4、「世界最強の人間だ」~Prologue:Reincarnation~
***1987年 アラスカ州国連軍タルキートナ基地***
ユーリー達オルタネイティブ3関係者がハバロフスクからこのタルキートナ基地へ来ておよそ10ヶ月が経った。
アラスカから250キロ南にあるこのタルキートナ基地は世界でも有数の大自然の中に立てられた基地でもある。
赤松やシダといった針葉樹の生い茂る森に加えクリスティアンセン湖、タルキートナ湖に冬には氷河にもなる幾筋もの河川とこれだけでもアメリカ合衆国が制定している国立公園の中でも抜きん出た物を持っているタルキートナだが、この土地を訪れた人間はまず何よりも北米大陸最高峰であるデナリ山に度肝を抜かれる事になる。
デナリ山の標高は6194m。エベレストの標高より2700mも低いが、エベレストがチベット高原から3700m程度の比高であるのに対して、デナリ山はふもとの平地の標高は600m程度であり、そこからの比高は5500mに達する。要するにこの山こそが"世界で一番大きく見える山"というわけだ。
最大にして雄大。BETA侵攻によって滅亡しつつあるこの世界でこの極寒の霊峰に山岳信仰を呼び覚まされる人は少なくない。
――だが世界に残った最後の楽園にしてソ連の威信を背負った基地があるこの地、タルキートナはすでにロシアではない。
BETAの侵攻の激化によって自国領内に6つものハイヴを抱え、ユーラシアの領土を維持することが難しくなったソビエト連邦政府がそのプライドや主義主張を投げ打って宿敵であったアメリカから借りた租借地である。
国連の上級官僚はこの20世紀の"民族大移動"によって、オルタネイティブ計画の本拠地がロシア西部ノヴォシビルスク基地からハバロフスク基地、ハバロフスク基地からタルキートナ基地へと実に11000キロメートルもの距離を移動した事実を見て"国連の総力であるオルタネイティブ計画の後退距離はそのまま人類の衰退を表している"と評したほどだった。
そのタルキートナ基地の滑走路に一台の輸送機が着陸した。
――イリューシン Il-76改
全長46メートル、最大貨物搭載量47000kg、翼面積300平方メートル。
1971年に開発された本機は輸送機としての速度・高度の国際記録を数多持つソ連の傑作輸送ジェット機である。光線級属種の発生や戦術機の配備、そのうえ近年開発されたアントノフ225 ムリーヤに性能面で圧倒的に劣勢であるおかげで厳しい立場にあるものの、米国にすら購入された実績を誇り、また既に多数生産されて信頼性の高いイリューシンを戦術機やその他大型兵器の航空移送のために改造することでソ連は需要を確保した。
この鋼の鳥が本国のロシアからこのタルキートナへと運んできたのは一体の戦術機。いや、正確に言えばこの戦術機を操るたった一人を運ぶためにこの機体は極北のベーリング海を越えてきたのだ。
機体に設置されたタラップが展開され気密扉が開かれる。すぐさま誘導係、整備兵等この滑走路にいた全ての兵士が集まって半円状に立ち並んだ。
「全員整列っ!!」
イリューシンから降りてきたのは巨大な熊……ではなくソ連陸軍の軍服に身を包んだモヒカンの男性軍人。
軍用の頑丈なタラップをすら軋ませる巨躯《きょく》に手の甲から覗くほど濃い体毛と髭、巨大な体から生えた腕や足は筋肉でパンパンに張り詰めて今にも軍服の布地を張り裂きそうになっている。
誰がどう見てもデスクワークや後方の任務とは無縁そうな存在だ。かといって前線の歩兵であってもここまで体を鍛える人間はそうはいない。それほどまでに彼の様相は野生的に過ぎていた。むしろシベリアの山奥で熊相手に戦っている格闘家か裏世界のレスラーと言ってくれた方が幾分信憑性がある。
ただしこの男の胸に付けられた勲章の数は凄まじい。陸・海・空・武勲・戦傷・名誉など種類を問わないそれはこの男が身体能力だけではなく優秀な軍人に必要とされる知識や決断力を兼ね備えていることを周囲に知らしめていた。
「ヴォールクの英雄である大佐殿に敬礼!!」
緊張を孕んだ上官の掛け声に合わせて全員が一斉に敬礼を向ける。
