「あのね。リツコお姉ちゃんの車、おもしろいんだよ」 「…」 あんな高さから落ちたにしては、私の負傷は大したことがなかったようだ。しばらくは松葉杖が手放せないにしても、僥倖だったと云う他はない。葛城ミサトであった時代に身に染みこんだ体捌きが、運動に慣れてないこの体をして軽傷なさしめたのだろう。これで葛城ミサトだった時の半分も鍛えてあれば、無傷で済んだかもしれない。…いや、そもそも落ちたりしないか。 意識も戻った今、さほど長く入院する必要はないだろう。 だが、それでもと、リツコさんが子供たちを連れてきてくれたのだ。 「前のところがぜ~んぶドアになってて、ハンドルとかもそっちについてるんだ」 「…」 よほど面白かったらしい。シンジの身振りが大仰だ。 そういえばリツコさんは、ドイツ出向中に使っていたイセッタが気に入って、持って帰ってきたと言っていた。あの可愛らしいフォルムと独特な構造は、子供にとって見ればそれは面白いだろう。 「…」 レイは、というと。ぴたりと寄り添うようにベッドの上に座り込み、私の顔を見上げている。なんだか非難めいて見えるのは、私が負い目を感じているからだろうか。 開きっぱなしにしているドアの代わりに壁をノックして、リツコさんが病室の戸口から顔を出した。 「シンジ君、レイちゃん。今日は此処に泊まる?」 「いいの!? リツコお姉ちゃん」 ええ。と頷いたリツコさんが、ベッドサイドまで歩いてくる。手にしてるのは、職員食堂のメニューだろう。もうじき夕ご飯、という頃合なのだ。 基本的に、設備の整った野戦病院に過ぎないネルフの医療部には、足りないものがたくさんある。給食施設はその一例だった。…あったとしても、まだ稼動してないだろうけれど。 「一応病院だから、大人しくするって、お約束出来るならね」 「うん!する。約束する!ありがとうリツコお姉ちゃん!!」 さっそく大騒ぎしているシンジを苦笑で見下ろして、リツコさんの嘆息が複雑そうだ。子供の前だからそんな素振りは見せないけれど、幾ばくかのわだかまりを抱えてるように見受けられる。医療部にはまだ勤務医が居なかったから主治医を引き受けてくれたらしいが、そうでなければ距離をおきたかったことだろう。 「…ありがとう」 「どういたしまして」 見上げるレイに笑顔で返して、リツコさんが手にしたメニューを広げた。 「あんまり大した物はないけれど、食べたい物があるかしら」 わざわざベッドを廻りこんでリツコさんの傍まで駆け寄って行ったシンジが、引っ付くようにしてメニューを覗き込む。レイは…、関心が無いように見えるが、シンジに任せておけば間違いないと思っているのだろう。 「ご飯が済んだら、お風呂に行きましょうね。出来たばっかりの此処のお風呂、広いのよ」 「ホント!?」 ええ、泳げるぐらいよ。と微笑むリツコさんの、その瞬間だけ笑顔に曇りがなかった。 **** - AD2011 - **** 【 使徒対策室 】と書かれたプレートを貼り付け、扉から少し離れて眺める。 どうやら傾いてないようだ。出来栄えに満足して、一人頷く。 E計画部門責任者の座をリツコさんに譲り渡して私が立ち上げたのが、この使徒対策室だった。 裏死海文書を解析して、現れうる使徒の能力を推測、攻略法の検討を主業務とする部署だ。もちろん使徒戦を経験している私にとってそれらの能力など自明のことだから、実業務はないに等しい。 それに、補完計画の立案時に検証されているように、すでに来るべき使徒の数と大まかな属性は解析済みで名前まで与えられているのだ。 だから、この人事はネルフ内部で一定の権限を保持するための方便。口実だった。使徒を迎撃するための組織であるネルフで、使徒対策に関わらない業務というのはあまりない。どこの部署にも口出しできる。監査部のような位置付けと云えるだろう。 場所もケィジと発令所の中間ぐらいを確保し、本日の発足となったわけだ。 「恐れ入りますが…」 てっきり通り過ぎるものと思っていた人影が、おそるおそるといった感じに声をかけてきた。 