ノートパソコンに向かい、本日の実験結果をまとめる。 連動試験は今日が最終日だった。明後日からはATフィールドの展開実験に入る予定だ。 それらに合わせて、各種レポートも上げなければならない。しばらく忙しくなるだろう。 … 一息ついて、コーヒーをすすった。 左手奥、リビングのソファからは、シンジの規則正しい寝息が聞こえてくる。ダイニングで仕事をしている間も目が届くように、そこで寝かしつけているのだ。たまに聞こえてくる寝言が可笑しくて、手が止まることも多いけれど。 ちらりと遣る視線の先で、綿毛布をはだけたシンジがよだれをたらしていた。 あらあらと席を立ち、キッチンに寄ってからリビングへ。 ガーゼで口元を拭ってやると、むにゃむにゃと寝言を言う。あまりに可愛らしくて思わず頬擦りする自分に違和感を覚えて、我に返る。どうやら、自然にそんなことをしてしまう程度には母親としての自覚が進んでいるらしい。 それは、歓迎せねばならぬことなのだが… 足元だけ出して綿毛布をかけなおす。小さな男の子は足の裏が暑がりなものだ。自分がどうだったかは憶えてないが、少なくともシンジはそうだった。 … ダイニングに戻り、再びノートパソコンに向き直る。 続いて、零号機の開発終了、廃棄の申請書を書く。 初号機が起動した以上、試作機たる零号機の役目は終わったのだ。 かつての世界で零号機が現役だったのは、接触実験以降に初号機を迂闊に使えなかったからだろう。実験機としての役割も多分に担わされていたのだ。 このまま開発を進めて、予備として配備することも提案されたが、直接制御の可能性が極端に低いことを理由に退けた。 実際のところ直接制御は不可能なのだが、自分という例外が存在してしまった以上ゼロと言うわけにはいかない。それらしく0.000000001%などという起動確率を算出して見せたりした。 それもまた、正式にレポートに仕立てなければならないだろう。 日付が変わるころになって、玄関の開く音がした。 ぱたぱたとスリッパを鳴らして、迎えに出る。 「お帰りなさい、…ゲンドウ…さん」 「余計な気遣いは不要だと、言っておいた筈だが」 ああ見えて母さんは我の強い人で、父さんに言われたからと云って、はいそうですかと受け入れたりはしなかったようだ。たまたまこの点については母さんも同意見だったから、素直に従ってみせていたようだけど。 だから自分も母さんに倣い、己のやりたいように押し通すつもりだった。 「お目障り…ですか?」 「…そんなことはない」 乱暴に脱ぎ捨てられた靴を、跪いて揃える。 「でしたら、ご寛恕ください」 「…好きにしろ」 はい、そうします。と見上げた顔を、逆に見返された。嬉しいのか哀しいのか、判別のつきがたい表情は、すぐに逸らされる。 「食事は済ませてきた。シャワーだけ浴びて、休む」 寝室に使っている6畳間へ直行する背中から、それ以上の感情を汲み取るのは難しかった。 初号機を直接制御下に置いた今、その内包するS2機関を稼動させることは可能だろう。 だが、自分はその事実を公表しないことにした。 エヴァという常識外の兵器が無限の稼働時間を持ち得ることを世間に知らしめれば、要らぬ軋轢を呼び込むことになる。それは正直、御免こうむりたい。 もっとも、S2機関を稼動させただけでは、兵器としてのエヴァの稼動時間は延びないのだが。 人間の制御下ではS2機関を徒に暴走させかねない。と結びの言葉を打って、S2機関に関する意見書を締めくくる。 ノートパソコンをシャットダウンしようとしていたら、シャワーを終えたらしい父さんがリビングに姿をあらわした。 無精ひげを剃る気配はなさそうだ。あのまま、伸ばすつもりなのだろうか。 「なにか、お淹れしましょうか?」 「…構わん」 サイドボードからブランデーを取り出した父さんが、それを無雑作にタンブラーに注ぐ。このところ、アルコールの摂取が習慣化しつつあるように思う。 母さんの記憶に拠れば、ナイトキャップであっても滅多に飲まない人だったのに。 そのまま、ダイニングを通り抜けようとした父さんが、テーブルに眼をやった途端に立ち止まった。 その視線の先に、マグカップ。 … 「…冬月副…所長も仰ってましたが、そんなに違和感がありますか? コーヒー」 「…そうだな。少なくとも俺は見たことがない」 コーヒーを嫌いになるような経験でもあったんでしょうか?…、と嘯く。 「敢えて経験したいとも思いませんが」 見上げた父さんの顔は、なんだか切なげで… … とっさに声をかけようとして、かけるべき言葉を持たないことに気付く。 それでもと口を開いた途端、父さんがタンブラーの中身を呷る。