木刀が、老齢の米国軍人の頭を無慈悲に、卵の殻のように砕く――という俺が予想した未来図は、目の前に出現しなかった。
寸止め――ぎりぎりの所で青年軍人の振り下ろした木刀は止まった。
米国軍人の髪が、風圧で揺れる。
驚くべきことに、米国軍人は眉一つ動かさなかった。
国連軍服の青年のほうは、額に汗を流しながら、ぎりぎりの所で止めた木刀を引く。
……どうやら、最初から木刀は寸止めするつもりだったらしいが。一つ間違えば、惨事だぞ。
寸止めして見せた青年も青年だが、平然としている老人も老人。どんな肝っ玉をしてるんだ。
この人達は一体?
「このようにして振り下ろされる剣は、純粋な暴力です。剣を振り下ろす者が、正義のために振るおうが私心邪心のために振るおうが、ただの一撃。
また、受ける側が何を考えていようと、聖人であろうと悪人であろうと、頭部が割られれば死有るのみ――」
青年が、緊張をみなぎらせた顔でそう口にした。
「ふむ」
目に思慮深い光を灯し、老人がうなずく。
「一刀の前では、人間の持つ価値観・善悪心など、何の意味もありません。身分や貧富の差も、儚い卑小な妄執。
刀を振るう時というものの前では、全てが無慈悲なまでに平等となるのです。それに気づいた者は、一切の心の迷い苦しみから自由になります」
「なるほど」
「これは、己の欲望や執着全てから離れよう、とする禅に通じるものがあります。
古来より、剣の達人は腕を上げれば上げるほど、却って優劣勝敗を争う『畜生心』から自由になった、といいます」
「それが『剣禅一如』の心か。剣を学ぶものは、その境地を目指すわけだな」
老人の声には、感嘆の響きがあった。
「ええ、ウチの流派じゃそう教えてます。剣禅一如の解釈は、いろいろありますがね。
……まあ、こう偉そうに言っている俺自身、その境地に全く達していないんです。今のは全て師匠だった人の、受け売りで。
俺自身は、欲望に塗れた俗物で……お陰で、帝国軍を出るハメになりました」
青年の口元が、羞恥を含んだ笑みの形になる。
「だが、お陰でこうして私は面白い体験ができたわけだ。君のその俗物心が施した徳といえるだろう」
「恐縮です」
……なんだこれは。何か、凄い難しいことを話しているらしいが。
禅って言葉が聞こえたが、まさにやりとりが禅問答だ。
室内訓練室の入り口で立ち尽くし、内心で首を捻る俺。
「――しかし、閣下の胆力も大したものです。いや、昔からの流儀っていうやつで、入門式じゃ師範が寸止めをやって見せるんですがね。
相手方に選ばれた者は、大抵恐怖に耐えられず逃げるか、最低でも目をつぶっちまうんですが……」
しみじみと青年が言う。
……どこの流派だ。
額に貼り付けた米粒を、真剣で切って見せるから動くな、とかよりはマシだろうが……?
「頭が真っ白になっていただけだよ。ほら、手にはこんなに汗が……ん?」
朗らかに答えようとした老人と、俺の視線がふと合った。
老人の顔立ちは、年齢の割りに引き締まっており、眼光にも力があった。やっぱりどこか記憶に引っかかる。
「お?」
ついで、青年とも。
太い木刀を軽々と操る姿と似合わない、細面。こちらも、確かに覚えが……。
「あー! やっと会えたぜ!」
はっとなって敬礼する俺に、青年が木刀を下げながら近づいてきた。
それをきっかけに、青年の事を思い出す。
あの富士教導団との模擬戦で、一騎打ちを仕掛けてきた衛士だ!
