シンジが内心に葛藤を抱える間にも、事態は進んでいく。
聞くばかりの通信機越しに、届くはずのない緊張と不安の匂いを感じる。
今はただ、耳を澄ますことしかできない。
エヴァという力がこの手にあっても、地上のシンジは無力だった。
「現在、深度170、沈降速度20。
視界ゼロの為CTモニターに切り替えるわ、透明度は120」
『降下続行。
深度400、450、500、・・・・・・。
・・・950、1000、1020、安全深度オーバー』
『1300到達、目標予測地点通過』
「反応なし、そっちはどう?」
『対流が早いわね……。再計算、急いで。
アスカ、作戦続行。いけるわね?』
「OK」
『深度1400、第2循環パイプに亀裂発生。
1480、限界深度、オーバー』
『目標予測修正値、出ました。…1780、です』
『380はいくらなんでも、無理です!
今回は計測器ではない、人が乗っているんですよ!!』
『続行を。 ……アスカ?』
「やるわよ。
さっさと終わらせて、シャワー浴びなきゃ。 汗臭くなっちゃう」
『近くにいい温泉があるわ。終わったら行きましょう。
……この作戦の責任者は私です。続けてください』
(アスカ、ミサトさん……。どうか……)
作戦に口出しする権利も力もないシンジにできるのは、祈ることぐらいだ。
思い浮かべるのは、早く捕獲を成功させ上がってきてほしいということ。
問題なく終わることばかりをただ無心に願う。
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『……深度1600、弐号機プログレッシブナイフを喪失』
『誘導レーザー照射。
シンジ君、万一に備えておいて』
「はい」
「深度1780到着! いたわ、目標をレーダーで確認」
『お互いに対流で流されているから、接触のチャンスは一度だと思って』
「分かってる。任せて」
『目標接触まで、後30』
「相対速度2,2。軸線に乗ったわ。
電磁柵展開、問題なし」
緊張はピンと張った糸に似ている。
通信の合間の僅かな息使いにさえ繊細に震える。
弐号機がナイフを落としたと聞いた時には、一瞬息を止めた。
プログナイフの投てきの準備をしろと言われた時には、背筋が凍えた。
レーザーポイントとマギの試算数値を、何度も何度も見直して待つなかで聞こえた、発見の報告。
良かったと安堵して、思わずエヴァの手からナイフを取り落とすところだった。
でも、まだミサトからの命令の解除はないので、ナイフは手離せない。
けれど少しばかり出来た心の余裕に、シンジは肩に入っていた力を緩めて息を継いだ。
「キャッチ成功!
目標、捕獲しました」
『速やかに、浮上準備』
「は~い」
緊張感の薄れたアスカの返事。
ここまでは少しの邪魔も、相手を危険にさらすと思うからできなかったけれど。
気持ちよく耳に入ってきた声に、シンジもここでようやく通信を送れる気になる。
「アスカ、大丈夫?」
「あったり前よ、案ずるより生むが易し、ってね。
でもこれじゃプラグスーツと言うよりサウナスーツよ。
ダイエットなんていらないって、いうのに。
あぁ、早いとこ温泉に入りたい」
「そうだね、早く、」
成功したと思った。
軽口をたたけるくらいに、気が緩んだ。
——— けれど、その時 。
『使徒のパターンに変化』
『アスカ、状況は!』
「動いてる!!」
『まずいわ、羽化を始めたのよ。計算より早すぎる』
『捕獲中止、キャッチャーを破棄。
作戦変更、使徒殲滅戦に移行します。
弐号機は撤収作業をしつつ戦闘準備』
「了解!」
『索敵用レーザー照射。
マギの試算は使徒の行動予測にすべてまわして。
リツコ、頼んだわよ。
弐号機は、バラスト放出。
安全深度までは、浮上を優先します』
『深度、1400、1350、1300・・・』
『目標、三時方向60』
『アスカ!』
「OK、AT・フィールド全開!!」
『急速、浮上!!』
「使徒に口!…くっう、」
『弐号機、左足損傷』
『フィードバック遮断!』
『この状況下で口? 信じられない構造ね』
「…耐熱処置、完了」
立て続けに入ってくる通信。
耳に意識を集中し、シンジは一言も聞きもらすまいとする。
アスカは今、無手だ。
弐号機に届けるべきナイフは、まだシンジの手元にある。
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『深度、1050』
『上昇一時停止。 初号機、プログナイフ投下!』
「はい」
全神経をとがらせての投擲。
シンジの投げた威力が、そのままアスカの手元に届くわけではない。
けれど、少しでも早く、少しでも確実に、彼女の戦いを助けられるようにと、祈る思いでシンジは手を離す。
『ナイフ到達まで、後50』
『高温高圧、これだけの極限状態に耐えているのよ。
プログナイフだけじゃ駄目だわ』
「アスカ……」
(どうする? どうすればいいだろう?)
