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No.528の一覧
[0] 儚き蛍火[z](2006/01/15 11:05)
[1] 儚き蛍火 2話[z](2006/01/18 02:03)
[2] 儚き蛍火 3話[z](2006/01/22 09:33)
[3] 儚き蛍火 4話[z](2006/01/29 16:06)
[4] 儚き蛍火 5話[z](2006/02/03 00:14)
[5] 儚き蛍火 最終話[z](2006/02/07 23:11)
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[528] 儚き蛍火
Name: z 次を表示する
Date: 2006/01/15 11:05
 世界に刻まれる歴史や様々な人物の生涯は無数の必然と偶然と選択によって綴られている。
 例えば美神令子と横島忠夫の出会いは1000年前から約束された必然と言えるかもしれない。その一方で横島忠夫とルシオラの出会いは間違いなく混沌とした状況が織り成した偶然であった。けれど人を支配し、滅ぼす事を画策する魔神から生み出されたルシオラが、横島忠夫に惹かれるようになったのは果たして偶然だったのか、それとも必然だったのか、それは最高神すらも分からない。
 そしてルシオラが逆天号から投げ出されて死に掛けた所を横島忠夫に助けられてから、数日後。
 あの日から胸の中で急速に育まれていく甘酸っぱい感情をはっきりと認識した彼女はある決断を下して横島を買い物へと誘った。






 ────敵でもいいから、もう一度一緒に夕焼けを

 ────おまえ、馬鹿なの!?

 あれは告白だったのだろうか。それとも………。

「それじゃあ帰るわよ、ヨコシマ」

「!?───ああ」

 その声で横島の意識は現実へと回帰した。
 気がつけば、美智恵と連絡を取って基地の場所を教えるかどうか逡巡する間に、ルシオラは買い物を終えている。
 機を完全に逸した横島は、しかし何となくほっとした心地で荷物を受け取ると、車に乗り込んだ。




 スーパーマーケット『サンデーR』を出て最初の交差点に差し掛かった時、ルシオラはハンドルに向かって何かをボソッと呟いた。
 すると2人を乗せた燃料不詳の車は不気味な声で鳴きながら往路とは別の道を辿りだす。

「ちょっと遠回りになるけどこっちから帰りましょう」

「えっ?でも西側からだと基地に着くまでかなり時間がかかるんじゃ」

「いいの。こっちからなら見たいものが見えるし、それに………」

 回り道すれば、少しでもお前と一緒に居られるから。
 続く言葉を呑み込むとルシオラは黙ってハンドルを握った。
 そして彼女の意を受けた車は交差点を後にすると、山道を往路とは逆の西側から回り込むような道筋で帰途についたのだった。







 


「どう、綺麗でしょう?」

「ああ、高度3000m超の逆天号のデッキからとは違った味があるな」

 澄み切った空は華麗に染まり、散在する落葉樹や野草は夕日に映えて穏やかな緑を情熱を思わせる鮮やかな赤へと変えている。
 山道の頂上付近にあった路肩に車を止めて外に出た2人は、肩を並べるように芝の生えた歩道の傍らに腰を下ろして西の彼方を眺めていた。
 2人の目には、今日一日の役目を終えた陽光が世界に赤を炸裂させながら、溶ける様に地平線に沈んでいく姿が映っている。
 日々繰り返されている終わりの情景。
 それは正しく昼と夜の一瞬のすきまであった。

「ふふ。実は私ね、逆天号のデッキ以外から夕日を見るのって初めてなんだ」

「地上に降りたのは今回が初めてなのか?」

「そうじゃないわ。
 つい最近までは私もベスパもパピリオもずっと魔界にある基地に閉じこもってアシュ様の御手伝いしてたの。
 だから地上から夕日を見た事はなかったのね」

 これは軍事機密だから内緒ね、と屈託なく微笑むルシオラに相槌を打ちながら、横島は己の心が浮き立ってくるのを感じていた。
 コスプレの様な戦闘服を脱いで、カジュアルな服装に身を包むルシオラの姿は触覚さえなければ感情豊かな人間の美少女と何ら変わりなく、嬉しそうに顔を綻ばせる彼女の態度の端々には横島への仄かな好意が滲み出ている。たとえ直ぐ隣にいる相手が気の迷いも同情も許されない人類の敵とはいえ、それでもこうして2人っきりでいる時間は掛け値なしに楽しかった。

 ────敵でもいい。また一緒に夕焼けを見て。

 あの時のルシオラの願いに嘘などなく。
 そして今、隣に居る彼女は横島の目にもはっきりと分かるほど嬉しそうに紅い空を眺めていた。
 どこか儚げな美しさを湛えるルシオラの横顔を見ていると、彼女の期待を裏切らなくて良かったとしみじみ思えてくる。
 美智恵や人類にとっては許し難い怠慢かもしれないが、きっとこれで良かったのだ。
 情が移ってしまった事を自覚しながら、彼は美神達への後ろめたさを誤魔化すように声を出した。

「そう言えばここからだと基地に着くまで相当時間がかかるだろ。
 あんまり遅いとベスパ達が心配するんじゃないか?」

「大丈夫よ。サンデーRを出る時に電話しておいたから。
 それに蜂蜜とタンパク質は備蓄があったから、私達が今日の夕食に間に合わなくても平気なの」

 そう言えばそうだったな、と僅かに苦笑いの成分を含ませながら、横島はサンデーRの公衆電話をちらちらと見ていた己の姿を思い返していた。
 今、あの時の事を思うと幾分の罪悪感と安堵が緩やかに胸を掠めていく。
 けれど結局どこまでいっても、ルシオラが人間を滅ぼす魔神に組している限り、2人の間には決して埋められぬ断裂があるのだ。

 ────せめてルシオラがアシュタロスの使い魔じゃなくてただの魔族だったら。

 視線を地平線に向けたまま、遣る瀬無い感傷に囚われそうになった時、

「今日はありがとう、横島。こんなに素敵な思い出をくれて」

 淡々と感謝を紡ぐ声が届いた。
 振り向けば何かを決意したルシオラの顔。
 まっすぐにこちらを見詰める瞳は彼の胸中の迷いを見透かしているようで。
 何かに押されるように、俺は何もしていないと言いかけた横島の唇を彼女の指がそっと塞いだ。

