第壱話 初めての客
1
ネルフ本部でも一日の仕事に終わりは来る。
碇総司令は、副司令を呼び止めた。
「今日は何もないか」
「ああ、帰って寝るだけだ。それがどうかしたか」
毎日同じことを繰り返している仕事だ。冬月には、始めてしまった以上、最期を見届けるつもりでやっているだけのことだった。
「今日は少し付き合わんか」
「おまえとか? 特にすることもない…… いいだろう」
「では、行こう」
二人の乗ったネルフ公用車は二台の護衛に挟まれて、第三新東京市郊外へと向かって行った。
予定していた程住民が増えず、入居されないまま無人の住宅街となった丘陵地帯に残る、雑木林の一角にそれはあった。
見かけることの少なくなった竹林と黒板塀に挟まれた小さな路地。
車は入れない。
車を降りて入り口まで歩く間に空気が変わっていくのを感じる。
「まだ、こんなところが残っていたのか」
冬月が郷愁をのせた言葉を吐き、同じ思いの碇が答えた。
「ああ、珍しいな」
竹林に面した入り口に着いた。
格子戸があり、そこから玄関までは大きな岩を敷いた通路になっている。冬月が格子戸を開ける時、小さな行灯のようなものに〔料亭綾波〕と書かれているのが読みとれた。
「碇、料亭なのか? 〔綾波〕とはどういうことだ」
「入ってみればわかる」
二人は碇を先に、格子戸をくぐった。
玄関まで靴音を響かせながら近づき、その戸を開ける。そこには玄関に三つ指ついてかしこまる女性がいた。
その女性は目が赤く、短い蒼髪をまげらしく髪油でなでつけ、珊瑚の簪を一本さしていた。年の頃はまだ少女と言った方がよい。肌の色は抜けるように白く、絣の着物に橙色の帯を締めていた。
「ようこそ、いらしゃいませ。ご案内させていただきます」
そう挨拶して、わずかに微笑むのが、なんとも言えぬ感覚をもたらした。碇は思わず唇が動き、微かな笑みをつくってしまったが、同じように見とれている冬月には気づかれなかった。
少女は立ち上がり、碇と冬月の靴を下駄箱にしまうと、
「こちらでございます」
と、先に立って歩き出した。
上履きはない。
磨かれた床板の冷たさが足裏に心地よい。
先を歩く少女の髪油の甘い香りが鼻をくすぐる。
短いながらも髪を結い上げているので、後ろから見える着物の襟元、うなじの白さが妖艶さを増している。
灯りの控えめな長い廊下を渡り、離れになっている一部屋に通された。
二人きりになったところで冬月が、
「あれはレイか」
「ああ、そうだろう」
「まったく、見違えたな。セカンドも居るのか」
「ああ…… そう聞いている」
「そうか……」
庭に仕掛けられた猪おどしの音が響く。思わず庭を眺める二人。開け放たれた縁側、庭が適度な灯りの中に浮かび上がる。
「ふっ、枯山水……」
「ふむ、よくできているじゃないか。碇、ここはただの料亭ではなかろう」
「違ったな。ただの料亭だ」
庭の奥が明るくなった。
別の座敷に案内された客だろう。
賑やかな会話が遠くかすかに聞こえる。
2
その客は奇妙な取り合わせと言わねばなるまい。
大人三人と少年、さらに年下と思われる少女。
少年少女は会話の様子から兄妹のようだが……
「お兄ちゃん、落ち着きなさいよ」
「ナ、ナツミ、そない言うてもやな。こないに高級な店は初めてなんや」
二人の会話に、帽子を被ったままの髭面が割り込んできた。
「まあ、いいじゃねえか。慣れてないものはしかたがない。なあ、トウジ君」
その言葉に、この時代に珍しい和服に袴を着けた長髪の男が相槌を打った。
「左様、何事も経験でござるぞ、ナツミ殿」
「五ェ門さん、ナツミでいいってば」
「ナツミ殿、若いとはいえご婦人に対し礼を失しては、拙者の矜持が許しませぬ」
座蒲団に座り、日本刀を立てて抱え込んでいる様子から察すると、名のある武芸者なのだろう。
その時、立ったままズボンのポケットに手を入れて庭を眺めていた赤いジャケットの男が振り返った。
「固い固い、固すぎるよ、五ェ門ちゃん。もう少し、その、砕けたつうかさ」
「ルパン! おぬしのように砕け散りたくはない」
「あーらら、五ェ門ちゃん。俺は砕け散っちゃてるって、そういうこと言うわけ?」
いつも通りの応酬が始まったので、髭男がやっと帽子を取り兄妹に向かって肩をすくめて見せた。