高めの背丈と、正面で分けてサイドにたらした髪型。まだそれほど伸ばしてはないから違和感があるが、青葉さんだ。 そういえば、本年度の採用者リストに名前があったか。 「碇ユイ博士ですか?」 はい、そうですが。と応えると、青葉さんが居住まいを正した。 「本日付で司令部に配属になりました。青葉シゲル三尉であります」 「そうはどうもご丁寧にありがとうございます。それにしても、こんなところまで挨拶回りですか?」 「いえ、冬月副司令に、実質上の上司は碇博士だと伺いましたので」 なるほど。現状ではトップ二人の仕事は政治向きのものがほとんどで、司令部としての仕事は多くない。たとえあっても、トップダウンのこの組織では単なる使い走りになってしまう。 それに、ネルフそのものを統括する司令部と、ネルフの任務のほとんどに関わる使徒対策室はその業務分掌において重なる点が多い。 今ネルフの内政を勉強するなら、私の下に居た方が確かに良いだろう。 その分こちらに仕事を廻して楽をしよう。というのが副司令の本音かもしれないけれど。 「判りました。それでは初仕事を差し上げますから、発令所に向かいましょう」 「はい。お願いします」 … … … コンパスが随分と違うのだろう。こちらの歩幅にペースを合わせるのが難しいらしく、青葉さんの歩き方がぎこちない。 顔に似合わず、女性の扱いは不得手かもしれない。などと加持さんと較べてみたりする。 … …比較対象が悪いか。 「それにしても、本当にここは迷路みたいですね」 「ええ。ネルフはテロの対象になりえますからね」 なるほどなぁ。と唸った青葉さんを尻目に、エレベーターのボタンを押す。 テロ対策は嘘ではないが、実際の仮想敵は戦略自衛隊である。前回のようにATフィールドが間に合うとは限らないからだ。 「青葉君。携帯端末は持っていて?」 エレベーターに乗り込み、歩みが止まった時点でそう切り出す。 はい。と頷くのを確認して、自分の携帯端末を取り出した。 「IDを貰えるかしら」 「はい」 青葉さんが自らの携帯端末を操作すると、受信したIDコードを元にMAGIから青葉さんの情報が送られてくる。いくつかの権限事項をチェックして返信した。 「ジオフロント内要人追跡システムの利用権限と、ナビゲーションのレベルを上げました」 「ありがとうございます」 本部棟の内部構造は、セキュリティ対策もかねて公開されていない。用心を重ねて初期設計とも異なるし、数年ごとに改装を行って内情を掴みにくいように努めている。かつてミサトさんが惑った迷路は、いまや迷宮といっていい。その本部棟の現状をきっちり把握しているのは、MAGIを除いてはトップから5人までと云ったところだ。 当然、各人に提供されている棟内ナビゲーションもその職責によって制限を受けている。三尉である青葉さんは最低限のレベルで設定されていたのだが、それでは司令部は勤まらないだろう。 エレベーターを降りて、廊下に沿って2回道を折れると発令所だ。テロ対策の一環で、まっすぐに歩ける廊下など本部棟にはない。 IDカードを取り出すことなく、発令所の扉をくぐる。 MAGIが完成したことで、ナオコさんはMAGIフロアと研究室を往復することが多くなった。その都度受けねばならないセキュリティチェックを面倒くさがって、対人監視システムと連動させた自動認証システムを組み上げてしまったのだ。 技術者というものは、手間を減らすために労力を費やす人種だというのは、リツコさんを見ていて知っていたけれど…認識が甘かったらしい。作った本人はMAGIコピーのセットアップのために、間もなく日本を後にするというのに。 「一人で入るときは、きちんとセキュリティを通してくださいね」 当然ながら、対象者は限られるのだ。 トップ・ダイアスも収納され、本稼動もまだの発令所に人影はない。かすかに聞こえてくる話し声は、MAGIフロアか副発令所だろう。 見ていて恥ずかしくなるのは、コンソールの奥に設置された転落防止用の安全柵。