初号機は、ラミエルとの戦いで受けた傷の修復が、まだ終わっていない。
現状では碇君のほうが零号機とのシンクロ率が高いため、イスラフェルとの戦いに私は参加できなかった。
碇君は惣流アスカラングレィを能くサポートして善戦したらしいけれど、結果として弐号機と零号機は敗れ、N2爆雷による足止めを敢行したそうだ。
今からなら初号機の回復の方が早い。零号機の修復はひとまず見送られて、第四次直上会戦は初号機と弐号機によって行なわれることになった。
「そんで、綾波と惣流は学校休んで特訓ってワケやったんですか
センセもミっズクサイのぅ、そないならそないやて、言ぅてくれりゃぁええのに」
「学校で話せるわけないよ」
右足を前、左足を左、右手を後ろ、左手を前方左。
「…で、ユニゾンは上手く行ってるんですか?」
右手を前方右、左足を後ろ、右足をひとつ手前、左手を内側へふたつ。
「それは、見ての通りなのよ…」
右足をひとつ後ろ、左手を斜め右、右手を最前列左へ伸ばした時に軋んだ右第七肋骨に気を取られて、次の左足が遅れた。
途端にブザー。
まずは動作の一致とその同調を意図した、訓練の第一段階。ランダムに点灯するランプに、同じタイミング、同じ動作で触れるだけ。でも、それすら、ままならない。
「「「「 はぁ~… 」」」」
惣流アスカラングレィが、ヘッドホンを投げつける。
「当ったり前じゃない!ファーストなんかに合わせてレベル下げるなんて、うまく行くわけないわ!どだい無理な話なのよ」
それは事実なのだろう。
エヴァンゲリオンとして戦ってきた経験があるから、技量は充分のはずだ。しかし、この肉体と惣流アスカラングレィでは、体力差がありすぎた。
それに、この訓練を始めた時にまた外れた右第七肋骨から第九肋骨までが、身体をねじるたびに軋む。
痛みを無視すればついていけないこともないが、そうすれば完治までの時間が延びる一方になる。
「じゃあ、やめとく?」
「他に人、いないんでしょ?」
葛城一尉が、視線だけ碇君に向けた。
「シンちゃん」
「はい?」
鈴原トウジのコップにオレンジジュースのお代わりを注いでいた碇君が、そのままで応える。洞木ヒカリが碇君を見つめているのは、なぜだろう。
「やってみて」
「えぇ!?」
「ぅおっとぉ!」
注ぎすぎたオレンジジュースが、少しこぼれた。
「レイも、シンちゃんと踊ってみたいわよねぇ?」
碇君と、踊る?
理由は判らないけれど、なんだか愉しそうな気がして、頷いた。
「ほらほら、女の子を待たせない」
葛城一尉に急きたてられて立ち上がった碇君は、しかし乗り気ではないようだ。
私とでは、踊りたくないのだろうか?
予備のヘッドホンを手にして、碇君が感圧マットの上に乗る。
「綾波、もしかして脇腹が痛いんじゃない?」
「…なぜ、わかったの?」
最近綾波、そういうの見せてくれるようになったからね。と苦笑い。
ヘッドホンを着けた碇君が正面を向くのと、音楽が始まるのが同時だった。
右手を右に、左手を前に、右足を後ろに、左足をひとつ前。
大丈夫。ついて行けそう。
左足の内側で点灯したランプに、碇君はそのまま左足で対応した。次に右端で点灯したランプには、右手で対応する。
惣流アスカラングレィなら右足で、惣流アスカラングレィなら左手で対応しただろう。あのヒトの基準は、同じ四肢を連続で使わない。選択肢があれば難易度の高い方、なのだ。その選択肢が、私には読みづらい。
右足を一つ前、そのまま横へ。右手の左隣へは、なぜか左手で対応した。いや、右手で対応していたら体勢が悪くて肋骨に負担をかけただろう。
碇君の基準は明快だ。より簡単に、より確実に。ただし、右半身への負担が軽くなるよう配慮。
そうと判れば、もう碇君を見て、ついて行く必要はない。
同じ基準で判断し、呼吸さえ合わせれば、それだけで一緒になる。
… 左手を一つ下、右足を斜め右前、左足は一つ後ろ、さらに後ろ。
もう考える必要もなかった。反射的に対応するだけで、碇君と一緒だった。
… 右手、右手、左足を前に。右足を左に、左手を一つ右。
これが碇君と踊るということだろうか? 出題ごとに鳴る電子音まで、心地よい。
… 左手、右手、そのまま一つ横に。左足、右足、左手。
ヘッドホンから流れるこの音楽を、初めて最後まで聞いた。
「これは作戦変更して、シンちゃんと組んだほうがいいかもね」
「ええっ!?」
表示されたスコアは、89。今まではずっと、ERROR。
「もう、イヤッ!やってらんないわ」
引き戸を叩きつけるようにして、惣流アスカラングレィがリビングを後にした。
「アスカさん!」
床に落ちていたヘッドホンを拾って、洞木ヒカリが立ち上がる。
「…鬼の目ぇにも涙や」
「い~か~り~く~ん!」
まなじりを吊り上げた洞木ヒカリを見るのは、3度目。1度目は、プールで水泳の授業の時。2度目は、裏庭で鈴原トウジを殴る前に。
「追いかけてっ!」
「え?」
ヘッドホンを力いっぱい握りしめているだろうことが、その手の震えで判った。
「女の子泣かせたのよ!責任取りなさいよ!」
泣かせた? 碇君が? 惣流アスカラングレィを? 私と踊ったから?
