当シリーズを最後までお読みくださり、ありがとうございます。
さて初号機篇ですが、一応の続編として「Next_Calyx」の構想がありました。ある程度のプロット立てをしたあと幾らか書いてみたのですが、5匹目のドジョウともなるとそうそう捕まるはずもありません(それに、最終回はどれも同じオチですし)。
そういうわけで未完成ではあるのですが、その後の初号機が気になるヒトのためにパイロット版をおまけ投稿することにしました。
*****
初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx EX1
「目標は依然健在。現在も第3新東京市に向かい、侵攻中」
「航空隊の戦力では足止めできません!」
青葉二尉の報告に続いて、国連軍から派遣されてきたオペレーターさんの声。
「総力戦だ!厚木と入間も全部上げろ!」
「出し惜しみは無しだ!なんとしても目標を潰せ!」
いつもなら碇司令と冬月副司令が居るはずの司令塔には、国連軍の偉そうな人たちが座っている。しげしげと見つめていたら、端っこの人に睨まれた。
あかんべぇで返しかかったところを、踏みとどまる。よしよし、私も成長してるじゃない。
あの宇宙で感情を知り、この宇宙でそれを表現するコトを覚えて、次はそれを制御すべく修行中だ。感情を無くそうって訳じゃなくて、人の処世術としての感情の抑制を勉強中ってわけ。いつまでも「透明セロハン」じゃいられない。
「なぜだ!直撃のはずだ!」
「戦車大隊は壊滅、誘導兵器も砲爆撃もまるで効果なしか」
「ダメだ!この程度の火力では埒があかん!」
じゃあ司令と副司令は? というと、珍しく発令所フロアに居た。
「やはり、ATフィールドか?」
つい「違います」なんて口を挟んでしまったものだから、…ああ。と口を開きかけてた碇司令に睨まれてしまった。もっとも、差し出口を挟んだのが私だと気づいた途端に、咎めるように眉尻が下がったけれど。
「どういうことかね、レイ君」
「…」
冬月副司令の言葉に即座に答えなかったのは、理由がある。
「レイ君?」
「レイちゃん。です」
人の呼び方、呼ばれ方にも色々あるけど、私が気に入ったのが「ちゃん」付けで呼ばれることだった。親しい人から無雑作に「レイ」と呼び捨てにされるのも絆を感じて嬉しいけれど、相手のほうから踏み込んでくるようなこの呼ばれ方は捨て難い。
正式にパイロットに任命された時、条件として申告したほどだ。即座に却下されたけど。
「レイ君……」
眉根を寄せ上げるような冬月副司令の表情を、リツコ姉さんならなんと表現したっけ?
『…酢を飲んだよう。ね』
そうそう、それそれ。と口に出しそうになった言葉を噛み殺す。
『私の心を覗かないで』
『…覗きたくて覗いたわけじゃない。なのに、なぜ非難されるの? 悪いのは、私?』
はいはい、私が悪かったから。と謝ろうとしたら、頭に硬い物が落ちてきた。
「レイ。戦闘配置中に何故、貴女がここにいるのかしら?」
「ミサトさん…」
硬い物の正体は、葛城一尉のこぶしだったらしい。手加減されていたらしく、痛くはなかったが。
「だって…」
「だってじゃない!それに副司令のご質問に答えなさい」
だって。と言い切る前に振り上げられたこぶしは、「まあまあ」と他ならぬ副司令によって止められた。
「レイ君。流石に戦闘配置中は堪忍してくれないかね。此処は、そういう尤もらしさで成り立っている組織だからね
その代わり、戦闘配置中でなければご希望に添うよう努力しよう」
「碇司令もですか?」
ああ…。と一瞬だけ碇司令に視線を向けた副司令は、「もちろんだとも」となにやら愉しそうに目を細めた。碇司令が「おい冬月」となにやら抗議しているけど、それは無視されるようだ。
じゃあ。と差し出そうとした小指を、葛城一尉に腕ごと止められた。
「レイ。それもなし」
え~!と上げかけた抗議の声は、「後でな」と副司令が苦笑いするので自然とすぼまってしまう。恥ずかしいという感覚は以前から知っていたけれど、最近になって特によく解かるようになった気がする。そう……あの日、シンジ君とぶつかってから。
「それで、使徒のあの堅牢さはATフィールドではないのかね?」
「はい。あの子には、まだそれだけの拒絶の心を感じませ……」
言葉が途切れたのは、メインスクリーンが光に塗りつぶされたからだった。
「やった!」
「残念ながら、君たちの出番はなかったようだな」
「衝撃波、来ます」
途端にスノーノイズで埋め尽くされる。今日のメインスクリーンは大忙しだ。
「その後の目標は?」
「電波障害のため、確認できません」
「あの爆発だ。ケリはついてる」
「センサー、回復します」
青葉二尉の報告と同時、メインスクリーンに映し出されたレベルメーターが振り切れた。
「爆心地に、エネルギー反応!」
「なんだとぉっ!」
「映像、回復します」
熱気に揺らぐ映像の中で、サキエルは立ち尽くしているように見える。己を害し得る、外界という存在に気付いたのだろう。
「おお…」
「なんてことだ…」
「われわれの切り札が…」
「化け物め!」
かえしの付いた銛を刺されたように、物理的な痛みが胸元を抉る。耐えられないような痛みではないけれど、拭い去れない。
「予想通り、自己修復中か」
「そうでなければ単独兵器として役に立たんよ」
不老不死たる自身にとってもこの世界は優しくないのだと悟ったサキエルが欲したのは、より遠くの障害物を排除する能力。
新たに現出させた顔のその両眼を光らせて、メインスクリーンをまたもスノーノイズで埋め尽くす。
「ほう、たいしたものだ。機能増幅まで可能なのか」
「おまけに知恵もついたようだ」
「再度進攻は、時間の問題だな」
あの…。と口を挟もうとした私の手を掴んで、葛城一尉が「こっち来なさい」と引っぱっていく。
「今から本作戦の指揮権は君に移った。お手並みを見せてもらおう」
「了解です」
「碇君、我々の所有兵器では目標に対し有効な手段がないことは認めよう」
「だが、君なら勝てるのかね?」
