尋常な手段では斃しようがないということにおいて、深淵使徒の右に出る者はいないだろう。威力偵察でその途方もなさを確認したミサトさんも、打つ手なしのようだ。 さすがに相手のしようがないことを認めて、アスカがバックアップに下がってくれたのが幸いだった。 この使徒を普通にエヴァで斃せるかどうかは、結局のところ判らない。 ただ、斃し方はあるはずだ。これまでの2回とも、暴走した初号機によって斃されたらしいことが、唯一の手懸りだった。 直接制御下の初号機は、暴走中のそれとそれほど能力差があるわけではない。試せるだけのことを試してみようと思う。 最悪、呑み込まれるだけ呑み込まれて、中で暴走させればいいだろうと覚悟を決めて、深淵使徒に向かって手をかざした。 唐突に姿を消すゼブラパターンの球体。いや、使徒を貫かんと飛来した弾丸を、初号機は見た。位置的に、遅れて届く発砲音。 『アスカっ!』 ミサトさんの声に、慌てて視線を遣る。 漆黒の底なし沼に、すでに太腿まで呑まれた弐号機の姿があった。 『わっ、ワタシ…あんなのどうしようもないって判ってたのに…』 通信ウィンドウの中に、呆然とした様子のアスカ。 『…こないだも、何もできなくて』 「ATフィールド張って!アスカちゃん!」 沈んでいく弐号機に向かって駆け出した。…後から考えれば、私はずいぶんと動揺していたのだろう。そんなことをさせてないこのアスカに、ATフィールドの応用を要求するなんて。 『こいつもワタシでは斃せないと思ったら、急に悔しくなって…』 ハンドキャノンを構えた格好のままで、弐号機が沈んでいく。 エントシュ…。と呟いたアスカが、かぶりを振る。 『…ゴメンナサイ』 全力で駆けつけたのに、その手を掴むことができなかった。 … そのまま黒円の上を駆け抜けて、振り向く。 ゼブラパターンの球体が、何事もなかったかのように浮いていた。 やり場のない怒りに固めたこぶしを、しかし解く。怒りをぶつけるべきは己自身ではないか。 溶解液使徒の一件以来、アスカにはずいぶんとゆとりが出来てきていたように思っていた。夕飯の招きに、一人で応じることも多くなってきていたのだ。 だが、ずっと葛藤していたことは疑いようがない。 だって、あのアスカが謝ったのだ。ごめんなさいって言ったのだ。 頭では理解できても、感情が伴わずに苦しんでいたのだろう。意識せずにやってしまったから、哀しげに謝るしかなかったのだ。 微細群使徒戦ではつんぼ桟敷に置かれ、今また獲物をおあずけにされて。自己のアイデンティティーの置き所に悩んでいたに違いなかった。 気丈な娘だから、内心の動揺を大人なんかに見せることなどないと、知っていたはずなのに。 もっと、しっかり見守ってやるべきだったのに。 「10番に増設バッテリを載せれるだけ、急いで!」 場合によっては、弐号機のために必要になる。 『ユイさん!?…』 ミサトさんは明らかに制止しようとしていたから、皆まで聞かず。 「アスカちゃんを救出に行きます。早く!」 深淵使徒を斃すほうを優先すべきかと、考えないでもない。ただ、そうした場合に弐号機がどうなるか、見当もつかなかった。 『…ユイ』 増えた通信ウインドウに、ゲンドウさん。最近は、私相手でもサングラスをかけていることが多い。目の下の隈を見せたくないのだろう。…これ以上心労を重ねさせることは、本意ではないけれど… 「必ず、帰ってきます」 …すべてをレンズの奥に押し込めて、ゲンドウさんが頷く。トップ・ダイアスから飛ばす指示の声が、かつてのように硬い。 … わずかな作業時間を待ちきれず、つい武器庫ビルの前をうろついてしまう。 ようやく開いたシャッターももどかしく、板ガム状の増設バッテリを取り出した。 まずは肩部ウェポンラックに1枚ずつ接続する。パレットライフルがケースごと用意されていたが、無視だ。どうせ役には立たない。 続いて4枚ほどをまとめて小脇に抱え、ハンドキャノンを手にした。 … ケーブルを切り離して向かうのは、悠然と浮かぶゼブラパターンの球体の、その真下だ。 **** 深淵使徒に呑みこまれて最初にしたのは、念のためにACレコーダーをカットすることだった。一切記録に残さずに機能停止できるよう、細工済みだ。 続いてレーダーやソナーを試すが、やはり反応がない。 かつては空間が広すぎるせいだと思っていたが、いくらS2機関とはいえ無限の空間を支えられるほどの出力が有るはずがない。 有限だとしても、生命維持モードで16時間近く粘ったことを思い出せば、初号機を中心にして半径8光時以上の球形の空間があることになる。木星軌道を楽々収められるほどの空間を、保持できるものだろうか? …もっとも、そんな広大な空間を精査できるほどの性能を、初号機のレーダーが備えているはずもないが。 ディラックの海を扉代わりに他の宇宙へ連れてこられたかとも考えたが、背景放射すらなさそうだから可能性は低いように思う。 考えれば考えるほど、この空間の存在を疑いたくなる。 なにか誤魔化されているような、そんな感覚が付きまとって離れないのだ。 試しに、深淵使徒に呑みこまれるために使ったハンドキャノンを放り投げる。 しばらくして放ったレーダー波は、返ってこなかった。 この距離を探知できないのは、…もしかして、電磁波が急速に減退させられているのではないだろうか? だとすれば… … ATフィールドを中和した上で放ったレーダー波が、至近のハンドキャノンを捉えて返ってくる。やはり、ATフィールドの応用だったか。相手が使徒なのだから、もっと早く試してみるべきだった。 …いや、内向きのATフィールドとはこういう意味だったのだろう。外ではなく、使徒の裡にこそ充満しているのだ。 ぐるり。と見渡した視界の中で、初号機が赤外線を感知した。他に熱源はなさそうだから、弐号機だろう。初号機の空間把握能力が、弐号機までを1光秒あまりと教えてくれる。 ここが本物の宇宙なら、ATフィールドでダークマターを漕げるかどうか試したところだが、やるだけ無駄だろう。確実な移動手段から試してみるか… S2機関を始動させる。 膨大なエネルギーの迸るままに、顎部装甲を引き千切って咆哮。震わせるものなど何もない空間で、無音の叫びが虚しい。 全身を使って発生させた電力が、必要な個所に供給されるように手配する。増設バッテリは、温存しておくに越したことはないだろう。 背後に展開したATフィールドを蹴りつけて、弐号機の元へ向かった。 … …… 初号機に搭載されている加速度計は大気圏内用で、振り切れてしまって久しい。ジャイロコンパスの履歴や、レーダーで計測したハンドキャノンとの距離を突き合わせて、初号機の速度を算出させてみる。 ― 秒速で5.2㎞あまり。大気のない空間ではあまり意味がないが、マッハにするなら約15。 ATフィールドを蹴りつけて加速していけば、もっと速度を出せると考えていた。それこそ、理論的には光速に近づくことだってできるはずだ。 見込み違いだったのは、ある程度より速くなると、さすがに初号機の反射神経でもATフィールドを蹴りつけられないことだった。そもそも、タイミング良く足元にATフィールドを張るのが難しいのだ。 …このままでは、アスカが生命維持モードで粘っていたとしても、間に合わないかもしれない。 思わず、不吉な未来絵図を想像してしまう。 弐号機を生み出し、母親を奪い、戦場に放り込み。…今また、その命まで奪おうとしている。深淵使徒の闇の中、孤独なままにアスカを殺してしまう。 それだけは、 それだけは、嫌だ。 あまりの絶望に、この手でアスカの首を絞めたことだってある。自分を受け入れてくれない者を憎悪して、なにより他人という存在に耐えられなくて。もう1度会いたいと願った、その舌の根も乾かぬうちに。 その弱さ故に、今ここに自分がいるのだとしても。 あの感触を思い出すのは、二度と御免だ。 … アスカを、救けたい! この狂おしさに囚われたか、初号機が吼えた。S2機関が唸りをあげて、胸を焦がす。全身を駆け巡った奔流が、出口を求めて背中を突き破った。 … あまりの痛みに、一瞬意識が飛んだらしい。背中から内蔵を掻き出されるようなその痛みが継続していなければ、気絶したままだっただろう。 何事かと首をめぐらせれば、目に入ったのはまばゆい輝きを放つ光の帯。いや、翼か。 初号機の背中から、あまりにも長大な一対の翅が伸ばされているのだ。セロハンを張り巡らせたようなその姿は、カゲロウのそれを思わせる。 初号機の鋭敏な知覚が、微弱ながら加速度の増加を感じだした。S2機関で産み出したエネルギーを、ATフィールドの翼で光子に変換し、推進力をあがなおうというのか。 爆発的な加速を得られるわけではないが、たゆまず加速しつづければ最終到達速度は莫迦にはできまい。 この想いに、応えてくれたんだね。…ありがとう、初号機。 **** 減速するために光子を前方へ放射し始めて、暫時。大幅に時間を短縮して、弐号機が目の前だ。 光の翼を解くと、光源を失って全てが闇の中に。 体重移動で姿勢を変え、前方に展開したATフィールドに着地。全身をばねのように使って勢いを殺す。スケール比で考えても、発令所から落ちたときなどとは比べ物にならない衝撃があっただろう。だが、初号機の運動神経は葛城ミサトであったときの経験を十全に活かして、無理がない。 かすかな赤外線を頼りに、ATフィールドを蹴った。胎児のように身を丸めた弐号機に近づき、慎重に接触。その肩部ウェポンラックに増設バッテリを接続する。自動でモードが切り替わり、外部電源優先に変わったはずだ。通信を妨害されないよう、エヴァ2体を包むようにATフィールドを張った。 「アスカっ、…アスカちゃんっ!」 … 返事がない。 生命維持モードでは音声回線しか開けないから、アスカの様子がよく判らなかった。内部モニターに有線接続で強制介入して、バイタルチェック。…良かった、眠っているだけだ。 『… マ マ』 思わず、弐号機ごと抱きしめた。 どんな夢を見ているのだろう。いい夢だと良いのだけれど。 … このまま、寝かしたままの方が良いだろうか? と悩んでいたら、アスカのうめき声がした。 「…アスカちゃん」 … 夢うつつに通常モードに変更したのだろう。開いた通信ウインドウの中で、状況を理解してないらしいアスカが視線をさまよわせている。寝惚け眼をこするさまが、実に可愛らしい。 ウインドウの中にこちらを見つけただろうに、アスカはしばらく認識できないようだった。 … 『えっ? なんで? どうしてアンタがここに居るのよ?』 「なんでって、アスカちゃんを救けに来たに決まってるじゃない」 『バカっ!』 寝起きだというのに一瞬でトップギアをいれて、アスカの罵声が耳に痛い。 『ココがどんなところか判ってんの!』 よく知っている。とは言えず、まあなんとなく…。と語尾を濁した。 『アンタ、バカぁ!? こんなところに策もなく乗り込んできて共倒れになったりしたら、誰が人類守んのよ!』 考えナシだの、ナッツヘッドだの、ドゥムコプフだの、立て板に水を流すように喚き散らされる罵詈雑言を、さも神妙そうに聞いてみせる。アスカの文句を真に受けて謝ったりしたら、火に油を注ぐようなものだ。 … 言うだけ言って気が済んだのか、単に疲れただけなのか、アスカが大息をついた。 「…だって、アスカちゃんが心配だったんですもの」 バカ…。と呟いたアスカが、何かを隠すように顔を逸らす。 「それ以上の理由なんか、ないわ」 アンタにっ!とウインドウに向き直ったアスカは、その怒声とは裏腹に切なげで。 『…アンタにナンかあったら、レイやシンジになんて言えばいいのよ!』 そういえば、分裂使徒の時にレイやシンジと何を話したのか訊いてないけれど、そう云うことなのだろうか? 「大丈夫。