ネルフのゲート前に、人影。保安部が見たら、不審者と断定しそうな挙動で。
「…なにしてるの?」
けれど、知っている後ろ姿だったから、声をかけた。
「あっ、綾波さん」
振り返った洞木ヒカリが、私の顔を見て表情を緩めている。第3新東京市立第壱中学校の制服姿に、通学鞄。下校後、直接ここに来たのだとしたら、拍動にして2925回ぶんほども挙動不審を続けていたことになるのだけれど……
職務質問や任意同行を受けなかったのだろうかと監視カメラを見上げて、赤木博士の言葉を思い出す。衣服はその人の所属や主張を代弁する物。とは、こういう意味なのだろうと洞木ヒカリの制服に、その着用者に視線を戻した。
「その…、鈴原が入院してるって言ってたでしょう? だから、あの… お見舞いに」
お見舞い。傷病で臥せっているヒトのもとに慰安に行くこと。それは解かる。ヒトを心配するのが、ヒトの絆だろうから。
解からないのは、洞木ヒカリの顔が真っ赤になったこと。
「…洞木さん。なぜ、顔が真っ赤になったの?」
えっ嘘!? と頬に手を当てた洞木ヒカリは、「ここに来たのは委員長として、公務で来たのよ!それ以外の何でもないのよ…」と身をよじっている。
なぜ頬が赤くなったのかは、答えて貰えないようだ。
***
302病室には、今、ベッドが2台設えられている。
碇君も鈴原トウジも、まだ意識が戻らない。
「…そこに椅子があるわ」
「ええ、ありがとう」
…どういたしまして。と、自分も椅子に座る。2台のベッドを挟んで、向かい側。
後始末に忙しくて、赤木博士も葛城三佐も帰宅しない。
朝食の時間に姿を見せなかった惣流アスカラングレィは、登校しなかった。
学校の喧騒も、授業も、今は何ひとつココロに響かない。
することもなく、居場所を求めて、こうして碇君の横顔を眺めに来た。
でも、ここも私の居場所ではないような気がする。
向かい側に洞木ヒカリが居てくれなかったら、逃げ出していたかもしれない。
「あやなみ…?」
「…碇君」
立ち上がった洞木ヒカリはこちらに廻ってこようとして、
「トウジは…?」
しかし、足を止めた。
ベッドの間を仕切るカーテンに遮られて、碇君の位置からでは見えないだろう。
「…無事。隣りのベッド」
碇君がそちらに顔を向けると、洞木ヒカリが身をすくめたような気がする。
「そっか…」
身体を起こそうとした碇君を、押しとどめた。赤木博士がそうしてくれたように。
「…まだ寝ていなくてはダメ」
「うん…でも、もう大丈夫だよ」
ベッドの上に身体を落ち着けなおした碇君が、嘆息。
「あのあと、どうなったの?」
「…零号機は使徒に侵蝕されたわ。エントリープラグを奪還したあと、参号機と共に使徒もろとも殲滅した」
殲滅って…。と、また起き上がろうとするのを、押しとどめる。
「…えぇ、零号機はそのまま廃棄処分になると思う。碇君は戦わなくて済むようになるわ」
…
碇君は、戦うべきかどうか悩んでいたヒトだ。何のために戦うべきか、考えてきたヒトだ。
だから、戦わなくてもいいと言われたからといって、それだけで歓ぶとは思っていなかった。
けれど、碇君の口から笑い声が洩れた。はは…。と、まるで息が抜けるように。
碇君が喜べば嬉しいはずなのに、なぜか哀しい。
その理由を、碇君の目尻に浮かんだ涙が教えてくれた。
「僕は…ずっと考えていたんだ」
碇君は笑っていた。泣きながら笑っていた。
「あの、空から落ちてきた使徒のあとは、特に考えてきたんだ…」
碇君は笑っている。歓んでないのに、笑っている。
「なぜ父さんは褒めてくれないんだろう?」
碇君が笑ってる。何を笑っているのか、その頬を伝う涙は教えてくれない。
「なぜ綾波ばかり褒めるんだろう?」
