15、「メドゥーサ」~Muv-Luv:RedCyclone~
※グロイ表現があります
***1989年 8月17日 イルクーツク州 ユーク中央幹線道路***
今日もシベリアの大地にしとしとと雨が降り続く。
この日、オルタネイティヴ計画委員会の制式戦術機選定委員会は次の2機種間の競合試験をBETAとの実戦形式とすると決定した。
表向きの理由はちょうどよい時期にエキバストゥズハイヴからBETAの群集団がこのイルクーツク州へと進行を始めたからであるが、実を言うともう一点、二機の開発衛士の模擬戦による評価設定に疑問が起こったからである。
MiG-31とF-14は共に複座。オルタネイティブ計画の想定としては人工ESP発現体はあくまで管制兼砲撃士であり、主衛士には通常の人間を乗せてハイヴに突入させるつもりであった。
だが、そんな計画に対して今回この2機の主開発衛士に選ばれたのは10歳前後の人工ESP発現体が三体。
ミグ側は一人で複座の操縦をこなす上に年齢に見合わない異常な技術を持ち、スフォーイ・グラナン側はなぜか2体の人工ESP発現体を乗せていて通常の衛士を遥かに超えた反応速度で戦っている。
どちらも明らかに普通の開発衛士ではない。
選定委員とてオルタネイティヴ計画の情報開示を許された高級将校ではあるが所詮は外様。
全容までは知らされてない。エスパーとはいえただの子供に見えるのに異様な能力を発揮する三人を不気味に思い、彼らを選んだ両設計局の意図を勘繰っても仕方が無いだろう。
そんな彼らがこのまま二機編成《エレメント》や小隊単位での模擬戦を行っても、ユーリー達3人の能力が際立つだけで正確な評価はできないと考えたのはまったく当然の結論であった。
『誘導の戦術機部隊、BETAの第2集団の分断に成功。数……大隊規模、ほぼ同数。以後北側の集団をA《アー》集団、南側の集団をB《ベー》集団と呼称します』
CP将校からデータが転送され、二つの集団の進路がMiG-31の網膜ディスプレイに写される。通信状態は雨なので若干悪い。
今回の試験は2機編成でBETA群と戦いそのスコアを競う形式だ。
ユーリーにとって久方の待ちに待った実戦、ゲルヒンレグルン槽を完成させるためのチャンスでもある。
『BETA群の構成を解析中……完了しました。A集団及びB集団を誘導中の戦術機部隊は送信するデータにしたがってBETAの数と構成を調整してください』
CP将校に従い前線から抽出された戦術機部隊が慎重にBETAを屠る。
30分以上かかったが彼らの努力によって二つのBETA集団が完璧に同数、同構成に整えられた。
『調整が完了しました。レッドサイクロン分隊及びイーダル分隊は進行を開始してください。先頭機とBETAの距離が800の時点で計測を開始します』
「……了解」
「了解ッ! MiG-31《ブラミャーリサ》、ビャーチェノワ准尉、出るぜ!」
「は、はい!」
今回、ユーリーのMiG-31の僚機を務めるのはモリ大尉とA-01のあまりMiG-31に触れていない新任少尉のペアだ。
人選はザンギエフによるもので、なんでもA-01の衛士ではイーダル小隊の衛士に劣り、かといってモリ大尉とトルストイ大尉だけだとMiG-31側が有利になってしまうので、ハンディキャップとしてA-01の新任と組ませたのだそうだ。(新任は男女二人が居たがユーリーの強い希望により女性の衛士を乗せる事となった)
わざわざ不利になる組み合わせを選ぶことにイズベルガやミグチームは若干抵抗を示したが、そもそも移送のトラブルのウヤムヤを利用して開発衛士としてA-01の衛士や彼の部下を借りている立場で強く言えるわけも無く、泣く泣く提案を呑むことになった。
「――目標確認! へへっ……モリ大尉! 俺、切り込んで来ちゃうから援護ヨロシク!」
返事も待たずユーリーは機体を回転させながらペダルを踏み込み跳躍ユニットの推力を限界まで引き上げる。
MiG-31の匍匐飛行はAN3装備の重量によって失速寸前だったが、地面を蹴って棒高跳びの選手のように体を捻りながら跳躍することで高度を稼ぎながら、殺到する突撃級の群に飛び込んだ。
突撃級の波に消えるMiG-31。
これにはさすがに超人ばかりのレッドサイクロン小隊を知る新任の少尉も思わず声を上げた。
「じゅ、准尉!? …………って、心配するだけ無駄ね」
生半可な衛士なら一瞬でミンチになっているはずの突撃級の破壊地帯から飛び出す血飛沫とMiG-31。
どうやら時速120キロで疾走する突撃級をすり抜けながら突撃級に斬りつけているらしい。
「……我々はアイツの取りこぼしを狙う。引鉄は任せた」
「了解!」
女性少尉は初陣ではないが慣れない機体で緊張しているためか声が甲高い。
二機のMiG-31は援護できるぎりぎりの距離を保ちながらお互いに目標が被らないように効率的に突撃級を始末していく。
CPから通信が入ったのはユーリーとモリ大尉のスコアがそろそろ80に届こうかという頃だった。
『イーダル分隊、スコア100を突破』
「げっ! このペースでも向こうの方が早いのかよ!」
驚愕したユーリーが叫ぶ。
こちらは単身でBETAの只中に飛び込むという無謀を行って今のスコアを稼いでいる。にも関わらず向こうが早いというのはそれだけ機体性能が隔絶しているということだ。
「チッ……やっぱ飛行速度じゃ敵わねえ。足の速い突撃級の狩り合いは負けちまうぜ。勝負は戦車級と要撃級が来てからってことか……」
現在、選定評価委員会の意見は大まかに言えば空戦能力のF-14D《トムキャット》と陸戦能力のMiG-31《ブラミャーリサ》で二つに分かれている。
AN3装備となってもその素晴らしい跳躍ユニットの性能によって第二世代相当の飛行能力を維持しているF-14Dに対してAN3の負荷によってF-4《ファントム》並みの飛行機動しかできないMiG-31。