「俺の事、覚えているよな?」
飴玉を見つけた子供のような顔で詰め寄られ、俺は仰け反りながらもうなずいた。
かつての模擬戦を思い出し、心の中で身構える俺の気持ちなどどこ吹く風、にっと笑って青年は敬礼した。
「池之端亨・国連軍中尉だ。今は、同僚って事になるな」
「……ええ!?」
俺の叫びが、訓練室の天井に突き刺さる。
――国連軍に左遷されたのか? その割には、やたらと軽くて悲壮感がないが……。
池之端中尉は、聞かれもしないのに自分の事情って奴を説明してくれた。
『イーグル・ショック』で富士教導団にいづらくなり、移籍を希望した事。
希望がかなったのはいいのだが、在日国連軍も『札付き』である中尉をもてあましているらしく、中々所属が決まらない事。
仕方なく、本部付士官という名ばかりの肩書きで雑務をしたり、日本文化に興味がある外国人軍人相手の……まぁ、一種の接待役をしているという。
池之端中尉が閣下と呼んだ老人も、ゆっくりとやってくる。足取りは、年齢を感じさせないしっかりしたものだった。
「中尉、その少年と知り合いかね?」
老人――いや、近くで見るとそう呼称するのは憚られる。背筋は伸びているし、軍服の下の体もやせ衰えている印象は無い。
「ああ、前にお話したTAKERU=SHIROGANE少尉です。SHIROGANE少尉、こちらはアメリカ陸軍の――」
池之端中尉の紹介を待たず、老人が俺に向けて口を開いた。
「アメリカ合衆国陸軍中将・ジョージ=バンデンブルグだ……ああ、今日は私は非番なのだよ。楽にしたまえ、少尉」
名乗ったバンデンブルク中将は、思わず背筋を伸ばした俺の肩を軽く叩く。
「……はっ」
俺は、どう反応していいか迷い、小さく答えることしかできなかった。
背中に、緊張から来る汗がじわりと滲む。
戦術機史を学べば、嫌でもその名前を覚えることになる超有名人じゃねーか!
在日米軍に赴任している、というニュースは聞いていた覚えがあったような……記憶にひっかかっていたのはそのためか。
……この中将が既に、俺の周辺にいろいろ手を回していた相手――つまり、かなり食えない爺さんである事に俺が気づくには、まだいくばくかの時間が必要だった。
「そんなにおかしいことかね? 剣のレクチャーを受ける事が……いや、我ながら年寄りの冷や水だと思わない事もないが……?」
俺の正面の位置に座るバンデンブルグ中将が、小首を傾げた。
ここはPX。
俺が食事を取るので、と訓練室を辞そうとしたら、『では一緒に』と池之端中尉とともについてきたのだ。
……はっきりいって、気疲れする。何しろ、相手は大物中の大物だ。
たまたま通りかかる連中が、場違いな階級章に目を剥き、慌てて敬礼してはそそくさと去っていく――そんな光景を何度も見た……。
将官クラスは普通、雑多なPXになんか顔を出さないからな。
「いえいえ、年齢がいってから剣を学ぶっていうのは珍しくないですよ。戦国時代の、七十歳超えた高名な武将が書いた弟子入りの誓紙とか、残ってますし。
仇討ちで有名な荒木という剣客も、年下の先生に弟子入りしたそうです。こっちは史実的には怪しいらしいですがね」
俺の隣で、調子よく話を合わせるのが池之端中尉。
まさに太鼓持ち、という表現がある態度だが……。
さっき垣間見たように、剣腕は確かなようだ。それに意外と教養があるのか?
そんな二人と同席し、最低限の相槌を打ちながら食事に専念する俺の内心は、『食がすすまねぇ……』の一言だ。
特に、池之端中尉の、中将には届かない呟きが聞こえてくるのが……。
『アメリカのお偉いさんと伝手ができるとはなぁ』『これで日本から追い出されても、アメリカに行けるな』とか。
周りに合わせての自称だけ烈士だっていう、模擬戦での嫌な自白は、嘘でも何でもなかったのか。
ここまですっぱりきっぱり割り切っている様子を見せられると、ちょっと戦慄を覚える……。
お陰で、俺と関わったために帝国軍を追い出されたんだな、という罪悪感は欠片も感じずに済んでいるが。
中将に遠慮して、音を立てないように味噌汁を啜りながら、俺は思案を巡らせる。
ここは、中将に積極的に話しかけて、上層部へのコネクションを再構築すべきか?