他者を蔑むときもヒトは笑うことがあると、知識の中にはある。けれど、窺い覗く碇君の視線は何もない天井の上を彷徨っていて、そうではないように思えた。
「そして、……僕は何のためにここに来たんだろう? って」
私の視線に気づいた碇君が、たちまち目を逸らして、……だから解かってしまった。この場で、それが私でないのなら……
碇君はおそらく、自らを嗤っている。自分自身を嘲笑っている。
自らを蔑むときもヒトは笑うのだ。
哀しかった。
哀しかったけれど、哀しくなりきれないことが悲しかった。
……碇君が私を羨んでいることに、心地よさを覚えた私がいる。
…碇君が私を詰ってくれたことに、安堵している私がいる。
碇君がそのココロの裡を見せてくれていることに、悦んでいる私がいる。
すべてをない交ぜにして、哀しいのに悲しくない。
ココロが軋むのに、涙も流れなかった。
「ごめん、綾波。綾波を責めてるわけじゃないんだ。だから、そんな顔しないで」
「…そんな顔? …私、どんな顔してるの?」
碇君の言葉に、頬に手をあてる。
「どうしていいか判らないって顔、してるよ。その顔の綾波が一番、寂しそうだ」
寂しい?
そう、寂しいのだろう。
さまざまな想いを交錯させた私のココロを、誰も理解できない。
いま涙を拭った碇君のココロを、身を硬くしている洞木ヒカリのココロを、私が理解できないように。
ヒトは決して、ヒトを理解できない。
ヒトは寂しいのだ。
けれど、寂しいことにすら気付かない使徒は、もっと寂しかった。
作られた肉体にココロを嵌め込まれて、エヴァンゲリオンはもっと寂しかった。
寂しさを知らなかった私は寂しさを知って、寂しさのあまり嬉しいのだ。
このココロを持つのは私だけだから、そのことが私を慰め、そして苛む。
だから。やはり、どうしていいか判らず、ただ視線をそらした。
「アスカも僕もやられて、でも、僕もトウジも無事で…
また、綾波が戦ってくれたんだよね。また、護ってくれた」
碇君が、シーツを握りしめている。
「初号機が出撃できないって聞いたとき、綾波が戦わずに済むようしっかりしなきゃって思ったのに…
トウジが乗ってるって思ったら、戦えなかった」
洞木ヒカリの肩が震えたのが、見えた。
「結局綾波を戦わせて、それで僕もトウジも無事で…
綾波が褒められるのは当然で、僕が褒められないのも当然だったんだよ」
「…碇君」
「 なぜ僕は、まだここに居るんだろう? 」
シーツを引き上げた碇君が、包まるように丸くなる。
「ごめん。しばらく1人にして…」
どうしていいか判らずに上げた視線の中で、洞木ヒカリが頷いていた。
***
「ごめんなさい、綾波さん。立ち聞きするようなことになっちゃって…。わたし、来るべきじゃなかった」
振り返り、洞木ヒカリが差し出したゲスト用のIDカードを受け取る。ゲートを出たら、もう使えない。
「…どうして?」
だって…。と俯いた洞木ヒカリは、視線で地面に幾何学模様を描き始めた。
「みんな戦って傷ついて、わたしなんかが踏み込んでいい世界じゃないもの」
「…そうね。貴女がそう思うのなら」
顔を上げた洞木ヒカリは、なんだか泣き出しそうだ。
何が似ているわけでもない。むしろ全く違ったけれど、それが惣流アスカラングレィが不本意と呼んだ表情と同じだと、なぜか解かった。
それはつまり、洞木ヒカリは自分の言葉を否定して欲しかったのではないだろうか?
どうすれば洞木ヒカリのココロを引き出すことができるのだろう?
私が居て、洞木ヒカリが居る。その向こうにゲート。来た時と同じ光景。そのココロだけが違う。
洞木ヒカリは、鈴原トウジのお見舞いに来た。鈴原トウジはまだ目覚めてないから、洞木ヒカリはまだ、お見舞いに来たいのではないだろうか?
