呆けたように空を眺める青年が一人。
少々冷え込む季節。
暖を取ろうと、買っておいたホットの缶コーヒーのタブをとり、口に含む。
じんわりと口内に広がる缶コーヒー独特の苦みと、嘘っぽい甘味。
青年は口内を洗浄しようと口をだらしなく広げたまま、また空を向きつぶやいた。
「冬だなぁ」
「卒業論文のテーマがまだ決まってないって聞いたんだけど……あんた正気?」
頭の中が元から空なのか、はたまらワザと頭の中を空にしていたのか、それは定かではないが、突如掛ってきた電話によって青年は無理矢理、現実に引き戻された。
またか、うんざりした気分で今日こそ勝ってみせると意気込み電話を開く。
電話の主は、青年もよく知る少女。
いや、年の頃から言えば少女とは最早言えないのかもしれない。
ただ、青年の意識の中では、体は幾ら発達しようと、女性と言うよりもなぜか少女の方がしっくりと来るのだった。まあ、その体すら発達していないのだから彼の意識の方が正しいのかもしれないが。
少女の声は、呆れたと言外に含んでいた。
電話越しであったが、少女のいつもの冷めた眼がありありと脳裏に浮かぶ。
「……まぁ、ね」
言葉に詰まりながら、バツが悪そうに頭を掻く。
「な~にが、『まぁ、ね』よ。かっこつけてるつもりぃ?」
「いや、そうじゃないけどさ。……相変わらず口悪いよね。みー」
「語尾に私の名前置くのやめてくれない?なんか鳴き声みたいで気持ち悪い」
「次から気をつけるよ。みー」
「あ・ん・た・わぁ~~~」
プルプルと小刻みに震えるみーと呼ばれる少女の姿が、電話越しからでも見て取れて青年は少し溜飲が下がった気がした。いつもの会話に飽きが来ていたからだ。
「で、誤魔化されないわよ。私は」
みーは、こういうところが侮れないところだよな。青年はいつもそう感じる。
疾うに二十歳は越えているというに、しかし外見は中学生のようにしか見て取れない。
しばしば小学生に間違われることすらある。
生来の口の悪さも相まって、みーと呼ばれる少女と少しばかりの交流を持った者は須らく、彼女をおしゃまな女の子と言った印象を受ける。
だが、長い付き合いである青年からすれば、外見や口舌に惑わされなければ、彼女の煌めくような知性の眩い輝きを簡単に感じられるものを、なぜ世の多くの男性は感じないのだろうか、と不思議に思うのだった。
出来ればそれを感じ、可及的速やかに彼女を引き取ってもらいたいと真摯に願っている。
男性から敬遠されるのは、多分に彼女の気質が関係しているだろうとも推察していたが。
「テーマも決まっているし、資料も大体揃っているよ」
青年は弁解を口にした。
勿論、隙だらけの弁解と呼ぶには余りに幼稚な、言い訳にすらならないと自覚している。
「提出しない理由は?まだ書きあがっていないって言うなら、私も手伝うわよ」
それじゃあ困るでしょ?