「この辺りの事が詳しく書かれてる地図よ。これを見ながら歩けば5時間くらいで最寄の駅に着くと思うわ」

 そう言いながら彼女はポケットの中から折りたたまれた紙片を取り出した。
 反射的に手をその紙片に伸ばそうとして───そこで彼はルシオラの瞳を揺らす寂寥と諦念に気がついた。
 良く見れば彼女の指先は微かに震えている。
 それはまるで内心の葛藤を表しているようで。
 その時何故か、

 ────下っ端を使い捨てるなんてアシュタロスと変わらんじゃないか!!
       そんなやり方、俺は認めんからなっ!!

 以前、美智恵に切った啖呵と苛立ちが去来した。
 苛立ちの次に浮かんだのはTV局でパピリオが連れて来たキャメランが美神を圧倒した光景。
 美智恵が駆けつけるまで、稀有な力を持つ霊能力者達が神魔の武具を用いて総力を挙げても
 それは覆せぬ残酷な事実を物語っていた。

 このまま逃げれば次に会う時、まず間違いなく自分とルシオラ達は敵同士として対峙する事になる。
 実力が違いすぎて手加減など考える余地もない恐るべき敵として。
 いや、一緒に夕日を見ている今ですら2人は相容れない間柄なのだ。
 ルシオラだって既に横島の正体が人間側が差し向けたスパイだと気付いているのだろう。

「どうしたの?これがあれば今夜中にでも逃げられるわ」

 促すような彼女の声。けれど注意して聞けば、語尾が震えているのは明らかだった。
 それでもルシオラは、仲間に疑われるリスクを犯してまでも彼を逃がそうとしている。
 傍にいて欲しいという本音を胸に隠したまま、生き延びて欲しいと願って。
 それに気付いた時、横島の目には、ルシオラが寂寥と哀切に苛まれる可憐な少女にしか映らなかった。

 ────それでホントに良いのかよ!

 強く問い返したい気持ちに駆られながらも、横島は必死にそれを抑え込み。
 けれど募る苛立ちは彼の理性を侵食して。
 いつのまにか心底に沈殿していた訳の分からぬ情動が溢れ出して。

「……ねえよ」

「えっ?」

「逃げるのは1人じゃねえよ!ルシオラ、俺と一緒に行こう!!」

「な、何を!?わ、わたしはおまえ達人間の敵で───」

「それが何だよ、俺だってテレビ中継されたせいで人類の敵扱いされてるさ!
 でもきっとそんな肩書きなんかどうにだってなる、絶対に!
 アシュタロスに使い捨てにされるくらいなら俺達のところに来いよ。
 寿命だって神族や魔族がいるんだから何とかなるって!!
 そうすりゃ、夕焼けなんか百回でも二百回でも一緒に―――――!!」

 気付けば横島は叫んでいた。抑えきれない真情をどうにかして伝えようと、支離滅裂気味に言葉を並べ立てていた。

 戦いたくない。
 殺し合いなんかしたくない。
 生きて欲しい。
 それは決して抱いてはいけない思いの筈だった。
 それが分かっていながら………けれどもう、どうしようもなかった。

 ────あいつら、好きだ。

 恐るべき力を示す姿も、他愛無い事に一喜一憂する姿も、生活感に溢れる姿も。
 そんな等身大の彼女達を見続けた末に至った気持ちは、少年期に特有の未熟な感情故の産物だとしても、嘘じゃなかった。
 彼の胸に蟠っているアシュタロスや美智恵への反発とも相まって、その想いを気の迷いだなどと誤魔化し、切り捨てられる筈がなかった。
 それは三姉妹の寿命の事を知った時に初めて生じ、人質を前に土遇羅達が攻撃を延期した時から徐々に膨らみだし、美智恵の攻撃からルシオラやベスパを助けた時に確固とした形になり、そして今はもう決して切り捨てられない想いに昇華した親愛の念だった。

「………本気で言ってるの?」

「ああ、本気さ、ルシオラ。
 俺は嫌だ。これでお前と一緒に夕焼けを見るのが最後だなんて絶対に嫌だ」

「ヨコシマ………」

 半信半疑の面持ちで聞き返す彼女に向けられた横島の真摯な瞳と言葉。
 そこには、気遣いと懇願と誤魔化しようもない彼女への好意が溢れていて。
 だからルシオラの心に名状し難い感情が突き抜けた。
 望むなら何度でも一緒に夕焼けを見ようと、そう言ってくれた横島への愛しさが心の底から込み上げてくる。
 たとえその言葉の根底にあるのが憐れみだったとしても、仇敵である自分に寄せてくれた彼の好意は本物だった。

「ありがとう、すごく、嬉しい。
 ………でも、それはできないの」

 だがルシオラはその愚かしいほど優しい申し出を拒んだ。拒まざるをえなかった。
 裏切りは死を以って報いる。それが彼女達に課されたテン・コマンドメントの楔。
 逆らえば命はない。創造主に逆らう道具に価値など無いのだから。

 ────それでも、たった1年の命ならば、終わり方を選ぶ権利ぐらいは私にも。

 けれど横島という男の心に自らの存在を刻み込みたいという激情は、それが主と妹達とそして目の前の心優しい少年が望まぬ行為だと理解した上でなお彼女の理性を振り切って、もう引き返せない所まで高ぶって。
 ルシオラは疑問を宿す横島の眼差しから隠れるように彼の肩に顔を埋めると、耳元に口を当てて己の決意を囁いた。