それとも黙っているほうが吉、なんだろうか。
この人、確かアメリカ軍内ではその声望と功績の割りに、冷や飯を食わされているはず。
判断が難しいぜ……。
だが……今の停滞した状況を打開するためには、小さな機会も生かしたほうが良いかも知れない。
俺は、景気良くしゃべり続ける中尉の勢いからそっと身を離しながら、どう中将に言葉をかけるか思案を巡らせた。
そんな俺の視界の端に、新たな人影が立った。
元『技量劣悪』組で、手抜きしている印象があった秋月正春少尉だ。
恐らく、いつものように食事を取ろうとしてこの席にやってきたのだろう。
また中将の存在に気づいて、緊張して逃げていく若手が一人……と、思いきや。
秋月の視線の先は、中将ではなく俺の隣――池之端に釘付けになっていた。
「……ん? んん!?」
中将相手におしゃべりしていた池之端も、自分を見つめる国連軍少尉に顔を向け。同時に、表情を厳しくした。
彼ら二人の間の空気が、一気に硬化したように俺には感じられる。
「し、失礼しました!」
秋月が、そう言い残して踵を返す。その顔つきは、まるで幽霊でも見たかのように、蒼白となっていた。
その背中が見えなくなるまで、池之端は鋭い視線を向け続け、小さく何か呟いていた。
急に雰囲気が変わった池之端の様子に、バンデンブルク中将は目を瞬かせている。
「……あ、なんでもないっす」
俺達の様子に気づいた池之端が、雰囲気を払うように軽く手を振って見せる。
だが。
俺は、池之端の呟きをしっかりと聞き取ってしまった。
『密偵野郎……』
と、いう内容のそれを。
中国東北部・河北省の承徳は、かつて清王朝時代の離宮があった地だ。
背後には渤海湾を控え、北側には万里の長城の東端が伺えた。
日本帝国・大陸派遣軍の一部は、繰り返された戦いですっかり往時の面影をなくしたこの地に戦陣を敷き、対BETA防衛線の一翼を担っていた。
氷でできた針を含んだような冷たい空気。それを裂くのはスーパーカーボンの刃、飛び散るのは異星由来生物の血肉。
94式歩行戦術機・不知火の振るった長刀が、要撃級の胴体を正面から両断する。
返り血を浴びた装甲の塗装に反射する太陽の光は鈍い。AL砲弾が迎撃され、発生した重金属が空を汚し日を遮っているためだ。
斬撃のために崩れた姿勢を立て直そうとする不知火に、右側から別の要撃級が襲いかかった。天を突くように前腕を振り上げ、死の一撃を見舞おうとする。
が、それより早く、要撃級の白い横腹に無数の衝撃が叩きつけられた。
後方にいた不知火が、戦術機の基本運用である二機連携を忠実に実行して36ミリ砲弾を撃ち込んだのだ。
味方がフォローしてくれるのを確信していたかのように、長刀装備の不知火は別の要撃級に斬りかかる。鋭い太刀風の下、BETAは体液を撒き散らして両断された。
重なるように倒れた二体の要撃級を尻目に、二機の不知火は新たな目標を探す。
「ふんっ!」
不知火のセンサーアイが、鋭く輝く。
搭乗衛士が通信網に乗せて吐いた気合とともに、BETAの体液を散らして閃いた長刀が、要撃級の死骸の陰から飛び出してきた戦車級をその切っ先で串刺しにした。
直後、短距離跳躍で位置を変えた僚機が、さらに湧き出す戦車級の群れを、まとめて120ミリ砲弾で吹き飛ばす。
その間にも、不知火の長刀は縦横に走り、寄ってくるBETAを両断し続ける。
不知火の装甲に、BETA特有の濁った色をした体液が飛び散るが、戦車級の歯は一度たりとも届かない。
激しいが短い戦闘の末、戦車級は数十体の骸を晒して全滅する。