陸戦能力においては、海軍機としてフェニックスミサイルによる一撃離脱を主戦術とするため主脚を軽量化されたF-14Dと、もともとはMiG-25として内地での戦闘を想定した大型の主脚をユーリーによってさらに強化され運動性を増したMiG-31。
閉鎖空間で補給の効かないハイヴ内では主脚歩行に頼ることが多くなるが、それでも緊急離脱時や戦闘回避のために飛行能力は軽視できない。
現時点での評価は互角。
だが互角では困るのが東側のプライドを捨ててまで、わざわざ西側の戦術機の導入を求めたスフォーニ一派だ。
***
『イーダル分隊、スコア300を突破』
『レッドサイクロン分隊、同じくスコア300を突破しました』
「一体、どうなっている! 追いつかれているではないか!」
ブラーツク基地の管制室で叫びだしたのはイーニャとクリスカの"調整"を担当するイェーゴリ・ベリャーエフ准教授である。
彼は今回の競合試験に勝利すれば教授への昇格が約束されている。
が、それ以上に成果を出すことで自分が主導するП3計画をオルタネイティヴ3の派生という立場から公式の計画に押し上げたいという研究者らしい野心も持っていた。
「くそっ、私の研究は完璧なのだ! それを失敗作のイレギュラーめ!」
今回の件、自分の研究の結晶であるП3計画の申し子達が無調整の人工ESP発現体――それも偶然の産物であるイレギュラーに負けているというのは到底あってはならないことだ。
ベリャーエフは呪詛を吐きながら血走った目でモニターを睨みつけ、そして決意を決めると一つのレバーに手を伸ばす。
「……ベリャーエフ主任? ――ッ!! 何をなさっているのですか!?」
ベリャーエフの手が届く寸前、隣で計器をチェックしていた彼の助手がそれを押し留めた。
「決まっている。"プラーフカ"だ! "プラーフカ"さえ発動させればBETAなど一瞬で葬り去ってくれる!」
「お止めください! プラーフカはまだ初期実験中、下手をすれば僚機のイーダル2ごとBETAを殲滅しかねません!」
「構うものか! たかが衛士2人の命で私の研究の優位性を証明できるのならな! うまくすればあのイレギュラーだって滅ぼせる!」
狂気に染まり不気味に光るベリャーエフの眼を見て、他の研究員たちが後ずさる。
彼の眼に映っているのはF-14の黄点ではなく二年前に彼らの元を離れた第五世代のイレギュラーの乗るMiG-31を示す青色の光点だ。
どちらの機体も甲乙付けがたい接戦である以上、評価委員はアラ探しに躍起になっているだろう。
プラーフカを使えばBETAの殲滅速度は格段に上がるが、万が一味方機を撃墜したとなれば機体性能で勝っていても問答無用で不採用にされるだろう。
「440番と15番の反応速度は今も向上しています。このまま続けても勝利することは可能です!」
「だが現に勝敗は不透明だろう! それよりも、あのイレギュラーだ。ニコライが作ったアレが生きている限り、私の研究は不要の物と切り捨てられる……ならば今、殺してやる!」
羽交い絞めにされながらもレバーに込める力を増すベリャーエフ。
抑えきれないと判断した助手は切り札を切った。
「プラーフカの使用にはラフマニノフ教授の許可が必要なはずです。ここで命令違反を犯して、またニコライ助手に大きな顔をさせるのですか?」
「――――ッ!!」
効果はてき面。ニコライの名を聞いたベリャーエフは顔色を赤からどす黒い色に変化させる。一体胸のうちにどれほどの物を溜め込めばこうまで人を憎めるのだろうか。
僅かに葛藤した後、ベリャーエフはゆっくり息を吐き出しながら、最大限の自制心を奮い起こしてレバーから手を下ろした。
――イェーゴリ・ベリャーエフとニコライはオルタネイティヴ第3計画におけるナンバー2の座を争うライバルである。
そもそも二人はソビエト科学アカデミーの学生時代の同期であり同じラフマニノフ教授のゼミに所属していた仲でもあったのだが、あのオトボケた性格で実験では失敗ばかりなのに遺伝子デザインの分野で突出した成果を生み出すニコライに対して、ベリャーエフは堅実に研究を積み重ね成果を書き出して論文を生む秀才タイプであった。
そして研究の内容も対照的である。人間を後天的な薬剤投与や心理開発によって進化させようとするベリャーエフに対して、遺伝子操作によって先天的に自分の望む人間を作るニコライ。
ベリャーエフを止めた助手が知るところによると、ラフマニノフ教授の研究である超能力という分野で通じ、科学の真理を探求する者として当初ベリャーエフはニコライを友人として認めていたが、なんでもある日研究の合間にニコライが語った遺伝子デザインに打ち込む理由――その余りに俗物的な野望を聞いて何かが切れてしまったらしい。
「イレギュラーに罰を与えられないのは口惜しいが……しかしあのような低俗かつ享楽的な思想しか持たぬ男に、これ以上科学を冒涜されるのは更に我慢ならん」
後日、ベリャーエフから話を聞いたラフマニノフ教授は頭を抱えたという。それほどまでにニコライ助手の秘めたる野望は科学者として異端な内容であった。
とはいえニコライには天性の才能がある。それを潰してしまうよりは、とラフマニノフ教授自らソビエト科学アカデミーに緘口令を敷いたが人の口に戸は立てられない。
唇から血を流しなら怒りを堪えるベリャーエフを、"低俗かつ享楽的な思想"――ニコライ助手の自分の手で究極の美少女を作ろうという野望を知る助手は内心で同情しながらそっとプラーフカの制御システムの電源を落とした。
***
『イーダル分隊、BETA集団の殲滅を確認。スコア820』
『レッドサイクロン分隊 同じくBETA集団の殲滅を確認。スコア820』
図ったように同時に通達された戦闘終了のアナウンスに、試験の安全を祈っていたHQ《ヘッドクォーター》のスタッフは安堵のため息を漏らし、白黒付けねばならない評価選定委員達は苦悶のうめき声を漏らした。