シンジには見えないけれど、アスカはきっと全力を尽くして戦っているのだろう。
弐号機をサポートするミサトも、リツコだってそうだ。
火口で待機するシンジには、アスカを助ける手段はない。
だが、だからと言って、なにもせずにはいられない。
シンジの焦る気持ちに、初号機の掴んでいた火口の縁が砕けて溶岩に落ちる。
(使徒もこうして砕けたらいいのに!
……砕けたら……、……?
火口内の使徒は、火口の中でも大丈夫なくらい硬くて…。
じゃぁ、硬くなければいいのか……、反対は? 脆くする?
なんか、少し前に同じようなことを話したような気が、)
「ナイフ駄目なら、それ以上の、力…。
他の武器は無理よね? あ、でも、…高温…?」
「そうか、アスカ! プールでの!!」
「アレね!
冷却液の圧力をすべて三番にまわして」
急激な温度変化がもたらす、分子間の結合の強度について。
それは、アスカがあのプールサイドでシンジに話したことだった。
そして、アスカの短い要請にも、司令部は的確に答えたのだろう。
戦いの気配と、少しして、「やったわ」という小さな勝利の歓声が弐号機から聞こえた。
ミサトからの労いの声も交わされる。
シンジも、もう何度目かの安堵の息をもらす。
これで後は、無事に弐号機が戻ってくるのを見るだけだ。
そう、思った。しかし、———。
『パターンブルー消滅確認』
「えっ、なに、あっ、………まさか」
『冷却材循環パイプに破損! 2番から、4番』
『誘導レーザー照射!
観測機用アンカーを、打ち込んで、はやく!!
弐号機右足のフィードバックを遮断。
……アスカ、わかるわね?』
「……っ、でも!」
『お願いよ、アスカ。
私と一緒に温泉に入るって、約束したでしょう?』
「あたしの、……弐号機。
……ごめん、ごめんね…、ごめ、…んな、さい」
『弐号機右足部、D型装備解除……。
深度950、アンカー接触まで、あと420』
『弐号機左腕のフィードバックを遮断』
「……くっ」
一時の安心など、紙屑のように吹き飛ぶ。
——— 状況は、最悪だった。
残った冷却パイプで守らなければいけない部分の為に、他を諦めなければならない。
少しでも生きる確率を上げるためには、迷う時間すら与えられない。
アスカとミサトのやり取りに、シンジは口元をとっさに覆って声を漏らさないように塞ぐ。
見なくてもわかる。
わかるからこそ、声をあげるべきではないと判断しての行動だった。
アスカが弐号機を大事にしていると思い知らされる場面を、シンジはもう何度も目にしている。
なのにそのアスカが、自らの手で弐号機を壊すしかない、その選択を選ぶしかないという現状。
命じるミサトの声も受け入れたアスカの声も…、どんなに冷静を装っていても泣いていると思った。
シンジは、溶岩を睨む。
この下で苦しむアスカの痛みを思う。
体の痛み、心の痛み…、シンジの想像を絶するだろう、今アスカに圧し掛かっているその恐怖も。
絶対に今のシンジより辛いのはアスカなのだから、シンジは声をだしてはいけなかった。
口を覆う手が震えて歯が掌を噛み、頬に喰い込む指に涙が滲む。
けれど、ここで声を上げ泣くことが許されるのは、シンジではない。
回線からは、気丈に励まし続けるミサトの声と、途切れがちにも答えようとするアスカの声がずっと聞こえている。
『アスカ、アスカ、アンカーが到着したら、右手でとってね。
回流もあるから難しいと思うけど、ちゃんと近くに降ろすから』
「…うん。……大丈夫、ほら、使徒だって…。
あたし、一度で、……捕まえた、じゃない?