「まあ、気にするな。いつもこの調子だ。そのうち『不二子』の話になる」
その言葉通り、
「おい次元、俺の不二子ちゃん、どこ行っちまったんだ?」
「お前が知らないのに、俺が知る訳ないだろう」
次元が怒鳴り返している。
そこへ最初の料理が運ばれて来た。
3
三日前のことである。
ここ第三新東京市に『使徒』というものが侵入して来た。
そんなモノが攻めてくるなんて、誰も聞いてなかった。
みんな避難してしまった街を一人走っている少女も、もちろんそんな話は聞いてなかった。
(もうイヤ、まだ追いかけて来るんだもん)
「はぁ、はぁ、はぁ……」
必死でビル街を走る少女の後ろを、何故か使徒が追って来る。何かの間違いかと、物陰に隠れてやり過ごそうとしたら、使徒も止まってしまう。巨大なモンスターのストーカーである。
そのうち少女を捜していた兄と出会った。
「ナ、ナツミ! ワシや、ワシ! トウジや」
「あっ! 兄ちゃん。怖いよう、あの怪物ずっとついてくるんだもん」
「そないなことあるか! 逃げて、やり過ごすんや!」
ところが、そんなことはもう何度もナツミが試している。
「な、なんちゅうやっちゃ!」
やっと妹の言葉を信じた兄が、妹の手を引いたり、背負ったりしながら、逃げ回っていた……
「しけた街だぜ。警戒宣言が出ると人っ子一人居ないってのは本当だった。しかしなあ、ルパン! めぼしいビルまで避難しちまうなんて、聞いてなかったぜ」
「そう言うなよ、次元。俺だって、そこまで聞いてなかったんだよ」
ここは使徒と戦うための街である。
戦闘態勢になると、普通のビルは地下に避難し、代わりの兵装ビルが生えてくるのだ。たった今まで使われたことがなかったので、ここの住人以外聞いてなくて当然だ。
腕組みした五ェ門がぼそりと、
「どうせ、不二子の情報でござろう」
「うーん、まあ、そうだけっどさ」
「と、くれば何かない方が、不思議でござる」
「何かって言っても、ここは平和そのものじゃん…… あれっ!」
呑気に歩いていた三人の左手から、少女の手を引いたジャージ姿の少年が走って来た。
「お、おっちゃん達! はよ、逃げや! 逃げんと死ぬで!」
そう言いながら、少年は立ち止まって息を整えている。
「どうしちゃったの、お二人さん?」
ルパンの質問に、息が苦しくて喋れないナツミが指差す。その方向へルパン、次元、五ェ門の視線が向く。
しかし、何も見えない。
ビルの谷間だからだ。
しばらくすると、ズドンと地響きがした。
そして、ビルの最上階の、そのまた上に何かの顔が現れた。
こちらをじっと覗き込むように見ている。
4
「お、おう、あれが使徒って奴か」
「おい、ルパン。使徒って言やあ、天使だろ?」
「そうだけっどさ。NERVって連中はあの怪物を使徒って呼んでんだよ」
「また妙な名前付けやがって……」
「それにまた、首のない変な格好だなあ」
「ああ、こいつ何しに来たんだ?」
「さあな。ナツミちゃんとお遊戯しようってか、ははは……」
「ロリコンか、こいつ!」
使徒はルパンと次元が呑気に使徒評論家と化しているのが気に入らないのか、ナツミと仲良くしているのが気に入らないのか……
その気配を五ェ門が感じ取る。
「むっ! 来るぞ!」
使徒の眼が光った瞬間、既にルパンはナツミを抱え、次元と五ェ門がトウジの腕を掴んで走り出していた。
その背後から強烈な爆発音がする。
飛び散る瓦礫を避けるため路地に曲がって更に逃げる。
ついに使徒はその本性をさらけ出した。彼らが必死で逃げているその向こうに、地下から何かがせり上がって来た。
エヴァンゲリオン初号機だった。
その横を人間業とは思えないスピードで走っている四人。
「トウジ君、凄いな」
「次元さん、何が凄いんでっしゃろ?」
「俺たちの逃げ足に付いて来られるとこが、だ!」
ナツミを抱えていたルパンは余裕がなくなって来たようだ。
「おい、五ェ門代わってくれ」
「うむ!」
次元は止まることなく、トウジに走り続けさせた。ルパンと交代しナツミを背負った五ェ門があっと言う間に追いついて来る。トウジはその脚力に驚いて、開いた口がふさがらない。
(この人達、凄過ぎ! 俺に合わせてくれてただけやん!)
