体に残った水滴をあらかた拭き取ってから、ギプスに巻いていたビニール袋を取り外す。眼帯が取れて、これでも手間は減ったほうだ。
寝起きにもシャワーを浴びるようになったのは、看護士の助言に拠る。清潔にしたほうが、負傷の治りが早いらしい。
開放性骨折による外傷はすでに完治してその必要はないが、習慣として身についてしまった。
今日は、碇君による零号機の起動実験がある。
初号機パイロットである私が居る必要はないが、せめて見届けようと思う。
髪に残った湿り気をタオルに吸わせながら、アコーディオンカーテンを開ける。
視界の隅に違和感を覚えて視線をやると、そこに碇君が居た。
…なぜ?
「いや、あの…」
理由は判らないけれど、ここに居るということは、私を訪ねて来てくれたのだと思う。ここには、ほかに何もないから。
碇君のほうへ、歩み寄った。
「…僕は、別に…」
「…なに?」
後退さる碇君を、追いかけるようについ踏み込んでしまったのは、嬉しかったからだと思う。
さらに後退さった碇君が足を滑らせ、ひっくり返るまいとした反動で覆いかぶさってくる。
「…かふっ」
床に押し倒された衝撃で、肺の中の空気が搾り出された。
「…くぅ」
失った空気を求めて息を吸うと、胸部が酷く痛む。癒合しかかっていた右第七肋骨から第九肋骨まで、全ての継ぎ目が外れたようだ。
苦痛を無視しようとしているのに、うまくいかない。右胸部にかかった荷重のせいで、患部が圧迫されているためと推察。確認すると、碇君の左手が載せられていた。
触れられるほど間近に居るのは、嬉しいと思う。しかし、このままでは痛覚で意識が途切れてしまいかねない。
「…ど けて…くれ る?」
その左手を退けてくれれば充分だったのに、碇君は跳ねのいて、体ごと退いてしまった。
それを悲しいと感じるココロが、痛覚を無意識領域下へ放逐することを手伝ってくれる。のちに知ったのは、皮肉と言う言葉が、この状況を形容し得るということ。
「…」
立ち上がって、ベッドの枕元へと向かう。こうなっては気休めにしかならないけれど、コルセットを着ける。
このまま衣服を着用すべきか、どうか。ベッドの上から下着を取り上げる動作の途中で、碇君の視線に気付いた。
「…なに?」
顔を向けると、碇君が目を逸らす。
「え、いや、僕は…その…」
胸部の痛みが、無視しきれない。痛覚は、排除したはずなのに。
「僕は、た、頼まれて…つまり…何だっけ…」
ちらりちらりとこちらに向けられる視線が、私の視線と合うたびに逸らされる。
…私は、碇君に避けられているのだろうか?
「カード、カード新しくなったから、届けてくれって」
カード? ネルフのIDカード? 更新の時期ではないはずだけれど。
「だから、だから別にそんなつもりは…」
手にした下着をベッドに放り落として、碇君の元へ歩み寄る。
「リツコさんが渡すの忘れたからって…ほ、ほんとなんだ。それにチャイム鳴らしても誰もでないし、鍵が…開いてたんで…その…」
「…碇君」
その目前に立つと、驚いた碇君が後退ってチェストにぶつかった。また押し倒されるかと思って身構えたけれど、今度はそうはならないようだ。
「な…なに?」
「…カード」
両手を差し出すと、ひどく慌てた様子でカバンをまさぐっている。
「ごめん…」
押し付けるようにIDカードをくれた碇君が、そのまま私の傍らを駆け抜けた。ありがとうと、言う暇もない。
…
ドアの閉まる、音。…響いて何度も私を苛む。ここは室内なのに、締め出されたような気持ちになる。
碇君がここに来たのは、赤木博士に頼まれたから。
カードを届ければ、もう用はない。
すぐにでも離れたいから、あんなに急いで駆け出した。
膝から力が抜けて、その場に座り込む。
