- AD2005 - 弔いの鐘の音が、もの悲しい。 「偉いのね、アスカちゃん。いいのよ、我慢しなくても」 中年女性が1人、芝居がかった仕種で泣き伏している。 「いいの、ワタシは泣かない。ワタシは自分で考えるの」 気丈に。なんて形容したら、アスカはきっと怒り出すだろう。その表情はこちら側からでは見えないが。 たとえ電動でも、芝生の上は車椅子に向かない。かといって人に押してもらうのは好きじゃないから、少し苦労して車椅子を操る。 …そのうち、ホイールへの動力伝達の制御ルーチンでも組んでみようか。 「惣流・アスカ・ラングレィだね」 小さいアスカが振り返った。護衛の黒服が、件の中年女性をさりげなく遠ざける。 「…どちらさまですか?」 口調が改まっているのは、警戒の表れでもあるのだろう。 「儂はキール・ローレンツという。キールと呼んでくれ給え。…アスカ、と呼んでも?」 ことのほかあっさりと頷いてくれたのが、ちょっと嬉しい。 「それで、ワタシに何の用?」 うむ。と応えてホイールをロックした。 セカンドインパクトで重傷を負ったこの体は、まともに立つことも出来ない。だが、腕の力で芝生に跪くぐらいならなんとかなる。 臓器の大半を人工物で置き換えたこの体は、生体機能代行装置から離れることが出来ない。だが、この時のために車椅子との接続部を延長しておいた。 ネルドリップならコーヒーが1杯は軽く抽出できるほどの時間をかけて、ようやくアスカの前に跪く。ちょっと無理しすぎたか、脂汗が酷い。 黒服に交じって随伴している臨床工学技士が、顔を青ざめさせていた。事情を知らないはずのアスカも、ものものしさになんだか固唾を呑んでいる。 「まずは母君のこと、お悔やみ申し上げさせてもらうよ」 結局、初号機も弐号機もその接触実験を防ぐことができなかった。使徒が来る以上、その備えとしてのエヴァが要る。そのためにどんな実験をするか、いつ実験をするか。それは直に携わっている研究者が決める領分で、たとえゼーレといえど、その盟主といえど、軽々しく口出しができなかったのだ。 もちろん、時期尚早ではないか? と何度も意見した。しかし、その度に「素人には解からないだろうが」と言わんばかりの上申書が、オブラートに包まれた表現で届くのだ。 根負けするような形で両方とも許諾せざるを得なかった。もっとも、結局両方とも失敗したことで、研究者連中に意見しやすくなったのも事実だけれど。 ただの弔問客だと判断して、アスカの緊張が解ける。…代わりに、身構えたようだが。 「ありがとうございます。ママも草葉の陰で喜んでいると思います」 心の篭らない切り口上と、形だけの礼。この年齢で見事な所作だけれど、とても哀しい姿だった。 母親を喪ったのに哀しそうに見えないのは、哀しくないと思い込もうとしているからだろう。イソップ童話のキツネのように、すっぱいブドウだから食べたくなかったのだと己を誤魔化しているのだ。 この、小さな強情っぱりは気付いてないだろう。母親が好きだってことを、裏腹な態度で、全身を使って表現しているってことに。 問答無用で抱きしめてやりたいところだが、さすがにそれは憚られる。 「今日はアスカに、いくつか秘密を教えに来た」 秘密? と小首を傾げるアスカに、うむ。と応え。 「たとえばアスカの母君、キョウコ女史は、アスカの母親であることを辞めたりはしていない。とか」 「うそっ!?」 かぶりを振った。 「そもそも儂がこんなことを知っていて、わざわざアスカに伝える時点で嘘ではないと、判るだろう?」 「それはワタシが決めるコトよ」 やはり、アスカにこの程度の詐術は効かないか。 「キョウコ女史は、娘を殺したいと思っていたわけではない…」 敢えて言葉を切って、様子を窺う。あのブドウは甘いのだと教えられたキツネは、空きっ腹を抱えてどうするだろうか? 取ろうと努力する? 取ってもらおうとする? やっぱり諦める? 嘘だと決め付ける? … 胸中に渦巻いた諸々の情念をすべて篭めたかのような瞳で、アスカが睨みつけてきた。 どうやら、余計なことを教えた者を逆恨みするらしい。それは、ブドウに手が届かないと思っていれば当然の反応だろう。 「それらの理由を、知りたくないかね?」 知りたいと、顔に書いてあった。だが、知れば誤解していたことを認めねばならなくなる。己の幼さゆえの過ちを認めなくてはならなくなる。 その葛藤を天秤に載せて、アスカが体ごと揺れた。 …じっくりと、待つ。 鼻先に甘い匂いを突きつけられたキツネが素直になるには、時間がかかるだろう。 … 「…教えて」 「大きな声では言えぬでな。もっと傍に来てくれるかね。できれば、老人が孫娘でも抱きしめているように見せかけられれば都合がよいの…」 割り切ったアスカは、行動が早い。言い終わる前には懐に飛び込んできていた。挨拶代わりにごく自然に抱き合う慣習があればこそ、だろうが。 キール・ローレンツとアスカの祖父の間には、それなりの交流があったようだ。―この身体で目覚めた時には既に鬼籍の人だったけれど― 事情を知らない人間も、知っている人間も、自分の都合のいいようにこの光景を解釈するだろう。 その小さい背中に手を回す。 「キョウコ女史は、自ら提唱した実験の被験者になった」 アスカの肩が、ぴくりと跳ねた。 「その結果、精神崩壊を起こした彼女は、自分がアスカと言う子供の母親であること以外の全てを忘れてしまったのだ。不幸なことに、肝心のアスカを認識する能力とともにな」 「…うそ!」 後退ってこの腕の中から逃れようとしたアスカの肩を、かろうじて抱き止める。 「嘘ではない。アスカを捨てたのは、アスカの母親であってアスカの母親でない、ただの抜け殻だったのだ」 「…ママは」 途端にアスカの身体から力が抜けた。 「ワタシを…」 まだ泣いてはない。泣いてはないけど、その瞳は潤み始めて。 「捨ててなどないとも」 この身体では大した力は出ないけれど、力いっぱいに抱きしめる。 この肩口に、隠すように顔を押し付けてきたアスカが、それでも泣くまいとしてすすり上げた。 今泣かないと、アスカはきっと10年は泣けなくなる。だから、素直になって欲しい。掻き抱いた手に、その思いを篭める。 「いや、むしろ、あのような抜け殻になってしまってもアスカを見ようとしていたのだな。キョウコ女史は」 … ようやく、ようやく搾り出すような嗚咽がアスカの口から漏れた。 そう。それでいい。 素直になれれば、ガラスの刃のようなあのアスカになることはなくなるだろう。エヴァに係わっていても不幸にならずに済むだろう。 押し殺したように泣くアスカの震えを、流す涙と云えばバイザーの洗浄液しかないこの身体で受け止めた。 終劇2007.09.25 DISTRIBUTED2009.04.01 PUBLISHED****シンジのシンジによるシンジのための補完 NC カーテンコール - AD2015 - タイミングを見計らって、通信をつないだ。こちらの映像は、発令所の前面ホリゾントスクリーンに映し出させる。 「諸君、任務ご苦労である」 偉そうな物言いも、この15年ですっかり板に付いたと思う。 『キール議長』 何の用だ。などと口にはしないが、警戒を滲ませて父さんがサングラスを押し直した。 「国連軍のN2地雷が通じなかった以上、現用の兵器では使徒を斃せぬであろう。指揮権の委譲についてたった今、私のところに打診があったところだ」 トップ・ダイアスを占領した在日国連軍の高官どもが顔をそむけたのは、忌々しげなその表情を私に見せたくなかったのだろう。 「唯一、使徒に対抗できる汎用人型決戦兵器、エヴァンゲリオン。しかし、その零号機は起動試験に失敗して凍結中で、パイロットは重傷。初号機はパイロットが見つかっていない」 『お待ちください。現在マルドゥック機関によって発見されたサードチルドレンがこちらに向かっております』 そんなことは先刻承知だ。が、 「そうかね。私のほうには報告が来てない様だが?」 『…急なことでしたので』 実在しないマルドゥック機関から、意味のある報告があがることなど基本的にありえない。判りきったことだが、そのことに慣れて油断した父さんの隙に付け込ませてもらおう。 「ネルフ本部に使徒への対抗手段がないものとして、私はネルフドイツ支部にエヴァンゲリオン弐号機の出撃を要請した」 なんですと!との父さんの抗議は、しかし最後まで言い切ることができなかった。 『大気圏外より、高速接近中の物体あり!』 青葉さんの報告に、発令所がざわつく。 『映像、最大望遠です』 その映像はこちらにも届いている。50km程度しか視程のないネルフ本部の光学観測機器ではケシ粒のような大きさだが、それでも嘆声が満ちた。 衛星回線経由のテレメトリーデータからすると、弐号機の高度は地上100kmほど。ATフィールドによるアンチショックコーンの形成と衛星の補助がなければ、ブラックアウトの真っ最中だっただろう。 こちらが手配しておいた哨戒機からの映像を廻してやる。その映像の中で、プラズマ化した大気が円錐状に穿たれて、目に見えぬ壁の存在を訴えていた。 