サキエルと戦った直後、初号機をケィジまで戻した私は、そのまま昏倒することにした。あの状態での戦闘にはやはり無理があって、それ以上の酷使に身体が耐えられそうになかったからだ。
目覚めれば、見慣れた天井。医療部、301病室。
「体はどうだ?」
しばらくして、開いたドア。
見下ろしてくるのはサングラス越しの視線。このヒト知ってる。碇司令。
綾波レイの記憶に拠れば、綾波レイにとってすべてで、拠りどころだった。
「…問題ありません」
「そうか…」
手袋をした右手でサングラスを押し上げている。視線が、あのヒトのように優しい。
このヒトのことは、かつて何度か見たことがある。たとえば初号機だった頃、ケィジに入ってきたこのヒトは、キャットウォークに居るあのヒトに、こんな眼差しを……
唐突に、みぞおちが冷えた。物理的な質量まで伴って、重くもたれるよう。
理解したのは、このヒトが、私を見ていながら私を見ていない。と云うことだった。この眼差しは、あのヒトを見る目。それは、綾波レイのカタチに見透かしたモノを見ている。と云うことだった。
「ゆっくり休め」
このヒトがあのヒトを見る眼差しを知らない綾波レイは、そのことに気付かなかっただろう。
「…はい」
向けられる視線は優しい。なのに、なぜか苦しい。
与えられるべきでないモノを与えられたから?与えられるべきモノでないのに受け取ってしまったから?
それは、私が綾波レイだから?綾波レイではないから?碇ユイでないから?
……ニセモノ、だから?
優しさすら苦しさに変わると云うの?
踵を返して病室を後にする碇司令を、視界に入れないようつとめた。
***
その視線を見たとき、やはり解かってしまった。このヒトも、私を見ていない。
「…なぜ?」
クリップボードに落としていた視線をこちらに向けて、赤木博士が眉根を寄せた。
「何? レイ。何か質問?」
「…なぜ、誰も彼も私に、ほかのヒトの影を見るの?」
私は今、綾波レイの体を借りている身だ。だから、私自身を見てくれないことは仕方がないと割り切ったばかり。
だけど、綾波レイとしてすら見られてないと思うと、私の中の綾波レイの記憶が、拠りどころを失って消えてしまいそうだった。
「どうして、そう思うの?」
赤木博士の視線はゆるぎなく、私の瞳孔からすべてを掻き出そうとするかのように鋭い。
「…碇司令は、私に笑いかける。でも、あのヒトの眼差しは、私の目より少し高い位置を見ている」
あの眼差しがサングラスに遮られていて、よかったと思う。
「…赤木博士もそう。ガラスに映った姿を見るように、焦点が遠い」
綾波レイの記憶を受け継ぐ私には、綾波レイがこのことに気付いたらどう思うか、容易に想像できた。
それは、私自身を見てもらえないことの苦しさと共鳴して、胸の裡に空虚を生み出そうとしている。
静寂が耳に痛いように、私の痛覚を刺激してやまない。
「…私は、知らない誰かから象られたロウ人形として、生きなければならないのでしょうか?」
自分自身の生ではなく、誰かの代替品として、与えられた役割を全うするための道具として…
綾波レイの記憶に引き摺られ、このまま消え去りたくなってしまう。まるで、それが自分の願いであったかのように。
「碇司令のことが嫌いになった?」
いつのまにか赤木博士の、瞳孔の中の黒色で視界を一杯にしていた。
焦点を戻すと、やはり揺るぎない視線。
「…嫌いかどうか…は、解かりません。…でも、傍には居たくない。見られたくない」
……あの眼差しで見られていると、私が私でなくなる。言葉は力なく呟きと消えて、引き摺られるように俯いてしまう。
「なら、私はどう?」
言われて見やった赤木博士は、なんだか少し柔らかくて…だから、思い出してしまった。
私が初号機だった頃、このヒトに何度もなでて貰ったことを。…だから、
「…嫌いでは… いえ、むしろ…」
この宇宙ではないけれど、赤木博士は私自身を見て微笑んでくれた人だった。思い出しただけで、口元が緩む。
そのことに気付いて抱いた思いをなんと表現していいか判らなくて、胸元に物理的ではない掻痒感。それが、もどかしいと呼ばれる感覚だと、のちに知る。
「もしかして、…好き?」
その言葉がふさわしいのか、私には解からない。好き、と云うことが良く解からないから。
けれど、このヒトがあのヒトのようになでてくれたら心地よいだろうと思う。口元が綻ぶほどに。
「…はい」
眉根を上げた赤木博士は、一度逸らした視線を、振りかぶるように戻す。
「それが何故か、理由を聞いてもいい?」
本当のことを、話すわけにはいかない。
それを禁じられているわけではないが「…そのヒトが犯してない罪を突きつけることになるから、よく考えて」とリリスに言われた。「…いくつもの宇宙を護ってきた碇君でさえ、試せないでいるわ」とまで聞かされては、ヒトのココロが解からない私に試せるはずもない。
でも、赤木博士を好きになれそうな理由なら、まだあった。
「…私に笑いかける碇司令は、本当に私だけを見たとき、笑わないような気がします」
あの視線を思い出して、それから逃れたくて、俯く。
「…私に冷たい視線をくれる赤木博士は、本当に私を見たとき、もしかして…」
見上げたその顔に、笑顔と呼べる要素はひとつとしてない。けれど、
ヒトはロジックじゃないものね。と嘆息した赤木博士はなんだか、やわらかかった。
「貴女に罪があるわけじゃないのに、ちょっと意地悪が過ぎたわね。御免なさい、この通りよ」
深々と下げた頭が再び上げられたとき、そこにあった微笑みはあの世界の赤木博士と同じで、…しかし、私を、綾波レイを見ていた。
それだけで、なにもかもが充たされそう。
…
私を見ていた赤木博士が、小首をかしげた。
「罪滅ぼしって訳じゃないけれど、何か、して欲しいことがあるかしら?」
まるで私のココロを覗いたかのようなその言葉に、抗えない。
「…はい」
見つめるのは、見つめていたのは、その手の甲。願わくば、あの時のように…
「…なでて、欲しい」
眉を上げた赤木博士は、もしかして途惑ったのかも知れない。
それでも伸ばされた手が、私の頭を優しく捉えた。
頭髪が引き攣れて少し痛いけれど、それ以上に与えられる心地よさにまぶたを閉じる。つい、ATフィールドを伸ばしてしまう。エヴァンゲリオンだった時のように。
「レイ、貴女…頭髪がずいぶん痛んでるわね。ヘアケア、何を使っているの?」
「…判りません」
そう。と洩らされた嘆息まで、心地よかった。
つづく