…胸が痛い。いや、本当に痛いのは、ココロなのだろう。カラダの痛みならどうとでも対処できるのに、ココロの痛みはただ耐えることしか出来ない。
怖いという言葉の意味を実感する。自分のココロが私を毀すようなこの感覚を、ほかにどう表せるだろう。
膝に落ちる泪滴の熱ですら急速に失われて、私から逃げていくようだった。
***
「エントリー、スタートしました」
生と死が等価で、無限を生きることのできる使徒は、時間に正確でありながら無頓着だ。セシウム原子の振動を知覚できながら、自らには意味のないこととして無視することができる。
エヴァンゲリオンだった私にとっても、時間とは外界の変化を計るための指標でしかなかった。……はずなのに。
≪ LCL、電化 ≫
解からないのは、なぜ私はこんなにも足早にコントロールルームに駆け込んだのか。
医療部で処置してもらうために費やした時間は、拍動にして僅か4296回。なのに、まるでココロを得てからの全ての時間と引き換えたかのように感じた。
主観的な計時が、客観的なそれを捻じ曲げて、今は自分の拍動すら信じられない。
解からないのは、なぜモニターの中の碇君を見た途端、頭蓋の中で脳髄が空転するようなこの感覚が治まったのか。
解からないのは、それなのになぜ、モニターの中の碇君と視線をあわせられないのか。
「第一次、接続開始」
零号機の起動実験は、そのスケジュールの半ばまで差し掛かっていた。
コントロールルームには赤木博士と伊吹二尉。あと、オペレーターが幾人か。主に答えているのは、メガネをかけたオペレーターの男のヒト。このヒト知ってる。日向二尉。
葛城一尉が壁際でもたれかかっていたので、その隣りに寄り添った。
「どう、シンジ君。零号機のエントリープラグは?」
赤木博士の声音に、いつもの張り詰めた感じがない。柔らかいのではなく、弱々しい。ここからでは見えないけれど、眼の下の隈も濃いような、そんな気がする。
『なんだか、変な気分です』
「違和感があるのかしら?」
『いえ、ただ、綾波の匂いがする…』
顔面に血流が集まってくるのを感じる。頬に手をあててみると、とても熱い。
…これは何? これは何? これは何?
「あらあらレイったら恥ずかしがっちゃってぇ、可~愛い~トコあんじゃな~い♪」
耳元で呟いた葛城一尉が、私の頬をつつく。
…恥ずかしい? これが、恥ずかしいという感覚?
判らない。判らないけれど葛城一尉がそう言うのだから、そうなのだろう。
恥ずかしい…? なぜ私、恥ずかしいの?
「ん~、消毒液の匂いしかしないわねぇ」
鼻を鳴らして嗅ぎまわった葛城一尉は、なにやら残念そうだ。
…におい。嗅覚…か。
「了解。では、相互間テスト、セカンドステージへ移行」
「零号機、第2次コンタクトに入ります」
なにもかもヒトの数十倍以上の能力を持つエヴァンゲリオンにおいて、唯一ヒトの数倍程度しか能力差がないのが嗅覚だった。
だからだろう。この、ヒトの肉体を得たときに、消毒液の匂いに圧倒されたのは。減衰著しい五感の中で、相対的に強く感じたのだろう。
「ハーモニクス、すべて正常位置」
≪ 第3次接続を開始 ≫
さきほど床に押し倒された時でも、碇君の匂いは感じられなかった。あの距離で感じられないのだから、それを知ろうと思えばもっと近づかねばならないだろう。それこそ、鼻梁を押し付けかねない勢いだった葛城一尉のように。
相手の一部を取り込むそれは、パーソナルスペースに踏み込む行為。使徒なら、ATフィールドの内側へと溶け込む行為。ひとつになろうとする、いざない。
ココロの裡をすべて見られた。…いいえ、嗅がれた気がした。なにもないココロを知られたような気がした。…だから、恥ずかしかった?