5
「そこだ! いけぇ…… あーあ、やられちまったぜ」
ルパンががっくり肩を落とす。
初号機が使徒に捕まり、頭を妙な武器で連打されている。
ルパン達はもっと遠くに逃げればいいのに、何故か近くで戦闘を見物していた。トウジとナツミの兄妹は、いつ攻撃されるかと気が気ではない。
「おい、次元…… いっちょやっか」
「ああ…… いいぜ。五ェ門はどうする?」
「訊くまでもござらぬ。ナツミ殿を付け回すロリコン使徒など、斬って捨てるまで……」
「おう、五ェ門ちゃん、気合い入ってるねえ」
「当然でござる」
「だけど、何処を狙うかだな。ルパン、お前の勘は?」
「身体に付いてる丸いとこ…… ああいうのが結構弱点だったりするんだよな…… あそこ、狙ってみっか?」
「いいぜ」
ルパンを真ん中に、左に次元、右に五ェ門が並んで歩き出す。
ルパンは気楽な調子で、
「じゃあ、お二人さんはそこで待っててくれよ。ちょっくら使徒、倒して来っからよ」
次元は愛用のS&Wコンバットマグナムを修理に出していた。そこで普段ならリボルバーのロールスロイスと呼ばれるコルトバイソンを代わりに持って出るはずが、何故かアナコンダ――四十四口径の、大砲(キャノン)ともいう兇悪な銃――を持って来ていた。
「今夜に限って、こんな重いもん持って走らされたかと思えば…… まさか出番が来るとはな…… 蟲の知らせってヤツか?」
次元は弾薬を一旦空にすると、破壊力を増したマグナムスペシャルを装填した。こんな弾を人間に使ったら、弾丸の径から想像できない大穴が開く。
シリンダーをセットした銃を、無造作にズボンに突っ込む。
次元の喫う煙草が、煙をたなびかせている。
三人はゆっくり使徒に近づいて行った。
6
使徒は気づいた。
自分の真の敵の存在に……
身体から隠しようもなくほとばしる闘気。
視線から感じる殺気。
殺るか、殺られるか……
使徒が自分より遙かに小さい三人に向かって全力で攻撃に移ろうとした瞬間、三人が目にもとまらぬ速度で走り出した。
慌てて一旦ATフィールドを張ることにした。
これを破れるヤツは、ついさっき死んだ。
ちっぽけな虫けらに、何かできるはずもなかったが……
右から外灯に飛び上がった五ェ門が、更に人間技とは思えない跳躍をする。そして、そのままATフィールドを、赤い垂直の壁を、駆け上って行くではないか!
五ェ門は落下を始める間際に、愛刀・斬鉄剣を抜いて刀身が見えぬ程の速度で刀を振るった。
赤い壁が三角形に切り取られた!
身体が落下を始めると、赤く光る壁に愛刀を突き立てたまま、地上までゆっくりと壁を切り裂いた。
畏るべし斬鉄剣!