百近い人数から敬礼を受けたこの男だが怯む様子も無く敬礼を返した。
「国連軍の諸君、出迎えありがとう。この基地で将来有望な志願兵達の教官兼彼らが所属するであろう連隊指揮官として出向してきた。ソビエト連邦陸軍に所属する身だが今回の任務を通して、国際社会に奉仕し、日夜BETAという共通の敵に立ち向かい続ける諸君の一助になりたいと思っている。これからよろしく頼む」
大佐の声は見た目通り野太くそして大きかった。マイクなど無く、背後にイリューシンの4発のジェットエンジンが唸りを上げているにも関わらず周囲の全ての人間の耳に届くほどに。
だがその場にいた国連軍兵士達の反応は上場だった。ワッと歓声と拍手が巻き起こる。
悪名高きソビエト連邦の軍人――しかもあの有名な大佐ともなればもっと厳しい人間を想像していた兵士達だが(実際に本人を見て更に悪いほうに想像していた)思ったよりも低い物腰であったので大変に好感が持てたのだ。
大佐に次いでイリューシンからは彼の副官らしきロシア人男性と中年のアジア系男性が降りてくる。
その二人が脇に大きなトランクケースを抱えているのを見て、案内係に任命されていた伍長が慌てて前に進み出たが大佐はやはり比較的長身の伍長と比べてもさらに大きく、目を合わせるため伍長は3歩ほど離れなければならかった。
「宿舎までご案内いたします大佐!」
「よろしく頼むぞ伍長! ところで今日はヴィクトールはいないのか?」
伍長は大佐が誰の事を尋ねているのかわからず僅かに戸惑ったが、すぐに目の前の人物がこの基地の基地司令と旧知の仲であることを思い出した。
「は、はい! 今日はセラウィクで全連邦党大会があるので大佐の出迎えはできないと承っております!」
「そうか……ふん、国連軍に入ってもせこせこ党に根回しとはヴィクトールの奴。チェコの英雄ともあろう人物が随分とつまらん人間になったものだな」
吐き捨てるように大男は言った。だが彼の言葉の後半は殆ど呟くような声だったため伍長の耳に入ることは無い。
「伍長、予定変更だ。自分に案内はいらない。君は後ろのトルストイ中尉とモリ大尉を宿舎まで連れて行きたまえ。イワン、ケン。お前達は先に行って荷物を置いてこい」
「ハッ!」「了解しました!」
「え、ええ?」
躊躇無く返事を返す副官二人に対して伍長は困惑気味だった。
何しろ彼に基地内を案内するというのは彼が基地司令から直接受け取った命令なのだ。それにソ連軍人である彼を国連軍の基地で自由に歩き回らせるのは機密上非常に良くない。
彼は8階級差という伍長風情にとっては神にも等しい人物に精一杯の勇気を振り絞って質問を返した。
「あ、あの大佐はどちらへ……?」
「野外演習場だ。ああ、そこまでの案内も必要ない。場所は分かっている。着陸前に輸送機から見えていた」
「野外演習場!? だ、駄目ですよ大佐。あそこは今は立ち入り禁止です! Aクラス以上のセキュリティ権限を持った人間でなければ近づいただけで憲兵に銃殺されてしまう!」
思わず声が裏返る。
伍長の記憶が正しければここタルキートナ基地の野外演習場は本日一杯オルタネイティヴ計画直轄の部署が貸切にしていたはずだ。
彼自身がオルタネィティヴ計画に参加しているわけではないがその悪名と機密レベルの高さは上官から嫌というほど聞かされている。ホスト国家の軍人とはいえ国連軍所属でない人間、それも赴任してきたばかりでは問答無用で殺されてしまうだろう。
だがザンギエフは伍長の忠告を特に気にした様子も無く飄々と答えた。
「問題無い、権限はあるし、自分がこれから教えるかもしれない子供たちを見に行くだけだ。それにだな伍長、」
大佐がその巨大な体を屈めて自分と目線を合わせる。
たったそれだけのことだが、伍長にはアサルトライフルに狙われるよりも恐ろしい事のように思えてブルブルと体が震えだす。
「銃でしか戦えない人間にこの鋼の肉体を持つオレを倒せるわけがない。そうだろう?」
***
一方その頃、野外演習場には模擬戦用のゴム製ナイフを振るっている集団がいた。
数は40人といったところか。年の頃は皆幼い。普通なら軍事訓練どころか小学校《ミドルスクール》に通っていてもおかしくないような年齢である。