アンカーぐらい、片手で十分よ」
『そうね、アスカなら十分ね』
「ミサト? …温泉の約束、忘れないでね。
あたし、露天風呂って、一度入ってみたかった、の。
……ねぇ、せっかく、行くんだから、高級旅館に、してね」
『ええ、……そう、そうね、シンジ君も一緒に、皆で行きましょう』
「いっしょに…、約束、ね」
『アンカー接触まで、あと265。
……冷却材循環パイプ、1番に亀裂』
シンジの視界に、赤い濁流が躍る。
「あっ…、せっかく頑張ったのに…やだな、ここまでなの?」
指先に一つの影。
「………シンジ?
………………バカ、無理しちゃって」
そして。
手繰り寄せ、握りしめた手のなかには、泣き顔で笑う、少女の面影。
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その後、引き揚げられたエヴァンゲリオン両機は、即時ネルフへと空輸された。
シンジとアスカも、火口に待ち構えていた医療班にがっちり捕獲される。
仮施設のはずなのに、血液検査その他諸々、心電図までとられた。
その結果、——— 何故か、アスカの希望通りの高級温泉旅館に、シンジ達は居た。
くったりしたミサトと、思ったよりも元気にはしゃぐアスカ。
アスカは和風の廊下や、格子のかかった窓を面白そうにのぞいている。
……輸送機に吊るされた弐号機を見送る時は、肩を震わせて泣いていたと思う。
けれど、最後まで顔をそむけて、シンジにはけっして涙を見せなかった。
強がりか、空元気なのかもしれないが、こうして笑っているアスカを見ると安心する。
ミサトもきっとそう思ったから、無理を言ってこの旅館に連れて来たのだろうか。
ここに来る少し前、ミサトが必死に話し込んでいた相手は、シンジも見知っている三隈の部下だった。
この旅館や、一緒についてきた医師の手配は彼に頼んだのだと思う。
また借りを作って後で泣きを見るのもわかっているはずなのに、そこで無理をするのがミサトらしかった。
「シンジ、ねぇ、これ浴衣ってやつよね?
お風呂入ったら、これに着替えるのかしら?
着方わかんないわ。ミサトは知ってるかな。
これが旅館の見取り図? 場所案内図?
お風呂もいろいろあるって、書いてある。
あ、ここ露天風呂もあるわよね、もちろん」
「露天風呂かぁ、はいったことないや」
「え、そうなの? 日本人て、皆お風呂好きなんじゃないの?」
「お風呂は嫌いじゃないけどさ。
普通の、一般家庭には露天風呂なんてついてないし」
「そりゃそうでしょうけど。
じゃっ、あんたはあたしに感謝してよね。
あたしがリクエストしたんだから」
「えー、ミサトさんが予約してくれたんじゃないか」
「そのミサトに頼んだのが、あ、た、し!