 ────おまえの思い出になりたいから、部屋に行くわ。

 あまりにも明け透けな意味を持つ言葉に、横島の心身が完全に凍りつく。
 口をパクパクさせながら必死に何かを確かめようとする彼に向かって優しく頷いてみせると、ルシオラは恥ずかしげに目を伏せながらそっと己の頭を横島の肩に乗せた。
 横島の腕に耳を押し付けると温もりと共にトクントクンと音がする。
 少しだけ速いテンポのメロディーは彼の生きている証。 
 その生命の音に耳を傾けながら、ルシオラは己の死に様を反芻した。
 人間の男に抱かれる事。
 それはコード7への抵触。
 自分の肉体と魂の死を意味する禁忌。
 だが皮肉にも彼女に生きて欲しいと願う横島の優しさが、ルシオラの心に残っていた迷いを打ち消して。

 ────本当は、今日だけなんて、いや。私も、ずっとこうしていたい。

 それはいつの間にか胸の中に芽生えた綺麗な夢。
 誰にも明かせない彼女だけの見果てぬ夢。
 叶わぬと知りながらも、想わずにはいられぬ夢。
 それでも茜色の光に照らされながら横島の手を握る彼女の心は、これ以上ないくらいに満たされて。

「ヨコシマ」

「ん?」

「好き。大好き」

「ふえっ!?」

「答えなくていい。ただ、言いたかっただけだから」

 目を空へ向けたまま呟くと、ルシオラは横島の腕に縋りつく。
 快晴の日の空に浮かぶ雲の様にゆったりとした時間が流れ、心地よい静寂に身を任せる少年と少女の間をそよ風が吹きぬけていく。
 夕暮れの光が、浮かべた恥じらいと畏れを隠そうとするかのように2人の顔を赤く染めている。
 その空を。己の生涯で最後となる夕焼けを。ルシオラは万感の想いを込めて見つめた。
 美しい空だった。目の前に広がる、黄昏と呼ばれる茜色の終焉は最高に美しかった。
 そうして2人は寄り添うように肩を寄せ合い、手を繋ぎながら、世界が闇に包まれるまで黄昏の情景を眺め続けていた。














 すっかり暗くなってから、ようやく基地に戻った二人を迎えたのはご機嫌斜めのベスパとパピリオだった。
 ルシオラの夕焼け好きを知悉しているとは言っても、思いっきり羽を伸ばしたいと思っているのはベスパもパピリオも同じ。
 夕焼け観賞のおかげで真っ暗になるまで帰ってこないのでは、文句を言いたくもなるというものだ。
 ルシオラはベスパを謝罪を織り交ぜながら巧みに宥めすかし、横島はパピリオのご機嫌を取る為に散々ゲームに付き合って。
 ようやく2人が解放されたのは、あと少しで日付が変わろうとする時間だった。




 付近に民家もない山荘は深夜を迎えて静寂に包まれていた。
 既に住人達は皆、寝室のベッドに戻って夢の中にいる。
 けれどその中で、横島忠夫の意識は脳内を駆けめぐる麻薬のような分泌物の作用によって眠気を寄せ付けずにいた。
 どっくんどっくんと心臓が荒々しく鼓動を刻む音がする。
 さっきから喉が渇いて仕方がない。
 ごくりと唾を飲み込むと、その音もやけに大きく反響しながら鼓膜を震わせる。
 既にベッドに入ってから20分が経過しているが、充血した横島の両眼は見開かれ、鋭い視線で虚空を睨んでいた。
 寝室に入ってから一気にテンションを増して、今はもう臨界寸前にまで昂る煩悩と緊張感。
 鋭敏に研ぎ澄まされた聴覚は、常ならば聞こえる筈のない梟の夜鳴きや虫の声を捉え続けている。

「まだなのかよ・・・・・・・って言うかホントにやっちまうのか、俺?」

 交差する迷いと焦燥感。
 それは彼の興奮を加速させ。
 痺れを切らして立ち上がろうとした時、トントンと控えめな力でドアがノックされた。

「お待たせ、ヨコシマ」

「あっ、ああ」

 戸を開けると、滑り込むようにして現れるネグリジェの上にパジャマを羽織ったルシオラの姿。
 手に抱えた枕はこれから2人がしようとする事を雄弁に物語っていて、横島の心臓がドクンと大きく跳ねた。
 綺麗だった。月明かりに照らし出されたルシオラは本当に綺麗だった。
 思わず目も言葉も心さえも奪われて立ち尽くす彼の横を通り過ぎると、彼女は並べる様にベッドに枕を置いて振り返る。

「ヨコシマ?」

 答えはない。横島は呆けたように口を開いて立ち竦み、血走った目に欲望と共にある種の畏れと保護欲を浮かべていた。
 月光の下に佇むルシオラは何故かとても儚く見えた。

「どうしたの、やっと二人っきりになれたのに?」

 言葉を失った少年にゆっくりと近付くと、彼女は己の思いの丈全てが伝わるようにと、体中を密着させるように彼の胸に頬を寄せた。
 その気になれば一瞬で殺せてしまう脆弱な人間の体。
 けれど抱きついた彼女の肌に伝わる温もりは何もよりも心地よく。
 おずおずと彼女の背に手を回し、抱き返してくる彼の手はあの時の様に優しくて。
 目の前にいる横島の全てが、泣きたくなってしまうほどにルシオラの胸を切なくさせる。

 そして同時に彼女は自覚する。
 抱きとめられた時の胸の高まりとは別に、体の奥がどんどん熱くなっている事に。
 早鐘を打つ心臓と、どんどん熱を増していく己の呼吸。
 今、自分は欲情してる。
 一緒に夕焼けを見て、彼女を助けたいと言ってくれたこの男に心から抱かれたいと願っている。
 胸と腕から伝わってくる、少年の体温と霊波。
 見た目によらず細身でがっしりとした胸板と、そこから伝わってくる少年の心臓の音。
 耳を澄ませば彼の鼓動も自分と同じように激しくなっているのが分かる。

 ────興奮してくれてるんだ。

 ソレを理解した途端、彼女の中の熱情は更に上方へと駆り立てられた。
 もう抑えなど効かない。誰が何と言おうとも止まらない。
 たとえこの逢瀬が今宵限りの朧な夢だとしても、夏の夜に伴侶を求めて飛び回る儚い蛍のように、自分は自分の意志で恋に生きて恋に散る。