BETAの掃討は未だ終わらず、戦線の兵士達の配置は解かれていない。
だが何はともあれトライアルは終わった。
「ふぃ~。やっぱ互角か」
「……大佐の仰った通りだ」
ユーリーは汗を拭いながら端末を捜査してHQから報告されたトライアル結果のログを呼び出す。
先頭集団の突撃級の処理では遅れを取ったが要撃級や戦車級でイーブンに迄持ち直した。どちらの陣営にも装備以外の消耗は無し。
スコアもタイムも同じとなれば文句なしに互角の結果だった。
「微妙なトコだな。下手すりゃこれから何度もトライアルだ。ま、俺は別にかまわないけどな。そういや、今日は光線級は出てないな」
管制ユニットに座るユーリーにいつも技術を取り寄せる前に感じる不思議な感覚は無い。
どうやら今日は空振りのようだ――諦めかけたその時、背筋に冷たい悪寒が吹き通った。
『――HQ《ヘッドクォーター》より全軍! 緊急事態! ポイントK-23にてコード991発生! 数……二個大隊規模! 地下侵攻です!』
「K-23……砲撃陣地のど真ん中か!」
悪寒のするほうを振り向けば、多くの死者の断末魔の声がユーリーの知覚に入り込んでくる。
同時に、AN3装備の解析レーダーは土煙の下から更におびただしい数のBETAが這い出してくるのを感知した。
『――続いてK-22、J-23にも出現! 総数は6000……いえ7000です!』
『すぐに砲兵と車両を下げさせろ! 周辺の41軍の全戦術機部隊は援護に回れ!』
『36軍戦術機大隊の支援中? そんな事に構うな! ポイントK-20を抜かれたらこちらの指揮系統が脅かされるんだぞ!』
HQから悲鳴のような通信。命令はいささか冷静さを欠いた物であったが、現場の兵士に否などあるはずが無い。
未だ地上から接近しているBETAを駆逐しきっていないにも関わらず、前線に展開していた41軍の4個戦術機大隊と5個中隊は命令に従い回れ右をしてポイントK-23に向かう。
36軍のHQから41軍へと抗議が殺到するが、彼らとて41軍の後背を脅かされるのは困るのだ。
「……我々も向かうぞ」
「「了解!」」
モリ大尉に続きユーリーの機体も襲撃を受けた砲撃陣地へと飛び出した。
***
――後方陣地へのピンポイント地下侵攻、それも大型種だけで7000体というのはただ事ではない。
砲撃陣地の全滅くらいならまだいい。
だが戦線の後背に突然現れた一個師団の戦力が前線の戦力を振り切って更に後方の無防備な都市や基地を蹂躙して回ればイルクーツクを守る36軍と41軍の壊滅は必須。たとえ振り切らずにBETAがその場に留まったとしても砲撃陣地の敷かれているのは周囲より標高で70メートル以上高い台地である。たちまちK-23地点は周囲90kmを光線級が射程内に収めるBETAの要塞と化すであろう。
下手をすればシベリア戦線崩壊の可能性すらある危機的状況。これを回避するためには未だBETAが砲撃陣地という"餌"を食べている内に彼らを排除するしかない。
「CP《コマンドポスト》、こちら第418――フィーガ中隊、当方劣勢! こっちはもう6機しかいない! 至急支援砲撃を!」
『こちらHQ。現在支援砲撃は不可能だ。この地域を担当する砲撃部隊は君たちの目の前にいる、加えて現地は乱戦状態だ』
「――チィッ!!」
砲撃を要請していた若い女性の中隊長が管制ユニットの壁を殴りつける。
戦術機部隊が中隊としてフォーメーションを組み機能するには最低でも8機が必要だ。6機といえば増強小隊――立て続けに戦力を失っているのなら1個小隊分働けるかどうか。
目の前のBETAの海をせき止めるには余りに少ない戦力である。
『――いや、まてフィーガ01。朗報だぞ。もうすぐだ。あと少しでそちらにエレメントの増援が来る』
「エレメントの増援? 迷子のお守りはごめんだぞ?」
『今日の戦場で新型機のトライアルをしていた分隊《エレメント》だ。実力は期待してもいい。何しろ彼らの所属する部隊はあの――』
「――待て、レーダーに反応! これは……」
背後から接近する機影あり。
だが女性衛士が振り向く前に、彼女の機体――MiG-21《バラライカ》の傍を黒い機体が横切っていった。
「――ヒャッハー! ボーナスステージだ! 光線級共はどこだぁー!?」
黒い機体はサーベルのような近接兵器を抜き放つとあっという間に彼女の正面に居た戦車級をなぎ払い、次に部下達に襲い掛かっていた要撃級に斬りかかる。
サーベルはまるで実体の無い幻のように要撃級の腕をすり抜け、急所ではないが足や感覚器官などに深い切り傷を与える。
続いて飛び込んできた二機目のロシアンブルーMiG-31――モリ大尉の乗るブラミャーリサが正確な支援射撃を加えると、動きを止めていた6体の要撃級はあっという間に地に伏した。
「――なっ!? 速い!?」
フィーガ中隊の衛士達に衝撃が走る。自分たちが所属するブラーツク基地でミグの新型が開発されていることは知っていた。
だが新型機とは言っても所詮はMiG-25――あの欠陥戦術機の改修型である。大した性能ではないと皆が噂していたのだが――
黒い疾風のごとく駆ける先頭のMiG-31は噴射地表面滑走《サーフェイシング》で地面を削りながら、長刀で次々と戦車級を屠っていく。時折進路を遮る要撃級にはすれ違いざまに一撃を与えるだけで止めを後続の機体に任せている。攻撃シーケンス後の動作硬直で動きを止めないようにするためだ。
そして後続の機体も凄まじい。自分たちの乗るMiG-21《バラライカ》は敵を認識してからロックオン、照準合わせまで1秒弱を必要とする。その間を待たなければ弾丸は殆ど命中しないし、滅多打ちをすれば反動の抑制にも一苦労がかかる。
だがこのMiG-31は殆ど間断なく敵を攻撃しているにも関わらず殆どの弾丸を命中させている。今までの第一世代戦術機とは桁違いの処理速度を持つFCSを用いているのだ。
