「ぅわああああああっ!」 素っ頓狂な悲鳴はシンジだろう。 「お母さんお母さんお母さんお母さん」 何事だろうかと出向くまでもなく、キッチンに駆け込んできた。自分で自分の手を握りしめるようにして、その中に何を奉っているのだろう。 「大変大変大変大変大変大変大変大変大!」 京都で買ったというタンクトップの、【平常心】というプリントが空々しい。なにが気に入って外国人観光客向けの土産物を買ってきたのか、自分の時の理由はすでに記憶の彼方へ。 「レイが、レイの、レイからっ!」 何が起きたかは判らないが、それが大したことではないだろうと見当がついた。レイのことになると、シンジは冷静で居られないのだ。 エプロンで手を拭きながら跪く。 「落ち着いて、シンジ」 これが落ち着いていられるかとばかりに足を踏み鳴らすシンジが、恐る恐る手を開いて見せた。 「…レイの、歯がぁ」 シンジの手のひらの上に、小さな白い塊。門歯のようだが、歯根がない。そうか、レイももうそんな年頃なのか。 「落ち着きなさい、シンジ。乳歯、子供の歯よ」 えっ。と呆けるシンジの向こうに、とことことレイ。 「シンジも去年、最後の子供の歯が抜けたばっかりだったでしょ」 「そういえば…」 首をひねるシンジの隣りに並ぶように、レイが立ち止まった。こちらはいたって平然としている。 「レイ。お口、いーってして見せて」 「…」 無言で唇を引き開けるレイの、上の歯列に一箇所、空洞があった。若干の出血が見受けられるが、それは問題あるまい。 「あーってして見せて」 可愛らしい歯が、小さな口の中で整列している。離乳時期を遅めに、うっかり口移しなどしないように気をつけておいたレイは、シンジと違って虫歯とは無縁だった。 覗き込むと、歯ぐきの奥に白いものが見える。永久歯に押されて、自然に抜け落ちたのだろう。 「大丈夫、問題ないわ」 横手から割り込むように覗きにきたシンジが、手にした乳歯とレイの口元を見比べている。その肩を軽く叩き、 「上の歯が抜けたら、どうしたら良かったかしら?」 「…うめる」 ぎゅっ。と乳歯を握りしめ、シンジがレイの手をとった。 「レイ。この歯、公園にうめに行こう」 …こくん。と頷いたレイを半ば引きずるような勢いで、シンジがキッチンを後にする。 「いってきまーす!」 おやおや。口をゆすがせようと思っていたのだが、止める暇もない。 「いってらっしゃい。気をつけてね」 はーい。との応えは、どうやら玄関あたりでなされたようだった。 **** - AD2013 - **** 左手首のスイッチを押すと、負圧がかかって生地が密着する。プラグスーツを着るのは、実に久しぶりだ。 姿見の中の、自分の顔を見ないようにして眺める。 素材や制御方法の違いから、プラグスーツの形状は記憶にあるどれとも異なっていた。 特に目を惹くのは、胸部を覆うプロテクターのようなパーツだろう。肩部、腹部にも独立したユニットが装着されていて、いささか武骨な印象を与える。 直接制御である初号機は、機体そのものから得られるテレメトリーデータより、パイロットの状態をモニターしたほうが簡便である場合が多い。もちろん、双方を組み合わせれば精度も上がる。そのために各種センサーが大量に、スーツ内に分散配置されているのだ。 それに、インタフェースヘッドセットがない。間接制御と違って、神経パルスをピックアップする必要がないからだ。かつては、スーツを着ないことはあってもヘッドセットを着けないことはなかったから、なんとなく心許なかった。 白を基調に、モノトーンでまとめられたプラグスーツ。リツコさんにお任せにしていたら、ほぼ真っ白にされてしまったのだ。着てしまえば拒絶感は少ないが、やはり少々落ち着かない。やはり色彩に関してはトラウマがある。今度作るときは中間色で染めてもらおうと思う。蘇比色とか木賊色などとリクエストしたら、リツコさんは怒るだろうか? まだ体温調節機能のスイッチを入れていないのに、肌寒さを感じない。 リツコさんは、中空糸の空洞部に耐熱緩衝溶液を改良した液体を封入することで、スーツの保温性と放熱性をバランスよく実現してしまった。液体を封入したことで体温調節機能の効率も上がり、そのぶん長保ちするらしい。