 ────私が死んでも、ヨコシマの思い出の中に一緒に夕焼けを見た私と今の私の姿が刻まれるのなら、それだけで私は………。

 ずっと少年と一緒にいたい。その許されざる欲望を振り切るようにルシオラは顔を上げるとそっと少年の口を塞いだ。

「ル……シ……オラ」

「……う、くん………」

 触れた唇の熱さにのぼせ上がったようにルシオラの脳裏が白くなる。
 妹達への罪悪感も主である魔神への畏怖もその心からは消え去って。
 もう何も考えられなかった。
 ただ今の想い全てを伝えたくて、彼女は恥じらいも忘れて横島の唇を激しく求めた。

「っ、ん……す、き………」

 呼吸が既に獣の様に荒くなっているのが分かる。
 唇を離して見詰めあうと自分を見る横島の瞳からも理性が消えかけている。

「ヨコシマ」

 本能から湧き出る恋と言う名の熱情と欲望が少年の体を求め、ルシオラは彼の首にかじりついた。
 彼も躊躇いがちに腕を伸ばし、けれど彼女を受け入れるように確かな力で抱き返す。
 1つになろうとするかの様に、体を、腕を激しく絡ませた抱擁。
 体温と想いの全てを永遠に残るように刻み込みたくて、

「ふうっ………んぁ」

 ルシオラは鼻を鳴らして再び口付けをせがむ。
 雪の様にゆっくりと静かに降ってくる少年の唇。
 緊張のせいか慣れない仕草で戸惑うように与えられるキスは稚拙極まりない。
 けれどそんなぎこちない愛撫すら、極上の砂糖水の様に彼女を酔わせていく。

「ね、ヨコシマ。脱がすわよ」

 肌と肌を隔てるTシャツの裾に手を掛けながら悪戯っぽく微笑む少女に少年は柄にもなく照れながら脱がしやすいように両手を差し上げた。
 Tシャツを脱がせると露になる彼の上半身。
 細身ながらも数々の修羅場を乗り越えたせいか、そこには引き締まった筋肉が付いている。

「……んっ」

 そっとなぞる様に胸板や肩に口付けて舌を這わせると、横島の体がぶるりと震えた。

「ルシオラ、俺も」

 彼女のパジャマのボタンをはずそうと首元に伸びてきた彼の指。

「待って………」

 それを柔らかく押さえると、ルシオラはゆっくりと立ち上がり、少しだけ横島から離れた。

「よく見ていてね」

 ずっと忘れないようにね、と言外に思いを託しながら彼女は白磁のように細く滑らかな指をボタンに掛けた。
 横島の目が淫魔に魅入られたかのようにルシオラの姿に釘付けとなる。
 やがてプチプチとボタンが外れていく音が何度か響くと、ルシオラのパジャマがさらりと落ちた。
 金縛りにあったように静止したまま見つめる横島の前で、肌身が透けている薄手のネグリジェが現れる。
 羞恥に頬を染めながら僅かに目を伏せると、ルシオラはそれも脱ぎ捨てて、彼女の裸体が露わになる。
 傷一つ無い白磁の様な肌。
 妖精のような華奢な全身。

 そして胸を隠すように腕を組みながら、ルシオラは窓から差し込む月光の中に佇んで、彼の視線に己が肢体を晒す。
 恥ずかしくて倒れそうになりながら、けれど己の全てを覚えてもらいたくて。

「綺麗だ………すごく綺麗だよ、ルシオラ」

「………うれしい、ヨコシマ」

 潤んだ瞳、紅潮した頬、
 触れれば消えてしまいそうな儚いルシオラの裸体。
 その彼女の全てがあまりにも美しすぎるから。
 きっと、そのせいだろう。
 こんなにも興奮しているのに、自分が雇い主にセクハラする時の様に飛び掛る事もせず、どこか冷静にルシオラと接触できるのは。




 しばらく見詰め合ってから、ルシオラは横島との距離を詰めると、目を瞑りながらもう一度彼に口付けた。
 裸体になったせいで直に伝わってくる体温と肌の感触が彼女の興奮を更に押し上げていく。
 さっきまでは僅かに余裕の残っていた横島の理性も日光を浴びた雪のように溶けていく。
 差し込まれ、絡まり合い、舐り合う舌と舌。
 唇を触れ合わせたまま目を閉じると世界から景色が消え、口歓の感触だけが彼女の感じる全てとなる。
 それは刹那だけの全能感。

 ────永遠なんてない。

 短い己の生に思いを馳せる時、彼女はつくづくそう思う。
 道具として作り出された自分は用済みになれば役目を終えて消滅する。
 その在り方はシンプルで純粋であるが故に無機質だ。
 でも………それだけでは寂しすぎると感情が訴える。
 だから、だろうか。
 たとえこれが彼にとって刹那の逢瀬に過ぎないと分かっていても、いつか横島忠夫の隣に別の女性が並ぶ事になると分かっていても、こんなにも求められる事が嬉しいのは。こんなにも切ないほどに激しい歓喜に胸が満たされるのは。

「ヨコシマ。ヨコシマ!」

 やがて、肉体の昂りを表す様に喘ぐ声には艶が混じり、彼を抱きしめる腕には力が篭る。
 ただ抱き合っているだけで達してしまいそうになりながらも、ルシオラの体は貪欲に横島を求めて動き出す。
 背中を撫でるように腕を滑らせ、横島の首筋や耳元に唇を押しつけ。
 横島もそれに答えて彼女の顔中に口付けの雨を優しく降らせ。
 それは横島とルシオラの情欲の結晶だった。
 だからもう、抱き合う2人に理性は無く。
 激情に流されるままに絡まりあった彼らの姿態は、いつの間にかベッドへと倒れこんでいた。