私は過失で転落したことになっているので、対策として増設されたのだ。もうあんなことはありえないと何度も言ったのに、ゲンドウさんは取り合ってくれなかった。 「こちらが、あなたのコンソールになります」 指し示したコンソールは新品で、ビニールカバーがかけられたままになっている。 注がれた青葉さんの視線は熱く、新しい玩具を買い与えられた子供のようだ。 「あなたの初仕事はこのコンソールの立ち上げ、そして習熟です」 MAGIのサポートを受ければコンソールの立ち上げなど数分とかからない作業だが、それでは意味がない。 いざMAGIが使えないという時に、何もできなくなるからだ。 「操作マニュアルは書庫にあります。なにか質問はありますか?」 「コンソールの習熟ということは、つまり発令所の機能を掌握せよ。ということで宜しいでしょうか?」 「話が早くて助かるわ」 ゆくゆくは本部棟はおろか、ジオフロントや第3新東京市の機能まで把握してもらうことになるが。 **** 「「「おばあちゃん、なんておおきなウデをしてるの?」」」 「それは、お前をより強く抱きしめられるようにさ」 台詞を言い終えた園児たちが舞台の袖に下がると、2番目の組が前に出てくる。 「「「おばあちゃん、なんておおきなアシをしてるの?」」」 「それは、お前の元により早く駆けつけられるようにさ」 保育所の生活発表会。 「「「おばあちゃん、なんておおきなミミをしてるの?」」」 「それは、お前の声がよりしっかり聞こえるようにさ」 レイのクラスの出し物は童話劇だった。 「「「おばあちゃん、なんておおきなメをしてるの?」」」 「それは、お前の姿がよりよく見えるようにさ」 赤い頭巾を被った女の子たちが全員、もたもたと舞台の前に整列する。 「「「「「「「「「「「「おばあちゃん、なんておおきなハをしてるの?」」」」」」」」」」」」 「それは、お前を食べるためさ!」 … てんでばらばらに逃げ惑う赤頭巾ちゃんを12人、狼がたいらげるには時間がかかった。 ネルフの職員数は人工進化研究所の比ではない。運営母体の移管に伴って、園児も倍増しているのだ。 ただでさえ少子化の進んでいた日本を襲ったセカンドインパクトは、その加速度に拍車をかけた。 復興が進み始めた2004年から2009年にかけて幾分か回復したそうだが、減少傾向に歯止めはかからず、昨年度の合計特殊出生率はついに1を割り込んだのだとか。 複数の子供を産み育ててゆけるだけの経済的基盤を確立できない家庭が多いのだという。 必然的に一人っ子が多くなり、すべてを一人の子供に託した親は、こうした行事で吾が子が脇役になることを嫌うのだ。 前世紀からそういった傾向はあったらしいが、気持ちは解からないでもない。 舞台には15人のハンターが登場して、保育士の先生扮する狼を蜂の巣にしたところだった。銃身に【ますい】と書いてあるけれど、致死量を越えていると思う。 「…レイ、楽しそうだね」 「シンジも、解かる?」 うん、口のこのへんが。と自分の口の端を指して、 「2ミリも上がっているもの」 舞台の下手側奥に、ぽつねんと打ち抜きの木が立っている。 くり抜かれた穴から顔を出したレイは、両手を枝に見立てて微動だにしない。なかなかに誇らしげな枝ぶりだった。 お腹を裂かれた狼から、12人の赤頭巾が数珠つなぎになって出てくる。そろそろフィナーレだろう。 結局のところ、レイは舞台に出ずっぱりで、たくさん居るために印象の薄い赤頭巾たちよりよほど目立っていた。…というのは親の欲目だろうか。 「お父さんも、来れるとよかったのにね」 「…そうね」 まあ無理だろう。ネルフの総司令官にそんな時間はない。 それに、威厳を出すためにと生やし始めた髭を見て、園児がひきつけでも起こしたらコトだし。 …あらゆる意味で … レイが嫌がるのでビデオ撮影はできないから、せめて写真に収めるべくデジタルカメラを構えた。 つづく2007.06.04 PUBLISHED2007.06.08 REVISED