「A10神経接続開始」
「ハーモニクスレベル、プラス20」
『…何だこれ? 頭に入ってくる…直接…何か…』
モニターの中の碇君が、額を押さえて俯く。
『 ? ? … … 違うのか…?』
暴れだした零号機が、拘束具を引き千切ろうと身悶える。
「どうしたの!」
怒鳴った葛城一尉が、コンソールに詰め寄った。
≪ パイロットの神経パルスに異常発生 ≫
≪パルス逆流≫
「精神汚染が始まっています!」
「まさか!このプラグ深度ではありえないわ」
私が黄色いエヴァンゲリオンだった頃、一度だけ碇シンジを乗せたことがある。
「プラグではありません、エヴァからの侵蝕です!」
嬉しくて近寄ろうとしたら、その意識を弾き飛ばしてしまった。
「零号機、制御不能!」
そのことが悲しくて、少し暴れたりした。この零号機のように。
「全回路遮断、電源カット!」
≪ エヴァ、予備電源に切り替わりました ≫
≪ 依然稼働中 ≫
こちらに向かってくる零号機を迎えるように、窓際へ歩み寄る。
「シンジ君は?」
「回路断線、モニターできません!」
「零号機が、シンジ君を拒絶?」
「…なぜ?」
届かないと判っていても、問い掛けずには居られなかった。
「だめです、オートイジェクション、作動しません!」
「また同じなの? あの時と。シンジ君を取り込むつもり?」
あなたは碇君のことを気にかけてもないのに、なぜそういうことするの? 気に入らないなら、無視すればいいのに。
うるさい。と言わんばかりに、零号機のこぶしが打ち込まれる。6回目で強化ガラスが砕けて、頬を浅く切った。
「レイ、下がって! レイ!」
「零号機、活動停止まで、後10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0!」
壁に頭を打ち付けていた零号機が、力を失って頽れる。
「零号機、活動を停止しました」
「パイロットの救出、急いで!」
葛城一尉の命令を遮るように、内線のコール音。
「なんですってぇ!」
叩きつけられた受話器が、コンソールの上で跳ねて、落ちた。
「未確認飛行物体…きっと使徒よ。リツコ、初号機は?」
「…、380秒で用意するわ」
「レイ、いける?」
「…問題ありません」
私の状態について、まだ報告は届いてないだろう。
「初号機、出撃準備!」
***
『目標は、塔の沢上空を通過』
『初号機、発進準備に入ります』
『第1ロックボルト外せ』
…
『初号機パイロット。
解除確認、よろしいか?』
言われて、発進手順を追ってなかったことに気付いた。初号機の感触ではなく、スクリーン越しにロックボルトの状態を確認する。
「…解除確認」
『了解。第2拘束具、外せ』
初号機にエントリーするようになって、初めてこのエントリープラグというものを強く意識した。それはもしかしたら、初号機発進準備のために、碇君の救出作業が後回しにされているからかもしれない。
≪ 了解 ≫
『目標は芦ノ湖上空へ侵入』
『エヴァ初号機、発進準備よろし』
『発進!』
…?
「…葛城一尉」
『なに?』
通信ウインドウに現れた葛城一尉の、口元がわずかに上がっている。
「…初号機の射出速度が」
『遅いでしょ。調整できるように改良してもらったの』
『早くしろって言うならともかく、遅くしろですものね』
赤木博士の呟きは、まるで溜息。
GらしいGは、ほとんどない。念のためプラグスーツの上からコルセットを巻いてきたが、これなら無くてもよかっただろう。
…私の、ため?
「…ありがとう…ございます」
『お礼を言われるようなことではないわ』
なぜ、葛城一尉はどういたしましてと言わないのだろうか。
≪ 目標内部に高エネルギー反応! ≫
『なんですってぇ!?』
≪ 円周部を加速、収束していきます! ≫
『まさか!』
『ダメっ!!止めて!』
地上に出る寸前。手を伸ばせば射出口に届く位置で、カタパルトが止まる。
見上げた矩形の空が、次の瞬間、光の奔流で埋め尽くされた。
『 一旦、初号機を戻… 』
「…葛城一尉。いけます」
通信ウインドウの中。こちらを向いた葛城一尉が、探るように。