勝算はあるから」 『ヴィルクリッヒ?』 「ええ。今から始めるから、弐号機を起動させて初号機にしがみついていてくれる?」 わかったわ。と頷いたアスカがシンクロ手続きを始めた。 『…Anfang der Bewegung Anfang des Nerven anschlusses.Ausulosung von Rinkskleidung.Synchro-Start』 …ここでバゥムクーヘンなんて言ったら、怒られるだろうなぁ。 おそらく、CTモニターに切り替えたのだろう。弐号機から発せられるマイクロ波が、初号機の視界で眩しい。 腕の中で途惑いがちに身じろぎした弐号機が、おずおずと手を回してくる。右手を脇の下から、左手を首にかけて、背中で指を絡ませたようだ。直接アスカに触れるような心持ちで、やさしく抱きしめ返してやった。 「それじゃあ、始めるわね?」 ウィンドウの中でアスカが頷くのを確認して、まぶたを閉じる。 …S2機関、全開! 迸るエネルギーに猛って、思うさまに叫ぶ。震わせるものなど何もないはずなのに、溢れ出るエネルギーが物理的な衝撃波となって放たれるのが判った。 『な…?』 アスカの声が通信越しに聞こえてくるが、今は人の体のほうへ意識を回せない。 『ワタシ、こんな物に乗っているの…?』 直径680メートル、厚さ約3ナノメートル。その極薄の空間を内向きのATフィールドで支えたディラックの海。虚数空間がこの使徒の正体だと、リツコさんが推測した。 ATフィールドで支えているからといって、中和すれば斃せるというものではないのは身に沁みて知っている。そもそも本体の虚数回路が閉じている間に中和しても、なんの効果もないのだ。その間、使徒はATフィールドを張っていないのだから。 かといって、虚数回路が開いている状態ではどうかというと、中和しようとした瞬間に影たる球体は消え、虚数回路を閉じるだろう。さきほどレーダーを使うために中和した時、外界ではゼブラパターンの球体がいきなり消えて騒ぎになったかもしれない。もし深淵使徒が移動していたら、余計な被害が出ているかも。 このディラックの海を打ち破るには、ATフィールドを中和せねばならない。しかし、尋常な方法では中和のしようがないのだ。 だが、裏死海文書を読み、その基礎研究資料を手に入れ、セカンドインパクトのデータからサードインパクトというものを、あの儀式で行われたことを推測できる今なら… …アンチATフィールド、展開! ATフィールドの中和とは、自身のフィールドの全てを以って、相手のフィールドを消し去る行為である。つまり、相殺だ。だが、壁をぶつけて相手の壁を壊そうが、その瓦礫は残る。こちらがその意図を放棄した時点で、すぐさま再構成されてしまうだろう。 ATフィールドを展開できる能力があるうちは、その中和など一時凌ぎでしかない。 それと同様に、中和のしようがないというなら、そもそもATフィールドを張らせなければいいのだ。 ! 漆黒の空間が悲鳴をあげるようにひしゃげたかと思った瞬間、生暖かいモノに取り囲まれていた。 『…なっナニ、ここ』 生肉の風呂に浸かっているような感触に、アスカが弐号機ごと身震いしている。暗闇で何も見えないことに変わりはないから、よけいに気色悪いのだろう。 赤外線が見える初号機の視覚も、周囲を熱源に囲まれてはさほど役に立たない。もっとも、その熱量が急速に失われつつあるように見受けられたから、この使徒は案外、もう… 「おそらく、使徒の本体の中よ」 右の抜き手を、正面に突き立てる。いまプログナイフを出そうとすると、弐号機の頭を直撃してしまうのだ。 肉を断つ感触が不快だった。 … つらぬき通したその向こうから、光が差し込んでくる。 そこへ向かって、弐号機も左手を差し入れていく。 力を合わせて、使徒の肉体を抉じ開けていった。 つづく2007.08.06 PUBLISHED2007.08.10 REVISED