長刀を構えた不知火の管制ユニットには、二十代半ばの若い衛士が搭乗していた。
やや細面だが、ひ弱という印象はない。鋭すぎる眼光と、戦陣にあるゆえの無精髭が、甘さを消し飛ばしているのだ。
その衛士――津崎護(まもる)帝国陸軍中尉は、近くのBETA全てを動かぬ炭素に変えた、と確認するとゆっくりと息を吐いた。
緑の装甲殻に大穴を作った突撃級、赤黒い液体の池としか見えないほど砕かれた戦車級。
ユーラシアの大地にBETAが晒しているのは、そんな敗北の姿ばかりだった。
今現在は、だ。ほどなく、また新手がやって来るだろう。
「ヒリュウ01より各機へ。状況を知らせ」
津崎の声には、ぶっきらぼうな響きがある。
それに答えて、指揮下各機が報告を入れる。
この日、まだ朝靄も晴れないうちに攻め寄せてきたBETA群を、帝国陸軍第16戦術機甲連隊を基幹とする大陸派遣軍が迎撃。
支援の砲兵や他国軍と共同し、合計七千体に及ぶ敵の攻勢を粉砕していた。
だが、衛士達の顔色は晴れない。
これが、孤立した局地防衛戦における勝利に過ぎない、と知っているからだ。
可能なら、BETAの圧力が減じた今をもって逆侵攻し、ハイヴにより近い位置で効果的な『間引き』等の積極行動を行いたい。
しかし、各国軍の足並みが揃わないため、不可能なのだ。
BETAに食い尽くされ、度重なる戦闘で荒れたユーラシアの広大な地で大軍を機動させるには、入念な兵站計画の策定と実施が必要だ。
東アジア死守。
東アジア失陥を前提とした遅滞戦闘・戦力温存と難民脱出優先。
いずれの戦略方針を採ろうと、各国がばらばらのままではろくなことにならないのは、誰でもわかることだ。
BETAというおぞましい化け物に立ち向かう勇士は、各国に大勢いる。彼等を率いる、優れた前線指揮官も、だ。
だが、より大局的なレベルで、利害・意見を対立させる者達を説き伏せあるいは宥めすかし、政治側と呼吸を合わせて一つの戦略目標に向かわせる指導者が欠如している。
一応、国連軍司令部に最高指揮権があることになっているが、名目上のものにすぎず、各国の勝手な動きを統御できていない。
いわゆる交渉や調整で駄目ならば、強権的に統制を取るしかないのだが、それを為せる規律がないのだ。
(明白かつ重大な命令違反を犯した士官――例えば個人的な意図をもって、友軍に大損害を与えた場合など――の処罰一つ、国連軍司令部独自の権限では実質的に不可能。
士官の所属国の同意を得て引き渡しを受け、国際軍事法廷をわざわざ開かなければならない。方針や命令に、強制力など持たせようがない)
これでは、勝てるほうが不思議であった。
『まるで自ら負けを求めているような体制』『過去の人類同士の戦争時代のほうが、まだマシな多国籍軍を形成できていた』
と、酷評される程度なのが、人類軍の偽らざる実態。
そして、現時点において独自の戦略を優先させている国の筆頭が、日本帝国だ。
「ヒリュウ09よりヒリュウ01。損害無しですが、砲弾消費が激しいです」
「ホウオウ04よりヒリュウ01。左腕損傷なれど、他に異常なし。戦闘継続可能」
津崎に答えた声の数は、計34。一中尉が指揮下に入れる数としては、あまりに多かった。
正式な津崎の役職は、一介の小隊長に過ぎない。本来なら、部下は4機のはずだった。
だが、これが実戦の場では当たり前の光景であった。
表向きは、より高位の士官が『適当と認む』として指揮権を一時預けている形をとっているが……。