『レイ…』
「…ATフィールドで、防げます」
初号機への支配は、かなり進んでいる。今の出力なら、避弾径始を持たせることで受け流せるだろう。
『本当に?』
「…はい」
わずかに視線をずらした葛城一尉が、眉根を寄せている。そうこうしている間にも、射出口の周辺は灼かれ、熔けていった。
「…ATフィールド、全開」
荷電粒子の流れに沿うように、ATフィールドを展開する。水の流れるホースを曲げる感覚…と云うのは経験したことがないが、あのヒトがやって見せてくれたから模倣するのは容易い。
灼熱の奔流を上空へ逸らし、射出口近辺を確保する。ATフィールドの強度に問題がないことを確認して通信ウィンドウに向き直ったら、まぶたを半ば下げた葛城一尉が居た。それを半眼と呼ぶのだと知るのは、後のこと。
『レイ…。あんたまた、命令違反』
思わず跳ね上がった左手が、頬をかばう。ギプスが無ければ、右手もそうしていただろう。上空で荷電粒子が暴れているのは、ATフィールドの制御がおろそかになったから。
なぜか逸らしそうになる視線を、苦労して葛城一尉にとどめる。
「…相談、しました」
努力してるってワケね…。と、葛城一尉が溜息をついた。
『いいわ、やってみなさい。 初号機、上げて!』
再始動したカタパルトが、初号機の肩あたりまでを地上に押し上げて止まる。射出口周辺が灼け熔けて、これ以上は無理なのだろう。延長して展開されるはずのガイドレールも作動してないようだ。
『最終安全装置解除!エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ』
ロックボルトが外れたのを見てとって、肩越しに拘束台のフレームを掴む。懸垂の要領で身体を持ち上げ、一回転して地表に膝を着いた。かつてマトリエルと対峙したときに、赤いエヴァンゲリオンが見せてくれた動き。
見上げる荷電粒子の奔流の向こうに、蒼い正八面体。このヒト知ってる。ラミエル、第5使徒。
今の私の支配率では、ATフィールドを張ったまま相手ATフィールドの中和を行なうことは出来ない。
だから、このまま荷電粒子をいなしながら接近。至近距離でATフィールド中和に切り替えて、回り込むように高機動回避しながらプログレッシブナイフで攻撃を行なう。
そう決めていざ踏み出そうとした時、隔壁の開く音を背後に聞いた。
振り返るべきではなかったかもしれない。ATフィールドはココロの壁だから、気を散らせばたちまち霧散する。
気をとられて緩んだATフィールドを突き破って、荷電粒子が初号機の左後背を捉えた。
≪ アンビリカルケーブル、断線! ≫
≪ エヴァ、内部電源に切り替わりました ≫
『なんですってぇ!』
≪ 活動限界まで、あと4分53秒 ≫
荷電粒子の奔流が、物理的圧力となって初号機を押し流す。
肉体を灼かれる感覚に勢いづいたか、今まで無視してきた様々な痛みまで、ここぞとばかりに主張し始めた。
過熱し始めたLCLがガス交換比率を落として、息苦しい。
八方塞がり。などと授業で習った言葉を思い出してしまう。…ダメ、弱気になっては。
『レイっ!』
左手で頬をつねった。さらに痛みを増すだけの不合理な行為なのに、通信ウインドウの中から懸命に呼びかけてる葛城一尉を見ているだけで、別の意味を持つ。
頬の痛みを足がかりにして、意識の核を確保。なんとかATフィールドを張りなおした。初号機の身体の制御まで気が回らず、頽れる。
初号機が倒れこんだのが小さな山だということを、視界の隅に映る見慣れた橋が教えてくれた。この山知ってる。第一中学校の近く。
そのふもと、シェルターへ続く隔壁を、初号機の右手が潰していた。初号機からのフィードバックで、ギプスの中の右尺骨が軋む。
『シンジ君とレイの、クラスメイト!?』
『なんでこんなところに?』
鈴原トウジと相田ケンスケが、隔壁のすぐ傍に座り込んでいる。
≪ 初号機活動限界まで、あと3分28秒 ≫
『レイ、そこの2人を操縦席へ!2人を回収したのち一時退却、出直すわよ』
『許可のない民間人を、エントリープラグに乗せられると思っているの!?』