気がつけば先程までフィーガ中隊を飲み込まんばかりだったBETAの集団はすっかり消えて無くなっていた。
「――こちらレッドサイクロン04。この辺の掃除は終わったぜ! ところであんたらこの辺で光線級見なかった?」
MiG-31の衛士――ユーリーからフィーガ中隊に通信が入る。
声からして少年兵だとわかっていたが、レッドサイクロンという所属と網膜投射に映る想像以上に幼い衛士の姿に再び彼らは衝撃を受けた。
「れ、光線級だと? それなら先ほど北東5キロの地点でどこかの大隊が光線級吶喊に失敗したと聞いたが……」
「北東に5キロ、ね。ザンギエフのおっさ……ゴホン、大佐との合流地点にちょうど良いや。な、大尉?」
「………………」
大尉と呼ばれたアジア人は口を開かない。だがそれを特に気にした様子も無く黒いMiG-31にのった子供はCPに合流場所を連絡した。
「ところで、お姉さん綺麗だね。もし俺が光線級倒して生きて帰ってこれたら一緒にビリヤードでもやらない?」
まさかこんな戦場で戦術機の調子でも聞くかのように口説かれるとは思わず、彼女は少し怯んだ。
マセガキめ、と内心で思いながらも軽口で返したのは年長者としての意地だったかもしれない。
「……悪いが准尉。私は新婚でな。心配性の夫が後からついてきてもいいのなら、お誘いを受けるが?」
「げ、人妻だったのか。そりゃ残念。俺はユーリー。ユーリー・アドニー・ビャーチェノワ准尉だ。もし旦那に愛想が尽きたら俺の事を思い出してね」
「ああ、私は――」
軽くあしらわれてもまだ口説き落とそうとするガッツに感心した彼女は最近ようやく慣れてきた自分の新しい名前――フィカーツィア・ラトロワの名前を彼に教える。
これがこの二人の初めての出会いだった。
***3時間後 ポイントK-22***
「あーあ、またカタナが折れちまった。もうちょっと保つと思ったんだけどな」
「……力の入れすぎだ。未熟者め」
レーダーに映る最後の戦車級を切り捨てた折、ユーリーが使っていた本日三本目の74式近接長刀が真っ二つとなったのを知ったモリ大尉は珍しく口を開いてユーリーを叱責した。
「ちぇっ、厳しいなぁ。……お、データリンクの更新だ。そろそろ掃討も終わりかな」
データリンクの更新で現れた広域マップにはBETAを示す赤点はもう残っていない。
ただし戦術機の振動探知は精度が悪くしょっちゅう敵の反応を取りこぼすし、闘士級などの小型種に至っては反応が弱すぎて目の前に居ても捕えられない場合もある。
戦闘が終わってもしばらくは戦術機が巡回して安全を確認するのが戦場の常識だった。
――BETAが砲撃陣地に地下侵攻を行ってから実に4時間。
一時は絶望的だった戦況もザンギエフを初めとする周囲の基地からの増援の到着で次々と好転。つい20分前にソビエト連邦軍には侵攻したBETA群を撃滅することに成功した。
だがこの戦闘での被害は甚大である。砲撃陣地に配置されていた部隊と車両は全滅。援護にきた戦術機部隊も4割強が失われた激戦だ。
ユーリーとモリ大尉も動きの重いロークサヴァー仕様であるにも関わらず一衛士として戦線に参加し、何度も武器や推進剤を失いながらその都度修理と補給を受けながら戦っている。
そして当然、彼らが殲滅した中には幾許かの光線級も含まれていた。
「さーて、チャンスタイムだ」
体の中にはいつも"条件"を満たした時に感じる"何か"が溜まった感覚がある。あとはこの"何か"を消費しながら自分の意識の手を伸ばせばいい。
最近は大規模な戦いが無かったためうまく狙った物を手に入れることはできなかったが、今日は不思議と簡単に手が届く気がする。
――脳波変換アルゴリズム
「――痛ッ!」
久方ぶりの痛みと、流れ込んでくるいくつもの情報。
だが流入が終わった後もユーリーは動かない。
「お……おおっ!?」
今まで得た知識で確認する。このデータが本当にゲルヒンレグルン槽に適合するものなのか。
二度目の確認、そして三度目の確認を終えてユーリーはついに歓声を上げた。
「ふ、ふははははははははっ!! やった! BETAの奴らめ、よりにもよって今日来てくれやがった! 俺はツイてるぞ! これでついに!」
ゾクゾクするような快感が背筋を駆ける。
全くもって絶妙なタイミングでのBETAの襲来だった。
今日の夜か明日の朝にはリュドミラが到着する。ひょっとしたら自分が帰還する頃にはもう着いているかもしれない。
残った作業はゲルヒンレグルン槽にリュドミラを入れて手に入れたアルゴリズムと自分の脳波データ入力するだけだ。脳波の変換にかかるのは半日程度。早ければ明日の昼にはリュドミラが眼を覚ます。
「――うん? このIFFは……」
レーダーに映る友軍の光点の中に見覚えのある識別コードを見つけたユーリーは開放回線で通信を繋ぐ。
「おーい、クラーラか? ラドゥーガ大隊のクラーラ・マルコヴナ・プロツェンコ中尉だろ!」
網膜投射に映ったのは美しい金髪とエキゾチックな顔立ちをした少女でユーリーが一度ナンパしようとした不良大隊の小隊長だ。
「…………」
通信が繋がったにも関わらず彼女は黙ったまま目も合わせようともしない。
もとより挨拶を交わすような間柄でも無いが、悪態すら返ってこないのは先日クリスカとイーニャの為に彼女の家族《ザハール》の鼻を折ったことを根に持っているからだろう、とユーリーは判断した。
確かあの男の鼻を折ったのはこれで三度目だったはずだ。
「お前らもこっちに来てたのか。いや、BETAの奴ら面倒な所に出てきてくれたよな。ここが壊滅しちまったおかげで第41軍団は砲撃戦力も戦術機甲部隊も半減。ホント、次が思いやられるぜ」
「…………」
「きっと今頃軍管区付きの参謀達は真っ青だ。まあ、官僚ってのはそれくらいの方がよく働くって言うし、いい薬になるだろ」
「…………」
