「…それでは本日の講義はこれで終わります」 「ありがとうございました」 教壇代わりの演台に立つ日向さんに向かって、深々と一礼する。臨時の教室にしているのは、内装が整ったばかりのブリーフィングルーム。 日向さんは青葉さんと同期だが、本配属されたのは今年からだった。作戦部での採用なので、入所と同時に国連軍に出向していたのだ。現在、発令所に居る人員の中では唯一の従軍経験者ということで、将来のエヴァパイロットたる私の教官に就任してもらった。 「それにしても、ユイ室長は憶えが早いですね」 それはそうだろう。葛城ミサトでもあった私にとっては、どれも常識も同然なのだ。 だが、その知識をひけらかすわけにはいかない。碇ユイに従軍経験はないのだから。そのためにこうして、軍事知識を習ったという既成事実が必要だった。 「先生が良いからですわ」 「そんなことはありません。砂地が水を吸うように、というのはユイ室長のような方を云われるのでしょう」 日向さんは謙遜するが、たった2年の従軍経験を元に、教本や戦訓を体系だててまとめ上げるのは容易ではない。 なにより教える才能というものが存在することを、私は初めて実感したのだ。もし私に軍事知識がなくても、日向さんの指導だけで充分にそれを理解できただろう。 「おだてても、今日のおやつの割り当ては増えませんよ?」 休みの日には子供たちにおやつを手作りするから、その翌日はそのお裾分けなどをしたりする。 いや、そんなつもりは…。などと慌てる日向さんが、ちょっと可愛い。 それにしても、この才能を使わない手はないだろう。来年度からの入所者教育は日向さんに任せてみようか? …シンジの家庭教師とか、引き受けてくれないかな? **** 「つまり、そんな事実はないと?」 「はい」 ダメだ。この男は教師ではなくサラリーマンだ。己が生活を維持するために学校を職場に選んだだけで、人を育む立場にあるということを理解していない。事なかれ主義だから、何の調査もなくその場で断言などできるのだろう。 … 担任が宛てにならないとすると、もっと抜本的な対策が必要になる。このまま学校に長居していても時間の無駄だった。 ………… その兆候に気付いたのは、つい最近のことだ。 自分の部屋も勉強机もあるのに、シンジはダイニングのテーブルで宿題をする。幼い頃に、リビングで寝かしつけながら私がダイニングで仕事をしていたことの影響だろうか。 日曜など、母子そろってダイニングテーブルで作業していることも少なくなかった。 場合によっては、シンジに促されたレイも一緒にテーブルに着いて、お絵かきしたり絵本を読むこともある。迷惑そうな、それでいて嬉しそうな、複雑な表情のレイが可愛らしい。 ふと気付いたのは、シンジのペンケースが新しくなっていることだ。 それだけなら別に気にすることではない。前に使っていたキャラクター物のドアが幾つもあるような筆入れは6年生のシンジには似合わなくなりつつあるし、2年以上使っていて流石にくたびれてきていた。 問題は、先々週ぐらいにシンプルなデザインの缶ペンケースを買ったばかりだったことだ。どうやらレイに選んでもらったらしく、ずいぶん大事にしていたように見受けられた。 ところが、いま使っている布製のペンケースは垢抜けないイラストがプリントされた野暮ったい安物で、おざなりに選んだとしか思えない。 物をないがしろにするような子供ではなかっただけに、違和感を覚えたのだ。 「シンジ、筆入れ代えたの?」 「あっ…うん」 口篭もり、視線をそらした先にレイが居て、さらに逸らして。 「…落として、壊しちゃって」 僕ってドジだから…。と白々しく笑ったシンジが痛々しかった。 ………… 気付いたきっかけと、学校でのいきさつをかいつまんで話す。 ふーむ。と唸ったナオコさんが、脚を組んで思案顔。 身近な人間で、こういうことを相談できそうな人を他に思いつかなかったのだ。日本に帰ってきたばかりでお疲れだろうから心苦しいのだけど、母親業の先輩としてナオコさんなら力になってくれると思う。 「本人には確認してないのよね?」 「はい。話してくれないのは、話したくないか、話せないか、…いずれにせよ、親が先回りして問い質しては、本人の意思を踏みにじりかねませんから」 なんでもかんでも親に話すような、そんな年頃は卒業しつつある。話さないのは、シンジなりの思惑があるからだろう。 「案外、スパルタなのね。転んだら起き上がるのを待つタイプ?」 少し考えて、頷く。甘やかすばかりが愛ではない。 「…でも、やっぱり、何とかしてやりたいんです」 さもありなん。という風情で頷いたナオコさんが、ノートパソコンを手元に。 「まずは、事実関係を確認するべきね」 「どう、なさるのですか?」 かたかたとキーボードを鳴らして、ナオコさんがコマンドを打ち込み始めた。リツコさんと較べるとずいぶん遅いが、そのぶん一つひとつの動作に深みを感じさせる。 リツコさんが軽快なマリンバ奏者なら、ナオコさんは重厚なパイプオルガン奏者だろうか。 「今時、どこの学校も24時間警備で監視カメラが入っているわ。業者と繋ぐ回線のインフラは、もちろんMAGI監督下の第3新東京市の物」 つまり。と息をついて、ひときわ高い打鍵音。 「そこのホストから監視画像を戴いてくるのも、朝飯前」 「職権濫用では…?」 と言うか、犯罪行為だと思う。…それでも黙認しつつあるところが親の弱さと云うものか。 「第3新東京市の市政は、MAGIが執っているわ。