「アイスコーヒーですけど、いかがですか?」 私の椅子を勧めておいて、冷蔵庫へ向かう。 「…貰おう」 ボトルを取り出して、コーヒーをグラスに注いだ。 「珍しいですね。ゲンドウさんが私の執務室にお見えになるなんて」 ターミナルドグマに程近いこの執務室は、ジオフロント地上施設内の所長室から遠い。 「たまには現場を見ないとな」 ネルフの設立準備が進められている今、ゲンドウさんには政治的な仕事が多いのだろう。家に帰って来れない日が増えてきていた。 どうぞ。とグラスを差し出して、私は予備のパイプ椅子に座ることにする。 一息にコーヒーを飲み干したゲンドウさんが、グラスを置いた。 … 怪訝げな、視線を向けてきて。 「…訊かないのか?」 「なにをです?」 ちょっと居心地悪げに身じろぎしたゲンドウさんが、メガネを押し直した。 「お代わりが、要るかどうかを…だ」 「あら。ご不要とお見受けいたしましたけれど?」 「…なぜ、判る?」 すっと手を伸ばして、グラスを取り上げる。 「グラスの位置ですわ。飲み足りない時は、もっとご自分寄りに置かれますもの」 ゲンドウさんの正面。私との中間位置にグラスを置いて見せた。 「…そうか」 無くて七癖。 実は、シンジにも同じ癖がある。食べたくなかったり食べ飽きたりすると、器ごと遠ざけるのだ。それがゲンドウさん譲りであることに気付いたのは、つい最近なのだが。 では何故、私にその癖がないのか? と思い返してみると、子供の頃には有ったようなのだ。どうやら先生のところに居たときに、矯正されたらしい。 「…お訊きしたほうが、宜しかったですか?」 小首を傾げて訊ねたら、顔を逸らしたゲンドウさんが意味もなくメガネを押しなおした。 「…いや、問題ない」 なにか、思考を反芻するかのように、ゲンドウさんの視線が遠い。…不機嫌ではなさそうだけど。 空いたばかりのそのグラスを手元に引き寄せ、半分ほどコーヒーを注ぎ足す。怪訝げなゲンドウさんの視線をやさしく無視して、一口。喉を湿らせる。 「それで、ご用件は?」 「うむ」 グラスの動きに連動していたゲンドウさんの視線が、所長の鋭さをもって据えられた。 「ゼーレが、オートパイロットの開発を命令してきた」 「エヴァの、無人化ですか?」 そうだ。と頷くゲンドウさん。メガネが光を反射して、その表情が読めない。 「儀式に、パイロットの意識など邪魔なだけだからな」 … そういえば私は、オートパイロットの開発事由など深くは考えなかった。いわんや、その要求元のことなど。 儀式。そのための白いエヴァ。そのためのオートパイロットだったのか。 だが少なくとも前回、水槽の中から9人もの綾波が消えた事実はない。つまり、あの白いエヴァを動かしていたのは、別の何かだったわけだ。 それが、本部で完成したダミープラグと同じ物なのかどうか、あるいはその成果を利用したものかどうかまでは判らない。ゼーレが独自に開発した可能性は否定できないが、だからといって手助けしてやる理由はないだろう。 「…儀式を行うつもりはないが、それで君が使徒と戦わずに済むのなら、やってみる価値はある」 窺うような視線は、私の口元に注がれていて…? 無意識にゲンドウさんのポーズを真似していたようだ。あわてて指を解く。 「ゼーレと敵対した時。それと戦うのは私ですよ」 「そうか…、そうだな」 納得したらしいゲンドウさんが、私と入れ替わるようにいつものポーズに。 「では、この件はナシだ。偽装データであしらう。任せていいか?」 「はい。承りました」 返答を確認して、ゲンドウさんが立ち上がった。 「ゼーレには了解の旨、伝えておこう…」 退出すべくドアへと向かったゲンドウさんを、見送るべく付き従う。 そうだ。とスイッチにかけられた手が、ふと止まり。 「日重主体で進んでいた例の巨大ロボット計画が、白紙撤回されたそうだ」 初号機のデモンストレーションが効いたのだろうか。まずは一安心。 「…予算の受け皿はどうです?」 「推進派の議員が発言権を失って、国会の勢力図が書き換わったからな。 