このところずっと、赤木博士はずいぶん憔悴しているように見受けられる。眼の下にできる隈は疲労によるものだと、知識にあった。
けれど、コントロールルームに入室した私に向けられた赤木博士の一瞥は、やさしい。
「おはようシンジ君、調子はどう?」
『慣れました。悪くないと思います』
モニターの中に、あのヒトの姿。プラグスーツ姿で。
「それは結構。エヴァの出現位置、非常用電源、兵装ビルの配置、回収スポット、全部頭に入っているわね?」
私が初号機を使いこなせるからといって、あのヒトがお役御免になったりはしなかったらしい。
『多分…』
「では、もう一度おさらいするわ」
後日の起動実験で無事初号機とのシンクロを果たしたあのヒトは、そのまま初号機パイロットとして登録されたそうだ。
「通常、エヴァは有線からの電力供給で稼動しています。非常時に体内電池に切り替えると、蓄電容量の関係でフルで1分、ゲインを利用してもせいぜい5分しか稼動できないの」
シンクロ率の差の関係で私が正規パイロット、あのヒトが予備パイロットになるのだとか。
…それが良いことなのか悪いことなのか、私には判断がつかない。
「これが私たちの科学の限界ってわけ。お解かりね」
『はい…』
零号機の復旧を待って、そちらとも起動実験。その結果次第では、零号機の専属パイロットになるのだとか。
「では昨日の続き。インダクションモード、始めるわよ」
それらの経緯は、今聞いたばかり。隣りで壁にもたれかかっている葛城一尉が、頼みもしないのに教えてくれたのだ。
「目標をセンターに入れて、」
コントロールルームの向こう側で、初号機が訓練用のダミーライフルを構えた。
「スイッチオン」
タイミングが、拍動1回分ほど早い。モニター内で発射された弾丸が、サキエルを模したターゲットを跨ぎ越している。
「落ち着いて、目標をセンターに」
『スイッチ…』
サキエルと戦かった時のフィードバックのために、私の入院は長引くことになった。痛みそのものは無視できても、脊髄反射で筋肉が動くことまでは止めようがない。
「次」
その結果、一応の退院許可が出たのは今朝のこと。
「しかし、よく乗る気になってくれましたね、シンジ君」
オペレーター席についているのは、若い女のヒト。このヒト知ってる。伊吹二尉。
「他人の言う事にはおとなしく従う、それがあの子の処世術じゃないの?」
プラグ内を映したモニターに、視線を移した。
発令所で本日のスケジュールを教えてもらってここに来たのだけれど、そうして見出したのがあのヒトの、
『目標をセンターに入れてスイッチ…目標をセンターに入れてスイッチ…目標をセンターに入れてスイッチ…目標をセンターに入れてスイッチ…目標をセンターに入れて…』
…あんな表情。
****
携帯電話が非常召集のコール音を鳴らしたから、教室を出た。
廊下から見下ろす裏庭にあのヒトの姿を見かけたので、降りる階段を変えてそちらに向かう。
裏庭に出る昇降口を出たところで、ジャージ姿の男のヒトがあのヒトを殴打した。それが示す意味を図りかねて、歩みが止まる。
…これは何? これは何? これは何? これは何?
なぜあのヒトが殴られているのか、なぜ私は歩みを止めてしまったのか、なぜあのヒトの頬の腫れを見ていたくないのか、なぜジャージ姿の男の人を見ると胸郭の中だけ体温が下がるのか、私には解からない。
「なんや?」
いつのまにか目の前に、ジャージ姿の男のヒト。このヒト知ってる。鈴原トウジ。2年A組のクラスメイト。シャムシェルとの戦いの時に、シェルターから出てくるヒトの1人。
そして、私が黒いエヴァンゲリオンだった時の、パイロット。
「通れんやないかい。そこ、退いてくれんか」
昇降口を塞いでることを指摘される。通行の邪魔。
鈴原トウジ。メガネの男のヒト。あのヒトと、視線を移す。視界の隅で鈴原トウジが視線を逸らしたのが見えて、視線を戻した。胸の奥は冷えきって凍傷になりそうなのに、脳髄は熱傷しそうに熱い。これは、
「…なに?」
私にも理解できない自分のココロが、口から溢れた。
自分のココロはおろか、自分のカラダまで思い通りにならない。…これが、ヒト?