そう言った国連軍の偉そうな人の視線が、一瞬だけ私に向けられた。愛想笑いを返す暇もないほどだけど、下げられた眉尻の示すものは読み取れる。誰が戦うことになるのか、知っているのだろう。
「そのためのネルフです」
「期待しているよ」
途端に司令塔は沈降を始め、発令所の床下へと消えた。
****
『いいわね、レイ』
「はい」
『最終安全装置、解除!エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ!』
零号機も初号機も、どちらも直接制御下にあるけれど、気心が知れている分やはり乗るとなると初号機のほうが楽だ。
『出撃よ、レイ。どうしたの? 初号機は?』
「葛城一尉、お願いがあります」
『なに? レイ』
【FROM CONTROL】の通信ウィンドウの中から、睨むような葛城一尉の眼差し。少し気が立っているように見える。
「使徒を、説得する機会を下さい」
『使徒を…説得、ですってぇ!?』
「はい」
あんた、なにを。と荒げかけた声は、増えた通信ウィンドウに遮られた。【FROM CONTROL】の下に、―SECRET/Off The Record―と表示がある。
『レイ。成算はあるのか』
先ほどまでかけていた赤いサングラスではなくて、素通しのレンズの向こうから、碇司令のまなざし。
「はい」
『いいだろう、反対する理由は無い。やりたまえ』
「はい」
『いいのか? 碇。老人たちが黙っていないぞ』
『使徒を斃さねばならないとは書いてない。争わずに済めば損害もないし、国連軍へのあてつけにもなる』
…喰えんヤツだ。と苦笑しながら姿勢を正す冬月副司令に釣られて口元を緩めていたら、碇司令に睨まれた。少し焦点が遠いから、この姿に他の誰かを映し見ていると感じる。それが誰か知っているし、そのことを不快に思っているわけではないと解かるから、つらくはない。
外輪山の稜線に変化。サキエルが来たらしい。
その光撃のために形成されたATフィールドを中和した上で、反転ATフィールドを展開する。
オレンジ色の水面に、赤い空。
そこに、明確なサキエルの心の容はない。まがりなりにも私の姿を真似て見せたアルミサエルとは違って。
そのことを、以前の私では理解できなかっただろう。話し掛けたのに無視されたと、思い込んでいた私では。
思い出すのは、かつての惣流アスカラングレィの言葉。
【同胞よ、アナタはアナタの卑小なる理性を『精神』と呼ぶが、これは実はアナタの肉体の道具にすぎないものである】
その肉体の保全を効率的に行なうために生命が精神というものを獲得したというのなら、生き延びることに汲々としない使徒には本来、発達した精神など不要なのだろう。
持たないはずの心に、なぜか飢餓感を滲ませて。そうして貴方はここに来た。
サキエル。貴方に唯一足りないものがあるとすれば、それはアダムからの祝福。セカンドインパクトで暴走したアダムから、貴方たちは生まれてしまった。産み出されたのではなく、生れ落ちてしまったから、そのままアダムは消え去ってしまったから、「生きよ」と祝福されなかった。
これがリリスの使徒なら、人ならば、生きることそのものに懸命で、それだけで充分な目的になるのに。
永遠にして不朽のその生に、だからこそ意味を見出せずに貴方たちは、こうしてアダムを求め彷徨っている。
サキエルの足元に現出した闇は、虚数空間への接点。この肉体の、本来の持ち主に展開してもらった。
そうして導くのはターミナルドグマ。リリスの正面。
リリスに触れようと上げた手をしかし止めて、サキエルがその目をしばたいている。ここまで近寄れば、半覚醒しかしてないリリスでもアダムとは違うと判るだろう。
その心に初めてさざなみを立てて、オレンジ色の水面が波立っている。
「アダムは居ないわ」
ようやく私の存在を気に止めたのだろう。その体ごと視線をこちらに向けて、またサキエルが目をしばたいた。
「アダムの帰還はずっと先のことになる」
イメージするのはこの惑星の公転。何度も何億度も周回して、その果てにアダムの姿を起想する。
渦巻くオレンジ色の水面は、おそらく初めてのサキエルの途惑い。
『…ここは、この惑星は、リリスとその使徒の約束の地』
私の背後から滲むように現れたのは、この体の本来の持ち主。綾波レイ。あの日のままの、赤いワンピース姿で。
『…貴方の居場所は、ここにはない』
途端、サキエルの目に殺気が篭った。遠く、水平線の彼方に持ち上がった波頭は、津波のようにこちらに押し寄せてくる。水の断崖も同然のそれは、簡単に私を呑み込むだろう。
「アダムは居ないけれど、貴方には私から祝福をあげる
生きていていいのだと、生きなさいと言ってあげる
約束の地を、貴方にもあげるわ」
サキエルをどこに連れて行けばいいのか、それはかつてのタブリスが教えてくれていた。
想像するのは、アンモニアの海。この惑星をいくつも呑み込む広さで。
「貴方に最適の場所、泳ぎきれないほどの海」
この身を呑み込む寸前で雪崩れ落ちた波頭はそのまま渦を巻いて、不審物を見つけた魚のように私の周囲を巡る。
「そこで、待ってて」
その渦を一旦反転させて、鏡のような水面が戻ってきた。
「そう。ありがとう」
初号機と私と綾波レイ。3人がかりで展開した虚数空間は、この恒星系5番目の惑星までをおさめる。
開いた接点に足を踏み入れたサキエルが、しかし振り向く。オレンジ色の水面が一度だけ波立った。
「どういたしまして」
サキエルを呑み込んで閉じた接点に、そう返した。
おわり
2008.7.25 DISTRIBUTED
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初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx EX2
実は、虚数空間との接点は、一度つなげてしまうと動かせない。
つまり、宙に浮いている相手を問答無用で引き摺り込むのは難しいということだ。