「あ、そうだ。お前らイーニャとクリスカにちょっかいかけるのはもう止めた方がいいぜ。あいつら可愛い顔してるけど、戦術機に乗せるとかなりおっかねえからな」
「…………」
ユーリーに対するクラーラの反応は相変わらずの沈黙。だが、ここにきてユーリーは違和感を感じた。
別に無視をされるのはいい。向こうは子供だし、こちらもそれを気にしないだけ大人である。
しかし先程から黙って聞いているだけで戦闘する様子も移動する様子も無いのは何故なのか? それに――
「クラーラ? そういやお前の部隊――家族はどうした? はぐれたのか?」
「…………」
沈黙。
だが今度は無音ではない。通信回線を通じて向こうの管制ユニットで鳴ったブザー音がユーリーの耳に届いた。
「接近警報? ――――ッ!! 突撃級の生き残りがいやがった! おい、そっちに向かってるぞ! ……おい!」
「…………」
インカムに向かって怒鳴りつけるが彼女は相変わらずこちらを見ようともしない。
そしてデータリンクが写す友軍《アリゲートル》の光点は動かない。BETAを示す赤い4つの光点が近づいているにも関わらず。
――おかしい
何かがおかしい。
背筋を走る寒気の中から嫌な予感が首をもたげる。
慌ててフットペダルを踏み込み、MiG-31をレーダーが写すクラーラの機体の元へ向かわせた。その距離3000。
「おい! おいおいおい! 動け、動けよ! 突撃級が向かってんだぞ! 言うこと聞けよ、クラーラッ!」
――距離2500
今この時ほどMiG-31の初動が遅いことを呪ったことはない。AN3装備など破棄してしまいたいが試験機であるためパージ機構などつけていない。
せめてもの足しにと突撃砲一丁を除いた全ての装備をその場で切り離した。
その僅かな間にもレーダー上の敵性指標が友軍の光点に近づいていく。
「クラーラ! 逃げろ! 死んじまうぞ!」
――距離2000
突撃砲に残していた120mmを4匹の突撃級の進路へと撃ち込む。まだ距離は遠くロックオンすらできないが、もしかすると進路を逸らすくらいはできるはず――
1発目、HESH弾――外れ
2発目、HEAT弾――外れ
弾頭の大きな120mmに対して雨と全力飛行の風圧の影響は大きい。
微妙な感覚の狂いは大きな照準のズレという結果を生む。
「当たれ、当たれェェーー!! うわあああああああ!!」
3発目、HEAT弾――命中、最後部の突撃級が脱落
4発目 ――残弾無し
――距離1700
「あと300でいい! コイツのFCSなら36mmの有効射程外だって狙える! 倒せなくても足さえ止めれば――」
MiG-31の跳躍ユニットは青白いアフターバーナーで水蒸気の尾を引きながら機体を前へ前へと押しやる。機体の複合装甲は汚染物質を含んだ幾百、幾千の雨粒を弾丸に匹敵するほどの速度で受けてビリビリと震える。
「見えたッ! 間に合えーーーッ!」
――距離1500
もう少し。
突撃砲を伸ばし突撃級の未来位置に照準を定める。
その照準の先……クラーラのMiG-27《アリゲートル》。
弾丸は発射されなかった。
――グシュッ
IFFが友軍誤射回避のためトリガーをロックした直後、ユーリーが耳にしたのは瑞々しい果実が押しつぶされるような音。眼にしたのは真っ赤に染まり、そして途絶して真っ黒になった通信ウィンドウ。
「あ、ああッ、―――ぁあああああッ!!」
誤射の危険が無くなり、ようやく36mm弾が銃口を飛び出す。
たかだか200発も撃たないうちに突撃級は全て死に、400発を撃って柔らかい組織を全てミンチへと変え、800発でようやく外殻を粉々に砕き突撃級の痕跡を消し去った。
こんなに簡単な事なのに、救いの手は手遅れだった。
「クラーラ!」
用の終わった突撃砲を投げ打って、MiG-27の残骸を抱き上げる。
破壊され開閉する様子の無いアリゲートルの管制ユニットのハッチをMiG-31に無理矢理こじ開けさせると、サバイバルキットを引っ掴みこちらも管制ユニットを飛び出した。
「クラーラ! ――うっ!?」
――そこは狭く、ただひたすらに真っ赤な世界
眼を刺す薄黒い赤。赤色が空気を染めて鉄臭い匂いを放ち、グジュグジュした赤色の不快な水音が耳から入り込む。舌が感じる脂っぽい味も、生温く気味の悪い感触も全て赤色に感じる小さな空間。
空間の中央にいるのはフットペダルごと右手と両足を引きちぎられ、あらゆる臓器と肌が傷つくように何枚も何枚も装甲の破片を差し込まれたヒトガタのオブジェだ。
――そうだ、断じて人間では無い。
現にこうして相対していても人工ESP発現体ならば見えるはずの心の色が見えない。
死への恐れも、生きようという意地も無い。心が無いのならそれは人形だ。
恐怖を感じ、狂気に飲まれかけていたユーリーだったが、そのオブジェ――クラーラが僅かに息をしていることに気がついて彼は正気に戻った。
「しっかりしろよ! すぐに軍医の所に連れてってやる! ここは基地から遠いけど……お、俺の新型は速いんだ! すぐに着くからな!」
「…………」
掴んだ肩が震えている――失血によるショック状態だと気付いたユーリーはぬるい血液が飛び散るのも構わずに彼女をこの悪夢のような密室から引っ張り上げた。
手足が欠損したおかげでクラーラの体は小柄なユーリーでも持ち上げられるほどに軽い。
外では飛び出したユーリーを追ってきたザンギエフ達が戦術機を降りてこちらに向かってくるのが見えた。
「ザンギエフのおっさん! 助けてくれ! こいつの血が……血が止まらないんだ!」
「――ッ!!」
尋常ではない様子に駆け寄るザンギエフ達。
ユーリーは彼女の体を地に横たえ、出血の酷い下半身の傷口を懸命に抑えた。
(まともな救命施設がある後方基地まで短く見積もって45分。でも俺とブラミャーリサなら、この場で邪魔な部品を切り落として推進剤を全開で使えば30分でいける!)