「貴サンには関係あらへん」
押し殺した声音に意識を戻すと、鈴原トウジは視線を逸らしたまま。
「こないだの騒ぎでコイツの妹さん、怪我しちゃってさ…ま、そういうことだから…」
鈴原トウジをなかば押し退けるようにして、メガネの男のヒト。このヒト知ってる。相田ケンスケ。同じく2年A組のクラスメイト。シャムシェルとの戦いの時に出てくる、もう1人のヒト。
「…こないだの、騒ぎ?」
解からない。
「ほら、ロボットが怪獣を斃しただろ。あれだよ」
ロボット? 怪獣? …斃した。 …拍動5回分ほど考えて、それがエヴァンゲリオンとサキエルのことではないかと思い至る。
「…第一次直上会戦? …エヴァンゲリオン初号機と、サキエルのこと?」
「ええっ!!それって、もしかして正式名称っ!?」
勢い込んだ相田ケンスケが、鈴原トウジを完全に押し退けた。ポケットから取り出したFILOファックスになにやら書き込み、詰め寄ってくる。
「まさか綾波も関係者なのか!?」
守秘義務に抵触するから、応えられない。けれど、それでは、関係ないといった鈴原トウジの言葉を追認することになる…
わずかに頷くと、相田ケンスケが、おぉー!と奇声を発した。ヒトの身体は聴覚の調整ができないから、鼓膜の過剰振動をそのまま受け入れるしかない。
第一次直上会戦。鈴原トウジと親を同じくする年少の女のヒト。怪我。と状況が揃って、思い出した。そのヒト知ってる。鈴原ナツミ。あのヒトが、戦闘に巻き込まないように注意を払っていたヒト。その後の世界で、何度も巻き込まれたヒト。
鈴原トウジは、鈴原ナツミが傷ついたことで怒っている?
…そのことの因果関係を、先ほどまでの私は気付かなかっただろう。…だけど、あのヒトを殴った鈴原トウジに対して抱いた思いが、ロジックではなくそのことを私に悟らせる。
…これが、ヒト。
矢継ぎ早に質問を繰り返す相田ケンスケから視線を外し、鈴原トウジに向き直った。
「…ぶつのなら、それは私」
相田ケンスケに押し退けられた姿勢のまま、あらぬ方向を睨んでいた鈴原トウジが、私を見た。
「…第一次直上会戦で初号機に乗っていたのは、私だから」
それを聞いた鈴原トウジの表情を、なんと表現していいのか知らない。
「…なんやて?」
「…第一次直上会戦で初号機に乗っていたのは、わ」
「ちゃう」
ひどく低い声音で制止される。…剣呑という言葉を、後で知った。
「あいつがロボットのパイロットっちゅうんは、嘘なんか?」
聞き取れなかったわけではなかった様子。
かぶりを振る。
ほンなら…。と振り向いた鈴原トウジが、やはりなんと表現していいか判らない眼差しであのヒトを見た。
「そうか。庇ったんだ、綾波を」
書き込みを続けていた手を止めて、相田ケンスケもまた振り返った。その視線の先に、尻餅をついたままの、あのヒト。
…庇った? あのヒトが、私を? …なぜ? なぜ? なぜ?