 重なり合うと、下になった彼女の体に横島の重みと体温と緊張までもが伝わってくる。
 それは温かくて心地よい感覚だった。
 体を重ねるだけでこんなにも幸せな気分になれるのだと、気付いた彼女は瞼を閉ざして息を吐く。
 太股に伝わってくる灼熱。それは押し付けられた横島の滾り。濡れている自分の女陰。
 
 ────さようなら、みんな。
 
 遂に待ち望んでいた瞬間が訪れた事を悟ったルシオラは瞑目したまま、己の未来とアシュタロスや妹達と、そして横島忠夫と出会ったこの世界に別れを告げた。
 目を瞑ると最後に思い浮かんでくるのは、肩を寄せ合いながら眺めた今日の夕暮れの空。
 一日の終わりを告げる紅の景色に己の宿命を重ねた少女は、黄昏という言葉をこれ以上ないくらいに噛み締めながら、今の自分があの空の様に美しい思い出となって少年の心の中に残り続ける事を想って幸せそうに微笑んだ。

 ────最後に一緒に夕陽を見たね、ヨコシマ………昼と夜の一瞬のすきま。
       短い間しか見れないから………きれい………。






 やがて夜空に輝く月が天頂から緩やかに下り始めた時、少女は少年の腕に抱かれながら想いを遂げた。
 横島を受け入れた彼女の体は引き裂かれるような痛みに震え、その心は至福に咽び泣く。
 同時に始まる魔神の仕掛けた霊体ウイルスの蠢動。
 それは、まるで彼女がこの世界に存在したという事実さえ許さぬかのようにルシオラの幽体を完膚なきまでに蹂躙して。
 消えていく。
 消えていく。
 与えられた使命も、2人の妹達との思い出も、そして少し前に出会った最愛のヒトの記憶も、その何もかもが痛みと共に消えていく。
 強風に吹き飛ばされる砂塵の城の様に崩れ、打ち砕かれ、粉々に散らばって。
 刹那の間に彼女の全てを破壊し尽くして。

 それでもなお────

「ヨコシマ、ありがとう」

 ────呟く声にはウイルスにすら消せぬ想いがあった。

 その命が儚い夏の空に舞う蛍の様に散る定めにあろうと、きっと彼女の姿は横島忠夫の中に残り続け、ずっと傍にいる事が出来る。
 そんな予感があった。
 だからルシオラは穏やかな想いに包まれたまま、優しく終焉を受け入れて。
 妖精の様に華奢で優美な少女の肉体と幼さを残したその一途な魂は、横島忠夫の目の前で跡形もなく消滅した。










「ルシオラ?」

 突然消えたルシオラの温もりと気配に、夢現だった横島の意識が覚める。
 不審に思って見渡すが、やはり寝室に人影はない。
 何故か湧き上がる不安と喪失感に慄きながら、クローゼットの中やベッドの下を窺うが、全てが徒労。依然、彼女の姿は見当たらず。

「夢………じゃねえよな」

 ベッドを顧みれば、濡れたシーツは何よりも雄弁に先刻の秘め事の証を主張する。
 それに加えて、ルシオラが脱ぎ捨てたパジャマにネグリジェが残っている。
 ならばどうして彼女がいないのか。
 徐々に強まる不安と混じり始めた恐怖。
 それを振り払おうと横島は素早く脱ぎ捨てた服を身に付け、ルシオラを探すためにドアに手を掛けて───そこでドアと扉の間に挟み込まれた紙片に気がついた。

 明かりを点して紙片を覗き込むと、飛び込んできたのは彼女の文字。
 ルシオラが書いた手紙だった。




「………嘘だろ?」

 読み進める横島の手に奔る震えが徐々に嵩を増す。
 次から次へと滲んでくる涙に曇った視界が続きを読む事を妨げる。

 手紙の中には、彼の予想を遥かに越えた過酷な現実があった。
 テン・コマンドメントと呼ばれる裏切り防止の為の霊体ウイルスの存在。
 人間との交わりがコード7に抵触する事。
 そしてテン・コマンドメントに逆らった者に対する末路があった。
 にも拘らず。
 これを横島が読んでいる時には、自分自身が死んでいるのだと承知しながらも。 
 簡単な文章の中には、彼女の想いや後悔などないと語る彼女の決意を綴った言葉が溢れていた。
 道具として終わりを迎えるよりも、惚れた男の腕の中で迎える最期への喜びと、恋を教えてくれた横島に対する感謝すら綴られていた。 

 そして、基地からの逃走ルートや逃走手段に関する説明が終わると────




 時々でいいから思い出しで欲しいな。
 おまえの思い出の中にいる私の姿を。

 追伸

 この手紙はこの部屋に置いていってください。
 私が何をどう思って生きたのか、ベスパ達にも知って欲しいから。




 ────彼女の手紙は最後に、そう結ばれていた。




 立ち尽くし、戦慄きながら唖然と虚空を見上げた横島の目に映るルシオラの微笑み。
 闇に溶けていくように消えたルシオラの姿。
 儚げに夕日に見入っていたルシオラの顔。
 思い返せば彼女は何かを悟っていたようで。

「………悪い冗談で俺をからかってるんだよな、ルシオラ?」

 自分でも真実とは程遠い言葉だと分かっていながら、しかし彼はルシオラがそれに応えて姿を現すのを待った。
 返事はない。一分、二分と時が過ぎても返事はない。
 だから茫然自失に陥った横島は、手紙を握り締めたまま部屋の中に立ち尽くした。
 まるでルシオラの残滓を少しでも長く感じとろうとするかの様に。










 真夜中、突如全身を奔った妙な違和感によってベスパの眠りは急速に覚醒へと向かった。
 元々連絡があったとはいえ、夜になるまで帰ってこなかったルシオラに何となく危ういモノを感じていたベスパである。
 直感的に不吉の発生を感知した彼女は、直ぐに起き上がると真っ先にルシオラの部屋に向かった。

「姉さん?」

 ノックをすれども返事はない。
 意を決して部屋に入れば、ベッドの中はもぬけの殻。備え付けの枕もない。
 重なる不審に焦燥感を募らせながらベスパは姉の霊臭を嗅ぐ。
 するとそれは横島の寝室へと続いていた。