僅かな間にもクラーラの体は恐ろしい勢いで軽くなっていく。
兵士として叩き込まれた知識で見れば彼女の余命はもって10分――いや、5分。
間に合うはずなど無い。
だが、もしかするとザンギエフなら――幾度も、何万人という人間を救ってきた"特別な人間"――偉大なソ連の英雄ならば、自分にできないことをやってくれるかもしれない。
ユーリーが少しだけ抱いた希望。
それを打ち砕いたのは首を横に振るモリ大尉と頷いて懐からトカレフ拳銃を取り出したザンギエフだった。
「残念だがオレ達にできることは何も無い。せめてこの中尉を苦しませる事の無いよう慈悲の一撃を与える」
「「「――ッ!」」」
声が出なかった。
傷口は余りにも深く、止血の手段は皆無。
間に合うはずが無い。ならば慈悲の一撃――正しい判断だ。どうして反論などできようか。
――待って。待ってくれ。
喉から声を絞り出そうとするが、声が出なかった。
ならば、とユーリーは彼の持つESPの力で彼女の心に問いかけた。
(起きろよ! 起きてこいつらに何か言えよ! このままだと、お前死んじまうぞ!)
(………………)
クラーラからは相変わらず何の意思も感じられない。
虚無だけを写すその眼を覗いた時にかろうじて読み取れた感情――彼女は途方も無い絶望の中にいた。
ユーリーが何もできない間にも、トルストイ大尉はドッグタグを外し時間を確認。KIAのための所定の手続きを完成させていく。
「中尉、貴様は祖国のために立派に戦った。貴様の勇気と献身を祖国は決して忘れないだろう」
「……あ、……ああ……」
ユーリーがクラーラのために出来たのは失血で痙攣し続ける左手を握ってやる事だけ。トルストイのように言葉を送る事も、せめて最後に名前を呼んでやろうという考えすら思い浮かばない。
ザンギエフがクラーラの眉間に銃口を突きつける。
最後の瞬間を見るのが恐ろしくて、ただただ恐ろしくて顔を背けた。
――タンッ
拳銃の発砲音は思ったより軽かった。
戦術機が使う36mmよりも、陸戦隊の重機関銃の12,7mmなどよりずっと軽い音。
こんな音が人間の命の重さなのか。BETAなんて化け物よりもずっと軽いのか。
「う"……」
自分の胃がおかしな動きをしている事に気付いたユーリーは急いでその場から離れた。
程なくこみ上げる酸っぱい味。
吐いた。
ようやく、脳がこれを現実であると認めてストレスとして処理したのである。
「…………ちくしょう……どうして……クラーラ。俺は言ったのに。逃げろって言ったのに……」
雨粒と地面で弾ける泥が強化装備についたクラーラの血を拭い去っていく。
「おかしいんだ……! こいつ、いくら呼びかけても心が空っぽだった。絶望しかなかった! 死んだ時だって未練も、断末魔も無かった! 死ねば俺には見えるはずなのに! なんでだよ。こいつ、なんでこんな風に死んだんだ!」
「……メドゥーサだ」
ザンギエフがポツリと漏らした。
「メドゥーサ……?」
「先の戦闘でラドゥーガ大隊は全滅している。この娘はそれが原因で"戦場自己喪失性無気力症"――メドゥーサの石像となって自ら生きることを放棄したのだ」
「全滅? 仲間が死んだからだって? 馬鹿を言うなよ、おっさん! ここは人死が当たり前の戦場でこいつはベテランの衛士だ! そんな事で死ぬ様な弱い女じゃない!」
クラーラを貶めるのは許さない。
そういうつもりで食って掛かったが、ユーリーの燃えるような眼光にもザンギエフは動じない。
「貴様はそうだろうな。守るべき者がいて、目指す夢がある人間だ。だがあの娘は違う。彼女には仲間しかいない。それしか知らない。そうなるように教育された兵士なのだ」
そういってザンギエフはメドゥーサの元凶、このソビエトの最も深い闇の正体をユーリーに教えた。
――中央防衛教育法
BETA大戦当初、ソビエト連邦政府はスターリン以来のファシズム的恐怖政治を国内政策として採用し、ロシア人以外の異民族を政治将校とセットにして最前線へ投入し続けた。
しかし従来の人間同士の戦争とは違い、悲惨な殲滅戦や撤退戦の多い対BETA戦線において前線の兵士達の恐怖は政治将校のもたらす恐怖を容易に越える。一度の戦闘で中隊単位の任務放棄が10件以上、脱走兵が3桁に登る事が常となり、急速にタガが緩み始めたソビエト連邦軍の指揮系統は崩壊の危機にあった。
そこで政府は新たな統率政策として、それまで社会主義国家として禁忌となっていた民族問題を利用する事を決めた。
生後間もない段階で子供達を民族ごとに軍の教育施設に収容し、そこで戦闘教練と戦時教育を叩き込む。家族からの断絶は将来的に人間としてのモラルの低下や党への反抗心の成長などの悪影響も見られたが、幼児が抱く家族の愛情に対する潜在的な欲求を自分と同じ"民族"に向けさせることができる。
そうして兵士が戦場で戦うためのもっとも強い動機――"戦友"と"家族"を重複認識させることでソ連軍はBETAに対しても屈強な継戦精神を持つ素晴らしい兵士を獲得したのだ。
――『ふっざけんな! アタシの家族をここまでコケにされて無傷で帰せるかよ!』
――『党~? 同志~? ロシア人が何ほざいてやがる!』
つまりラドゥーガ大隊のメンバーは比喩でもなんでもなく正しく家族だったということだ。
彼らにとって戦友は 兄弟であり、従兄妹であり、未来の配偶者でもある。
彼らの過去は家族と共に教育施設にあり、彼らの現在は戦友と共に戦場にあり、彼らの未来は妻か夫と子供を作って自分の民族を守ることある。