なぜあのヒトが私を庇うのか、なぜ鈴原トウジは私を殴ろうとしないのか、なぜLCLを吸い込んだ時みたいに胸郭の内側が意識されるのか、私には解からない。
唐突に駆け出した鈴原トウジが、あの人の目前に着くなり座り込んだ。叩きつけるように頭を下げて、前頭部を地面に押し付けている。
「すまん!すまなんだ転校生!」
昇降口を出て、私もあのヒトの傍へ向かう。
「わしは貴サンのことを誤解しとった」
呆然と鈴原トウジを見やっていたこのヒトが、私に気付いて視線を上げる。
「…」
このヒトをなんて呼べばいいか、判らなかった。アンビリカルブリッジで出逢って以来、まともに会話したこともないのだから。
今までの経験、記憶の全てを検索して、このヒトに呼びかけるための言葉を探す。
― これは私の心…碇君と一緒になりたい ―
それは、私が黄色いエヴァンゲリオンだったときに、綾波レイが呟いた言葉。
「…碇君」
口にすると、まるでそのヒトの本質を理解したような錯覚に襲われる。名前を呼ぶ行為。あのヒトが教えてくれた、ヒトの力。
これがあるからヒトはヒトでいられるのだと、理解した。己のココロに振り回され、脆弱な肉体ですら意のままにならぬ。こうも儚いヒトという存在が、崩壊せずに個我を保っていられる秘密。
自らの名前、相手の名前。呼び合うことで、呼び合うだけで感じられる、…絆。
外界を否定しなければ生きていけない使徒とは、違う強さ。あのヒトが、毅いと云う言葉を使っていた意味を知る。
またひとつ、ヒトというカタチを理解したのに、
「…」
それ以上、なにを言うべきか、判らなかった。語る言葉を、持たなかった。
どんなに記憶を漁っても、あるはずがない。
…思い知らされる。私がまだ、ヒトであるとは言い難いことを。
「…ごめんなさい。こういう時、なんて言えばいいのか、判らないの…」
「ありがとうって言えば、いいんじゃない? 庇ってくれたんだからさ」
背後、至近から相田ケンスケの声。
…ありがとう。感謝の言葉。碇君が庇ってくれたから? 自分が受けるべき被害を、代わりに受けてくれたヒトがいるから、感謝する? 私が碇君を護りたいのに? 護れなかったのに?
それが理解できないのは、私がヒトでないからだろう。
「…ありがとう」
悲しみを呑み下してそう言ったのに、碇君は顔ごと視線をそむけた。
スカートのポケットの中で携帯電話が再び非常召集のコール音を鳴らさなければ、なぜ? と口に出してしまっていただろう。呑み込んだはずの悲しみと一緒に。
携帯電話を取り出して、コール音を止める。
シャムシェルと戦わねばならぬことを思い出して、身体の芯が冷えた。
サキエルとの戦いで、私の戦い方が拙かったばかりに鈴原トウジの怒りを誘った。それは、私が上手く世界を護れていないということだ。
今度こそ世界を、碇君を護る。
非常召集のコール音が、碇君からは聞こえてこなかった。鳴らないということは、予備パイロットの彼は任意出頭なのだろう。出撃準備を行なわなくていいから、急ぐ必要はないはず。
「…非常召集 …先、行くから」
****
初号機に乗るごとに行なっているのは、そのコアに溶けた碇ユイを拾い集め、隔離していく作業。エヴァンゲリオンだった私だから、ココロを知った使徒だから、できること。
そうして初号機への支配を強める。碇君とのシンクロ率を下げる。
都合の良いように取捨選択しているから、私のシンクロ率が上がっているように見えるだろう。けれど、私にとってはその数値に価値はない。
『レイ。出撃、いいわね?』
「…はい」
葛城一尉は何故、疑問形で問いかけてくるのだろうか?