だが現実にその訓練に参加している者は男女を問わず全員がある程度の技量を持ってナイフをふるっており、この場は立派な軍事訓練場の体を成していた。
「どうしたリュー!? お前の優等生ぶりは座学だけか?」
「う~~~!! ユーリー! 男の子なんだからもう少し手加減してよ!」
「ヘヘッ、そりゃゴメンだな。これでお前を倒せば俺のカテゴリファイブワンでの全勝記録は達成されるんだ」
双子や他のビャーチェノワ達は皆二人一組で体を開くオープンスタンスでナイフを構えて向き合っている。その全員が黒いタンクトップにミリタリーパンツを着ていて、その服や肌の所々にはゴムが擦れた黒い線と泥がついている所まで一緒だ。リュドミラも同じ格好をして辛うじて許されるおしゃれとして長い銀髪に赤い飾り紐をつけていたが、それもいまや汗や泥汚れで見るも無残な姿になっている。
だがしかし、一人だけその中で唯一ユーリーにだけは泥も黒い擦過傷も無い。
彼は大人気なくも前世の経験や格闘技をフル活用して他のビャーチェノワの子供たちを圧倒していた。
「ふんふんふんふ~~ん♪」
ユーリーは余裕綽々といった様子でステップを踏みリュドミラの周りをグルグルと大きく円を描くように周りはじめる。
ペースを握られることを恐れたリュドミラはユーリーの足が地を離れた瞬間を見計らってその喉元にナイフを突きつける。
「せいっ!」
可愛らしい掛け声とは裏腹に大人顔負けの鋭さをもった突きがユーリーに繰り出された。
渾身の一撃。だが彼はそれを首を傾けるだけでかわし、逆に突き出された腕を取って動きを封じる。
リュドミラの腕を引き戻そうとする動きにユーリーが逆らわずに押し出すと、リュドミラがたたらを踏んで体勢を崩したところに腹に横一線。
「熱っ!!」
「はい、オシマイっと」
ゴムの摩擦が生み出す熱にたまらずリュドミラがナイフを取り落としほぼ一方的な攻防のみで訓練は終了となった。
「ふっ、話にならんな」
「う~~~~っ」
格好つけて髪をかきあげながら、一度血振りをするように大きくナイフを振ってから鞘にしまうユーリー。もちろん意味は無い。
その間リュドミラはペタンと座り込んで、深い海のような瞳をウルウルと潤ませながらタンクトップをめくりあげ己の怪我を確認していた。
「ひどいよ~ユーリー……。お姉ちゃんのお腹に火傷の跡が残ったらどうしてくれるの?」
タンクトップをめくりあげ子供っぽい腹と小さな臍を晒しながらリュドミラが言った。
その白い肌には確かに赤い線が腫れとなって膨らんでいた。
「あらら蚯蚓腫れになってら。よし、じゃあ俺が医務室で薬をもらってきてやるよ」
「ええっ!? い、いいの!? ユーリー、なんか今日は優し「なんつっても、今日の担当医はニコライのオッサンじゃなくてミス・フレデリカだからな」
「えっ?」
「丁度いいや。最初はお前の火傷の話から始めるぜ。俺の情熱の愛の言葉で今日こそミス・フレデリカの心に火をつけてやるんだ」
「それ完全に自分の都合だよね!? 私への愛は無いの?」
遠い目をして医務室の方を眺め、すでに心ここにあらずといった体のユーリーにショックを受けたリュドミラが激しく抗議した。
「八歳児に興味は無い」
「それはフレデリカ先生も同じだと思う……」
ハァと溜息を吐くリュドミラ。
彼女と彼女の双子の弟の間ではこんなやり取りは珍しくない。
相手の女性の名前と口説き文句のフレーズこそ毎回変わるものの、ユーリーは物心ついた時から何かにつけて大人の女性に話しかけて口説き落とそうとする困った習慣があった。
まだ10にも満たない子供ということもあって大抵の場合は向こうが笑って流してくれるのだが、稀《まれ》に戦場帰りで"溜まっている"衛士や恋人や家族を亡くして自棄を起こした人などがフワフワの巻き毛と空のように澄んだ碧眼を持つユーリーの天使のような容姿にトチ狂って自室に持ち帰ろうとする事件《ケース》が起こる事もあったりするので油断ならない。
幸いどの事件も基地司令直属の憲兵のおかげで未遂に終わっているが、そのせいでユーリーは基地内で早熟な子供として有名になり彼の双子の姉としてリュドミラの名前も広まる結果となってしまっていた。
