)』
自分は叫んだのだ。
『助けて!!』
無意識にプロジェクションを使って、ただの8歳の少女に、助けてくれと叫んだのだ。
(俺は……守ってもらったのか!? 20年以上も生きてたってのに、ニュータイプなのに……こんな小さな子供に助けを求めたのか!!)
華奢な、たった8歳の彼女の体。自分で壊してしまいそうで彼女に触れるのが恐ろしい。
だが今触れなければリュドミラはの意識はどこかに溶けたままと二度とこの体に戻らないような気がする。
彼女を抱き上げ、手に血のぬめりを感じた時、ユーリーの中で何かが切れた。
「姉さん!! 目を開けろよ、姉さぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
リュドミラの肩を揺さぶって目を覚まさせようとするユーリー。
だがその寸前に太い指に自分の肩を掴まれたユーリーは反射的にナイフを構えリュドミラを庇いながら振り返った。
背後にいたザンギエフはあくまでも臨戦態勢を崩さないユーリーを見て溜息を吐きながら言った。
「おい、小僧、もういいだろう? 身も口も随分と軽いようだが、キサマの攻撃は俺には通用しない。オレに何をさせたかったかはしらんが、どうせ碌でもない事だろう? そこの娘もお前を守った以上は命を賭けてそんな事をして欲しいとは思っていないはずだ」
「碌でもない事……だと?」
この時、ザンギエフは一つ思い違いをしていた。ユーリーの願いは単なる子供の我がままではない。
ユーリーの望みは自由を得ること。それは今生だけではない前世から思い続けてきた悲願でもある。
(自由……俺はなんとしても自由が欲しいんだ!
好きな所に行って、好きな職業について、好きな女と手を繋いで、好きな死に様を選べる当たり前の自由! 殺し合いも実験台ももう沢山だ。他の奴が当たり前のように持っている物……それが欲しいってそんなにいけないことなのかよ!)
「碌でもない事だと!? …………おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉ!!!」
闘争心に猛る獣の遠吠えのような、それでいて慟哭そのもののユーリーの咆哮。
腹の底からこみ上げてくる熱いマグマのような感情を目の前の男に叩きつける。
そのマグマは彼の感応《ニュータイプ》能力によって彼の精神のみに留まらず、無明《むみょう》の炎となって周囲にまで広がっていく。
「な、なんだよ、あれ? こ、こんなのって……」
「一番《アジン》の感情……ッ!? 痛い! 目が……!」
それを見ていたビャーチェノワ達は慄《おのの》いた。
――無明の炎とは感情の発露。
常人には見えずともリーディング能力によって彼らには今、普段は捉えられないユーリーの感情の色がはっきりと見える。
ユーリーの嘆きは、怒りは、悲しみは、鬱屈は、叫びは、赤熱《ルゥビーン》を超え青炎《サプフィール》に、青炎から黄輝《トパーズ》へ。
基地の研究者や人形である自分達に見えるような空間に絵の具で塗りこんだ冷めた色とは違う。自分達には全く未知である目を灼く程の熱量をもったユーリーの心の輝きの眩しさに彼らは恐怖した。
「ミハイル・ザンギエフーーーーッ!! もう一度だ!! 今度は戦術機で、もう一度俺と勝負しろ! 赤いサイクロン――ッ!!」
ユーリーは万能だ。だが決して得意が無いわけではない。
彼の数多ある才能の中で最も秀でたもの。それが前世で地球連邦軍のエース、ジャミルに次いでガンダムX与えられる程のMSパイロットとしての力だ。
しかし対するザンギエフもまたユーリーと同じく常人ではない。彼とて鍛え上げた感性と戦闘本能によって目の前の子供から発せられる圧力を感じとっている。
だがそれを受けてなお、ザンギエフは強大な壁として不動のままユーリーの前に立ち塞がっていた。
「――いいだろう。だがもはや格闘技を教えろなどと温い条件は止めだ。今度オレが勝てば、キサマは奴隷だ。命も、力も、未来も、キサマの一切をこのレッドサイクロンが貰い受ける」
ユーリーの気迫の炎をその覇気で押し返すザンギエフ。
周囲の空気は電気が通ったかのようにピリピリとお互いの肌を焼いていく。
ザンギエフは己の胸を叩き言った。
「さあ、教えろ! キサマはオレに何を求める!?」
「自由だ! 俺が勝ったら、お前の権力で俺とリュドミラを自由にしろ!」
強く。動かないリュドミラを強く抱きしめながらユーリーは己の望みを叫んだ。