ふふん、と鼻をならし、そう続け、強気の姿勢を崩さない。
いっそ両手を挙げてやろうか、青年は乱暴に思ったが、そんな思考を霧散させるように頭を振った。どうせ納得するまでみーが攻撃の手を緩めないことは先刻承知だった。
「僕はどうやらロマンチストだったらしい」
「夢想家って言いなさいよ。言葉は正しく使いなさい」
「卒業すれば働かなくちゃならない」
「そうね」
「だったら今しかないよね?」
「論文なしじゃ、うちは卒業できないわよ」
「だから、ダミー用の論文は用意しているさ」
「ダミー用のテーマと揃えた資料を提出してから、改めて時間を作るっていう手もあるわ」
「でも、出来れば証明したい」
「……自己顕示欲の強いこと」
少女は押し黙った。
青年はじっと辛抱強く少女の重たい口が開くのを待った。
だが、なかなか天岩戸は開かない。
八百万の神よろしく、アメノウズメでも連れてこなくてはならないか。
少女にとってのアメノウズメと言えば、青年の中で思い当たる節が一つだけあった。
「一月の提出日まで間に合わなかったら、ダミー用を提出する。もう少しだけ見逃して欲しいんだ。頼むよ、姉さん」
意を持って言葉を紡ぐ。
自分よりも遥かに年下に見える少女に、電話越しとは言え「姉」と呼ぶのは抵抗があった。
無論、過去のいざこざも含めてのことである。
「ふ~~」
何かを振り払うように、青年の姉は息を吐いた。
「……あんたの亡霊好きにはほとほと頭が下がるわ」
青年はそれを同意と受け取った。
「昔からの夢だからね」
感謝の言葉を述べるのは、照れ臭かったので、青年は強がった。
「よっく言うわね~名前が同じだけって理由で、実在したかもわからないような眉唾物の伝説を追いかけようなんて、正気じゃないわ。負けよ、負け。いいわ。約束通り十万円貸してあげる。行ってきなさい。弟が大学生活を捧げた研究よ、あんたの根性に負けて大盤振る舞いしてあげるわ」
「ここ数日は同じ問答だったからね、子供の頃からの夢はやっぱり強いさ」
「苛立っていたくせに?」
「どんなことでも飽きは来るさ」
「夢だって飽きればよかったのに」
「それはそれ、これはこれ」
「で、いつ頃出発する予定?」
「ん~明日から丁度冬休みだし、明日くらいかな?」
「どうせなら、あんたの好きな桜花の亡霊にちなんで、桜花作戦のあった日に出たら?」
少女はからかうように、けれどどこか引き留めるように青年を誘った。
ここ数日繰り返された問答は結局のところ、過保護な姉が弟の一人旅を承認できなかっただけなのだ。しかし、折角許しを出した舌の根の乾かぬ内に引き留める素振りを見せるのは如何なものか、青年は思わず苦笑した。
とうの昔に姉の身長を抜き去ったというのに、姉の中では青年は昔の貧相な体の弱虫で苛められっ子のままなのだろう。いい加減に姉の頭の中にいる自分の時間を進めてもらいたいものだ、そう思ったが、自分の中の姉も昔のまま進んでいないのだから、似た者姉弟なのかもしれない。
「今日くらいは家でゆっくりしていきなさい、お金もその時に渡すわ。いいわね、武」
「お金が貰えるなら、今日は家でゆっくりするよ、みー」
武と呼ばれた青年は、姉の怒った声を遮るように携帯を折りたたんだ。
未だに自分の中で姉はヒーローだった。
弱虫で、泣き虫で、苛められっ子の自分を颯爽と助けに来てくれた姉には頭が上がらない。
そんな姉と話してどっと疲れが噴き出たのか、肩が凝った気がした。
が、同時にそんな姉を説き伏せられたことで肩の荷が軽くなったような気がした。
今回のこと、これだけは譲れなかった。
何せ、幼い武に道を示してくれたのは自分と同じ名前の、偶像のような英雄。
だが、彼に出会わせてくれたのは他ならぬ姉だからだ。
『ほら、こいつはあんたと同じ名前よ。だからきっとあんたもこいつみたいになれるのよ』
いつか言った姉の台詞は今も鮮明に心に残っている。
だから、だからこそ、自分と同じ名前の英雄の行方を知りたくなったのだ。
社会の荒波に船をこぎ出す前に、現代よりも比べるのもおこがましい位、遥かに過酷なBETA大戦という人類の存亡を賭けた戦場を、刹那に駆けた自分と同じ名を持つ幻の英雄、今ではその存在を疑われ、映画や小説の中だけしか登場しない、『桜花の亡霊』と呼ばれる『白銀武』のことを知りたいのだ。
彼が実在したか、そんなことはどうでもよかった。
いや、実在してくれた方がよいのだが、仮に実在していなかったとしても、何か、ほんの欠片でも彼の存在を感じる何かを掴みたかった。
すっかり冷え切った缶コーヒーを口に含み、また呆けたように空を仰いだ。
「あ~~冬だなぁ」
桜花作戦決行日、白銀武はこんな寒空の下何を思ったのだろうか。
ふと、武はそんなことが気にかかった。