ブランデーを飲み下す間に閉じていたまぶたを、ついに開くことなく背中を向けた。 そのまま無言でリビングを後にする父さんに、結局かける言葉が見つからなかった。 **** 所内の空気が軽い。 予算獲得のために父さんが渡欧して1週間。皆、いい具合に肩から力が抜けているのだ。 そういう自分も、今は父さんが居ないことに安堵している。 自分を、…いや、母さんのこの身体を見るときの切ない眼差しから、開放されるから。 自身の薄情さを突きつけられることと、引換えだけれど… 「あら? 今日はシンジ君は連れてきてないの?」 休憩所の不味いカップコーヒーを持て余していたら、ナオコさんに声をかけられた。 「あれは、居なかった分の補填のつもりでしたから、」 1週間だけです。と紙コップを置く。 ナオコさんは自身の研究室から滅多に出て来ないから、ご存知でなかっただろう。 「あらあら、都合のいい時だけ母親面していると、子供に嫌われるわよ」 「そうなんですか?」 「ええ、ここに実例がありますからね」 何故か誇らしげに、ナオコさんが胸をそらした。 リツコさんが母親に対してコンプレックスを持っていたように、ナオコさんも娘に対して鬱屈を抱えているのだろう。だからこそ、その事を口にするときに却って軽々しい態度をとってしまうのではないだろうか? さばさばした表情をしているのが、自虐の裏返しに思えるのだ。 「娘御さん、でしたか」 「ええ、いま第2で大学生やってるわ」 小銭を取り出して、迷うことなくコーヒーを選んでいる。 かこん。と紙コップの落ちた音。 「…嫌っているわけでは、…ないと思うんです」 MAGIの中でリツコさんと話したことを、思い出しながら。 「どういうことかしら?」 「あっ、すみません。生意気言ってしまいまして…」 「いいのよ。それより、貴女の意見を聞かせて?」 はい。と頷いて、あの時のリツコさんの様子を思い出す。 ― 母さんのこと、そんなに好きじゃなかったから ― その言葉とは裏腹に、リツコさんの雰囲気は柔らかかった。客観的な比較ができなくてコンプレックスを抱え込んでいたようだが、それがイコール嫌い、ではなかっただろう。 「…子供というものは親を独占したいものですから、それが充たされないことの不満と寂しさだと思うんです」 それは、シンジを見ていると実感する。 「…でも、子供は親を見て育つものですから、そのことは理解してくれます」 また保育所に預けるようになった時の、世界を護るための仕事だという言い訳を、シンジは懸命に呑み込んでくれたのだ。 「…だけど、その背中が大きすぎると子供にはプレッシャーになるのでしょう。自分は、この人の子供として誇ってもらえるだけの存在になり得るだろうかと」 居なくなった相手の、幻影との競争に神経をすり減らしている。それがリツコさんに対して自分が抱いた印象だった。 「…なんといっても相手は、人工知能研究の第一人者にして第7世代有機コンピュータ、人格移植OSの提唱者ですから」 「おだてても、なにも出ないわよ?」 抽出はとっくに終わっていただろうに、今ごろ紙コップを取り出したのは、真剣に聞いてくれたからだろう。 「おだてるだなんて、そんな…。私もそうですけど、きっと娘御さんも尊敬しておられると思いますわ」 「…貴女も?」 「ええ、尊敬してます」 「…そう、ありがと」 途端にそらされた視線を、どう解釈すればいいのだろう? もしかしてナオコさんはすでに… 「あら、もうこんな時間」 わざとらしく腕時計を確かめる仕種は、ナオコさんらしくないように思える。 「それじゃあお先に。シンジ君によろしくね」 「はい」 そそくさと立ち去るナオコさんを目で追うことはせず、紙コップを取り上げた。 … 父さんとナオコさんがただならぬ関係だったであろうことは、充分に予測できたことだ。 それがいつからで、どこまでの関係だったのかは、想像の範疇を出ないが。 母さん本人ならいざ知らず、自分にその事を非難する資格があるとは思えない。 気付いてない振りをして、成り行きを見るしかなかった。 **** - AD2005 - **** 「葛城さん?」 「そっ、葛城ミサト、よろしくね♪」 背後で交わされる会話に、ちょっと涙ぐむ。 第2新東京市に来たのは、ちょっとした気紛れだった。 もしかしたら自分は、少し弱気になっているのかもしれない。 一方的にリツコさんに話しかけるミサトさんの姿を見ていたら、ちょっと元気が出てきた。 コーヒーの残りを飲み干して、席を立つ。 少し第2新東京市を散策してから、帰ろうと思う。 第2次遷都計画によって、第3新東京市と名付けられた街に。 **** こうして、碇ユイとしての1年目が過ぎた。 つづく