与えられたのはたった36人しかいない閉じられた小さく狭い世界。
彼らは自分の世界を守るために死に物狂いで戦い、そして多くの仲間を失えば世界が崩壊したと自らを捨てる。
絆が強固であるが故に、失ったときの反動が大きすぎるのだ。
「メドゥーサは世界でただ一国。このソビエト連邦だけで起こる戦争の病だ。発症のタイミングはそれぞれ。最後の一人になるまで発症しない者もいれば、部隊の7割の損耗で残った全員が発症した例もある。衛士だけではない。同じ教育を受けた子供は砲兵も歩兵も、確認しているだけで年間300人以上の犠牲者が出ている」
ラドゥーガ大隊がロシア人に向けていた敵意の意味。ユーリーは今になってようやく理解することができた。
美談でもなんでもない。全てはロシア人によって弄ばれた結果だ。
子供達《ラドゥーガ》もそれをわかっていた。わかっているから憎んで、それでも従うしか他なかった。
「外道め、畜生め! 何がメドゥーサだ! 病気でも怪物でもない! 石にしているのは人間じゃないか! オルタネイティヴ計画もソビエトも、どうしてここまで命を馬鹿にできるんだ!?」
怒りのままに地面を殴りつける。
泥が飛び散り口に入ったが構わず噛み砕いて飲み込んだ。
「戦争だからだ。ひとつ教えておいてやる。13年前に、この中央防衛教育法の原案を党に提出したのはオレだ」
「――――ッ!! あんたが!?」
「大佐! それは――ッ!」
何かを言おうとしたトルストイ大尉をザンギエフが手で制する。
その隙にユーリーは燃えるような怒りのままにザンギエフに飛び掛った。
「貴様ぁ、うおおおおおおおおぉぉっ!!」
「――ッ!! ユーリー、止めろ!」
トルストイが慌てた様子で叫んだが、それよりも拳を振るうほうが早い。
肉を打つ音が響く――だがザンギエフにダメージが通る様子は無い。拳も痛くない。強化装備のおかげだ。こんな便利な鎧があるせいで、ユーリーもザンギエフもクラーラの背負った苦痛の千分の一も感じられない。
そしてこんな風に相手の痛みを感じられないから、人間はいつまでだって敵も同胞も同じように殺すことができる。
「なんでだよ! あんたこの国をマトモにしたいんじゃなかったのか!? 最先端の正義を見たいって! アレは嘘だったのかよ!」
「止めるんだ、ユーリー!」
トルストイ大尉とモリ大尉によってユーリーの軽い体は地面に押さえつけられた。遮二無二暴れるがさすがに大人の軍人二人に手足を抑えられては逃れられない。
その白銀の髪までクラーラの血と雨泥で汚れたユーリーに対してザンギエフは憎いほど無傷のままそこに立っていた。
「嘘ではない。全てはこの国の未来ためだ。当時の我が軍はBETAの圧倒的な侵攻に抗する手段を持たなかった。祖国には必要だったのだ。BETAの足を一秒でも長く止める兵士達と、新しい体制を作るだけの時間が」
「そのためにメドゥーサを放っておくのか!? あんたは何もわかっちゃいない! ザハールもレナータもパーヴェルもノンナも――あいつの仲間はクラーラにあんな風に死んで欲しくて戦ったんじゃない! あれは人間の死に方じゃない! 誰もあんな風に死んじゃいけないんだ!」
押さえつけられたまま、強い意志を宿した眼で睨みつける。
もしこの場に他の人工ESP発現体が居れば光が―ービャーチェノワ達が2年前のタルキートナの演習場で見た眩い光が見えたであろう。
烈火の如き咆哮。ほとんど他人であるクラーラやラドゥーガ大隊のために彼は本気で怒っていた。
「貴様こそBETAを何もわかっていない。正論ではこの世界は救えん。ユーリー、"特別"になりたいのなら甘さを捨てろ。自分が守りたい1のために他の10を地獄に叩きこめ。そうしなければ地獄が全てを飲み込むことになる」
「そんな事、できるもんか!」
「やるのだ! 人類が未来を作るためには、結局はそうしなければならん。人間がBETAと戦うには圧倒的な武力が必要なのだ。力だけを求めろ。心を捨てて特別になれ。オレは愛した妻をハイヴに送り、魂を悪魔に売り、生涯を戦場に捧げた。全て祖国の未来を守るためだ」
「――クソッ! 共産主義者のクソッタレめ!!」
その巨大な体躯を仁王立ちにして見下ろすザンギエフ。
彼を睨み返すユーリーはふと、ザンギエフの瞳が海の底のように深い青であることに気が付いた。
――どこか懐かしい瞳の色。
抱いた疑心をあり得ないと振り払って、彼はもう一度クラーラの亡骸を見やり、彼女の死に様を眼に焼き付けた。
***1989年 8月18日 午前3時 シベリア軍管区 イルクーツク州 ブラーツク基地***
ほぼ全ての兵力が出撃し空っぽのブラーツク基地だったが、夜半を過ぎた頃ようやく戦闘区域から兵士達が戻ってきた。
だがその数は出撃前と比べて圧倒的に少ない。
シベリア軍管区の戦力は36軍と41軍によって成り立っているが、長年の戦闘によって疲弊していた二つの軍団の内一つが今回のBETAの地下侵攻を受けて半減してしまったのだ。
事態を重く見たシベリア軍管区の参謀達はすぐさま今回の戦闘詳報を作成。補給を期待して本国に送ったが、本国の参謀本部から伝えられたのは極東軍管区で試験中の陸上戦艦――どう考えても眉唾物の兵器の派遣と"責任者の政治総本部への出頭を求める"という一通の生贄催告通知のみ。
生贄を決定すべく基地の上位階級者達は会議を開いたが、喧々囂々の会議は長引くばかりで一向に収束しない。この様子を知る司令室付きのスタッフはどうやらシベリア戦線の苦境はまだ終わらないらしい、とため息を吐く有様だった。