浮遊に向けているATフィールドを中和することも考えたが、その使徒の生態に根付くATフィールドは生得的なもので中和しづらい。それに、心と体が同一である使徒のそうしたATフィールドを中和することは、人間で言えば基本的人権を剥奪するようなものといえる。できるだけ穏便に退去してもらいたいと考える以上、採りたくない手段だった。
滑るように第3新東京市へ侵攻してきたシャムシェルが、初号機の目前でその身を起こす。胴体が地面に接するのを見計らって反転ATフィールドと虚数空間を展開しようとした、その時だ。初号機の後方でシェルターの隔壁が開く音がしたのは。
「凄い!これぞ苦労の甲斐もあったと言うもの」
「ケンスケ、やっぱりまずいよ……」
「なんだよ。赤木が戦ってるなら見守りたいって、碇もそう言ったじゃないか」
「そうだけど」
振り向くまいとした努力は無駄だった。まさか、シンジ君まで出てくるなんて。
『バカっ!戦闘中にヨソ見なんて!』
葛城一尉の叱責に視線を戻した時には、鞭が足首に絡み付いていた。すぐさま力任せに投げ飛ばされる。
≪ アンビリカルケーブル、断線! ≫
≪ エヴァ、内部電源に切り替わりました ≫
≪ 活動限界まで、あと4分53秒 ≫
直接制御下にある以上、電源供給なんか必要ない。けれど碇司令の指示で、S2機関の存在は伏せられていた。
「こっちに来る!」
3人分の悲鳴が、ドップラー効果を起こして甲高い。
こんな時どうしたか。あの人がやって見せてくれていたから、迷いはない。
展開したATフィールドをスピードブレーキにして体勢を立て直し、空中に固定したフィールドに着地。そこからそっと、地面に。
『レイのクラスメイト? シンジ君まで!?』
『なんでこんなところに?』
滑るように初号機を追ってきた使徒が、宙に浮いたまま光の鞭を振るった。
「くっ」
その鞭の挙動は、ATフィールドで制御されている。つまりATフィールドを感知できれば、その動きを把握することは容易い。掴んだ鞭が掌を灼くけれど、使徒にとって痛覚はただの信号だから苦痛ではない。
『レイ、そこの3人を操縦席へ!』
『許可のない民間人を、エントリープラグに乗せられると思っているの!?』
『アタシが許可します』
「いやです!」
『レイ!?』
「今の初号機は私そのものです。その中に男の子を迎え入れることがどういう意味になるか、考えて下さい」
『どういう……って』
私はこれでもこの宇宙で、なるべく普通の女の子として育ったつもりだ。だから一般的な女子中学生として、ごく普通にそうしたことへの興味を抱いてる。
『直接制御はそういうものなの。初号機は今、レイそのものなのよ』
『え…? あっ、その…』
以前に抱いた人同士として、家族同然の絆としての好意ではなく、男女の間の好意というものも今は理解できるつもりだ。その上で感じ始めているシンジ君への好意も自覚している。
けれど、だからと云っていきなりこんな状況で迎え入れられる筈もない。今ここに招くということは、精神的には考えていること全てを大声で叫ぶことに等しいし、肉体的には相手を子宮に収めることに近しい。
「しばらく、このままで。お願い」
初号機のステンドグラスのような視界が、一瞬途絶えた。エヴァには必要のないまばたき、それが答えということだ。本来、私と初号機の仲ならこんなサインは要らない。それだけこの子も自我を育てつつあるということだろう。
≪ 初号機、プラグイジェクト! ≫
『レイ!何する気なの!』
メインスライドカバーを開け、手早くLCLを吐く。ウインチのリリースに任せるままワイヤで地上に降りた。
「赤木……」
異口同音に、3人の口から。私がエヴァのパイロットであることは、クラスメイトなら誰でも知っていることだ。隠し事、できないから。
「くふっ…」
一言文句を言おうとして、咳き込んだ。LCLがまだ気管に残っていたらしい。ごほごほと身を折って咳き込むと、目尻に涙が滲む。
「赤木…」
差し伸べられたシンジ君の手を、やんわりと押し戻す。
「首謀者は誰」
手を差し上げた相田君を精一杯睨みつけたら、跳ねるように気をつけの姿勢。ここは厳しくすべきだと1人目も賛同してくれたけど、…そんなに怖いかなぁ、私。
「命懸けで戦ってる私の姿を見て、満足した? したなら早くシェルターに戻って。こうしてる間にも人類が滅亡する可能性が跳ね上がっていくんだから!」
声を上げようとしたトウジ君を身振りで黙らせて、指差すのはシェルターへ続く隔壁。
「私は皆を護るために戦っている。万が一の時は死ぬ覚悟で。貴方達ももちろんそこに含まれてる。貴方達の為にも死ねるわ。でも今はダメ。今私が居なくなったら、ここを護る者が居なくなるもの。それが人類を護るためでも、貴方達を見殺しにさせないで」
答えは聞かずに踵を返す。そうしないと自分がぶつけた言葉で、私自身が傷ついてしまう。
『…がんばったわね』
ワイヤが巻き戻る途中で、そんなことを言ってくれるから、我慢できたはずの涙が堪えられなかった。
≪ 活動限界まで、あと32秒 ≫
『 レイ!レイ! 』
「今戻りました。3人は?」
『隔壁が閉まったのを確認したわ…じゃなくてアンタ!』
「後でお願いします」
エントリープラグに納まると、ひどく落ち着くのが判る。模造使徒であったころの無感動さが甦ってきて、育ててきたはずの感情が削げ落ちていくよう。
「お願い」
『…了解』
一人目が展開してくれた虚数空間に、シャムシェルともども沈む。
なんでも碇司令は、「相互のATフィールドが干渉した結果、位相空間を形成。我々の目からは消えたように見えるのだろう」とゼーレに報告しているそうだ。「だから出てくるのは勝ち残った方だけで、その死体すら帰ってこれない」とまで理屈付けているらしい。
「屁理屈付ける能力だけは一級品だと、私も認めているよ」とは冬月副司令の弁だけど、私も同感だ。
***
シャムシェルの心は、サキエルに似ているように感じる。それは、私ではその違いをしかと感じとれないからだろう。
その証拠に、約束の地へと誘う虚数空間との接点の前で、シャムシェルは立ち止まってしまった。
「どうしたの?」
オレンジ色の水面は小さなうねりを生じ、この私の脚の間で∞の字を描いている。すこし、くすぐったい。
