リフトアップされたカスパーの躯体を覗き込む。のたうち這いまわるパイプ類は相変わらずボイラー室か何かのようで、これが世界屈指のスーパーコンピュータの内部とはとても思えない。 月に2回行われるMAGIの定期検診。86回目となる今回は第1四半期の最終検診でもあるから、MAGIによる自己診断だけでなく各部部品の目視検査も行うのだ。 実際の作業は技術部の人間とMAGIのオペレーターが行っているが、監督として見守る必要があった。同様にバルタザールにはナオコさんがついてるし、メルキオールにはリツコさんがついている。この監督役はローテーションを組んでいて、今回私はカスパー担当だった。 携帯端末に表示させた進行表を睨んで、チェック項目を埋めていく。 【のるな!へこむ】って書いてあるパイプが目に入って、思わず苦笑。ところ狭しと貼り付けられたメモ用紙が、裏コードびっしりなのも相変わらず。 そう云えば。と探した視界の中に、【碇のバカヤロー!】との書き殴りがなかった。あれが誰によって書かれたものかは知らないが、今回それほどには恨まれてないのかもしれない。 …それとも、これから書かれるのだろうか? **** - AD2014 - **** 結局のところ、本人から要請されなくてもできるイジメ対策など、ありはしないのだろう。有効なケアなど思いつかないまま年を越して、久しい。 親という存在がこうも無力だとは、自分が子供だったときには思いもしなかった。もっと絶対的な存在だとばかり感じていたものなのに。 MAGIからの報告では、冬休み明けでも状況は変わってないらしい。シンジが打ち明けてくれないのは、やはり親として私が頼りないからだろうか…。 リビングでは、TVゲームに興じるシンジの背中にもたれて、レイが絵本を開いていた。 「…ひと よりも おお きなね この おな かに ね ころが つて ほ んをよ むほど」 「寝転がって本を読むほど、だよ」 「…ねころがって ほんをよむほど ここ ち よ いこと は あ りま せん」 …ここちよい? と呟くレイに、気持ちいいってことだよ。とシンジが答えてやっている。 兄妹で仲良く過ごしている2人の姿を見ていられなくなって、ダイニングを出た。かといって行く宛てがあるわけもなく、ランドリースペースへ逃げ込んだ。 洗面台の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。 タオルで拭いて、面を上げた。ここ数年、まともに見れなかった鏡の中の、己の姿。 …本物の母親なら、簡単に解決できるのだろうか? 恐れと期待で、虚像を見据える。 母さんに応えてもらいたい、という期待。 見殺しにした罪を詰られるかも、という恐れ。 … その罪を認めることは恐ろしいが、それがシンジのためになるのなら… 応えて、欲しい。 … …… …? 見据えつづけた鏡の中の姿に、違和感を覚えた。…いや、ちがう。違和感を覚えなさすぎた。そこにあるのは、皺ひとつない、顔。最後にまともに鏡を見た時と、寸分変わらない…姿。 思わず手をやって確かめる。張りのある頬は瑞々しく、とても40歳目前の肌とは思えなかった。 … この体…、歳をとってない? 気付いた事実に恐れをなして、鏡から離れる。すぐに戸棚にぶつかって、それ以上は下がれなかったが。 逃げ場などいくらでもあるのに、下手に逃げ出すと鏡の中身が残りそうで、恐い。視線を逸らすことすら許されないまま、否応なしに見せられる若いままの、母さんの姿。 … そう見えるだけだ。 …そう見えるだけだ。 …そう見えるだけだ。 己に言い聞かせようとする言葉が、虚しい。 葛城ミサトであったときには、きちんと年相応だった。目じりに寄り始めた小ジワなどを、それなりに気にしたものだ。 何故この身体は、年を重ねたように見えないのだろう。 … もしかして… この世界で目覚めた時のまま年齢を重ねてないその姿は、母さんの糾弾ではないのか? この体を奪い取ったことを忘れさせないための、呪いではないのか? この10年間。鏡の向こうから怨みごとを言い続けていたのではないか? … 膝から力が抜けて、へたりこむ。 視界から母さんの顔が消えて、安堵のあまり涙腺が緩んだ。 ついた溜息が長い。息をすることすら出来ないでいたのか。 … 「お母さん?」 居ないことに気付いたのだろう、探し回っているらしいシンジの声。 ダメだ。タオルを引っ掴んで目元を拭った。説明できない涙など、子供に見せてはならない。 … 「お母さん、どうしたの?」 「シンジ?」 いま気付いた。という風情を演じて、それらしい理由を嘯く。 「そこにゴキブリが居たの。お母さん、びっくりしちゃって」 えっどこ? と探す仕種。自然と私をかばう位置に来る。 「もう逃げたみたいだよ」 振り返ったシンジを、攫うように抱き寄せた。 