これまでの経緯とあいまって、人権擁護派が勢いづいているらしい。 このままだと、難民の支援や孤児の育成などに使われる公算が高いだろう」 …よかった。 思っていたより良い方向へ向かいそうだ。苦労してデモンストレーションを開催した甲斐があった。 ぐすっ。…安堵と喜びで、涙腺が緩む。 目前の背中は、この研究所で一番多忙な人のものだ。 だから、余計なことで煩わせてはいけない。 なのに、ゲンドウさんを見送り終わるまで、耐えることができなかった。 **** シンジを保育所での学童保育に預けるようになって、まっさきに考えたのが引越だった。 第壱小学校から保育所までが遠すぎるのだ。 そこで、なるべく保育所に近い物件を探すことにした。 そうすれば、集団下校を利用して家までは帰れるし、そこから保育所までもいくらかは安心できる。学校からは遠くなるが、シンジも賛成してくれた。兄莫迦もここまでくれば、いっそ天晴れだろう。 … そうして探した物件の中にコンフォート17の名を見出した私は、数拍の逡巡の後、そこに決めた。 **** 初号機の後頭部を見上げるキャットウォーク。 リツコさんは、この場所が好きだという。特に、私と一緒の時は。 空調の関係で寒いはずのターミナルドグマは今、初号機の周囲だけ暖かい。 リツコさんが帰ってきたのは、昨日のことだ。 1ヶ月前に間接制御実験を成功させ、出向予定を大幅に繰り上げての帰国だった。 考えてみれば、オートパイロットの開発命令は、間接制御実験の成功を見越してあのタイミングだったのかもしれない。 「…ドイツは如何でしたか?」 「日本への対抗意識が強くて、苦労しました」 こともなげな口調だけど、リツコさんは随分とやつれたように見える。染める暇もないほど忙しかったのだろう、頭髪が途中まで黒かった。 私のせいで要らぬ苦労をかけたかと思うと申し訳ないが、その溌剌とした様子を見るに、なにか得るところがあったのだろう。 「そんな状況にも関わらず短期間で結果を出す。その秘訣を教えてくださいません?」 期待に応えようと必死でしたから…。と前置きして、リツコさんは未だ黄色いままの初号機を見上げた。 「最初の一ヶ月間は、人間関係の把握に努めました」 何気なく初号機に歩み寄って、そのうなじに手を這わしている。 「碌な情報も貰えず、言いなりに研究させられているスタッフには情報を与え、」 少し気温が上がったのは、初号機がそれを心地よいと感じたからだろう。 「権勢欲ばかりで実力の伴わない責任者には研究成果を渡して、手柄を上げさせ…」 リツコさんが愛しげに目を細めた。初号機が猫にでも見えているのではないだろうか。 「結果、生じた溝に入り込んだんです」 「…お見事ですね」 その手腕に、舌を巻いた。組織を内部分裂させる離間策の応用だろう。 それにしても、人間関係に長けてるとは云いがたいリツコさんが、最初からそんな姦計を弄するとは。 くるり。と振り向いたリツコさんが、ぺろり。と舌を見せる。こんな仕種をするような人ではなかったはずだから、先程より驚いた。 「実は、私の手柄ではないんです」 私の表情をどう読み解いたのか、リツコさんは悪戯のネタばらしをする悪童のような顔で。 「向こうに知り合いが居まして、全て彼の入れ知恵なんですよ」 彼ということは、ミサトさんではないわけか。いや、そもそも時期が合わない。 「お知り合い…ですか?」 「ええ、学生時代の友人がドイツに留学していたんです」 他にリツコさんの知り合いといえば加持さんくらいしか思いつかないが… 「葛城ミサトを憶えていらっしゃいますよね?」 ええ。と頷く。 「彼女がドイツに来てから大変だったんです。その二人は付き合ってた時期があったものですから…」 すると、やはり加持さんなのか。 かつて、自分が葛城ミサトだった時代。この時期の加持さんの行方は知らなかった。いったい、どのような違いが加持さんの存在を炙り出したのだろう? … それにしても、ドイツでの3人の様子を話すリツコさんに屈託がない。 学生時代のメンバーが揃ったことが、リツコさんを支えたのかもしれなかった。 つづく