思い起こすのは、これまでの入院のこと。レリエルの中から帰ってきた後に目覚めた時のこと。
「…鈴原君は、きっと寂しい思いをするわね」
えっ? と洞木ヒカリの体が揺れた。
「…碇君は、明日には退院する。鈴原君を見舞うヒトは居ない。きっと寂しいでしょうね」
「そんな!綾波さんは!?」
かぶりを振る。
「…私が居ても、鈴原君は喜ばないわ。碇君も喜んでなかったでしょう?」
でも…。と、しかし口篭もる洞木ヒカリを置いて、踵を返した。
「じゃ、さよなら」
明日このゲートに来たとき、そこに洞木ヒカリが待っていると、なぜか確信できたから。
****
碇司令は501病室に篭って、出てこないそうだ。
だから初号機は再凍結されることもなく、こうして出撃していた。
隣には弐号機、ジオフロントの天井を睨んでいる。
発令所を映す通信ウィンドウの片隅に、碇君。視線が合って、口の端が少しほどける。
医療部を退院した碇君が、それからどうしていたのか、私はほとんど知らない。葛城三佐が話してくれたところによると、家出をしたらしいということだけ。
あのバカ。と視線を落とした葛城三佐に、1人になりたがっていた碇君の言葉を伝えた。そっか…。と肩を落とした葛城三佐は「なら、待つしかないわね」と嘆息した。寂しそうな笑顔で。
碇君が何を思い、どこを彷徨ったのか、それは判らない。保安部は把握しているだろうけれど、その行動を知ったところで、そのココロまで解かるはずもない。特に、この私では。
でも、それでかまわないと思う。
だって碇君は戻ってきて、ああして、私を見守ってくれてるから。
初号機越しに感じた振動に、そっとまぶたを閉じる。
この肉体から視覚を排除して試みるのは、完全な直接制御。前回は惣流アスカラングレィを同乗させたから、試せなかった。
あらゆる波長の光波、電磁波、粒子を捉える初号機の、幾重にも連ねたステンドグラスのような視界が懐かしい。ATフィールドに遮られただろうニュートリノの欠落が大きくなって、ゼルエルがもう間近いことを教えてくれる。
通信ウィンドウが開く音に、まぶたを上げた。
【FROM EVA-02】
惣流アスカラングレィは、すこしやつれているように見える。目の下にはうっすらと、隈。眼球結膜を走る血管は拡張し、その眼球を赤く見せていた。碇君が家出している間、惣流アスカラングレィはずっと部屋に篭っていたそうだ。
保護者失格ね。と呟く葛城三佐に、かけてあげられる言葉が欲しかった。
『レイ…』
拍動にして24万1327回ぶりに与えられた声は、震えを帯びて。
『今回は、ワタシに譲って』
何を? と訊くまでもない。
充血した眼は力なく視線を逸らしているが、引き締められた口元にその意志の堅さが見えるような気がする。
このヒトは戦いに何を求め、何を得ようとしているのだろう。
それを私も知りたかったから、
「… 」
『何も言わないで!』
まぶたを固く閉じた惣流アスカラングレィは、すべてを拒絶しようとするけれど。
「…いいえ、言うわ」
まなじりを吊り上げ、しかし口の端は下げて。惣流アスカラングレィの複雑な表情を、その意味を、今なら解かってあげられるような気がする。たとえそれが幻想に過ぎなくても、それすらヒトは己の力に変えていくのだ。だから、
「…気をつけて」
初号機を一歩下がらせ、座り込む。
『レイ…、アンタ』
≪ちょっと、あんたたち何勝手なことを!≫
ごめんなさい、葛城三佐。
…初号機、バックアップ。とだけ告げて、発令所との通信を切った。
弐号機への通信ウィンドウの中で、やはり発令所との通信を切ったらしい惣流アスカラングレィの仕種。
インダクションレバーから手を離し、まぶたを閉じる。
…
『ダンケ…』
「…どう……、」
応えようとした言葉が、途中から音にならない。