リクエストしなかったら、入れなかったかもしれないでしょ。
何よ、シンジ、あたしに感謝するのが不満だってわけ?」
「そんなことないって。
うん、感謝してるってば」
「探索は、ひとまず終わりにして。
アスカ、シンジ君、食事の前にひと風呂はいらない?」
板張りの廊下の感触を素足で確かめたり、浴衣を広げたり、見取り図を眺めたり。
動き回るアスカについてまわるシンジに、お茶を飲みながらパソコンを開いていたミサトが声をかける。
仕事がひと段落ついたのだろう、ミサトは肩を回しながらやわらかく笑っている。
ミサトの誘いに反対する理由はなく、二人は揃って元気に同意した。
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男湯と書かれた青い暖簾をくぐる。
明るい脱衣所には、籐の籠と乱れ箱が、整然と木の棚に並んでいる。
シンジは見渡して、足元に目を落す。
肩? に手ぬぐいを下げたペンペンが、「クゥ」と同意か催促かわからない声を上げる。
このペンペンは、気を利かせた加持が送って来たらしい。
加持当人は居ないため、男湯へのシンジの同行者はペンペンだけだ。
屋外の風呂という、未知の状況に、シンジは少し落ち着かない。
(えーと、お風呂に入る前に水をコップに2杯は飲むこと。
長湯はしないこと。
お風呂からでたら、すぐバイタルチェックに向かう。
……あと、なんだっけ?)
旅館についてきてくれた医師の説明を思い浮かべながら、服を脱いでいく。
「早くしろ」と言わんばかりに手を振るペンペンが、風呂の入り口で律儀に待っていた。
石を積んだ湯船。
生け垣と竹垣に囲われた外湯には、当たり前だが天井はない。
夕焼けに染まり始めた空は高く、解放感は抜群だ。
手を伸ばしても足を伸ばしても、どこにもぶつけずにすむほどに湯場も広い。
シンジの目の前を、気持ちよさそうにペンペンが泳いでいく。
「はぁ~ぁ、極楽ってこういうことをいうのかも。
風呂がこんなに気持ちいいものだなんて、知らなかった」
目の前を横切るペンペンに倣って、泳いでみようかという悪戯心がわきかける。
シンジとペンペンのほかは誰もいないし、見咎められる心配もない。
水泳は苦手なためプールでは泳ぐのは好きじゃないが、この浅い風呂ならば試してみたいとも思う。
シンジが抗いがたい誘惑に、湯の中にうつぶせに手を伸ばしかけた時だった。
「シンジくーん、聞こえる~?」
「は、はい!」
「ボディーシャンプー、投げてくれる?」
「持ってきたの、無くなっちゃった」
「うん、……行くよ!」
「りょーかい」
ミサトの声のタイミングの良さに、シンジは少々焦りながら携帯用シャンプーのミニボトルを探す。
湯船で遊ぶなど子供っぽいところがばれたわけではないが、微妙に恥ずかしい。
竹垣の向こうが外ではなく、女湯だったのをわすれていたことも、その恥ずかしさに一役かっていた。
顔が熱いのは、湯の温度のせいか、それとも羞恥のせいか。
見つけたボトルを投げ上げるにも、少々余計な力が入ってしまった。
そしてシンジは、投げ上げたボトルの軌跡を見送って、さらに体温をあげる会話を聞くことになる。
「痛っいって、バカ。どこ投げてんのよ、ヘタクソ」
「う…、ごめん」
「もぉ、変なとこに当てないでよね…」
「どれどれ~?
おねぇさんが見てあげましょう、赤くなってるかな?」
「あ、あん、ちょっと、ミサト!」
「あー、アスカの肌って、すっごくプクプクしてて面白ーい」
「やーだ、くすぐったいってば」
「じゃ、ここは?」
「きゃ、そんなとこ触んないでよぉ」
「いーじゃない、減るもんじゃないし」
「や、や、もお、反撃よ。こうだっ!」
「こらこら、もんだら大きくなっちゃうでしょ?」
(な、なにを揉んだら…………)
顔に上がっていた血液が、半分急に下がってシンジは湯の中にしゃがみこむ。
上がった水飛沫に驚いたペンペンがよって来る。
「クウェ?」
「え、なっ、なんでもないよ、……うん」
(膨張してしまった……恥ずかしい…)
夕焼けを映す、澄んだオレンジの水面がゆらゆらと揺れる。
頭の先まで湯に潜ったシンジは上へと上がる気泡をこぼして、ペンペンが悠々と周回していくのを見送った。
第十話 マグマダイバー 完
次回、「静止した闇の中で」