教育委員会も然り。 すなわち、イジメ問題もMAGIが懸案すべき事項なのよ」 それは事実だ。市議会は形骸…、いや、成立過程を考えるとむしろ偽装に近い。 「たまたまシンジ君の事例がきっかけになるというだけで、けっして私用じゃないわ」 ナオコさんの言い分は正しい。なのに、なんだか、舌先三寸で丸め込まれているような気分になるのは何故だろう? それに。と、ナオコさんが脚を組み替えた。 「MAGIにとっても、いいケーススタディになるしね」 もしかして、それが本音ですか? ナオコさん。 さてさて。と、両の手のひらをこすり合わせたナオコさんが、舌なめずりしそうな笑顔でノートパソコンに向き直る。 「シンジ君を画像認識させて、ここ数ヶ月の監視画像を洗わせてみたわ」 こちらに向けてくれたディスプレイの、複数表示されたウィンドウの中に、物陰で複数の児童に囲まれたシンジの姿がいくつも。 … 一瞬、血液が逆流したかと思った。 自分が当事者だとしても、こうまで憤りを覚えたかどうか。こんな気持ちで初号機に乗ったら、暴走させること請け合いだ。 … 落ち着け、落ち着け。感情的になっても何も解決しない。 「こっちは、シンジ君の席の定点観測から」 そんなわけはないから、監視画像から選り抜いた結果だろう。 シンジが居ない隙を狙って、特定の児童が何人か悪戯してるようだ。ペンケースの件も、こういうことなのか。 そうした中に、幾人か見知った顔を見つけた。 …たしか、シンジの誕生日パーティに招いた友達の中に居たように思う。 そのときはそんな素振りは見受けられなかったから、この事態はそれ以後のことではないだろうか? かつて、自分が小学生の時には、こんなあからさまなイジメを受けた憶えはない。社交性がなかったから友達もなく、クラスメイトから半ば無視されていたくらいで。 この差異は、なにゆえだろう? 確かに家庭環境は異なるが、それが元で悪化する理由がよく判らない。 ちょっと待ってね。と引き戻したノートパソコンに、ナオコさんがコマンドを追加する。 「あらあら、バルタザールだけのつもりだったのに、メルキオールとカスパーまで関心を示したわ」 口元を隠し、くつくつと笑うナオコさんは実に愉しそうだ。 「中心になっている子供らの口元を解析して、何を言ってるか解読してみたわ。まあ読唇術ね」 見せて貰ったディスプレイの中に表示されたテクストは、意外に少ない。そもそも、有意に採取できたサンプルそのものが多くないのか。 … 発言を要約すると、シンジは嘘つきだと思われているようだ。 両親が世界を護るために働いていると、言ったか知られたかしたのだろう。一部の児童にホラ吹き扱いされていた。 … なんのことはない。ここでも諸悪の根源は、私ではないか。 保育所に預ける時、泣き縋るシンジを宥めるためにかけた言葉。情に流されて不用意に教えた事実が今、シンジを苦しめている。 思わず胸元で握りしめた左手が、むなしく空を掴んだ。 … 「下のウィンドウ、出してみて」 言われて表示させた画像は、線画の模式図。ぱっと見た印象は、徳利? 「クラスの勢力図。上がイジメっ子、真ん中がシンジ君。下が無関心層」 そこに。と身を乗り出してきたナオコさんが、コマンドを叩く。 「親の職業を加味すると、構図が見えてくるわ」 赤をネルフ関係者、青をそれ以外に指定して色付けされた模式図は、ほぼきれいに上下に塗り分けられた。 上が青く、下が赤い。もちろん、いくつかの例外は見受けられるが。 なるほど。徳利のような図式になるわけだ。今の第3新東京市にネルフと利害関係のない者など、そうは居ない。 「…スケープゴート」 まさか意図的に人身御供に出したわけではないだろうが、結果的にネルフの子弟を庇う矢面に立たされているのだ。 「これだけの証拠があれば、なんとでもなるわ。 …学校に、捻じ込んでみる?」 … 考えて…、かぶりを振った。 「証拠を突きつけて、イジメっ子を叱って。 それで一時は、なりを潜めるでしょう」 でも。と見上げる天井。 「先生や親を呼び込んだことを逆恨みされて、酷くなるかもしれません」 何を思いついたのか、ナオコさんがノートパソコンを引き戻してキーボードをたたき始めた。 「親ごと、叱ることもできるわよ?」 やはり、かぶりを振る。 「触らぬ神に祟りなし。で、今度は無視されるようになるでしょうね」 かたかたと打鍵音。タイミングとストロークから察するに、私の発言を書きとめているらしい。 「ネルフの存在を、公表してみる?」 考える、…までもないか。こんなことを理由にそんな真似は出来ないし、なにより… 「イジメっ子がイジメられる側になるだけで、根本的な解決ではありません」 すこし眉を寄せて、ナオコさんが脚を組み替えた。 「卒業まであと3ヶ月ほど…、このまま泣き寝入り?」 それも、かぶりを振る。 「親として、それだけはできません」 しかし…、 「何ができるかは、…判りませんが」 具体的な対策は何も思いつかなくて、俯く。 「不謹慎だとは思うけど、MAGIがこの件に興味を示しているの」 面を上げた私の前で、ナオコさんが頬杖をついていた。 「シンジ君の個別の問題としてではなくて、教育委員会の案件としてMAGIに対策を練らせてみるわ」 こちらを見つめる視線はとても優しくて、それだけで泣き出してしまいそうになる。 「貴女は、家庭内で出来るケアを考えなさい」 口を開くと、嗚咽しか出そうになかったので、ただただ、頭を下げた。 つづく