一方、41軍にも36軍にも属さない第5戦術機ハンガーではイズベルガが戦術機の受け入れ準備をしていた。
トライアルの成果とその後の実戦参加の連絡を受けてもユーリーの心配などこれっぽちもしなかった彼女だが、夜半にリュドミラを乗せた車両がこちらへ到着するというのでさすがに寝ているわけにはいかない。
そしてつい先程、リュドミラの受け入れが終わった所にユーリー達レッドサイクロン小隊とA-01の帰還が報告されたのだった。
自走整備支援担架に乗せられて戻るMiG-31。損失した機体無し、消耗部品の疲労は激しいが被害は軽微。
待つ側としては文句無しの結果だが――
「二等兵君どうしたの? ひどい顔色よ?」
機体の損傷は少ないのに強化装備を血と泥にまみれさせているユーリーを見たイズベルガはそう言った。
「ほっといてくれ……それよりもリューはもう?」
「ええ。さっき搬入してゲルヒンレグルン槽に寝かせておいたわ。案の定あのナントカ計画の奴が"治療を手伝わせて欲しい"って食いついてきたけどおっ払っておいたわ。・・・・・・ねえ、本当に大丈夫なの?」
しつこく確認するイズベルガには答えず、ユーリーはさっさとドレッシングルームに向かうと強化装備を脱いでシャワーを浴びた。
何はともあれリュドミラに会うのに血と泥にまみれたままではいけない。免疫力の低下というのもあるが、たとえ少しでも彼女に血の臭いを感じさせたくない。
シャワーを浴びたユーリーは不機嫌なままゲルヒンレグルン槽があるイズベルガの研究室に向かう。
自分のIDでセキュリティーを解除しそこで二年ぶりの再会を果たした。
「…………リュー」
研究室の青白い灯りに写された患者着を着せられたリュドミラ。二年間昏睡しているだがそれでも身長は延びている。筋肉の落ちた細い腕。顔つきも若干大人っぽくなっている。
唯一当時は手術のために切られていた髪だけは再び元の長さと輝きを取り戻して記憶と変わらぬ様子だった。
――懐かしい思いで胸がいっぱいになる。
あのタルキートナでの日々。座学を受けて、訓練をして、馬鹿な事で言い争いをして。
開発実験は苦しかった。人間扱いもされない酷い環境であったが、それでも彼女と一緒に居ることはできた。
あの時、ザンギエフに挑まなければ自分はもっと姉と居ることができたはずだ。前に進むことを諦めていれば――
――『あなたはみんなのきぼう。クリスカもトリースタもわたしも、なにもしらなかったわたしたちにそとのせかいをおしえてくれた。たるきーとなでみんなにだれかのためになくことも、だれかのためにおこることも、だれかのためにたたかうこともおしえてくれた。どうすればわたしたちが"にんげん"になれるかをおしえてくれた』
イーニャは自分を希望だと言った。特別だともいった。
普通の自由――それが欲しかっただけなのに。何も救っていないのに。
ユーリーが彼女達に与えたのは仮初《かりそめ》の希望だけだ。あくまで偽物。きっといつかは自分を恨むだろう。希望を知らなければ絶望することもなかっただろうに。
ユーリーが普通を望めば、正しい事をしようとすれば不幸しか生まない。
――『貴様こそBETAを何もわかっていない。正論ではこの世界は救えん。ユーリー、"特別"になりたいのなら甘さを捨てろ。自分が守りたい1のために他の10を地獄に叩きこめ。そうしなければ地獄が全てを飲み込むことになる』
ザンギエフは自分に特別になれと言った。心を殺して、力を求めてザンギエフのようになれと。
自分を、他の全てを捨てて戦えば本当に大事な物だけは守ることができる。
ザンギエフは己や身近な人を捨てることで彼の祖国を守っている。
ユーリーが特別になれば……リュドミラだけは守ることができる。
「リュー、俺どうすればいいのかな?」
結局人間はどれだけ強くなっても一人。一人の人間に守れるのは1つだけ。
欲張って多くを望めば全てを失う。
現にユーリーは生前はジャミルと地球を守ろうとして、二度目はリュドミラを守り自由を得ようとして失敗している。
ならばどちらを選べばいいのかは明白だ。
だが、本当にそれでいいのか?
自分だけが勝手に割り切った世界でトリースタやイーニャ、クリスカはどうなる? イズベルガは? メドゥーサという彼の想像を絶する絶望の中で死ぬソビエトの被支配民族の子供達は?
「わかんねぇ。……わかんねえよ」
次の機会があれば恐らくそこが自分にとっての分水嶺だ。
過ちを繰り返すのか、それとも余分な全てを切り捨ててザンギエフのような怪物になるのか。
ユーリーはゲルヒンレグルン槽の端末を操作し、入手したアルゴリズムを入力すると傍に置いておいた薬瓶から錠剤を取り出した。
精神安定薬と睡眠薬だ。両方とも感情や思考を落ち着かせ、正常な脳波パターンを取るために服用する。
そして採取したユーリーの脳波パターンにリュドミラの脳波を合わせて彼女の覚醒を促すのだ。
必要な時間は約12時間。脳波の採取と調整は並行して行うから12時間後にはユーリーとリュドミラはほとんど同時に眼を覚ますことになる。
薬を服用したユーリーは自分の体に諸々の機器を取り付け、ゲルヒンレグルン槽の隣に設置したストレッチャーに横たわる。
なるべく何も考えないように目を閉じる。リュドミラが目覚めた時にはいつもの自分で居られるために。
疲れた体と睡眠薬が相乗の効果をもたらし、毛布を肩まで引っ張り上げるとすぐに彼は深い眠りの海に落ちていった。
――コード991発生につき第一防衛準備態勢が発令! 繰り返す第一防衛準備態勢が発令!