『…ここに居たいの?』
私の背後に一人目が現れると、ホースから放たれた水流のようにうねって、波頭がはじけた。
『…そう。好きにすればいいわ』
サキエルのときにも感じたが、良きにつけ悪しきにつけこの人は、使徒の心というものを私などより的確に捉えている。この人があまりにも見事に急所を突いたものだからサキエルは怒りを知り、だからこそ却って私の言葉を受け入れられたのだろう。
『…そうね、大人しくしているならここに居てもいいけど……』
水面にしゃがみこんだ一人目は、乱発されるミルククラウンに向かって内緒話を始めた。
『…そう。よかったわね』
途端に拡がったさざなみは、ところ構わずレベルメーターのように跳ね上がる。
現実の視界の中では、退き返してきたシャムシェルが初号機に抱きつき、そのままへばりついてしまった。
前の世界のアルミサエルと違って、初号機と一つになったわけではない。ただ傍にいて、くっついているだけ。
その距離感はまるで、ソファで寝そべっている時にネコたちがよじ登ってきた時のような感覚だった。明確な意思表示があるわけではない。なのに、その態度だけで好意を示されていると解かる。
「そう。誰かの傍に居てみたかったの? それが貴方の心?」
もちろん明確な返事はない。
けれど、沸き立つ水面の震えはなんだか、ネコが鳴らす喉の音のようだった。
***
「内部に熱、電子、電磁波ほか、化学エネルギー反応無し。S2機関は完全に停止していて、エヴァの無起動状態に近い。
エネルギーの発生無しに生命機構を維持できる? 初号機との共生? 片利共生の可能性も有り?」
それで? と振り返ったリツコ姉さんの口調は、捨てネコを連れて帰った時のように呆れかえっている。
「説得したら、懐かれたみたいなの」
「懐かれた。ねぇ……」
その視線に釣られて、初号機を見上げる。
ケィジの床から見上げる初号機は、紫と赤紫のツートンカラーになっている。胴体側面と腕部、脚部外側に、布地でも縫い付けたような感じでシャムシェルが張り付いているのだ。あのイカともプラナリアともとれる特徴的な面影は、もはやない。あと、もう仕舞っているけど、手首からはあの光の鞭を展開することも出来た。
こんなデザインのジャージがあったなぁ。とか思っていたら、隣りでリツコ姉さんの溜息。
「連れてきちゃったものは仕方ないわね。万が一の時は呼ぶから、暫くジオフロント内に居ること。いいわね?」
「え?」
「なに?」
ううん、なんでもない。と誤魔化して、退散する。
てっきり捨てて来いって言われるものだと思っていたから、いろいろ考えていたのに。
赤木家の家訓では、拾ってきたネコは自分の甲斐性で面倒を見ることになっている。3種混合に猫白血病ウイルス、猫クラミジアのワクチン接種は結構高いし、エサにトイレに爪研ぎにとネコの出費には暇がない。小学生の時に拾ってきたネコは、私の小遣いでは賄いきれないという理由で里子に出されてしまったものだ。なので我が家には、ナオコ母さんのクロとリツコ姉さんのシロしか居なかった。
ケィジの隔壁の前で、いま一度振り返る。
「よろしくね、シャムちゃん」
もちろん、応えはない。けれど、いつもより暖かく感じるケィジがシャムシェルの心だと思う。
『…』
「なによ、言いたいことがあるなら言いなさいよ」
声以外に寄る辺がない上に、その声とて感情の類いを含まないので、一人目の情動を慮ることは難しい。
けれど時折、ネコが声をあげずに鳴くように、何か言いたがっていることは判ることがあった。
『…風邪を引くから、早く着替えたほうがいいわ』
「うわっ誤魔化した!私に言えないようなヒドいこと考えてたのね」
『…誤魔化してなんか、ないわ』
「い~え!ぜったい今のは誤魔化したわ。レイったらヒドい」
『…勘弁して』
人払いされていたお陰で控え室までの間、誰にも出会わなかったのは幸いだったと思う。
おわり
2008.7.30 DISTRIBUTED
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初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx EX3
恥じらいという言葉を、私は覚えた筈だ。
筈だ。と仮定形になっちゃうのは、こんな事態を引き起こしておいて言い切れるほど厚顔無恥ではないから。
思わずへたり込んだ私の目前に、背を向けたシンジ君の姿がある。その首筋まで赤い。
玄関のチャイムが鳴ったから出た。それだけのことだった。ただ、シャワーを浴びたばかりで、バスタオルしか身につけてなかったコトを別にすれば。
思うに人が恥じらいという感情を得たのは、直立姿勢を得たことと衣服を纏うコトを知って以来のことだろう。
私自身、長い間衣服を着けることを実践してきて、人前で肌をさらすことへの違和感を覚えつつあったし、なにより赤木家はそうした躾に結構厳しかった。
そうして備えつつあった恥じらいというものを自覚したのは3ヶ月ほど前、シンジ君を迎えに行った時。ぶつかって転んで、やはり目前で同じように転んでいたシンジ君の視線を追いかけた後、だった。
たかが布きれ1枚。と以前の私ならそう言っただろう。見られたからといって実害があるわけではないと。
けれど、ロジックじゃないと解かってしまったのだ。女の子にとってそれは最後の防衛線で、なおかつ薄紙ほどにも貧弱な1枚に過ぎないと。女の子のこの一点においてのみ、人の心と体は同一で、下着は具象化されたATフィールドだった。本来ATフィールドは見えない壁だから、下着も見えないように隠されるべきなのだろう。
そのせいで、しばらくスカートを穿くのが怖かったくらいだ。なぜかリツコ姉さんやナオコ母さんには「女の子らしくなった」と好評だったのだけれど。
「あの、ごめんね。こんなカッコで」
なんとか、それだけ搾り出すので精一杯。
「いや、その……」とか何とかシンジ君が口走っていたような気がするけど、耳に入るわけがなかった。
***
恥ずかしくて、とても後ろを向けない。