真っ二つに切り裂かれたATフィールド。
その隙間は僅かなものだ。
そこへルパンのワルサーが火を噴いた。
相棒次元にトドメを刺してもらうため、自分の直感で最適だと思った場所を撃つことで…… 弾を命中させ続けることで…… 示したのだった。
「ルパン! 分かったぜ!」
次元のアナコンダが雄叫びを上げる。
次々と、
動く標的にもかかわらず、
同じ場所に、
寸分の狂いなく、
命中するマグナムスペシャル。
一発目で、コアが震えた。
二発目で、コアが歪んだ。
三発目で、コアが欠けた。
四発目で、コアに亀裂が走った。
五発目は、亀裂深く撃ち込まれた。
中心まで亀裂が達したコアは、その光を失った。
7
三人は、また並んで帰って来る。
その後ろで、ゆっくりと使徒が、こちらに倒れて来た。
トウジとナツミは大声で叫ぶ。
「早く! 早く! 怪物が倒れて来よるがな!」
「ルパンさあーん、後ろ! 後ろ、見て!」
「五ェ門はん! 走るんや! 次元はん、そないのんびりしとったら……」
「五ェ門さあーん、走ってよぉー」
「ああ、もう焦れったいわ」
「次元さぁーん! 死んじゃうよぉー」
使徒が倒れるもの凄い地響きがした。
ルパン、次元、五ェ門のすぐ後ろ一メートル位のところに使徒の頭があった。ほっとして、気の抜けたトウジとナツミがぐったりと座り込んだ。
ルパンがのんびりと、
「ん? どうかしたのか」
「おっちゃん達、カッコ良すぎや……」
「こ、こんなにハラハラ、ドキドキしたことないわ」
「おう、そうか、悪かったなあ」
などとルパンがひょうきんぶりを発揮しているところへ、黒塗りの車がタイヤを軋ませながら停まった。
黒服にサングラスの男が、白い封筒を捧げるように持って来て、ルパンに両手で差し出した。受け取ったルパンが、NERVのマークを確認して中を見ると…… 招待状だった。
8
次元は最初の料理を見て、思わずニヤリとした。
(これは…… 旨そうな……)
酒はバーボン以外認めない主義だが、料亭の料理に合わせるなら日本酒である。
(今夜だけは…… バーボン党の旗を降ろしとくか)
そして、升酒を一口含むと、高級ワインにも匹敵する芳醇な香りが広がる。
「こいつは…… たまらねえな」
「ふむ…… 五臓六腑に染み渡る旨さでござるな」
「おう、おう、二人に先こされちまったか! 何だこれ? 升酒か! 冷やを温くしないための塗り物の升ねえ。芸が細かいぜ。で、肴は…… おっ! 何これ? イチジクの煮物? 珍しいじゃん…… うっまあー、って、これ凄くいいじゃん。酒もグイグイ飲めっちまいそうだぞぉー」
「ルパン! 喋りすぎだ!」
そう言われても喋り続けるルパン。今夜はもの凄く機嫌がよさそうだ。
「いいんじゃない、次元さん。ルパンさんって喋ってないと変だもん」
「ナツミ殿、その通りでござるよ」
「しかし、まだ料理一品でお酒一杯でっせ。あないに喜べるもんでっか?」
「使徒を倒した祝杯ってのもあるだろうよ」
「へえ、そないなもんでっか」
「なんせ、俺たちは泥棒だ。普段人に感謝されるようなことしてないからな」
「しかし、あの使徒倒しちゃったんだもんね」
とナツミが塗り物の瓢からみんなに酌をする。
「これはかたじけない」
「ナツミちゃんに酌をしてもらえるとは、嬉しいねえ」
「次元さん、お世辞言っても何もでませんよ」
「なあーに言ってるのよ、ナツミちゃん。ナツミちゃんのお酌なら、これ以上のご褒美はないの!」
「ルパンがお姉言葉になってきたぞ。そろそろ登場でござるな」
「何が登場するんでっか?」
次元がトウジに説明しようとした時、入り口から声がかかった。
「お連れ様がおみえになりました」
入って来たのは……
ロングヘアーで、爆発するようなスタイルの美女。
すかさずルパンが飛びつく、
「不二子ちゃあーん」
蹴り飛ばされた。
「このあたしをのけ者にして、よく宴会してられるわね」
「これが不二子だ」
と、次元がトウジに説明しているが、トウジはこの性格、どこかで見た気がしてならなかった。