 寝室のドアを開けた瞬間、ベスパは嗅覚を刺激する異臭に強い違和感を感じて立ち止まった。
 何かが終わってしまった空間。そんな比喩が浮かぶほどに、室内の霊波は荒々しく乱れている。
 明かりの点いた部屋の中央には、茫洋とした面持ちで横島が突っ立っている。
 その足元には、姉が身に付けていたパジャマとネグリジェ。

「まさかっ!?ポチ、姉さんは。姉さんはどうしたんだい!?」

 想像しうる最悪の事態に怯えながらも厳しい声でベスパは尋ね、けれど耳が聞こえぬかのように横島は彼女に目も向けず。
 埒があかぬとばかりに肩を揺さぶれど答えは無く、業を煮やしたベスパは強引に彼の持つ紙片を奪い取る。
 そして紙片に目を通した彼女は驚愕の内に理解した。
 コード7が発動して、姉の命が失われた事を。

「───おまえが姉さんを!!」

 驚きと悲しみは反射的に赫怒へと変化した。
 横島の襟首を掴んで引き寄せ、渾身の一撃で頭蓋を吹き飛ばそうと振りかぶり。
 唐突に、拳が止まった。

 ぺスパの瞳に映る横島は泣いていた。
 虚ろな目で声もなく、ただ泣いていた。
 故に彼女の理性は悲嘆と憤りに焼かれながらも理解した。横島のルシオラへの想いの深さを。

「よりにもよって両想いだったのかい」

 吐き捨てるように呟くと、ベスパは一歩下がって横島を見た。
 何という皮肉だろうか。
 ルシオラが横島を好きになったように、横島も魔族であるルシオラに好意を持っていたのだ。
 逃げようと思えばベスパが駆けつけてくる前に姿をくらます事など容易かっただろう。
 こんなところで涙を流して貴重な時間を消費するなど愚の骨頂だ。
 なのに目の前にいる男は、心底からルシオラの死を悲しんでいる。
 この場に居れば命を落とすかもしれないのに。
 逃げるには絶好の機会なのに。
 それでもこの場所に居続けて。
 だからこそ彼女の理性は感情の高ぶりにブレーキをかけ、ぎりぎりの所で殺意を押し留めたのだ。

 もう一度、手紙に目を通す。
 彼女の姉が命を捨ててまで一緒の夜を望み、そして生きていて欲しいと願った男。
 彼はルシオラの真実を知らずにその望みを叶え、今はベスパの殺意にすら反応を示さぬ深い虚脱状態に陥っている。
 怒りは収まらず、許せる筈もないけれど、それでも姉がどれほど彼を愛し、その無事を祈っていたのかは分かった。
 どうしようもなく、分かってしまった。

 姉は馬鹿だ。
 姉は愚かだ。
 姉は………。
 次々に浮かんでくる思いにベスパの胸が激しく揺さぶられ。
 耐え切れなくなった彼女は再び横島の襟首を引っつかむと、窓から飛び降りた。

 山荘を抜けて闇へと降り立つと、ベスパは横島を突き飛ばす。
 夜に濡れた砂利が彼の掌と顔面に食い込み、その痛みと冷たさにようやく横島は我に帰った。
 ぺスパの姿を認めた彼の目が一瞬不思議そうに瞬き、直後に諦観と慙愧に取って代わられた。

「行っちまいな、ポチ」

 そんな横島から顔をそらしながら、低い声で感情を押し殺すようにベスパは告げる。
 
「お、俺は………。そ、その良いのかっ!?」

 横島は煩わし気に視線を向けると、何もしてこないベスパにまるで自分を殺してくれと頼むかのように問う。
 抱きしめている内に確固たる想いへと育った情愛と、生まれて初めて心から愛されたという事実。
 それは少年の心に限りない喜びと───その全てを飲み込むほどに深い絶望を与えた。
 だからもう、煩悩も美智恵に捨て駒にされそうになった憤りも生きようとする執念すらも、少年の中から消え失せて。
 そこにはもう空っぽの洞しかなく、冷え切った彼の心はあまりにも大きな自責に耐え切れずに死すら望んでいたのだ。

「ポチ、最後に姉さんはどんな顔してた」

 彼の疑問に答えず唐突に問い返す。

「………」

「………」

 沈黙。
 思い出す事に怯え、伝える事を怖れ。
 けれども彼は嘘偽りのない真実を告げた。

「………笑ってた。幸せそうだった、と思う」

「そう………か」

 答えは彼女の想像したとおりだった。
 哀しげな声音で搾り出された横島の言葉は、忌々しいまでにベスパの想像と一致していた。

(姉さんの………バカ)

 故に彼女は憐れんだ。
 憐れんではいけないと知りながら、至福の内に逝ってしまった彼女の姉を───結ばれる事に至福を見出した姉の儚さを憐れんだ。
 そして一年という短い寿命に縛られた彼女自身と、彼女の妹を憐れんだ。
 憐れみながら………いつの間にか彼女の体は道具として使い捨てられる悲しみに震えていた。
 その姿にルシオラが重なり、思わずベスパに手を差し伸べかけて。

「っ!?」

 次の瞬間、横島はベスパに殴り飛ばされ、10m近くも吹き飛んだ

「いいか、ポチ。次に会った時、あたしもパピリオも絶対にお前を殺す!
 だからお前もあたし達を殺すつもりで戦え!!
 姉さんを死なせておいてあっさり死ぬなんて許さない!!」

 追い討ちをかけるかのように大声で叩きつけるベスパの苛立ち。
 充血に紅く染まった目で横島を睨みつけながら、けれどベスパは切に願っていた。
 早くこの場を去れ、自分の目も霊感も届かぬ場所へ逃げろと。
 少しでも気を抜けば、狂ったように暴れまわる悔恨と憎悪が彼女の体を動かして、姉が愛し、姉の命を奪った男を引き裂いてしまう。
 だからその前に、姉の願いを無にせぬ為に、どこへなりとも行ってしまえと。