碇君と踊っては、いけなかったのだろうか?
「…私が行くわ」
そのことを確かめたかったから、惣流アスカラングレィの後を追った。
***
こういう時、ヒトがどこに行くのか、見当もつかない。
コンフォート17マンションの周辺を探しに探してコンビニエンスストアの前まできたとき、開いた自動ドアの向こうに立っていたのは、惣流アスカラングレィだった。
「…」
店内から漂ってくる冷気がまるで、惣流アスカラングレィから発してるかのようだ。
にらみつけてくる視線は鋭いけれど、眉尻は低い。やぶにらみと言うのだと、のちに知る。
そこにいかなる感情が乗せられているのか推し量ることすら出来ないけれど、それがココロの壁に過ぎないと解かっていれば、痛くはない。
「…碇君と踊っては、いけなかった?」
「はぁ…?」
右手を上げた惣流アスカラングレィが、無雑作に頭を掻く。とても不機嫌そう。
「…惣流さんが泣いたのは、私が碇君と踊ったからだと」
「ワタシが泣いたですって!?」
誰がそんなデマ!と伸ばしてきた右手は掌底突きさながらの勢いで胸元に打ち当たり、胸倉を掴み上げた。右第七肋骨がきしむ。
「…違うの?」
「決まってんでしょ!ワタシがそんなことくらいで泣くワケないじゃない!」
私の胸元を突き放して、腕組み。
きっとミサトね、ンなデマ飛ばすの。と、剣呑な目つきで見上げるのは、コンフォート17マンションだろうか?
「…なら、どうして?」
「なんでアンタにそんなコト話さなきゃなんないのよ」
拒絶の意。と受け取る。
「…そう」
何を護っているのかは知らないが、そのココロの壁が容易には開かないだろうことは判っていたことだ。だから、悲しくはない。
けれど、それは、私がヒトではないからだろうと思うと、ひどく切なかった。
これ以上、惣流アスカラングレィの傍に居ては、私のココロが軋む。
ここに居たくない。でも、なぜかコンフォート17マンションに戻りたくない。
行く宛てがあるわけもなく、ただ逸らした視線の重みに引きずられるように足を出した。
「ちょ…、ってアンタ!なんでハダシなの!?」
言われて見下ろした自分の足。
玄関で靴を履こうとして、靴下を履いていないことに気付いた。靴下を履いてくる時間を鑑みて、そのまま出ることにしたのだ。
「ちょっとソコで待ってなさい!いい? 動くんじゃないわよ? 逃げたりしたらヒドいわよ!」
振り向いた私の鼻先に、突きつけられる指先。
待てと命令した惣流アスカラングレィが、コンビニエンスストアの店内に消えた。
***
「…これは、室内履き」
「ウっサイ!ゼータク言うな」
コンビニに、靴なんかあるワケないでしょうが。とビニール袋から瓶入り飲料を取り出した惣流アスカラングレィが、ベンチの角を利用して王冠を抜いた。
ビニール袋を一杯にしてコンビニエンスストアから出てきた惣流アスカラングレィは、私にスリッパを押し付けるやこの公園まで引きずって来たのだ。
そうしてベンチにむりやり座らせ、洞木ヒカリがそうしたように足の様子を診てくれた。使われなかった判創膏は、封を切られることもなくビニール袋の中へ。
「まったく…。ケガでもして使徒戦に差し支えが出たらどうすんのよ」
