≪カオス≫
誰もが雪之丞が吹き飛ばされる。
悪くすれば握りつぶされることを想像しただろう。
だが現実は違う。
殴り飛ばされたのは横島のほうだった。
あの時、確かに【恐怖の腕】は働いていた。
だからこそ雪之丞を含め皆が硬直している。
……ひとつの仮説が生まれた。
その仮説はひどく甘美で私の心を侵食していく。
私はその誘惑に負けた。
なに、勝算はある。
いざとなれば横島から預かっている文珠を使ってどうにかして見せるさ。
私はゆっくりと横島に歩み寄る。
横島の手には【憎悪の瞳】が。
……まずいな。即死系か。
いや、ためらう必要はない。
私は歩みを止めない。
黒い炎は私を嘗めるように包み込んだ。
だが私は思考も歩みも止めることなく進んでいく。
なぜなら憎悪の炎は一切私を傷つけてはいないからだ。
「ふふふふ。ハハハハハハ!」
私は喜びのあまり哄笑した。
馬鹿め! 馬鹿め! 馬鹿め! 馬鹿め! 馬鹿め! 馬鹿め! 馬鹿め! 馬鹿め!
馬鹿なのは横島と、その馬鹿さ加減を理解しきれていなかったこの私だ。
「ジル、こちらに来るといい」
リリシアとヒャクメが止めようとするが私は畳み掛けるように言った。
……リリシア、そして恐らくヒャクメも横島の過去を知ったな。
……まぁいい。
「横島のことを信じたいのであれば来るといい」
その言葉にリリシアとヒャクメの拘束は一瞬弱まり、ジルは意を決したようにこちらにやってくる。
ジルに向かって【慟哭の声】が放たれる。
氷と音の多重攻撃はジルを傷つけなかった。
ジルが歩を進めるたびに【憤怒の頭蓋】が、【虚無の脚】が、【憎悪の瞳】がジルに襲い掛かるがジルに一切の被害はない。
横島は能面のような表情から恐怖にかられたような表情に変わり最後にただジルを近寄らせないためだけに【恐怖の腕】をもって最大の斥力を発生させた。
斥力によって弾かれた空気は暴風となって吹き荒れる。
ジルにはなんら影響を与えないまま。
とうとうジルは横島のもとにたどり着き、抱きついた。
横島はジルを殴り飛ばす……素振りを見せたがそうすることも出来ずに振り上げた拳は解かれジルの頭の上に優しくおかれるのが精一杯だった。
やはりだ。
私はつかつかと横島の元に歩み寄る。
【恐怖の腕】が私にも向けられるが、そよ風すら起こらない。
「拒絶……出来るはずがないよなぁ。ここにいるのはお前が狂おしいほどに、いや狂ってなお捜し求めていた者達なのだからなぁ」
私は横島の胸倉を掴む。
「いい加減に戻ってこんか横島! お前が守りたかったものは、お前が守りたいものはここにある!」
横島の瞳に恐怖のおびえではなく、能面の闇ではなく、知性と理性の輝きがよみがえるのを感じる。
「……痛いよ、カオス」
「当たり前だ! 散々心配かけさせよって」
皆が横島に駆け寄ってくる。
男どもからはとりあえず一発ずつ殴られていた。
「横島……謝るなよ。誰もお前にそんなことをしてほしいわけではないからな」
「……あぁ、みんな、ありがとう」
横島精一杯の謝意。
それで十分。
横島は雪之丞に向き直る。
「さっきの一発、今迄で一番効いたよ」
「今度は師匠が正気の時にぶち込んでやる」
横島は苦笑しながら抱きつくジルの頭を撫で続ける。
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横島の帰還パーティーの最中、私は美神美智恵や西条、鬼道、六道冥華や小竜姫、ワルキューレ、リリシアに呼び出された。
「ふむ。説明を求めるかね?」
「えぇ。いったいどういうことだったか教えていただけないでしょうか?」
「別にたいしたことではない。……横島にとっては無意識の底から我らに仇なすという心を持ち合わせていなかったがゆえに、横島の悪心を糧に生まれる異形の霊波刀は我らに効果を及ぼさなかった。大切なことは忘れぬ。つまりはそういうことだ」
「……嘘よ。そんなはずはないわ。だって横島は、それにジルは」
リリシア、やはり知っておるな。
「それが横島にとっては弱点ともいえるな。心を許すのに立場や時間は意味を成さず、一度心を許せばどこまでも無防備。敵対することになっても……それは変わらぬ。だからこそ私は横島を信用しているし、傍で支えるものが必要だと思っている」
「……馬鹿ね」
リリシアはそれだけ言うとパーティーに戻っていく。
横島の膝にはジルがべったりと張り付き、その両脇をマリアとテレサが固めている。
横島の過去について尋ねるものはいなかった。
恐らく怖かったのだろう。せっかく帰ってきた横島がまたどこかへ行ってしまうのを。
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パーティーが終わったあと一人待ち人を待つ。
「お待たせしてしまいましたかな?」
「なに、約束もしていないのに来てもらったんだ。それだけで十分だよ」
待ち人、ゼクウと心見はやってきた。
「……おかしい、とは思っておったよ。横島のこの事態におぬしらが最低限しか表に出てこなかったのだからな。私達では横島の記憶を正確に再現できぬゆえ、文珠による強制回復も諦めておったが、横島の眷属、式神であるお前たちであればかのうだったのではないか?」
「かなりの確立で可能だったでしょうな。ですが我らはマスターの現状を理解してもらうためにあえて事態を静観しておりました。……我らの目的とマスターの目的は最終段階で食い違いますゆえ謀るような真似をしてしまいました」
私とゼクウはにらみ合う。
「……よくぞヨーロッパの魔王とその友を掌の上で踊らせたものだな。ほめてやる」
私は背を向けた。
「それだけですか?」
「十分だよ。横島とお前達の食い違い、これだけ情報が集まれば私には十分だよ。何か必要があれば声をかけるがいい。私もお前達に協力をしよう」
まったく、横島の馬鹿め。お前がそんなんだからフォローを入れるほうが苦労するのだ。
お前の思い通りにはさせんからな。