せっかくシンジ君をエスコートしてジオフロントに来たっていうのに、一言も口をきいてなかった。途中のリニアモノレールでも、不自然に距離が出来てしまってたし。
あまりにも長いこのエスカレーターが、なんだか呪わしい。
碇シンジという人物には、前の宇宙でも好意を抱いていた。けれどもこの宇宙で彼のコトを考える時、好ましさとともに浮かんでくるのは、なぜか羞恥と恐怖、なにより途惑いだった。
その差異がすなわち、家族への好意と、男の子に寄せる好意の違いだと気付くまでに、どれほど時間がかかっただろう。
「レイって、もしかして碇君のことが好き?」とヒカリが顔を真っ赤にして訊ねてくれなければ、今でも気付いてなかったかもしれない。「実はわたし、鈴原が好きなの」と口早に教えてくれたヒカリが「お互いに協力しましょ」と声をひそめて言ってくれたとき、ことんと音すらたてて、男の子を好きになるということを理解できたような気がするのだ。それが、人にとって素晴らしいことだということと共に。
そのことから連想された物事が、話しかけるきっかけをくれる。
「シンジ君のお母さん、もう臨月だよね。赤ちゃん、無事に生まれてくるといいね」
「うん」
約8ヶ月前に帰還した碇ユイは、そのお腹の中に命を宿していた。事前の告知を受けてないそうなので、その子が女の子だって知っているのは私とお医者様だけだろう。
1ヶ月前にリハビリは終わったそうだけれど、子宮近辺の筋力に不安のあった碇ユイの退院は叶わず、そのまま医療部で――場合によっては帝王切開も視野に入れて――出産する予定なのだそうだ。
なのでこうして、ときおりシンジ君を連れてきてあげていた。ネルフ高官の子息とはいえ、独りではむやみに出入りさせられないのだとか。
「お兄ちゃんになるんだから、しっかりしなくちゃね♪」
あの宇宙での、あの時の碇君の笑顔を思い出せたから、ようやく振り返れる。今の、もっとも私らしい笑顔で。
「…」
「どうしたの?」
あ…うん。と歯切れ悪そうに俯いたシンジ君が、真っ赤になった頬を掻く。
「いま、お兄ちゃんって言った時さ、その……それって、なんか、妹、って感じがした」
「ふうん、シンジ君ってそういう趣味だったんだ」
えっ? と面を上げたシンジ君を無視して、正面に向き直る。
「これは、生まれてくる赤ちゃんが女の子だったら気をつけないと」
うんうんと腕を組む。
これでも私は年頃の女の子なので、そうしたことへの知識は人並みにあった。ああ見えて意外に耳年増なヒカリの友人などやってるから、実は人並み以上かもしれない。
ええ!? 違うよ、赤木。と慌てるシンジ君を尻目に、「ど~かな~」などと嘯いてエスカレーターを降りる。
あの宇宙で、私はあのヒトの子供だった。前の宇宙で、私は碇君の妹だったのかもしれない。けれどこの宇宙で、その地位に甘んじるつもりはなかったから、これは牽制のつもり。
「わっ!わわ…」
「え…?」
慌てるあまりエスカレーターを降りそこなったシンジ君に押し倒される。そんなことまでは予想してなかったけれど。
***
「F型装備?」
「そうよ」
アンビリカルブリッジから見る初号機は、なんだかトゲトゲしていた。
「予測されていたものより強力なATフィールドを展開できる初号機のために、フィールド偏向制御装置による機動力の向上を織り込んだ、火力増加、重装甲化モデルよ」
ふうん。って頷こうとしたら、「というのは建前で、貴女が連れてきちゃった使徒を誤魔化す為のカムフラージュよ」とリツコ姉さん。
「ああ…、あはは」
笑って誤魔化そう。これもこの宇宙に来てから覚えたことだ。
「性能向上も嘘ではないから、少しは楽になると思うわ……」
珍しく歯切れが悪かったから見上げると、視線が合った。そこに含まれるものを、今の私なら感じとれる。
「うん。ありがとう、姉さん」
≪ 目標は、塔の沢上空を通過 ≫
シンジ君がユイさんと面会中に発見されたラミエルが、もうここまで来たらしい。
≪ 初号機、発進準備に入ります。レイちゃん、プラグ搭乗よろしく ≫
「は~い♪」とことさら明るく返事をして、リツコ姉さんに手を振りながらプラグへ向かう。
私は、敬礼をしない。
それは命を懸け、命を預かる人たちがすることだから。
もちろん私だって命懸けで、皆を護っている。けれど、私は死なない。誰も死なせない。
だから、私は敬礼をしない。
***
≪ 目標内部に高エネルギー反応! ≫
『なんですってぇ!?』
≪ 円周部を加速、収束していきます! ≫
『まさか!』
『ダメっ!!避けて!』
放たれた荷電粒子の奔流を、傾斜したATフィールドで受け流した。
「?」
ATフィールドに感じる荷電粒子の圧力が、心なしか少ない。
これがフィールド偏向制御装置の威力。なのだろうか? 意図した部分のフィールドの厚みが、普段より厚いような気がする。
サキエルの時と同様に攻撃に使っているATフィールドを中和しようかと思っていたのだけれど、間に合わせに機能増幅したサキエルと違ってラミエルのそれは生得的に体内にあって、多分にATフィールドを活用しているとはいっても、中和しがたい。
『…虚数空間、展開するわ』
「お願い」
防御のATフィールドを初号機に引き継いで、ラミエルに取り付きながら反転ATフィールドを展開する。
…
リリスを間近に見て、なのにラミエルの心にはさざなみ一つ、立たなかった。受け流す荷電粒子は、開いたままの虚数空間へと逃がす。それがラミエルの唯一の叫びのようで、痛い。
「話しをきいて」
ここに心がないわけではない。無視されているわけでもない。ただ、信じてもらえないだけ。ただ、拒絶されてるだけだった。
『…そうやって、嫌なことから逃げているのね』
1人目の辛辣な言葉にも、うねり一つ生じない。完璧な心の壁がそこにあった。
もしかしたら、使徒というものはこういうものかもしれない。単独生命とはこういうものなのかもしれない。
けれど、それで、
「貴方は寂しくないの?」
なのにやはり、分子の一つとて微動だにしなかった。
ここにあるのがリリスだと知ってなお諦められないのだとしたら、アダムの欠片でも見せるべきだろうか?
