ひびわれた鐘
・
・
・
悲しくもまた楽しく耳を傾けるのは、冬の夜、
震えつつ煙る炎のかたわらで、……
霧のなかに鐘の歌が響くにつれ、
ともに込み上げてくる、遠い過去の面影。……
・
・
もう二度とこの地に足を踏み入れることはないと思っていた。
しばらく住んでいたところを追い出され、放浪していくうちのほんの気まぐれだった。
最早この国に来ても迷惑をかけるものもいなかろうと。
生まれ故郷とはいえもう百年近くも足を踏み入れていなければ風景も変わる。
人一人通らぬ真冬の夜の教会の墓地で、一人の魔族が墓地の前に佇む。
その肩は小さく震えていた。
教会の鐘がしめやかに鳴り響く中、魔族は呟く。
「母さん。父さん。……ただいま」
・
・
幸福者、あの強靭な喉をもつ鐘は、
老いさらばえても、機敏で、溌剌として、
信心深いその大声を実直にわたらせる。……
いわば、天幕の下、夜警に立つ老兵のように!
・
・
魔族がその場を立ち去ろうとしたとき、一人の老神父が魔族に声をかけてきた。
「すいません。すぐに立ち去りますから」
「かまいませんよ。確かにここは神の家ですが、静かに死者を偲ぶ方が魔族とはいえ悪い方とは思えませんから」
老神父は魔族と肩を並べるようにたつ。
魔族ももう一度墓に向き直った。
「この墓の中に眠る方のお知り合いですか?」
「……」
「……もし、この墓の前に魔族の方が立つことがあれば渡してもらいたいものがあると、この墓に眠る男性が遺言を残しておられます。先々代が固く約束を交わしたらしく、この教会の神父は毎日それを持ち歩いているんですよ。受け取っていただけますかな?」
老神父は魔族の手のひらに二つのビー玉のような珠を渡して見せる。
その珠にはこの国の言葉で【伝】という文字が刻まれていた。
・
・
けれどわが魂はひびわれて……。気鬱なとき、
歌声を、夜の冷気にみなぎらそうとしても、
ああ、しばしばその声は、かすれてしまう。……
・
・
魔族は誰一人邪魔の入らない空間で、その珠の力を解放する。
それは百年近く前の出来事をあたかも今目の前で起きているかのようなリアリティーをもって魔族に伝えた。
「よう、馬鹿息子! 元気か? 俺は元気だ」
懐かしい笑顔。
だが魔族はその目が真っ赤に充血していることを、頬が半ばこけているのを見逃さなかった。
「お前が失踪してから十年がたったぞ。そろそろお前は馬鹿息子から世界を儚むオオバカやろうに変わっているころらしいが世間にはお前のことは知らされていないから静かなもんだ。ま、俺たち夫婦には煩い監視がついているがな。今度思い切りぶん殴ってやろうかと考えているところだが、ま、今日はそんなことはどうでもいいやな。母さんがお前にどうしても伝えなきゃなんないことがあるって言うんでな。お前の残した文珠をこうして使っているわけだ」
男、横島大樹はビデオを操作した。
その映像の中には彼の妻、横島百合子がベッドの上で憔悴した様子で寝ているのがわかった。
それは紛れも泣く百合子であったが、年のわりに若々しかった肌には深く皺が刻まれ、髪には多くの白髪が混ざっていた。
大樹の姿はほとんど変化がないのに一気に老け込んだ様子がわかる。
「……忠夫、見ている? あなたがまだ捕まったとも殺されたとも聞いていないから母さんは安心しているわ。……ひどい話よね? あなたは悪いことなんか何もしてない、むしろ世界を救ったって言うのに殺せだなんて。……ごめんな、忠夫。かんにん。お前が苦しんでいるって言うのにお母ちゃんお前に何にもしてやれんのや。もうお前を抱きしめてやることも、ご飯作ったげることも、お帰りって言うたることももうでけんのや。忠夫、かんにんしてや」
ビデオの中の母が笑顔で、涙をぼろぼろとこぼしてそう繰り返し謝り続ける。
大樹は居たたまれなくなった様にビデオを切った。