発光するプラズマが、傘を開くように押し広げられていく。弐号機が減速シーケンスに入ったのだ。 プラズマの傘の中から姿を見せた弐号機の勇姿に、再び嘆声が湧く。 空気抵抗で充分に減速した弐号機が、外輪山の山頂に降り立った。軽やかな着地は、最後の瞬間に重力軽減ATフィールドを使ったのだろう。即座に山陰に隠れて、ウェポンラックから増設バッテリを落とし、小脇に抱えていたのと交換している。 「弐号機が到着したようだ。そちらの作戦部長はどこかね?」 『…現在、サードチルドレンを連れてこちらに向かっているところです』 その内心を、易々と顔に出すような人ではない。解かってあげられても、つらいだけだけれど。 「では、作戦部の最先任士官は誰かね?」 椅子を蹴倒しかねない勢いで立ち上がった日向さんが、ビシっと音がしそうな勢いで敬礼した。 『わたくし、日向マコト二尉であります』 そのまま固まりかねない日向さんを手振りで休ませ、…少し、考えている振り。この時のために、アスカの階級は二尉。ミサトさんには従う必要があるが、その他は従えることのできる微妙な地位は、5年前からの仕込だ。 「ふむ、それでは弐号機パイロットが現地の最先任士官ということになるな。 使徒殲滅は急を要する。弐号機は、パイロットの判断で作戦行動を行わせる」 しかし!と上げかけた父さんの抗議を、やはり身振りで抑える。 「心配は無用だ」 そうして、掏り換えるのだ。父さんの言わんとしたことを。あたかも、先取りしたように見せかけて。 自分は、本当に人が悪くなった。 「弐号機パイロットは、10年も訓練を受けてきている。必ず使徒を殲滅してくれよう。 諸君は、彼女が遺憾なく作戦遂行できるよう情報提供に協力してくれたまえ」 ネルフ本部への送信を切って、弐号機との回線を開く。電力消費を抑えるために照明を落としたらしいプラグの中で、アスカがヴァーチャルウインドウに見入っていた。今の弐号機は、かなり細かく電力配分を調整できる。 「アスカ」 『おじいさま』 怖いほどに真剣だった表情が、こちらに向けられた途端に少しほころんだ。 「どうだね?」 『見たトコロ、武装は光の槍と眼からの光線みたい』 日向さんからの的確な情報提供もあったようだが、きっちり威力偵察ができている。緊張はしているようだが、必要以上の気負いは見受けられない。 「どうするね?」 『析複化した光波遮断ATフィールドを円錐状に展開して接敵。直前で中和に切り替えつつ背後に回りこみ、プログナイフでコアに攻撃。 これでどう?』 どう立ち向かうべきか、結論は出ていたのだろう。即座に答えてきた。 「ふむ、背後に武装があったらどうするね?」 『後ろから攻撃してきた国連機を撃墜するときに振り向いてたから、その可能性は低いと思う。 でも、念のため使い終わったバッテリを持っとくつもり。盾にするには心もとないケド、ないよりマシでしょ?』 それぐらい考察済みだと言わんばかりに、アスカが両眉を持ち上げてみせる。 「うむ、さすがはアスカだな。儂から付け加えることはない。 アスカなら必ず成し遂げよう。頼むぞ」 『ええ、任せて』 決然と正面へ向き直って、シンクロ手続きを始めた。邪魔にならぬよう通信を切ろうとしたら、それに気付いたらしいアスカが、あっ。と一言洩らす。途端にアラート表示。 なんだかバツの悪そうな表情を、アラート表示の照り返しが赤く染めている。 『…通信はそのままにしてて』 この10年で、アスカはずいぶんと素直になっただろう。それを向けてもらえることもまた、嬉しい。 「そうか。ならば、アスカのデビュー戦の勇姿、とくと見せてもらうとしよう」 こくん。と頷いたアスカが、再びシンクロ手続きを取り始めた。 弐号機の中に母親がいることを知り、それを受け入れているアスカのシンクロ率は高い。ATフィールドもほぼ使いこなせるようになった今、間違いなく最強のチルドレンだ。 そのプライドに見合った能力を得たアスカは、ほかの子供たちをも導き得よう。 アスカ、行くわよ。と呟いたアスカを、優しく見守った。 終劇2007.11.5 DISTRIBUTED ボツ事由 カーテンコールを前提にしたアスカデビュー戦だが、そもそもシンジの経験にキールの権力が合わされば出来ないことはないはずで、人類補完計画が提唱されることすら阻止できる可能性が大。物語を進めるために原作準拠的なプロットラインを組んだカーテンコールをこれ以上膨らませるべきではないとして不採用。