「というかいい加減ナンパなんてやめてよ! あなたが女の人に声を掛ける度に私まで恥ずかしい思いをするんだからね!」
「なあに皆最初は恥ずかしいもんさ。でもいいじゃないか。もし俺が成功すればお前に義妹ができることになるんだぞ。年上の義妹なんてなかなかもてるもんじゃない」
「三倍とか四倍も年の離れた義妹なんて嫌だよ……――あれ?」
溜息と共に弟に愚痴を漏らすリュドミラだったが、ふと気づくと辺りが静まり返っている。
「どうしたのかな?」
「軍曹殿が戻ってきたんじゃないか? ほら、あの人だかり」
ユーリーがビャーチェノワ達が集まっている方を指差す。目を凝らして見たリュドミラはすぐにその人物が先程離れた格闘教練の教官で無い事に気が付いた。
まずその人物はとんでもなく大きかった。成人ばかりの整備兵に囲まれてすら頭二つ分は抜けていた巨体は子供ばかりのビャーチェノワの中にあることで余計に強調され、もはや映画か特撮の撮影風景にしか見えない。
そしてその特徴的なヘアスタイル。まるで天を突かんばかりのモヒカンを備えた軍人など彼女はこの基地で見た事が無い。
「大きい……! 熊《ミドヴィエチ》、いえ、巨人《チータン》かしら? あれって御伽噺の生き物なんじゃないの?」
「いや……、そうじゃない。あの髪型は……」
ユーリーがもっと良く見ようと目を半眼にする。
聡明なリュドミラですら人外と見紛うほどのモヒカンの巨漢――さきほど滑走路に降り立ったソ連軍の大佐がそこにいた。
その襟に輝く階級章を確認するとリュドミラは慌てて向き合って直立敬礼の姿勢をとる。
ビャーチェノワ達はいつのまにか訓練を止めて演習場に入ってきた人物の方へと集合していたが、逆にその人物は唯一自分に注意を向けなかったユーリーとリュドミラの方を見ていたのだ。
「ほう! 随分と気の抜けた奴がいたものだな! 訓練中にお喋りとは……それともこれは余裕の現れか?」
「申し訳ありません大佐殿!」
リュドミラは脊髄反射的にそう答えた。
――軍隊において階級は絶対。
リュドミラ達人工ESP発現体第五世代は全員、生まれたときから軍属である事を叩き込まれている。なぜなら彼らの命は国連と党政府によって生産された"備品"であり来るべきハイヴ突入によるBETAとの対話のために消費されるべき"兵器"なのだから。
備品や兵器に人格はいらない。
兵器に必要な知能とは即ち、命令に従う。規律は守る。己を鍛え、敵と戦う。
実際、生後間もなく始められた英才教育のおかげでアドニー姉弟以外のほぼ全ての子供は命令に従うだけの従順なロボットのように育っていた。
そうリュドミラともう一人を除いて。
「後者であります、大佐殿!」
「え?」
声はリュドミラの真後ろから聞こえた。
(ユーリー!? 何を?)
「自分は彼ら39人と戦って無傷で勝ちました。既にこの訓練に意味はありません!」
「ほう。貴様、名を名乗れ。どこの阿呆か聞いてやろう」
敬礼したままとんでもないことを言ってのけるユーリーを見て、コメカミを引き攣らせ歯を剥き出しにした巨漢がリュドミラのすぐ側を通り過ぎた。
士官教育を受けた人間はこういう時に部下に舐められてはいけないという事を知っている。軍隊とは完全な縦社会。だからこそ階級を力で超えようとする輩は徹底的に叩いて恐怖を覚えこませる必要があるのだ。
大佐の怒り顔は大人どころかどんなに肝の据わった軍人でも泣いて許しを請う様な物だが、ユーリーは敬礼したまま涼しい顔を崩すことはなかった。
「ユーリー・アドニー・ビャーチェノワであります! 階級・所属はまだありません!」
「なるほど。正規兵でも訓練兵でもないから訓練をサボってもいいと考えたということか?」
「いいえ、自分以上に強い人間がいないと考えたからです! ……ただもし今すぐ目の前に自分に釣り合う程の訓練相手が――例えば大佐殿のような方が現れてくれれば私の訓練にも張り合いが出てくるのでしょうが」
「「「――――ッ!!?」」」
にやりと小馬鹿にしたようにユーリーは笑い、ピキッと音を立てて二人の間の空間に亀裂が走る。
自分達の理解を超えた光景にビャーチェノワ達は凍りつき、ユーリーの発言にリュドミラは危うく卒倒しかけた。