さらには布地の表面を特殊加工して、LCLを流れ落ちやすくしたのだとか。水の表面張力を壊すことで気化を促進するお風呂タイルがあるが、その逆バージョンといえるだろう。なんでも、ハスの葉の表面構造を再現した布地が商品化されたばかりで、渡りに船だったらしい。水滴が育ちやすく気化しにくいから、LCLに濡れても寒くないだろうとのお墨付きだ。 手足の関節を曲げてみて、着心地とフィッティング度合いを確認する。伸縮率に難が出る。とリツコさんは言っていたが、カッティングと素材の組合せできちんと解消してあった。 よし。と、己自身に頷いてケィジへ向かう。それがどんなデザインであれ、プラグスーツを身に纏うと気が引き締まる。 ………… 一口に更衣室と呼んではいるが、パイロット専用のそれは、各種施設を組み合わせた巨大なクリーンルームだった。 エントリープラグに入ってLCLを呼吸することは、パイロットに多大な感染症のリスクを強いる。普通の生活をしていれば入ることなどありえないような病原菌類が、易々と肺にまで潜りこむからだ。 そうした危険性を少しでも減らすべく、エントリープラグに乗るまでに入念な手続きが用意されていた。 インターロックの2重扉とその間のエアシャワーをくぐって、まず入室するのが脱衣室。そこで衣服を全て脱ぎ、併設されたシャワーブースで身体を流す。緊急時にはまっさきに省略されるけれど。そのまま入り口の向い側の出口から、やはり2重扉を抜けエアシャワーを浴びつつ退出。 ほんの5メートルほどの通路は10cmほどの深さで消毒液に充たされ、歩いている途中にやはり消毒液のシャワーを浴びせられる。残り2メートルほどで消毒液を洗い流すための純水のシャワーに切り替わるが。 また2重扉を抜けエアシャワーを浴びながら着衣室に入ると、きぃん。と耳鳴り。病原菌などが入り込まないように、気圧を高めてあるのだ。かつて碇シンジであった時代には、耳抜きを教えてもらうまで悩まされた憶えがあった。 パスボックスの扉を開いて、ビニルパックされたプラグスーツを取り出す。2重のガラス戸越しに、向こうで作業している職員の姿が見えることもある。 プラグスーツを着て出口をくぐると、やはり5メートルほどの通路。ただし、ここで浴びせかけられるのは紫外線とLCLだ。 最後の扉を抜けて、ようやくエントリープラグへの搭乗口となる。 本来ならここには、天井クレーンに吊るされたインテリアが待ち構えているのだが、初号機のインテリアは急を要しないこともあって、まだ完成していない。 壁に設置されたパネルを操作して、床のハッチを開く。その下にエントリープラグがあるのだ。 プラグスーツと、挿入型エントリープラグを用いての初号機起動試験。 このところATフィールド展開実験ばかりだったから、初号機を動かしてやれるのは久しぶりだった。 **** リビングから、たどたどしい旋律が流れてくる。 5歳になったら何か習い事を、とレイに持ちかけて、ヴィオラを選んだのには驚いたものだったが。 よく解からないが、レイなりのこだわりが有ったらしい。ほとんど即答だったのだ。 おや、また途切れた。まあ始めて半年ほどでこれだけ弾けるのだから、大したものだと思う。 自習に付き合ってやっているシンジが、なにやらアドバイスしているらしい。そういえば、レイがヴィオラを習い始めて以来、シンジはチェロの練習がおろそかになっているような気がする。兄莫迦なのはよろしいが、それでは示しがつかないのではないだろうか? さてさて、あまり根を詰めるのも良くないだろうから、そろそろ休憩にさせないと。 珍しいからと蕎麦粉をいただいたのは良いのだが、蕎麦など打てないから少し持て余していた。レシピを取寄せてガレットでも焼こうかと思っていたけれど、ここは蕎麦掻きにでもしてみようか。甘味をつければ立派なおやつになるし、なにより、けっこう楽しいから自分たちで捏ねさせたら喜ぶかもしれない。たしか、とっておきの阿波和三盆があったはずだ。 **** 派手なお祝いは苦手だと知っていたから、ささやかにコーヒーゼリーなど作って持ってきた。 「え~っ!先輩、博士号をお取りになったんですかぁ」 居るだろうと思ったから、多めに作っておいて正解だ。 