 それを読み取った横島は何かベスパに言いたくて、けれど何も言えずに後退る。
 ベスパの激情は、残酷なまでにはっきりと告げていた。
 何をしたってルシオラを蘇らせる術などないのだと。
 彼女は二度と笑わない。二度と夕日を見る事もない。二度と機械を弄る事もない。
 もう何をしたって取り返しなどつくわけもなく。
 ちっぽけな人間に奇跡など起こせる筈もなく。
 だから謝るなんて許されない。意味がない。自己満足ですらない。

 それでも安易に命を絶つ事などできやしない。それはルシオラが望まず、ベスパにも禁じられた。
 ならば彼に残された道は何処にあるのだろう。
 いったいどうやって償えばいいのだろう。
 何も分からず、だが此処に居てはいけないという事だけは理解しながら、横島は飼い主に捨てられた犬の様にとぼとぼと歩き始めた。
 覚束ない足取りで、悄然と項垂れたまま、何度もふらふらとよろけながら。




 横島の姿が闇に消えてからしばらく後、山荘の付近には何度も爆音が鳴り響いた。
 凄まじいパワーの霊力が林や大地に向けて迸り、それに紛れて押し殺された女の泣き声が聞こえてくる。
 それは木霊する姉を失くした妹の慟哭。
 悲痛な叫びはパピリオと土遇羅が飛び起きて彼女を止めるまでずっと続いていた。










 あれからどれだけの時間が経ったのか。
 闇夜の山の中、横島は目的も無く、半ば無意識のうちに、風に吹かれて流される木の葉にふらふらと歩いていた。
 ざらついた山野の涼風が彼の頬を撫でる。
 すると少しだけ明瞭になった彼の意識が、おぼつかない記憶をひっくり返していく。

「うっ。ここ、どこだ?」

 辺りを窺うと、目に映るのは数メートル先も見通せぬ重苦しい闇。 
 あのこじんまりとした秘密基地からどれほど遠くまで離れたのかも、己が何処にいるのかも分からない。
 そこでようやく彼は虚ろな夜の影に呑み込まれている自分に気が付いた。
 暗闇。
 何も見えない世界。
 空を、大地を、ヒトの目から覆い隠す色彩。
 恐怖と不吉を代表するかのような、何もかもを塗りつぶしていくその色を、人は黒と呼んで忌み嫌う。
 蹲るように地面に座り込んだ横島は、その黒の世界の中に独り取り残されたまま痛感した。
 それは、なんという孤独感なのだろうか。
 鬱蒼とした林冠に遮られて月光は届かず、何も見えない目に映るのは流れ去った時の欠片のみ。
 その中で思い浮かんでくるのは、たった一つの残酷な結末。

 少女の艶やかな黒髪は消えた。
 切なげに夕日を見ていた瞳は消えた。
 彼を抱きしめた華奢で温かい腕は消えた。
 少女は、消えた。
 肉体も魂も残さずに。

 今日の夕刻、そして先ほどの逢瀬。
 彼女への好意が愛情へと昇華したあの時の思い出が、今は逆に肌に突き刺さったガラスの破片のように容赦なく彼の心を抉っていく。
 あの時に感じたときめきが、この夜空よりも重く、暗い絶望を齎した。

 手探りでそろそろと歩んで林を抜けると、群雲の向こうにある満ちゆく月と満天の星宿が世界を仄かに照らしている。
 夜空の向こうにある酷薄な朧月を見上げながら彼は自虐混じりの感嘆を漏らした。

「絶望って、すげーな。世界が、無茶苦茶綺麗に、見えやがる」

 彼の目に映る景色は美しかった。
 闇の中にうっすらと浮かび上がった全ては、何故か途方も無く美しかった。
 まるで全ての生きとし生ける者達を賛歌するように月光を浴びながら輝きに満ちていた。

 その世界を目の当たりにして、荘厳ですらある静寂な大気に包まれながら、けれどそれを見つめる横島は震えていた。
 寒かった。
 夏だというのにとても寒かった。
 その凍てついた心は永久凍土の様に固まって。
 立ち尽くしていた彼の体は、やがて糸の切れた人形の様に崩れ落ちそうになって。
 その時、暗闇を淡く掻き分けながら飛翔する光輝が目に映った。

「………ホタル?」

 彼の瞳に移る光はゆらゆらと頼りなげに飛んで、やがて力を失ったかのように大地へ落ちていき、そして彼の目の前で消えた。
 それは生れ落ちてから間もない儚い命のちっぽけな死。
 のろのろと下を向くと横島は大切な物を扱うようにそっと蛍の死骸を掌に乗せた。

 無言のままただひたすら眺めていた彼の虚ろな目から、流れ始める一筋の涙。
 ルシオラ。蛍の化身。
 それは夏の夜を仄かに照らす優しき光。
 地上に出た蛍達は刹那の生をその光の中で生きていく。
 大地に子供を産み落とす事を夢見ながら。

「ルシオラ………」

 呟いた瞬間、心が真っ白になった。
 忍耐という名の鋼で編まれた檻の中に押さえ込んでいた激情が虚空に消えるシャボン玉の様にあっさりと弾けていく。
 それは嵐の前の静けさの様な刹那の空白。
 ゆっくりと空虚な白い思考の中にゆっくりと染み渡る哀惜が、感情を激しく揺さぶりながら横島の胸に溢れ、自責、呵責、喪失感、怒り、やるせなさ、悔恨、その全てが激しく渦巻いて、彼は思わず膝を突いた。
 それは彼の中から今にも溢れそうになり、そして感情が理性を振り切って彼の制御から放たれ………。

「あっ」 

 瞬間、視界が曇る。
 鼻の奥が熱くなる。
 際限もなく涙が溢れてくる。
 それは人間なら当たり前に持っている原初の感情。
 喪失感と悲しみから生まれた涙。
 それは呆れるほどに止めどなく彼の目から流れてゆき、