「………………正気か?」
大佐の表情は先程と打って変わって能面のようになっている。彼の冷静な軍人としての部分がこの子供の挑発の意味を嗅ぎ取ろうとしていた。
「自分が正気かどうかは一人では証明できません、サー!」
「誤魔化しはいい。オレには本音で喋れ。目的は何だ? 自殺志願者なのか?」
齢8歳。こんな子供が歴戦の大男に挑んでいる。それはどこの世界でも信じられない光景。
この巨漢の身長は214cm。対して目の前の子供の身長は130センチ強、リーチだけでも1メートルは違う計算だ。体重は恐らく5倍近く差があるだろう。体の厚みは倍以上違うし、筋肉のつき方にいたっては次元違いと言ってもいい。比べるべくも無い程二人の身体能力には差がある。
そしてここまで体格差があれば例え訓練であっても命を失う恐れがあるのは明白だ。
「かしこまりました大佐殿! ……ゴホン、じゃあ熊野郎! お前の筋肉でできた脳みそでもわかるように言ってやるよ! 俺の目的は、お前と戦って、勝つ事だ!」
だがザンギエフの巨体に、彼の放つ圧力にもユーリーは決して怯まない。
それどころかさきほどのザンギエフと同じように歯を剥きだしにして獣のように吠え立てた。
「……いいだろう。死んでも後悔するなよ」
大佐は静かにそう言うと勲章のついた上衣を脱ぎ胸に着けていたホルスターとトカレフを外す。ザワザワと騒ぐビャーチェノワ達の中の一人が放り投げられた軍装をどうすればいいか分からずオタオタと慌てている。
その隙にリュドミラがユーリーの元に駆け寄ってその胸倉を掴んだ。
「ユーリー! 何を考えているの!?」
「何って……見てたんだろう? 上官に喧嘩を吹っかけたのさ」
ユーリーは答えたがその目はリュドミラを見ていなかった。彼の意識は既に敵であるザンギエフに向けられている。
「だから! なんでわざわざあんな強そうな人に吹っかけたのかって聞いてるのよ!」
「チャンスだからさ。リュー、お前はあのおっさんが誰か知ってるか?」
「え? そういえばまだ名前は………」
「座学で習っただろう? あのモヒカンは間違えようがない。ヴォールク連隊の生き残り、ソ連の赤きサイクロン、ミハイル・ザンギエフ大佐だ」
「ミハイル・ザンギエフ……?」
ハッとしてもう一度大佐の方を振り返るリュドミラ。実物は若干年を食ってはいたが確かに写真で見た事がある。
「まさかっ!! 本当にあ、あああああああの、ザザザザザザザザザザンギエフ大佐~~~ッ!!?」
リュドミラの素っ頓狂な声が演習場全体に響き渡った。
――ミハイル・ザンギエフ。
彼の名前を知らぬ軍人はソビエト連邦は勿論、アラビアや西側諸国にもいない。
元々はアマチュア格闘家であり、モスクワ大学を卒業した知識人《インテリゲンチャ》だったザンギエフは20歳でソビエト連邦陸軍に入隊し、そこから人間離れした能力を開花させた。彼が今日まで対BETA戦線で挙げた戦果と授けられた勲章・感謝状は数知れず、10年に一度しか授与されないとされるレーニン勲章、ソ連英雄勲章、国連対BETA勲章に加えなんとお互いに仮想敵国であるはずの米国の大統領からも勲章を授けられた事すらあるという。
ザンギエフの名前が初めて知られたのは1978年に東欧州で発令された大反攻作戦・パレオロゴス作戦――NATO・ワルシャワ条約機構連合軍400万人という人類史上最大の戦力で持って臨んだソ連領ミンスクのハイヴ攻略作戦である。
二ヶ月に及ぶ激戦の末、全ヨーロッパの軍隊を囮にして当時22歳で中尉だったザンギエフが所属していたソビエト陸軍第43戦術機甲師団・ヴォールク連隊はついにミンスクハイヴの最奥部である反応炉への到達に成功する。
だがBETAの圧倒的物量の前に連隊に所属していた突入戦術機部隊27個小隊+戦闘車両240両、機械化歩兵500名、歩兵1800名、工兵2300名の内ハイヴ内から生還したのは30分毎にデータを運び出した衛士14名のみ。
しかもその14名すらハイヴ攻略を断念後の撤退戦で戦死し、結局生き残ったのはザンギエフただ一人だったのだ。