『アタシが許可します』
『越権行為よ!葛城一尉!』
『エヴァは現行命令でホールド、その間にエントリープラグ排出、急いで!』
「…ダメ、シンクロを切ったらATフィールドが消えてしまう。だから、このまま…」
『レイ…』
≪ 初号機活動限界まで、あと3分 ≫
「…葛城一尉、はやく」
葛城一尉の身振りと共に、エントリープラグが排出された。
「うっ……」
とっさに口元を覆って、こみ上がる吐き気を呑み下す。ヒトの肉体には無い器官からの、ヒトの肉体にはない機能の感覚。内臓が裏返るような感触に、湧き上がってきた吐き気が苦い。
鼻腔から呼吸をするようにして、違和感をいなす。エヴァンゲリオンだったことのある私にとって、この感覚は苦痛でも不快でもなかった筈だ。そういう風に、造られていたのだから。
けれどヒトの身体である今、その差異が私を苛んで放さない。口中に湧き出した唾液が苦味を増して、私から集中力を奪おうとする。
なにより、コアが遠くて、ATフィールドの維持がつらい。
…
「 なんや、水やないか! 」
「 カメラ、カメラが… 」
脳髄に押し寄せた雑音が、近づいたはずのコアを酷く遠ざける。初号機制御の一部を支えるに過ぎない間接シンクロが、なぜこうも全てを掻き乱すのか。
≪ 神経系統に異常発生! ≫
『 異物を2つもプラグに挿入したからよ!神経パルスにノイズが混じっているんだわ 』
『今よ、後退して!回収ルートは34番、山の東側へ後退して!』
物理的な音声まで私から集中力を奪って、ついにATフィールドが途切れてしまった。押し寄せた荷電粒子が右腰部に突き刺さるけれど、山が障害となって初号機が押し流されない。運動エネルギーとして浪費されない分、さきほどより苛烈な気がする。
≪ 初号機、ATフィールド消失 ≫
『なんてこと… レイ、早く後退して!』
「綾波、逃げろっちゅうとんで!綾波っ!」
「…そう」
もはや、初号機そのものの制御すら覚束ない。
下半身は灼かれるに任せて、腕の力だけで初号機を這わせる。フィードバックで軋む右尺骨の痛みが、這い進むごとに擦れる右肋骨の痛みが、私の意識を削り取っていくようだ。
≪ 初号機、活動限界まで後30秒!28、27、26、25、≫
『レイ、急いで!』
回収スポットまで、あと少し。
≪ 14、13、12、11、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1!≫
初号機の活動停止に引き摺られるように、私の意識も途切れた。
***
視界に入ってきたのは、白い天井。見慣れた医療部の病室。
聞こえてくるのは虫の鳴き声。この声知ってる。蜩。昆虫綱カメムシ目ヨコバイ亜目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ。
ヒトは、物事を分類することを好む。そのことを知った綾波レイは、その中に己の位置を求めて書物を漁ったことがある。
失望しか、もたらさなかったようだけれど。
どれほど天井を眺めていただろう? 唐突にドアが開いた。
「レイ」
「…葛城一尉」
命令違反を咎めに来たのだろうか?ドアを開け放したまま、大股にこちらに向かってくる。
「もう少し、休んでなさい」
身体を起こそうとした私を押しとどめて、ベッドの端に腰をおろした。
「体の調子はどう?」
「…問題ありません」
鼻腔の中だけ吐き出すような、短い溜息。
「再出撃が決まったわ。乗れる?」
「…はい」
もう一度溜息。今度は肺の中身を全て吐き出すように長い。
「あんな目に遭って、どうしてあなたはためらいなくまだアレに乗れるって言うの? 怖くないの」
そう言われて、先ほどの戦闘の経過を思い出す。眠りに落ちるより速やかに意識を失ったことも。
自らの意図に拠らずに意識を手放したのは初めてだったから、
「…怖いです」
「なのに、乗るの?」
なぜ葛城一尉は、同じことを訊くのだろう?
「…怖いから、乗ります」
「怖いから?」
…はい。と応える。
葛城一尉は、なぜ開け放した戸口の方に視線をやるのだろう?