位階年齢に関わらず、もっとも指揮に優れた衛士がトップを取る。それが、勝利と生存の追及を第一とする、前線の不文律だった。
やがて津崎機の周囲に、無数の戦術機が集結してくる。
不知火・陽炎・撃震……中には、明らかに違法な改修を受けた戦地特有の戦術機も見受けられた。
「――CPよりヒリュウ01。司令部より、重ねて後退命令が出ております。これ以上、支援砲撃の割当てもありません。
戦車隊、機械化歩兵隊の後退も完了しました」
損耗の激しい『部下』に下がるよう指示を出した津崎の網膜投影画面に、若い女性オペレーターの顔画像が映った。
既に派遣軍司令部は、万里の長城の終着点といえる山海関まで後退している。
「……少なくとも友邦国の軍が後退するまでは、退けぬ。せめて、補給を回してくれ」
津崎のどこか時代がかった言葉は、そっけなかった。
女性オペレーターの顔に、困惑の色が浮かぶ。
大陸派遣軍において、津崎という士官は頼りがいがある反面、困り者であった。
自分なりの視点と判断基準をもつゆえ、しばしば上層部と対立するのだ。
しかし、強いて外せない事情もある。
技量面で見て、津崎やその部下達は精鋭であった。
死神が獲物を常に狙う戦場において、敵味方の屍骸を積み上げた生存競争を勝ち抜いた者のみが達せるレベル。
世界水準でエースと呼ばれる、大規模対BETA戦経験が二十回を超える者が揃っている。
内地(帝国本土)での、斯衛軍や帝都守備連隊のような『安全な演習場での精鋭』など問題にもならない、つわもの揃いであった。
まともな補給が来る保証もなく、いつ化け物の餌食となるか分からない戦地で、結果を出し続ける――そんな試練は、どんな訓練環境を用意しようが、再現できるものではない。
これを乗り越えた兵は、内地で訓練成績を競っている間は決してかなわなかった相手を、鼻歌交じりで蹴散らす。
同時に、生存率は恐ろしく低いから、狙って出来る養成法ではない。
このようにして生まれるアクの強い兵は、司令部からすると頼りがいのあるのと同時に、非常に扱いづらい。
「しかし……」
「重ねて上申する。今、ここで友軍を弊履(破れた履物)の如く見捨てれば、明日、友軍から見捨てられるのは我が日本だ。
後退しないとは言っておらん。ただ、後退の手順を任せよ、と言っているのだ」
能面のようだった津崎の顔に、苛立ちが浮かぶ。
1997年に入って以来、大陸派遣軍は本土防衛重視にシフトした本国の意向を受けて、退嬰的な戦闘を行っていた。
戦力保全を第一とし、口実をつけては早々と戦線から後退、また所属部隊を内地に引き上げさせているのだ。
津崎のような実戦に出る士官にとっては、眉を潜める態度である。
彼らの思考範囲は、あくまでも現場の将兵のものであり、天下国家全体を見ているとは言いがたい。『国連秘密計画』のような事情など、知る由もない。
だからこそ、一面で真実を突く時があった。
諸外国軍や避難してくる民間人からの、帝国への不信の気配がある。
死守の覚悟を固めている他国軍(統一中華、大東亜連合、国連そして米軍)からすれば、帝国軍の態度は裏切りとさえ見える。
(ただ、大東亜連合の一部からは、東アジア死守は不可として遅滞戦闘と非戦闘員・民間人脱出を優先すべし、という声が上がりつつある)
帝国が手を抜いた分の負担をカバーするアメリカ兵の中からは、罵倒混じりに日米安保破棄を主張する声さえ聞こえていた。
今はまだ、前線部隊間の不協和音程度だが……その声が米本土に届き、より大きな政治を動かさないと、誰が言い切れるだろうか?