『敵のATフィールドを中和しつつ、パレットの一斉射。シミュレーションは1回しか出来なかったけれど、やれる?』
「…はい」
返事は素直にして見せるが、赤木博士の指示を全て守るつもりはない。初号機に対する私の支配はまだ完全ではないから、闇雲にATフィールド中和など行なって無防備になるわけにはいかないのだ。
『発進!』
射出のGが、肋骨の継ぎ目を軋ませる。まだ繋がってなかった前回とは違うということを、失念していた。庇うべく手を添えようとしたが、腕が重くて思うままにならない。
地上に到達した衝撃で、癒合しかかっていた右第七肋骨と第八肋骨の継ぎ目が外れた。これが完治するまでに、254万3681回ほどの拍動が必要だろう。
『 パイロットのバイタル、低下! 』
痛みは無視すればいい。どれだけ重傷になろうと、意識さえあれば初号機は動かせるのだから。
けれど、ただ戦うだけでは世界を護ることにならないと知った今、この肉体の保全も重要な案件だった。コアさえ無事なら活動可能な使徒と違って、ヒトの肉体は痛覚の情報だけでも機能停止しかねない。
手早く片付けねば。
…そのために、右目の眼帯を包帯ごとむしり取った。
武器庫ビルからパレットライフルを取り出して、姿勢を正す。前傾姿勢は射撃には向かない。
構えたパレットライフルの先に、滑るように第3新東京市に進攻してくる姿。このヒト知ってる。シャムシェル、第4使徒。
『なんですってぇ!』
発令所との通信ウィンドウから、葛城一尉の大声。そちらに注意を向けると、横を向いていた葛城一尉がこちらに向き直ったところだった。
『レイ!大丈夫なの!? アバラがイったかもって…』
「…問題ありません」
痛みは無視できるが、負傷による身体能力の低下は補いようがない。自分の顔色が悪いことを自覚しているから、努めて平静に応える。
『…』
なにやら考え込んだ葛城一尉が、ちらりと視線を走らせた。
『レイ。退却しなさい。シンジ君と交代よ』
「…ダメ。使徒殲滅が優先」
即答する。
シャムシェルとの戦闘が長引けば、シェルターからあの2人が出てくるかもしれない。事情を知らない碇君は彼らを巻き込んでしまうかもしれないし、その際に巧く護れる保証もない。
なにより、碇君のシンクロ率は30パーセントを割り込みかかっているはずだ。まともな戦闘行動がとれるとは思えなかった。
『レイ、命令を聞きなさい!退却よ!レイっ!』
立ち上がったシャムシェルの、コアの位置を確認。トリガーを絞る。一斉射という指示は曖昧でよく判らないが、装弾の半分も使えば充分だろう。
『バカっ!爆煙で敵が見えない!』
砕けた砲弾が粉塵となって視界をふさぐが、それがシャムシェルの体表で起こったのを確かに見た。私はATフィールドを中和していないから、それがATフィールドを張ってない証拠。
パレットライフルを捨て、左肩ウェポンラックからプログレッシブナイフを抜く。腰ダメに構えて、シャムシェルめがけて駆け出した。
『プログレッシブナイフ、装備!』
粉塵を切り裂いて襲いかかってきた光の鞭を、反射的に展開したATフィールドで弾く。
いかに使徒とは云え、他者のATフィールドを力づくで打ち破るのは難しい。それが可能なのは、僅かにラミエルとゼルエルだけ。
シャムシェルの鞭では破られないことを確認しながら、ATフィールドを先行させるようにしてさらに押し進む。
『あの、バカ!』
前面に押し立てたATフィールドが2撃目、3撃目の鞭を弾いた。距離が詰まったぶん速度が乗らなくて、威力が落ちているのを実感する。
4撃目を防ぐのと同時に、ATフィールドが粉塵を押し戻した。
次の一歩で、ATフィールドをその場に固定。さらにその次で、その一部を解除する。最後の踏み込みは、突き出したプログレッシブナイフと同時に。
私には、あらゆるATフィールドを使いこなして戦ったあのヒトとの思い出がある。これは、あのヒトが白いエヴァンゲリオンと戦った時に、相手を分断するために使ったATフィールドの応用だ。
プログレッシブナイフを突きたてた位置を中心にして、円形に粉塵が流れ込んでくる。その奥にかすかに透けて見える火花と、甲高い高周波の響き。どうやら、コアを捉えたらしい。
なにより、ATフィールドを打ち付ける鞭の動きは狂乱じみて、サキエルそっくりだった。
…
プログレッシブナイフからの手応えが無くなるのと、粉塵が晴れて視界が開けるのがほぼ同時。
『目標は、完全に沈黙しました』
『…レイ。撤収しなさい』
通信ウィンドウの中から、葛城一尉がにらんでいる。
「…了解」
命令違反は、営倉入りだろうか?
口腔に残っていたらしい気泡がひとつ、音をたてて昇っていった。
つづく