「…私はもう、恐怖を知ってしまった。それで誰かが、恐怖を知らずに済むなら」
「…それでいいの?」
ヒトの身になって、初めて恐怖という感情を知った。自分を失いたくないと思った。自分の身が可愛いと、自分が大切だと実感した。
そう思えて初めて、他のヒトたちが大切に思えた。葛城一尉や碇君。鈴原トウジに相田ケンスケ。洞木ヒカリに、まだ見ぬ弐号機パイロットまで。あのヒトの願いが解かった。
…いま
あのヒトの願いが、私の願いになった。
私は、護りたい。あのヒトに与えられた使命ではなく、己の意思として。
その願いこそ、私の全て。
「…私にはほかに、何もないもの」
「…」
眉尻を吊り上げた葛城一尉は、開けた口をしかし、閉じた。
「出発は60分後、それまでに食事を摂ってケイジに集合しなさい」
「…了解」
顔を伏せたまま、葛城一尉が立ち上がる。
病室を後にする葛城一尉の背中が、なぜか小さく見えた。
***
搭乗用リフトのデッキの上。この惑星の衛星を、とても近く感じる。
葛城一尉は、徴発した陽電子砲による超長距離狙撃作戦を発動した。
射撃手とその護衛に、2体のエヴァンゲリオンが出撃することになったらしい。
「…碇君は、なぜエヴァンゲリオンに乗ることにしたの?」
「…」
ケィジに集合した時も、トレーラーでプラグスーツに着替えている間も、碇君は話し掛けてくれなかった。
その理由を考えると、哀しさに打ちのめされそうになる。
まとわりつく沈黙だけでもせめて追い払いたくて、考えて考えて、口にした質問。
…
問いかけることすら厭われているのかと思って、怖くて逃げ出したくなったその時だった。
「…」
少し深く、呼吸した気配。嘆息と、表現できないほどに。
「…僕は、父さんに呼び出されてこの街に来た。父さんが僕を必要としてくれてるかもしれないって、思ったんだ…」
膝を抱えた姿勢のまま、顔を伏せて。
「なのに、弱虫だから父さんの期待に応えられなかった。父さんに誉められたいはずなのに、失望されることも怖くて、どちらも決断できなかった。
臆病なんだよ」
碇君の呟きは、夜風に掻き消えてしまいそう。
「いきなりエヴァに乗れって言われて怯える僕の代わりに、綾波が乗ってくれて…。それで僕はもう必要ないはずなのに、ここから出られない。…ううん、出ようとしなかった。
ずるいから、怖い目に遭わないうちは逃げ出さない」
碇君の話すことは難しくて、私には解からない。でも、聞き漏らすまいと身を乗り出した。
「エヴァのパイロットってだけで皆よくしてくれるけど、僕は綾波が戦ってる理由すら知ろうとしない卑怯者なんだ」
顔を上げた碇君が、こちらを向く。
「トウジとケンスケを守ってくれたんだってね。ありがとう」
ひどく悲しそうな微笑みなのに、それでもあのヒトの面影があった。
「ここに来て、初めて出来た友達。綾波がくれたんだよ」
ここに来て、初めて見せてくれた……碇君の笑顔。
「僕は、自分の友達を守ることも出来ない」
その笑顔に応えそうになって、頬がひきつった。
私は、碇君の笑顔に応えようとしたわけじゃない。碇君の中に見える、あのヒトの面影に笑いかけただけ。
碇君を見て、碇君を見ていない。
それは、碇司令が私を見るときの目と同じような気がして、背筋が冷えた。ココロが凍った。
「でも、守ってくれる人を手助けするくらいなら……、」
そのことに碇君が気付いていたとしたら、厭われて当然ではないか。私が、碇司令に見られたくないと、思うように。
「こんな僕でも、できるんじゃないかと思ったんだ」
慌てて目を逸らした私をどう思ったのか、碇君が立ち上がる。
「時間だね。行こうか」
***
綾波レイが零号機に乗るのは起動実験以来だから、拍動にして524万3618回ぶりになる。私にとっては初めてだ。
零号機の起動実験に失敗した碇君を乗せるわけには行かないから、私が零号機、碇君が初号機で出撃することになった。
起動指数ぎりぎりの上、満身創痍の初号機では機体動作が安定しない。精密さを要求される長距離射撃は無理として、初号機が護衛だ。
今は零号機の前方で、SSTOの底部を構えてしゃがみこんでいた。
『第一次、接続開始!』
第七次最終接続までのわずかな時間で、零号機のココロに触れる。
「…そう。ヒトの都合で弄ばれるのが嫌だったのね。自由に動いてみたかった?」
オレンジ色した水面と、赤い空。
「…気持ちは解かるわ。私もエヴァンゲリオンだったもの」
どんなに波を蹴立てても、拡がらない波紋。零号機の希薄なココロ。その餓えを、鎮めきれずにいる。
「…ムリ。あなたのココロでは」
ごめんなさい。私では、あなたにココロを与えることが出来ない。
「…だから、せめてヒトに従いなさい。造り主の、命に」
碇君は戦うことを選択した。だから…、
「…私のココロを、あなたにも分けてあげる。この気持ち、あなたにも分けてあげる」
碇君を受け入れなさい。…ほら、心地いいでしょう? ココロが充たされるでしょう?