怪我をしても、痛みを無視することは容易い。けれど、この身体を大切にすべきことを洞木ヒカリが教えてくれていたから。
「…ごめんなさい」
見下ろす指先に、もう判創膏はないけれど。
「で? そこまでして追いかけてきて、泣いてるワタシを慰めてくれよってんの?」
ベンチの上に立って、見下ろしてくる視線。私の一挙手一投足を、縫いとめるかのような鋭さで。
「…慰める?」
視線を落とす。その高さはきっと…
惣流アスカラングレィが泣いたと聞いて思い浮かべたのは、弐号機の中で見た幼い後ろ姿だった。今思えば、あの後ろ姿は今にも泣き出しそうにしていなかっただろうか。
そのとき私は、何もして上げられなかった。気付きもしなかった。
むかしむかし、泣き喚いた私をあのヒトは抱きしめてくれたというのに、私は何もして上げられなかったのだ。
「…そう。もし惣流アスカラングレィが泣いているのならば、抱きしめてあげたかった」
けれど私には、なぜ惣流アスカラングレィが飛び出したのか、想像することもできなかった。言われて初めてそうかもしれないと気付き、なのに追いかけてみれば惣流アスカラングレィは泣いてなど居なかった。
私には。私には、ヒトのココロが理解できない。
ヒトの身体の中にありながらヒトのココロではない私のココロが、きしむ。
「ちょっ!ナニ泣いてんのよ!ワタシ、そんな酷いコト言ってないわよ!」
そういえば、先ほどから惣流アスカラングレィが喚きたてていたような気がする。自分のことに精一杯で、耳に入っていなかった。
「ああ、もう!人聞きが悪いったら!」
ベンチを飛び降りた惣流アスカラングレィが、正面に回りこむ。
「エヴァのパイロットともあろう者が、この程度のことで泣くんじゃないわよ!」
「…なぜ?」
「なぜって…、当たり前でしょ!ワタシたちは選ばれたエリートなのよ」
ヒトのココロはこうも感情に振り回されるのに、なぜそれに身を委ねることすら許されないのだろう。ココロのきしみは、涙で漱ぐしかないのに。
理不尽という言葉を、のちに知る。
「あ~もう!なんでこんなのが選ばれたチルドレンなの?」
選ばれているわけではない。と、思わず口にしそうになった。いけない。ココロの壁が弱くなっている。
「いつまで泣いてんのよ!泣いてたって、ナニも解決しないでしょうが!」
「…解決?」
「そうよ!泣いてる暇があったら、泣きたくなる原因を潰すの!」
目を、しばたいた。
自分自身が唯一無二で絶対である使徒にとって、周囲を取り巻く環境など、一顧だにするほどの価値もない。もし環境が好ましくないなら、自らをより強くすればいい。
それは、エヴァンゲリオンにとってもさほど変わることのない認識だ。
そうした使徒やエヴァンゲリオンに、環境の方を改変するという発想はない。理解すら及ばないだろう。
あまりにも脆弱なカラダをもつヒトは、環境に依存せざるを得ない。けれど、なすがままに身を委ねないのがヒトだった。
私はエヴァンゲリオンだ。あるがままの状況を受け入れていた。
私はヒトだ。状況を無視できる強さがなかった。
私はヒトではない。望ましくない環境を自らの手で改変する発想がなかった。
私はエヴァンゲリオンではない。環境を変えるという発想を受け入れることができた。
私は、私は…ワタシは、ナニ?
