「…もしもし」
暗闇の中、オレは手に取った受話器を耳と口に当て、乾ききった喉から声を出した。
少し声のトーンが下がっているのは、今現在の時間のためだ。
午前一時前。…中途半端な時間だ。そして、迷惑。
少し待つが、返事が来ない。
だから声を荒げ、もう一度聞く。
「…もしもし?」
一呼吸ほど待ち、電話を切ろうと思った矢先に――。
「……私だ」
受話器越しから声が聞こえた。
低い声だ。声の主から、男だと言うことが分かった。
少し手を顎に当て、考えると脳内に一人の男が浮かび上がった。
「…父さんか」
そして、また返答無し。
切るぞ…と言おうとしたとき、声が返ってきた。
「来い」
「…は?」
言っている意味がわからず、少し考える。
――結論。
「父さん。なに言ってるのか分からない。…説明してくれ」
「…本部に戻って来い、と言っている」
「マルドゥック機関がオレをサードチルドレンに選んだのか?」
「…そうだ」
「ふーん…まぁ、大体予想できたがな…」
予想、と言うか初号機はオレと彼女以外には乗れない。
そろそろ召集されるだろうな、と思っていた。
「…で、いつごろそっちにむかえばいいんだ?」
「…明日だ」
「…は?」
また間抜け声を上げる。
「本気…?」
「…あぁ」
「明日って言うと…今日でないと間にあわないじゃないか!?」
クソッたれ…。心の中で吐きつける。
仮にも相手は司令。
どうせ、支部の司令は了承しているんだろう。
そして、支部の技術部に勤務しているオレが逆らえるはずが無く――。
皮肉を込めて、溢れ出る怒りを抑え、返答する。
「はい。…わかりました、碇司令」
「…ご苦労だな」
「司令が言わないでください」
そう言うと、受話器の[切]と書かれたスイッチを押す。
そして、重苦しく長い溜息を口からはく。
ポケットに入ってあるケースに手を伸ばす。
それと同時に上着のポケットに入っているライターを取り出し、点火しようとする。だが――。
「うわっ…たばこは切らしてるし、ライターの火はつかないし…今日は厄日?」
そう言い、舌打ちをするとベッドにかけていた腰を上げて立ち上がる。
そして、やり切れない声で吐き捨てるように言った。
「くそ…荷造りしなくちゃいけないじゃないか…」
乱雑に散らかった部屋。
自分が立っている周りには足場が無いほどの書類が放り投げられていた。
それを見て、また溜息を付く。
「本当に、今日は厄日――」
突然、呼び鈴が小さいとも大きいともいえない部屋に鳴り響く。
再び時計を見ると、午前一時を回っていた。
こんな非常識な時間に押しかけるのは、一人しかいない。
重い足取りでドアに向かって歩く。
深く深呼吸した後、忙しく鳴り続ける呼び鈴を無視してドアを開けた。
…やっぱり。
予想通り、彼女が立っていた。ご丁寧な事に片手には高級そうな赤ワインを持っていた。
薄い黄色のワンピースに身を包み、赤い長髪と蒼い瞳。そして、日本人離れした容姿と身体。
その全てが集合体となって、少女の美しさを引き立てていた。
「ハロゥ、シンジっ。ワイン貰ってきたのよ。飲みましょう――」
少し頬が薄桃色に染まっていることから、もうすでに飲んでいる事がわかった。
今、取り込んでいるから駄目――。そう言おうとした途端、彼女が問答無用で入り込んできた。
「ちょ、ちょっと待て、アスカ。部屋を片付けないといけないから――」
「部屋を片付けるぅ? なに言ってるのよ、シンジ。夜中の一時よ?」
「その夜中の一時に問答無用で押しかけてくるアスカもどうかと思うけど…」
「なにぃ?」
「何でも無い…。とにかく、今日は帰っ――」
…待てよ。
口には出さず心の中で考える。
…よく考えてみれば、これはチャンスだろ。
「なぁ、アスカって…」
「なによ?」
「家事…ってか掃除できたっけ?」
「はぁ? この才女に出来ないことなんかないわっ!」
…自信満々だ。
その証拠に、アスカは腰に手をつけお決まりのポーズをとっていた。
「じゃぁ、手伝ってくれ。昼までに部屋を片付けて、荷造りを終えないといけないんだ」
「はぁっ? アンタ引越しでもするの?」
「まぁ、そんなところか」
「なにぃよ? もっとはっきり言いなさいよ」
「簡潔に言うと、だな。本部に転勤だ。オレもチルドレンに選ばれた」
「へっ? 本部って…日本!?」
「そうだ。…初号機があるからな」
「じゃぁ、なんでこっちにいたのよっ!?」
「知ってるだろ? 二号機を仕上げるためだ」
…それにあの人との約束もあるしな。
心の中で独白すると、苦笑する。
「まぁ、とりあえずは手伝ってあげるわよ。…で、いついくの?」
「サンキュ、アスカ。…今日の昼ごろかな?」
「それを早く言いなさい!」
そして――。
突然の不意打ちに逆らえるはずも無く。
アスカの手が頬に向かってきたのを見た瞬間には――もう、手遅れだった。
くっきりと、はっきりと。鏡で確認するまでも無く。
オレの頬にはアスカの赤い手形がついていた。
…あぁ、やっぱ今日は厄日かも。
本気でそう思った。