しかし、アダムの欠片が今どこにあるのか、私は知らない。探すことはできるだろうが、あの微弱な波動を捉えるには4人がかりの濃密なATフィールドが必要だろう。そのためには……
「お願い。すこしでいいの、攻撃をやめて」
弱まりはしない。けれど強くもならない。ラミエルの荷電粒子砲は、ただ己を傷つける可能性のあるものを排除しようと止め処ない。
『…無駄、みたいね』
その頑ななさは、確かに人の可能性なのだろう。それが相容れないというのなら、私は……
「シャムシェル……」
伸びた光の鞭は即座に翻って、ラミエルをその半ばまで斬り落とした。そのコアが初めて外気に触れただろうに、オレンジ色の水面に変化はない。脅威を、そして恐怖を感じてないわけではないと思う。あまりにも厚い心の壁に、自らの感情すら感じとれないでいる? だからあの、鉱物のような姿、なのだろうか?
ことさらゆっくりに歩み寄ったのは、その間にラミエルが己が感情に気付いてくれることを期待したから。
けれど平然と放たれつづける荷電粒子に変わりはなく、それを呑み込む虚数空間を無為に灼いていた。
「…」
貫き手に伝わってきた温もりが、荷電粒子が細くなるのに伴うかのように冷めていく。
『…なに、泣いてるの』
私の心は全て見えるだろうに、確認するように1人目は訊いてくる。
「あんなに頑ななのに、この子はこんなに温かい
この子は生きてた。心だってあったはず
言葉が通じなかったからといって、意思疎通できないからといって、なぜ殺しあわなければならないの」
『…生存原理が違うから即物的な殺し合いに見えるけれど、これも生存競争。解かっているでしょう?』
解かっているも何も、そのことをこの人に教えたのは私だ。
けれど、だからと云って納得できないのが人なのだ。私は今、はっきりと言える。私は人だと。
だから失われつつある命に、奪ってしまった命に、あらゆるものを見出してしまう。
『…善きにつけ悪しきにつけ、本当に貴女はヒトなのね』
なんだか、溜息を吐かれたような。そんな気がする。
『…それをラミエルが望むかどうかは知らないけれど、ロンギヌスの槍を使えばいいわ』
確かにロンギヌスの槍を使えば、ラミエルの心を取り込むことができる。けれどまだ…いや、取りに行けばいいではないか。
虚数空間への接点を広げ、ラミエルごとその闇へと足を踏み入れる。
「ありがとう」
『…礼を言うのは、まだ早いわ』
眼前の希望に目のくらんだ私は、一人目のその言葉を聞き流してしまった。前回とは状況が違うというコトを、よく考えもせず。
おわり
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初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx EX4
「紹介するわ。エヴァンゲリオン弐号機専属パイロット、セカンドチルドレン……」
「あなたが惣流・アスカ・ラングレィね!」
ミサトさんに皆まで言わせず、惣流アスカラングレィに飛びついた。ぎゅっと抱きしめてから、両腕に手をかけたまま少し距離をとる。
「私、赤木レイ。初号機パイロットよ。会いたかったわ、ようこそ日本へ!」
面食らって目を白黒させている惣流アスカラングレィを再び抱きしめた。
***
「ねぇ、アスカ。あとで弐号機、見せてね♪」
私の熱い抱擁からの開放と引き替えに、お互いを呼び捨てで呼び合うコトを勝ち取った。アスカは最初、私のことをファーストって呼ぼうとしたけど、そんなのは許さない。
「はいはい…」
あの宇宙でシンジ君が私の兄だったなら、アスカは私の姉だっただろう。シンジ君がいろんなモノを与えてくれたように、アスカは様々なコトを教えてくれた。
「いやはや、随分と懐かれたもんだな」
「……なんとかしてよ、これ」
「え~!? ダメ~?」
こうして士官食堂に降りてくるまでの間、いや今も、アスカの腕をとって片時も離れなかった。最初は抵抗していたアスカだけど、今は無駄だと悟ったらしく、文句も力ない。
「一体、アスカのどこがそんなに気に入ったんだい? 赤木レイ君」
「え~? こんなに美人で、飛び級で大学まで卒業しちゃうような才媛で、しかも実戦用エヴァンゲリオンの最初のパイロットで、どこにアスカを嫌う要素があるっていうんですか!?」
アスカの向こっ側にいる加持一尉に、眉を上げてみせる。
「そりゃアスカを嫌うような要素なんてないさ。けれど、それなら君だって試作機・実験機を自在に操り、使徒を3体まで退けたファーストチルドレンだろう?」
加持一尉の言いように、アスカの眉根が寄ったのが見えた。
「正式に訓練を受けたアスカと一緒にしちゃダメですよ。零号機と初号機は所詮試作機、実験機ですから、私しか乗れる人が居なかったってだけですもん」
「君しか乗れないってことが運命なのさ。才能なんだよ、君の」
アスカの眉間の皺が深くなったと見てとった瞬間、椅子を蹴立てて立ち上がっていた。延髄で勃発した熱気を、視線ごと叩きつけるように加持一尉を睨む。
「…」
けれど、言うべき言葉を持たない。
「レイ?」
かけられた声に、ミサトさんのほうを向く。驚いた顔に、気遣いの色。視線を戻せば、加持一尉やアスカが、目を見開いていた。
「……あ」
どうしていいか判らないまま、ただ「ごめんなさい」と呟いて、その場を走り去った。
***
「私、どうしちゃったの?」
艦橋構造物の途中、階段の手すりにもたれかかる。目前に広がるのは、海。
『…人を嫌うコトを、覚えたのね』
「人を、…嫌う?」
…ええ。と、綾波レイは、いったん口篭もったように思えた。
『…惣流アスカラングレィへの好意の裏返しで、貴女は加持一尉に嫌悪を抱いたの』
好意の裏返しで、嫌悪?