作戦失敗の訃報が伝えられる中で衛士達にとって何よりも貴重なハイヴ内の構造データを持ち帰った彼は世界中で英雄となったが、話はそこで終わらなかった。
なぜなら後日ソ連が公開したザンギエフ大尉の戦闘データには誰も想像すらしなかった物が記録されていたからだ。
ハイヴ突入から三時間に及ぶ激戦の末、反応炉を制圧したザンギエフは最奥部の反応炉のデータを地上に送り届けるべく連隊長から地上まで単独での帰還を命じられる。
残り少ない弾薬と推進剤をどうにかやりくりして、門まであと300メートルのところまで到達したザンギエフ。だが地上を目の前にして突如、往路では存在しなかったはずの横杭からBETAの奇襲に会い乗機であるMiG-21 バラライカが大破する。ペイルアウトし強化外骨格を身に纏うも100メートル進むこともなく闘士級の攻撃を受けて強化外骨格は機能停止してしまう。
だが彼は諦めなかった。
戦術機を失い、強化外骨格も、アサルトライフルの弾丸さえも使い切り全くの徒手空拳になったザンギエフはハイヴのデータを収めたメモリを飲み込むと襲い掛かってきた小型種のBETAをなんとスープレックスで撃破。
その後もラリアットで、チョップで、キックで。360度あらゆる場所から次々と襲い掛かるBETAを全て生身で退け続けたのだ。
結局異変に気づいた地上部隊が駆けつけた頃には無数の小型のBETAの死骸と全身に傷を負いながらも不屈の闘志で立ち続けたザンギエフの姿があった。
「馬鹿げた話だよな。熊やライオンですら銃無しじゃ倒せない人間がプロレス技だけでBETAを倒しただなんて。でも対BETA戦争での戦果のごまかしや捏造は国連規約で厳重に禁止されている。おそらく真実だ」
「じゃあザンギエフ大佐って……」
「ああ、世界最強の人間だ。……いや、人間かどうかかなり怪しいけど」
頷く弟を見てリュドミラは眩暈がして再び倒れそうになった。
目に入れても痛くない可愛い弟が挑発した相手、それがよりにもよってあのザンギエフ大佐!
「なんてこと……」
「ああ、なんて幸運だろうな。思いもしないチャンスだ」
「チャンス?」
「おいおい、しっかりしろよリュー。これはチャンスだぜ! あれだけ名前の売れている人物だ。ソ連軍どころか絶対に党政府やアメリカ合衆国にもコネがある。そんなスゲー奴をただの子供が挑発して、しかも倒して見せれば日和見主義の国連軍のお偉い方は絶対に関係者を放っておかない。多分社会のゴミが送られるような最前線かどこか一生出て来れないような後方に飛ばされるはずだ。そうなったらもう監視はつかない。簡単に逃げ出せる!」
「え、え~? そうかなぁ……」
リュドミラは疑わしげだった。
果たしてそんなにうまくいくだろうか? という懐疑心が表情にありありと浮かんでいる。
「大丈夫だってば。アイツが人外なら俺は新人類《ニュータイプ》だ。絶対に勝てる。問題は俺達二人が同じ場所に飛ばされるかどうかだけど……まあそこの所はどうにかなるだろう」
「……ユーリーはそんなにここがイヤなの?」
どこか残念そうにリュドミラは言った。
彼女は自分の弟が以前からこのオルタネィティヴ計画から抜け出したがっていることを知っていた。
だが少なくともリュドミラはハバロフスクやタルキートナでの生活はそう悪いものではないと思っている。確かにこの幼い身柄には軍事訓練は辛いし、ESP開発カリキュラムの薬剤投与や開発実験は時に激痛を伴うことがあったが、それ以外では一応大事にはされているし人類生存のための希望の星として期待されるのは悪い気分ではない。それにここには大勢の兄弟姉妹達もいる。
だが生憎ユーリーはそんな感傷など持ち合わせていなかった。
「ああ、ここは最悪だ。反吐が出るね。俺はこんなところでモルモットか特攻兵器になるのなんてゴメンだ。お前は残りたいのか?」
「……ううん、私はユーリーが出て行くなら一緒に行くわ」
リュドミラ・アドニー・ビャーチェノワにとってユーリーとは自分にかけがえのない"もの"を与えてくれた無二の存在。
だから彼女にとって双子の弟と一緒にいることは人類の未来よりも兄弟姉妹達よりもずっと大切な事だった。
* 現状、本作品において主人公が生身でBETAと戦う予定はございません。