「お母さん? 大丈夫、もうゴキブリいないよ」 じたばたと暴れるのは、驚きと気恥ずかしさからだろう。 ふと気配を感じて、横を見る。シンジの後を追って来たらしい、レイの姿。左腕を開くと、何も言わずにその中に納まってくれた。 … 恐る恐る見上げる、鏡。この角度では天井しか映らない。 だが、いまさら何を臆することがあるだろう。自分はいつだって、償いきれぬ罪を背負っているではないか。 …母さん。 母さんが僕のことをどう思っているか知らないけれど、僕は、僕に出来る方法でこの子たちを護るよ。 どんなに詰られようと、立ち止まったりしない。なにを敵に廻そうと、ためらいはしない。 腕の中のぬくもりを確かめるように、力を篭める。 胸の裡に湧き上がる愛おしさが、すべての答えだった。 **** 休日でも、ノートパソコンは立ち上げっぱなしにしている。 カレンダーに関わりなく働いている職員は数知れず、そうした職員が決裁待ちしていることも多い。大抵はゲンドウさんや冬月副司令が対応してくれるが、決裁を待つ書類はいつも山積みだった。 メールのやりとりや決裁など、ちょっとした合間にできる仕事も少なくないのだ。 ケーキの土台にするスポンジが焼きあがるまで、時間がある。パスワードを入れてサスペンドを解除した。 青葉さんからは、コンソールの改装を願い出る申請書。インターフォンを4つに増設したいらしい。そう云えば、耳には自信があると言っていたな。発令所の備品については私にも権限があるから、裁可する。 続いて初号機の正式な儀装の開始、インテリアの最終レイアウトなどの技術部E計画班、マヤさんからの報告。すでにリツコさんの裁可が入っている書類の、使徒対策室の欄に電子サイン。今年度中に初号機は、あの見慣れた姿になるだろう。 第3新東京市における迎撃システム構築の進捗度の報告は、日向さんから。驚いたことに、それを踏まえた各種テストの実施案まで提出されていた。日向さんらしい緻密で無駄のない提案だけど、それだけに迎撃システムだけでは勿体ない。司令部と連携をとって、第3新東京市とジオフロントの機能テストの一環として組み込むよう指示する。幸いゲンドウさんも副司令もまだ目を通してないようだから、青葉さんが閲覧できるよう手配するだけで良さそうだ。 最後に開いた稟議書を読んで、眉をしかめる。件名に、【 局地戦用D型装備、及び耐熱プラグスーツ開発の要 】と書いてあったからだ。起票者はもちろんリツコさん。 極限環境下に現れる使徒の可能性は示唆しておいたから、当然の備えとして提案したのだろう。それは解かるが、無駄な装備の製作は、やはり避けたかった。 許可のサインが並ぶ中、却下にチェックを入れて電子サイン。これだけ大掛かりで費用を要する案件だと、一人でも反対があれば即座にリジェクト扱いになる。なるべくひっそりと闇に葬りたかったので、敢えて理由は添えないでおいた。納得がいかなければ、リツコさんの方から訊きに来てくれるだろう。そのときに説得すればいい。 回議ラインに戻すべく、決裁ずみフォルダーに放り込んだ。 **** 本日のおやつは、ゴボウのショコラケーキである。例によってレシピは推測の産物だが。 レイの頬についたチョコクリームを、シンジが拭ってやっている。ごく自然な動作に、お兄ちゃんっぷりの年季が見て取れるだろう。 もし、自分にレイのような妹がいたとして、こんなにかいがいしく面倒を見られるだろうか? と考えて、即座に否定する。 シンジは、あらゆる意味で、かつての自分とは違う。優しくて毅く、よく気が付く。 先ほども、ごく自然と私を気にかけて、実にさりげなく私をかばった。 かつての自分と同じ可能性を持った存在だという感覚が消えて、久しい。 今もまた、憂いなど微塵もないような笑顔で、レイのコップにジュースのお代わりを注いでいる。 これが自分なら、イジメを苦にして悩み、とても妹の世話などに気が回らぬだろう。 それほどまでに違うのだ。と考えて…、思い至る。シンジの内面。 つい自分を基準にして、つらいだろう。などと思っていたが、これほどまでに違うシンジが、同じように感じていると考えるのは間違いだったのではないか? イジメというのは、心の問題だ。 イジメっ子を擁護するわけではないが、虐められる側の心の持ちようでその深刻さは違う。 自分と比較して、つらさを隠せるところにシンジの毅さがあると考えていた。 だが、つらさそのものにすら耐えられる精神力を、シンジは持っているのではないだろうか? なにせ、まだ小学生である。つらいことを隠しとおせるほどの演技力があるとは思えなかった。 ノートパソコンを引き寄せて、メーラーを開く。 ナオコさんに送るメールの文面は簡潔に、【シンジがイジメを苦にしてない可能性は?】とだけ打った。 つづく