マヤさんは、第2東京大学を卒業して今年採用したばかり。サークルの後輩だそうで、在学中に面識はないはずなのにリツコさんを先輩と呼ぶのは、この世界でも同じらしい。 「ええ、通信制でね」 「仰っていただければ、盛大にお祝いさせていただいたのに~」 リツコさんに非難の眼差しを向けながら、身を捩っている。器用なことだ。 「よして頂戴、たいしたことじゃないわ」 「そんなことないですぅ」 そうですよね、ユイ博士。と、同意を求めてきた。 「ええ、とても真似できないわ」 本心からそう思う。ゲヒルンに入所し、エヴァの開発を手がけながら通信制で博士の学位を取得してしまうなど、とても余人の及ぶところではない。 「ユイ博士もこう仰ってるじゃないですか、今からでも遅くありません。ネルフを挙げて祝いましょう!」 …あっ、リツコさんがこめかみを押さえてる。 「伊吹さん。リツコさんはそうやって喧伝したくないのよ」 でもですね。と反駁しかけたマヤさんを、まあまあと身振りで黙らせ、 「そう云った奥ゆかしさもリツコさんの魅力だと、思わない?」 などと嘯いてみる。 「…そっ、そのとおりですぅ」 目を輝かせたマヤさんは、胸の前で指を組んでリツコさんに熱い視線を送り出した。頬まで紅潮させて、まるで恋する乙女だ。…いや、恋する乙女…なのか? 「…とにかく、ゲヒルン時代の採用条件に博士の学位が必須だったから、博士号なんてここじゃ珍しくないわ」 ちらり。とこちらを見たリツコさんに釣られて、マヤさんの視線もこちらに。 「碇司令はもちろん。副司令は京大の教授だったし、ユイさんも、母さんも…」 などと、指折り数えるものだから、あわてて遮った。 「私の学位、数に入れちゃダメです」 …何故ですか? とマヤさんが小首をかしげて。 「…私、論文博士なんですよ」 普通、博士の学位は大学院の博士課程を修了した上で得るものだが、国によっては論文の提出だけでも博士号を認める場合がある。それを区別するために論文博士などと呼ぶ。国内ならともかく、国際的には何の権威もないのだ。 大学卒業と同時に結婚し、子供を産み育てた母さんの選択を非難するわけではない。だが他のメンバー、特に働きながら通信制で修了してしまったリツコさんなどと同列に扱われるのは、どうにも気恥ずかしかった。 いや、そもそもその学位ですら、自分が取得したわけではないのだから。 「…ですから、親しい人は誰も私のことを博士とは呼びません」 嫌がるんですもの。と、リツコさんが肩をすくめて見せる。 「え…と、では何てお呼びしたらいいんでしょう?」 「ユイと呼んでくれると嬉しいわ」 「はい。では私もマヤって呼んでください」 嬉しそうに姿勢を正して破顔するさまは、まるでぴょんと跳ねるウサギのようだ。 「じゃあ、お近づきのしるしに、今日の夕食は我が家で如何でしょう? もちろん、リツコさんもご招待するつもりですけど?」 指と指を軽くかみ合わせて合掌。にっこりと笑って提案する。 「先輩と一緒に♪ ぜひお伺いします」 全身これ喜びの塊りと化したようなマヤさんの隣で、リツコさんの表情はさえない。 私は…。と口篭もったのは、断る口実を探しているのだろう。ナオコさんとゲンドウさんの関係を知って以来、リツコさんが我が家に足を踏み入れることはなくなっていた。 「シンジも会いたがっているわ。大好きなリツコお姉ちゃんに」 「…大きく、なったんでしょうね」 なんだか、遠い目をしている。あの2週間ほどの逗留は、リツコさんにとってもいい思い出のようだ。 「来年には中学生になるのよ」 本当に、子供が大きくなるのは早い。リツコさんが入所したときには小学校に上がったばかりだったというのに。 「あんまり不義理していると、嫌われますね…」 なんだか諦めたような風情で、リツコさんが溜息をついた。 「お言葉に甘えて今晩、お伺いします」 よかった。 この3年あまり、我が家への招待は断られ続けだったからダメモトだったのだけど、マヤさんと一緒ということが精神的な負担を軽くしたのかもしれない。 これが、良いきっかけになると嬉しいのだが。 今晩はとっておきの焼酎を出そう。貰い物の【山ねこ】があったはずだ。 つづく