「……でも」
『…貴女の言いたいことは判るわ。前の宇宙で、碇シンジを殴った鈴原トウジにさえ、そんな感情は抱かなかったと』
こくん。と頷く。
『…おそらくは、ラミエルの心を取り込んだことが原因』
えっ!? と、声にはならなかった。
『…あの拒絶の心。あれを受け入れて、貴女は人を拒絶するコトを、嫌うコトを知った』
「……そんな」
言葉が続かなかった。
加持一尉の顔を思い浮かべるだけで、あの言いようを思い出すだけで、この胸中に言い知れぬ暗雲が立ち込める。胃液が肺胞一杯に流入してきてその内側を灼いているかのような、不快感。
それが、人を嫌うということなのだろう。
その肉体の保全を効率的に行なうために生命が精神というものを獲得したというのなら、好悪もまた、それに沿うのだろう。好ましきものには近寄り、そうでないなら遠ざける。
表裏一体の感情の、その一方を手に入れたコトを、慶ぶべきなのかもしれない。私が、人になろうとするのならば。
なのに、あふれる涙が止まらなかった。
***
「約束だから見せてあげるけど、その前に聞きたいことがあるわ」
巨大な帆布の一端を、まさかそれで縫いとめようって訳じゃないだろうけど、アスカが踏みつけて仁王立ち。
あのまま泣き崩れていた私を、アスカは見つけるなりここへ連れてきてくれたのだ。着くまでに泣き止まなかったら見せてやんない。との、優しい脅し文句と共に。
「なに?」
なんで…。と言いかかって、アスカがそっぽを向いた。まるで探し物をしているように視線が泳いでる。
「……なんで、アンタは ……ワタシのことを…」
再び口篭もってしまったアスカに、一歩踏みよる。アスカが何を言いたいか、それぐらいは推測できるようになった。
「好きかってコト?」
弾かれるようにこっちに向き直ったアスカの、頬が火を噴きそうに赤い。
すすすっ…。と声を上擦らせるアスカに、笑顔。
「人を好きになるのに、理由がないと、ダメ?」
理由なら、本当はある。けれど、話すわけには行かない。
「さっきはああ言ったけれど、アスカを好きになるのに、美人だとか、飛び級で大学まで卒業しちゃうような天才だとか、実戦用エヴァンゲリオンの最初のパイロットだとか、そういう理由がないと、ダメ?」
「そういうわけじゃないけど……」
その言葉の間に甲板と私を往復した視線は、窺うような色を載せて向けられてくる。
「どうしてもって言うなら…資料の上だけだったけど、アスカのことは知っていたの。どんな人か知りたかったから、取り寄せてもらって」
「そんなことできたの?」
うん。と頷いて見せ、「日時と数値しか並んでないような資料だけだったけれど」と呟く。
「でも、それだけでもアスカがどんな人か判ったわ。
過密なスケジュールの中で、着実に数字が伸びていくの。
たまに下がったかな? って思うと、次には10倍になって上がってる」
この人は…。と掴むのは、アスカの両手。重ね合わさせたその掌を、さらに包むように。
「とっても頭のいい人だけれど、それ以上に物凄い努力家なんだって。それでね、きっととてつもない負けず嫌い。特に、自分に対して」
違ってる? と覗き込むのは、小さな青空。見開かれたそこに、私の笑顔。
「そんなの、どうとでもとれるわ!」
アスカがそっぽを向いてしまったから、その手を引いて、胸元に抱き寄せる。
「うん。だから、どうしてもって言うならってこと。理由なんてないもの」
あっ、でも!と視線を跳ね上げると、釣られてアスカがこっちを向いた。
あの宇宙でアスカは、いつも不本意そうな表情をしていながら、私の質問には可能な限り応じてくれていた。
それがどういうことか、この宇宙でリツコ姉さんの妹として過ごすことで知ったように思う。
「さっき、泣いてた私をこうして、ここに連れてきてくれたでしょう」
優しいということ、面倒見がいいってこと。でも、それを素直には見せない、認められないってこと。アスカとリツコ姉さんは少し、似ていた。
「そういう優しい人なんだって、一目見たときになんとなく判っちゃったの」
それじゃダメかなぁ。と覗き込む瞳孔。
「まっまあ、そう思いたいっていうんなら、勝手にすれば」
「うん、そうする」
ふいっ、とアスカがそっぽ向いた途端、その視線の先で駆逐艦が1隻まっぷたつになった。
***
「ママ、ココに居たのね…ママッ!」
弐号機を起動させるなりそう叫んだアスカは、己自身を抱くようにしてなにやら呟き始める。
『ナイス、アスカ!』だの『いかん、起動中止だ、元に戻せ!』とか『かまわないわアスカ、発進して!』などと水中スピーカーが五月蝿いけれど、聞こえてないだろう。
それは、エントリープラグに入るなり2人がかりで始めた作業の結果。惣流キョウコツェッペリンを目覚めさせ、弐号機のコアから半ば追い出したのだ。
「ワタシを守ってくれてる」
胎児のように身を丸めたアスカが、指を吸う。
「ワタシを見てくれてる」
居所を失った惣流キョウコツェッペリンの魂は寄る辺を求めてこのLCLに充ち、エントリープラグはさながらその子宮だった。
「ずっと、ずっと一緒だったのね…ママ」
感情が欠け落ちたからではなく、安心しきったからこその無表情で、アスカが寝息をたて始める。
「よかったわね」
その頭をなでてやると、その口元が綻んだ。