「ぅぅぅ…ぐぅううぅ…ぐぐぐ…」

 くぐもった声が彼の口から漏れていく。

「う、うう、ううううぅぅっ!!」

 いくら考えまいとしようと事実は変わらない。
 自分の腕の中で微笑みながらルシオラは死んだ。
 どんなに祈っても、もう二度と彼女には会えない。
 どんなに願っても、彼に愛の言葉を囁いたルシオラの言葉を聞く事は叶わない。
 もう二度と、彼女が微笑む事はないのだ。
 だからその残酷な現実を前に彼は叫んだ。
 手の中の蛍の死骸を高々と差し上げながら、静かな暗黒の世界が歪むほどに激しく咆哮した。

「ああ、あ、あああ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!」

 静謐に包まれた冷たい冬の夜の中、遠く響く悲痛な絶叫。
 彼の両親も、彼の幼馴染も、氷室キヌも、美神令子も聞いた事のない昏い絶叫が夜の空に木霊して、冷涼な山の大気が彼から放たれる悲しみと絶望の波動で震撼した。

 ────おまえの思い出の中にずっと残りたい。

 切なげな顔で彼に縋った少女の願いが去来する。
 今更ながら思い知らされる。残酷なまでにはっきりと理解してしまう。
 彼女の言葉がどれほど痛切で真剣な想いを表していたのかを。
 哀しい運命から生まれた彼女の祈りがどんなに切なくて尊いのかを。
 …………それなのに愚かな自分は欲望を満たす事しか考えられなかった。

「ひと晩とひきかえに命を捨てるなんて…………」

 体が千切れてしまいそうなくらい激しい痛みが胸を貫き、吹き上がる黒い炎が心を焦がす。
 目の前が真っ暗になるほどの怒りと自責と憤り。
 その苦しさに突き動かされながら、横島は何度も何度も全力で地面を叩いていた。
 皮膚が裂け、血が滲み、大地に紅が移ろうとも、彼は両手を打ちつける事を止められなかった。
 無意味だと分かっていても叫ばずにはいられなかった。

「俺に………俺にそんな値打ちなんかねえよ、ルシオラ!!」

 この苦しみから逃れられるのなら、いっそ狂ってしまいたかった。
 両手の痛みと胸を貫く激痛で何も考えられないままのた打ち回っていたかった。
 もしも時の流れを戻してルシオラを助ける事ができるのなら、悪魔にさえも躊躇う事無く魂を売り渡していただろう。

 けれど、どれほど願っても祈っても、やり直しなんか出来るわけもなく。
 悲しみは止まらず溢れて彼の心に灰色の雨を降らすだけ。
 どれだけ大声を上げて叫んでも、悔恨の爪は鋭く胸を抉り続けるばかりとなり果てて。
 だから、たとえこの先に何があろうとも、心身に刻み込まれたルシオラとの逢瀬の記憶と今日の悲哀と絶望を忘却する恩寵が己に与えられる事はないと確信しながら、横島忠夫は彼女の儚い命に涙して。

 やがて叫び続けた彼の声は枯れ果てて、荒れた喉は呼吸するだけで鋭い痛みを奔らせる。
 それでも彼は涙を流したまま、もう取り戻せぬ何かを掴もうと声にならない歪な音を紡ぎだす。
 喉を奔る激しい痛みは気にならない。狂いたくても狂えぬこの胸の痛みに比べれば何でもない。

「………ぁ…………っ!」

 激痛が強引に心底を穿ち、蟠っている自分自身に対する劣等感と不信感を掘り起こす。
 常日頃から抱えていた妄念染みた思い込み故に、横島忠夫は自分自身に対する自信と誇りを見出す事ができずにいた。
 そして今日、その心の裡には自分自身の欲望に対する嫌悪感と彼女の命を奪ってしまった罪悪感が加わったのだ。
 それは少年の心に不可逆の亀裂を奔らせて。
 そうして生まれた断絶を埋める方法など、少年には到底思い至れずに。
 だから少年は赤く染まった両手で頭を抱え、額を大地に擦りつけ、もう会えない少女を思い浮かべながら小さな声で呟いた。

「ごめん、ルシオラ………」

 この時、横島忠夫は、自分自身に、絶望した。










 どれほど泣いていたのだろうか。
 気がつけば叫びすぎたせいで喉はしわがれ、涙腺は完全に枯れ切っていった。
 血に塗れた両手からは我に返った彼に自己主張するように忙しくなく痛みを伝えてくる。

 そう。彼の心からは絶望すら枯れ果てていたのだ。
 代わりにゆっくりと呪詛の様に黒い霧が、虚無感の代わりに胸の中に立ち昇り始めていく。

 憎い。
 こんなものを仕掛けた魔神が憎い。
 こんな結果を起こした自分が憎い。
 ただ、憎い。
 吐きそうなくらい気分が悪いのに、だが憎いという言葉と感情は何故か横島の心に子守唄の様に染み渡っていく。
 ぐるぐる回る視界と思考が徐々に均衡を取り戻し、行き場を失っていた悔恨と自責は新たな目的を見つけて瞬時に憎しみへと集束する。

 やがて焦点の合わぬ虚ろな瞳に昏い光がゆっくりと灯されて。
 鬱積した感情がある方向へ向かって大きく弾けた時、横島は大きく目を見開いたまま、ゆらりと立ち上がった。

 ────やつのやった事が絶対に許せない。やつが生きてる事が容認できない。やつの全てを否定してみせる。

 煮え滾った憎悪と自責は胸の中でどす黒い渦を巻いたまま、遂には常軌を逸した怨嗟と復讐心の嵐へと昇華して。
 ただ一筋に定まった不可逆の感情は、彼の口から獣のごとき唸り声となって放たれた。

「アシュタロスは、俺が殺すっっ!!」

 この時、狂気に侵されながら、横島忠夫は全速力で走り出したのだ。
 甘っちょろい煩悩など全て枯れ果てた歪にひび割れた心を抱えたまま、永久の闇に消えていく決して救われない結末に向かって。


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