碇君から戦いを奪った私が、いま惣流アスカラングレィに戦いを与えようというのか。
思わず吊り上がった口の端は私の知らない感情で、私を途惑わせた。
初号機のモザイクのような視界の中で、一際強いガンマ線のハレーション。
こちらを見ていた弐号機が振り向く先、ジオフロントの天井が爆発した。
『来たわね…』
このヒト知ってる。ゼルエル、第14使徒。
『こんのぉ!』
ゆっくりと降下してくるゼルエルに、弐号機がパレットライフルを斉射する。
『チッ、次』
着地とほぼ同時に弾切れ、次は2丁を腰だめに構えた。
『ATフィールドは中和しているハズなのに、』
そうとは判らないほど微妙な速度で前進して、ゼルエルが距離を詰めている。このヒトは、自分のことを良く解かっているのだ。
どの間合いが最も効果的、かつ効率的に障害を排除できるのか。と云うことを。
『なんでやられないのよー』
続いてロケットランチャー。
『もう2度と負けらんないのよ、この私は!』
やはり2丁を瞬く間に撃ち尽くすが、傷ひとつつけられなかっただろう。
ゼルエルを覆っていた爆炎が晴れたとき、その前進は止まっていた。弐号機を射程圏内におさめたらしい。
ほどけたゼルエルの腕が、地面をなでる。
『 … うそっ!』
それを支えているATフィールドがうねった次の瞬間には、弐号機の両腕が付け根から斬り飛ばされていた。
『くぅぅっ!』
聞こえてくる苦鳴は、しかし短い。
『こんっちくしょーっ!』
両腕を失った弐号機が、ゼルエルめがけて駆け出す。
惣流アスカラングレィ。あなたは何故、そうまでして戦うの?
今まさにその首が斬り飛ばされようとした瞬間、弐号機が宙を舞った。
なされるだろうと思った神経接続の解除は、間に合わなかったのか、拒絶されたのか。
『そう…。やっぱり、ココにいたのね…ママ』
LCLに溶け消えそうな呟きに、まぶたを開ける。
重力遮断ATフィールドによって得た慣性で高く跳ね飛び、形作ったチューブ状のATフィールドの中で巧みに位置エネルギーを操って、赤いエヴァンゲリオンはジオフロント狭しと舞い踊った。解放された力を、そうして表現していると言わんばかりに。
『ママ、解かったわ。…ATフィールドの意味』
ゼルエルの正面に着地した弐号機が、落下の勢いそのままに踵落とし。弐号機の首を断ち切ろうとした体勢のまま宙に浮くゼルエルの左腕を、蹴り裂いた。
すかさず放たれたガンマ線の束を、そのATフィールドが難なく弾く。
『ワタシを守ってくれてる』
力なく地面に落ちたゼルエルの左腕をつま先で蹴り上げ、右肩の切断面を押し当てるように体移動。
『ワタシを見てくれてる』
たちまち取り込んで、泡立つように弐号機の右腕が再生された。
『ずっと、ずっと一緒だったのね…ママ』
…通信ウィンドウの中でずっと、惣流アスカラングレィは無表情だった。
いや、無表情に見えた。
今の私でなければ、あらゆる感情が押し寄せた結果、どれも表情筋の支配権を確立できなかったのだと解からなかったと思う。
嬉しいに違いない。寂しかったのだろう。でも、まだ哀しそうに見える。もしかしたら、すこし怒っているのかも。
あまねく感情の均衡の上に、惣流アスカラングレィのココロが揺れていた。揺れすぎて、却って微動だにしてないように見えた。
残った右腕をゼルエルが撃ち出すが、今の弐号機にかなうはずがない。
そっと体軸をずらした弐号機は左肩の切断面でそれを受け止め、そのまま遡るように組織を奪取。
服の袖に手を通すように膨らみが駆け上がり、ゼルエルの肩口を握り潰すようにして左腕が再生された。
さよなら、ゼルエル。あなたは強いヒトだけど、力押しだけの強さで勝てるほどヒトの絆は脆くない。
あなたは、そのことを教えてくれた。だから、ありがとう。感謝の言葉。
つづく