同じ不満を、他国の兵が持たない保証もない。
立場が逆なら、帝国人だって怒りはじめるだろう――人間、自分が他人にやった事の重大さには鈍感で、被害にあった事には過敏なのは万国共通だ。
安全な日本の、さらに後方で実像以上に自国を美化し、やはり実像以下に他国を貶めていい気になっている自称『愛国の烈士』などと違い、まさに食うか食われるかの世界にいる。
そんな最前線の兵の思考は、危険に対して野生の獣並みに敏感であった。
アメリカなどの諸外国に見下され、あるいは踏み台にされたくなければ、まず自分達から攻撃の口実を与えるな――それが、前線士官の共通認識だ。
例え一部なりとも、今左右の戦線で戦っている他国籍の兵とともに、最後の最後まで戦場で踏ん張って見せる帝国の兵士がいる――津崎は、そう言い続けて来た。
ありていにいえば、他国の信頼を繋ぎとめるための生贄だが、その役目は、自分が背負うとも。
激しい戦争は、人間から虚飾を容赦なく剥ぎ取る。
まして、他国の土地での戦いだ。
日本国内では絶対の、皇帝陛下や将軍殿下の権威を持ち出しても、何の意味もない。むしろ、実績のない肩書きは無用の反感を買う。
まだ泥臭く戦っている帝国軍の二等兵のほうが、他国人の敬意を勝ち取れるだろう。
だが……。
「中尉、お願いです。これ以上は……無理です。このままでは、軍令違反に問われます」
「……っ!」
上層部からすれば、とんでもない話であった。
本国の方針が決した以上、大陸派遣軍の貴重な実戦経験者は、生きて本土に戻って貰わなければならない。
死地を潜り抜けたプロフェッショナルが要所にいるかいないか、だけで同じような練度・装備の部隊でも全く戦果と生存率が違ってくる。
本物の精鋭を必要とする部隊や、教官職に配置するためのソロバンを、既に人事部は弾いているのだ。
教官職へあてる人材は、特に無事戻ってきて欲しいと国防省は願っている。
どんな精鋭も、いつかは衰えて軍を去っていく。得た技術や戦訓の継承は、戦闘力を維持・向上させるためには絶対に必要だからだ。
城内省も、鵜の目鷹の目で斯衛軍への引抜きをかける人材を探している事だろう。
……いかに腕が立とうと『ある理由』から、津崎は決して斯衛軍に誘われることはないのだが。
強権をもってでも、後退をさせる気配がある――オペレーターは、そう目で訴えていた。
沈黙する津崎の視界に、新たな画面がポップアップする。
「――若」
そう場違いな、奇妙な呼びかけをしてきたのは、衛士ではなかった。作業帽を頭に載せた、中年の整備兵だ。
後方の野戦整備地からの通信であった。
「若はよせ」
心底嫌そうに顔をしかめる津崎に、整備兵は悪びれたようすもなく「すいませんね」と答えた。
「女子を泣かすものではありませんぞ、津崎中尉……兵站を確保できぬ戦は、部下を無闇に死なせるだけです。
そのような愚戦では、他国の不信を解くことはかないますまい」
「……」
整備兵が、帽子を取ると見事なまでに剃り上がった頭が覗いた。軍人というより、どこぞのお寺の温和な和尚さん、といった風情になる。
それに、津崎は弱かった。
何しろこの整備兵――熊谷三郎曹長は、津崎の機付整備長であると同時に、私的な顔なじみでもあるのだ。
いろいろな意味で、頭が上がらない相手であった。
それでも、津崎は抗弁する。
「帝国軍に対する他国の悪感情を肌で感じているのは、曹長も同じであろう!?
このままでは、拙すぎる!」
津崎はなおも続けた。
「国連軍や他国軍の方針に不同意であるのなら、あるいは問題があって付き合えぬ、と思うのなら正面から意見を公然と申し入れるべきだ。
このように話し合いもろくにもたないまま、手抜きじみた戦いをするのは、退き方の中でも――」
「……腰の据わらぬ本国の態度の影響、でしょうな。ですが、これ以上はいけません。前線に許された裁量を超えます。
一旦、正式な命令が下った以上は、不本意であろうが服従する――この原則を崩しては、他国との関係がどうのという前に、帝国軍が揺らぎますぞ」
熊谷の目にも、上層部への不満が閃いたが……口に出しては、きっぱりと撤退を再度勧めた。
数秒、画面越しに二人の視線がぶつかり合う。
先に逸らされたのは、若いほうの目だった。
「――わかった、撤退する。だが、予言しておく。このままでは将来、帝国は、他国から煮え湯を飲まされるが如き扱いをされるようになる。
それは、自業自得ぞ……」
苦虫を噛み潰すような表情で、津崎の口から無念の言葉が漏れた。