…私は、
「…ヒトに、成らんとするモノ」
わかりきった答えを、それでも口にした。
はぁ? と訝しがる惣流アスカラングレィを、見上げる。
「…なぜ、飛び出したの?」
「そんなことアンタに!…」
指先を突きつけながら詰め寄ってきた惣流アスカラングレィは、しかし口を閉ざした。
「…」
身を引いて顔を逸らし、無雑作に頭を掻いて、ちらりとこちらを見る。
「なんで、そんなコト知りたいのよ…」
「…解からないから。解からないと、悲しくなるから」
自分の言葉に悲しさを思い出させられて、また涙腺が緩む。
背中を向けて溜息。こめかみに手を当ててうつむいたかと思うと、天を仰いだ。
「…ったコねぇ」
右足を軸に切り返すように振り返った惣流アスカラングレィは、一歩こちらに踏み込んでくると、カットソーの裾で乱暴に私の頬を拭う。
「いい? こんなことはこれっきりよ!二度と言わないから、よく聞いておきなさい」
「…いや」
かぶりを振ると、惣流アスカラングレィがカットソーの裾を握り潰した。
「…泣いてる暇があったら、泣きたくなる原因を潰す。だから、潰れるまで何度でも訊くわ」
コイツわ…。と、こぶしを震わせた惣流アスカラングレィは、しかし、短く嘆息しただけで上体を起こす。
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。叩けよ、さらば開かれん。って言うものね…
言いたいことを言うのは悪いことじゃないから、訊きたいことを訊くのは自由よ。
ただし、答えるかどうかはワタシの自由だし、答えたコトを何度も訊くなってコト。解かった?」
さっきとは微妙に、主張が違っているような気がする。それがなぜなのか解からないが、不満はないので頷く。
惣流アスカラングレィが、腰に手をあてた。仁王立ちと、のちに知る。
「まず最初に、侮辱されたと思ったから」
「…侮辱?」
そうよ。と、人差し指を一振り。
「ワタシは、常に最高の高みを目指してる。一所懸命にね。なのに評価されたのはアンタたちの馴れ合いの方」
馴れ合い…。ひどく厭な言葉だった。まるで、胸の裡が湧き上がってめくれ返りそうだ。
開こうとした口を、人差し指で塞がれる。
「ワタシがそう思ったんだから、シカタないでしょ。訊かれなきゃ、ワザワザ言わなかったわ」
「…そう? よく解からない」
そう口にしておきながら、なぜか理解できた。言葉とともに表情を消していった惣流アスカラングレィの、それはココロの真実だと思えたから。
とても不機嫌そうだけれど、それだけじゃないと思わせる。
「もうひとつは、アンタ、ワタシにケガしてること言わなかったでしょ。
付き合い短いから仕方ないかも知んないケド、信頼されてないみたいで…」
口をつぐんだ惣流アスカラングレィは、逸らした視線を追いかけるように顔をそむけた。答えるかどうかはワタシの自由。と云うことなのだろう。
そのココロの裡こそ私が知りたいモノなのに、それを引き出す術を知らない。
だから、今はかぶりを振ることしか出来なかった。
「…碇君にも、伝えてなかったわ」
「そうなの? …、」
眉を上げた惣流アスカラングレィは、顔をそむけたままの姿勢から視線だけを向けてくる。
「なら、入り込めそうにないアンタたちの絆に疎外感を覚えた。…のかも知れないわね」
…絆、碇君と私の間に?
いや、碇君と踊りきった時のあの気持ち、確かに碇君との間に繋がりを覚えた。碇君の私への気遣いと、碇君を理解しようとする私の想いが、縒り合わさっていたように思う。同じものが溶け合うのではなく、違うものが絡み合う。それが絆だと、感じるから。
見上げる惣流アスカラングレィの横顔。再び地面に落とされた視線は、しかし、何も見てないような気がする。
引き結ばれた口元は、それ以上開かれることはなさそうだ。
「…なぜ、あなたはそんなにも自分のことが解かるの?」
はぁ? とほとんど発声せずにこちらを見た惣流アスカラングレィが、腰に手をあて、再び仁王立ちに。
「自分のことなんて、解かって当たり前… でもないか」
途中で変わった語調と合わせるように、その雰囲気まで変わったような気がする。
「アンタに訊かれなきゃ、なぜ飛び出したかなんて分析、しなかったわよね」
腕を組んで、うんうんと頷いている。
「お陰でなんだかすっきりしたわ。一応、お礼言っとく、ダンケね」
「…どういたしまして?」
「そうと決まれば練習再開よ!ほら、ぼぉっとしてない!」
いったい惣流アスカラングレィに何が起こったのか、なぜお礼を言われたのか解からぬままに、手を引かれて公園を後にした。
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このヒト知ってる。イスラフェル、第7使徒。そして、さよなら。
62秒間の、惣流アスカラングレィとのダンス。私の口元はずっと綻んでいたと思う。惣流アスカラングレィもそうだと、嬉しい。そう思えることがまた、なぜか嬉しい。
最後の蹴り。これで終わりなのが少し悲しい。名残惜しいと呼ぶのだと、のちに知る。
イスラフェルが残したクレーターの中で、ここが湖になることに思い至った。
つづく