「……今のビデオがこれを写している3日前のもの。……今朝方母さんが息をひきとったよ。死因は良くわからん。医者の奴は小難しい病名をつけていたが、……早い話が生命力が枯渇してしまったらしい。すごいんだぞ? 何しろあの母さんが『さっさと病気を治さんと浮気をするぞ』って俺が言ったのに『あなたは寂しがりやだからね。早くいい女を見つけて』なんていうんだぜ? 俺は天変地異の前触れかと思ったくらいだ。ま、母さんのお墨付きもあることだしこれからは羽を伸ばすとするさ。来年にはお前の弟か妹がダース単位でいるかもしれんからよろしく。で、だ。お前に実は頼みがあるんだが、もしお前が人を殺すことに何の抵抗も持たなくなったようなら真っ先に殺してもらいたい男がいるんだ。なに、簡単なことだ。そいつは家族は何があっても守るって誓っていたくせに子供の窮地に気づかず、最愛の妻の支えにもなれず、子供を助ける力ももてなかった大馬鹿野郎だ。もし、この映像を見たのがお前が変わっちまう前だったらよろしく頼むよ」
一つ目の文珠はそこで終わっていた。
魔族は血と、涙に濡れ震える手で、もうひとつの文珠も解放した。
「……母さんが死んでから4年がたったよ」
文珠はそこから始まっていた。
ベッドの上に腰掛けている大樹もまた、すでに色濃く死相が出ていた。
「おかしな話だよな。もうお前はとっくに環境不適合ってやつを起こしてろくでなしの化け物に変わっているはずだって言うのに。世界はこんなにも平和だ。んでだ。どうも母さんが俺を呼んでいるらしいんで俺もちぃっとそっちに顔を出してくるからよ。……弟も妹も作らんかった。向こうで母さんにしばかれるのもいやだったからな。これでお前は天涯孤独って言うわけだ。だからよ、もし世界を滅ぼしたくなったら気兼ねする必要はない。ドーンとやれ! ……ま、少しでもその気がないんだったらやめとけ。この文珠のことは唐巣神父に任せたから多分お前があの教会にくれば届くだろう。……それじゃあ最後になるから、一言だけ言っておくぞ。……忠夫、すまん」
文珠はそこで切れた。
・
・
あたかも、血の湖のほとり、屍の山のもと、
見捨てられた負傷兵の、身動きもならずに、
しぼりだす、最後の鈍い喘ぎのように!
・
・
「あ、あぁあ、ヴァアアアアアァアア! 何で、何でなんだよ! どうして俺のやることはいつもいつも間に合わないんだよ! 何で、何で父さんと母さんが生きている間に帰らなかったんだよ! 父さんも、母さんも俺のことを信じてくれていたって言うのに。待っていてくれていたのに」
身じろぎもしないまま嗚咽はいつまでもいつまでも続く。
涙などとうに枯れ果てていたと思ったがそれは思い上がりだった。
迷惑をかけたくなかったなどということは最早世迷いごとだった。
それでも、それでも感謝をしよう。
この文珠を残してくれた唐巣神父とその後継者たちに。
この島国に足を運んだ気まぐれに。
・
・
悲しくもまた楽しく耳を傾けるのは、冬の夜、
震えつつ煙る炎のかたわらで、……
霧のなかに鐘の歌が響くにつれ、
ともに込み上げてくる、遠い過去の面影。……
幸福者、あの強靭な喉をもつ鐘は、
老いさらばえても、機敏で、溌剌として、
信心深いその大声を実直にわたらせる。……
いわば、天幕の下、夜警に立つ老兵のように!
けれどわが魂はひびわれて……。気鬱なとき、
歌声を、夜の冷気にみなぎらそうとしても、
ああ、しばしばその声は、かすれてしまう。……
あたかも、血の湖のほとり、屍の山のもと、
見捨てられた負傷兵の、身動きもならずに、
しぼりだす、最後の鈍い喘ぎのように!
・
・
・
≪あとがき≫
続編を書くかどうか迷っていました。
今でも迷っています。
正味、ヒイラギの詩よりうまく書けた自身もないというのがしょうねです。
一応今回はボードレールのひびわれた鐘をモチーフにしてみました。
前にも書きましたが私は詩歌に詳しいわけではありませんのである意味書き逃げです^^;