これは、想定外の事態だった。まさかアスカがこんな風になってしまうなんて、思いも寄らなかったのだ。ただ弐号機を操縦不能にして、私たちがATフィールドを使えるようにするだけのつもりだったのに。
でも、見下ろすアスカはとても幸せそうで、だから結果オーライではないかと思う。
『…用意、できたわ』
「ありがとう」
意識を移すと、オレンジ色の水面に赤い空。水面にはっきりと残る航跡が、ガギエルの心なのだろう。
『…貴方が欲してるのは、これ?』
私の背後から滲み出た綾波レイが、摘むようにしてぶら下げたアダムのかけらを振った。加持一尉が持ってきている事は知っていたので、虚数空間を利用して取り寄せてもらったのだ。
すかさず寄ってきた波頭が、アダムのかけらの前で跳ねた。でも、空振り。一人目がその手首を跳ね上げたのだ。
「レイ……」
『…なに?』
「意地悪しないの」
『…そうね。悪かったわ』
ちらりと足元に視線を落とした綾波レイから、アダムの欠片を取り上げる。しゃがみこんで、四つ葉のクローバーのような軌跡を描くガギエルの方へ差し出した。
「よく見て。本当に貴方の欲しているものかどうか」
薮を分け入るように私の手元までやってきた航跡が、アダムの欠片を取り囲むようにミルククラウンと化した。
しばらくして、凪。
「そう。判ってくれたの」
螺旋を描くように離れていって反転を一回、私の傍らをすり抜けてまた反転。やはり螺旋を描きながら今度は近づいてくる。
『…どうしていいのか、判らないのね』
「提案は二つあるわ」
リングを備えたガス惑星を思い描く。
「泳ぎきれないほどのメタンの海を、独り占め」
それとも…。とイメージするのは、大赤斑が特徴的なこの星系最大の惑星。
「サキエルと一緒に、アンモニアの海を泳ぐ?」
木星は直径で地球の11倍。体積なら約1300倍だ。地球規模の生存基礎領域を必要とする使徒にとっても、充分以上の広大さがある。最悪、棲み分けも可能な広さ。同じように液体になじむサキエルとガギエルなら、共存も可能だと思う。
使徒同士でも、仲良くできるのではないかと、思うのだ。
まるでオシロスコープのように往復した波頭が、この手を、その上に乗るアダムの欠片をまたぎ越すように跳ねた。
「そう。サキエルに会ってみたいの」
アダムの欠片を綾波レイに預けて、立ち上がる。
「なら、貴方も手伝って」
弐号機を完全に支配下に置くには、或いは自律できるだけの心を育むには、とても時間が足りない。だから、その分をガギエルに補ってもらおう。
私の中のラミエルの心は、できれば使いたくないから。
海中に紡がれた接点にガギエルが飛び込んだ途端、木星軌道を捉えるほどに虚数空間が拡がった。そのさまを私たちは、反転ATフィールドを用いた弐号機から、ガギエルの心を通して見ていた。
圧縮と拡大を行なって、目前にアンモニアの海。その心は知っていたから、探し回る必要はない。
オレンジ色の水面に、波紋が増えた。ガギエルの視界の中に、特徴的なシルエット。
「サキエル。ひさしぶりね」
私が差し出した手に巻きつくように、水流が跳ねた。前のときより、その表情が増えているように思う。
私の体を2回3回と周回。水面に戻ってからもそのまま回りつづけている。
『…そう、寂しかったのね』
「さびしい!?」
『…心のふれあいを知って、心に気付いて。サキエルは独りで居ることの無為を知った。ただ存在するだけでは、生きていることに意味などないと』
「そう。じゃあガギエルのこと、気に入ってくれるかしら」
私の周りを回る波頭。それに寄り添うように回る、航跡。
「貴方に、友達を連れてきたのよ」
その存在に気付いたのだろう。私を中心にして波頭が大きく螺旋を描き始めた。追随するように、航跡。ガギエルの視界では逆に、目をしばたかせたサキエルがその手をそっと伸ばしてくる。
固唾を呑んで。とは、こういうことなのだろう。心の世界で意味はないのに、つい息をひそめて見守ってしまう。
やがて波頭と航跡が2重螺旋をなしながら、大きく弧を描きだした。まるでアイススケートのエッジングのように、おおらかなラインで。
ガギエルの視界の中で、切り裂かれていくアンモニアの水面。その背に、重みと温もり。一方のサキエルは、木星に来て初めて海上に出たのだろう。水素の大気を切り裂く感触を愉しんでいることが、その波頭のビブラートで判った。
『…よかったわね』
「うん」
私の落とした涙の、その波紋に惹かれたのか、波頭と航跡が戻ってくる。
「また、来るわね」
再び私の周囲を巡り始めた波頭と航跡に手を振って、反転ATフィールドと虚数空間を解消した。
傍らには、幼子のような無憂の表情で、アスカ。前の宇宙ではこの人に母親を返すべきか、悩んだ。
けれど、この顔を見れば、そしてその周囲だけ濃密に見えるLCLを見れば、悩む必要はなかったのではないかと思う。
今すぐというわけには行かない。惣流キョウコツェッペリンの心は完全じゃないし、LCLだけでは成分が足りない。
けれど、遠からず、必ず。約束するわ。
『ヤツはどこへ行ったのだ!』とか『アスカ!アスカ!返事しなさい!』などと五月蝿い水中スピーカーを切って、今はただアスカの頭をなでた。
おわり
2008.8.19 DISTRIBUTED
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初号機の初号機による初号機のための補完 Next_Calyx 未完