『 撃鉄起こせ!』
ボルトを握るその手応えに、薄紙一枚挟み込んだかのような、違和感。
エントリープラグの中、私の、綾波レイの匂いが薄くなったことに気付く。
『 第七次最終接続、全エネルギー、ポジトロンライフルへ! 8、7、6…』
それが零号機の答え。と云うことなのだろう。口元が綻んだ。
≪ 目標に、高エネルギー反応! ≫
≪何ですって!≫
レチクルが…、
≪ …3、2、1、≫
…揃う
『発射!』
***
「…碇君っ」
右手のギプスのせいで、救出ハッチを開けるのに手間取った。
なぜこんなに気がせくのか、自分でも解からない。この目に映るもの全てが視界の中で乱れ飛び、世界そのものが壊れたかのように私を惑わす。
「…大丈夫!?」
薄暗いエントリープラグの中、シートの上に結ばれた焦点が、そこだけを切り取ったかのよう。
碇君。
ぐったりと横たわった姿を目にした途端、胸が締め付けられた。
「…碇君っ!」
うっすらと目を開けた碇君が、頭を起こした。…無事。
鼻腔を焦がすこの感情が、すべてを教えてくれた気がする。安堵が、なにもかも緩めてしまう。
…
「綾波…。なぜ泣くの」
自分のために誰かが傷つくのがこんなにつらいだなんて、知らなかった。
私が傷つくことでつらかったヒトが居ただろうことに、気付かされた。
私の願いが、どれほど独りよがりだったか、思い知らされた。
「…ごめんなさい」
身体を起こした碇君が、自らの肩を抱いた。
「使徒の攻撃を受け止めている間、本当に怖かったよ」
綾波はあんな思いして戦ってたんだね。と向けてくれる視線が、とても優しい。
「謝らなきゃならないのは、僕の方だ。綾波は、怖くないから戦えるんだと思ってた」
そう思い込もうとしてた。と視線を落とす。
「ほかに何も無いから戦えるだなんて、あの部屋を知らなければその意味すら解からなかっただろうね」
なぜ、碇君はそのことを知っているのだろう? 葛城一尉に聞いた?
「だからこそ僕は、怖いと感じることを受け入れられたんだ。それが当然だって思えたんだ」
ヘッドレストに頭を預け、碇君はいったい何を見ているのだろう?
「そう思えたら、怖いのに怖くなくなったんだ。…可笑しいよね」
かぶりを振った。碇君の言うこと、解かるような気がする。…いや。解かりたいと思う。
「ここに来て、エヴァに乗れるってだけで皆が気にかけてくれた。
戦いもしないのに、僕自身は何も変わってないのに、ここに来る前とは大違いなんだ。
意味があるのは僕を取り巻く環境で、僕自身に価値なんかないからだって思った」
なのに、今はそれがどうでもよく感じられるんだ。と眉尻を下げた碇君が、私を見た。
「僕は、綾波を守ることが出来た。みんなを守ってる、綾波をね。
少なくともそのことには、価値があると思う。
僕に価値がなくても、僕のしたことに価値があるなら、それで良いんじゃないかって
今それを出来るのが僕だけだというなら、それで充分じゃないかって思えるんだ」
見せてくれたのは、あのヒトにそっくりの笑顔。
「だから、エヴァに乗って戦ってみようと思うんだ」
気管を駆け登った熱気が、鼻腔を直撃する。
…涙。
私、まだ泣いてるの? …なぜ、悲しくないのに泣いてるの?
「綾波!?」
笑顔だった碇君が、慌てて身を乗り出してくる。心配してくれたと判って、それすら嬉しい。
…嬉しい?
嬉しいと自覚しても、涙が止まらない。ヒトは、嬉しくても涙が出ることがあると知る。
碇君が笑顔じゃなくても嬉しいのは、とても困っているように見えるのに嬉しいのは、つまり碇君を透かして見えるあのヒトではなく、碇君本人をこそ見ることが出来たからだと思う。
涙が出るほど嬉しかったのは、この碇君が笑顔になってくれたからで、それがあのヒトの笑顔にそっくりだったからじゃない?
そのことがなぜこんなにも嬉しいのか、解からない。
解からないけれど、この気持ちの促すままに口元をほころばせた。
つづく