お湯につけたレイの身体を、やさしくガーゼで拭う。 もちろん、例の【身体洗いの唄】を口ずさむのは忘れずに。ランドリースペースで待ち構えているシンジが、たどたどしく唱和するのが可愛いらしい。 ベビーバスに張ったお湯を色付けるのは、沐浴剤代わりの煎茶の出涸らしだった。お手軽で、適度な殺菌力があって、お肌に優しいのだ。 レイの涅色の瞳は、私の口元を見詰めているのだろう。なんだか、随分と真剣そうだった。 … 「はい。よろしくね、シンジ」 「うん」 タオルを広げて待っていたシンジに、レイを手渡す。そのまま身体を拭いてやりながらタオルで捲いた。 レイを抱えたシンジが、危なげなくランドリースペースを後にする。抱きかたも堂に入ったものだ。 … お湯を捨てたベビーバスを、重曹で磨く。 こうしてゆっくりと後始末を行えるのも、シンジのおかげだ。 乳児は肌が弱いので、衣服との摩擦ですら肌荒れの原因になりうる。だから、湯浴み後のオイルマッサージは大切だった。それも、湯冷めしないよう手早く行わなければならない。 その都度ドタバタしていた私のせわしなさを見かねてか、シンジが手伝うと言い出したのだ。 と云うわけで、1週間ほど前からレイのオイルマッサージを担当して貰っている。 兄莫迦の限りを尽くすシンジに、湯浴み担当ごと取って代わられるのも、時間の問題かもしれないけれど。 **** エントリープラグとは名ばかりの単なる筒の中で、充たされたLCLに浮かぶ。 直接制御とはすなわちエヴァと一心同体になる操作方法だから、インダクションレバーもスクリーンも必要ない。 だからこそ、この短期間でデモンストレーションの準備が整ったのだ。 リフトに持ち上げられる上昇感は、初号機が感じている風の肌触りも込みで。 若干離れた場所に設えられた観覧席で湧いたどよめきを、その聴覚が捕えた。混ざり合ったうねりとして捉えず、個々の音声を個別に認識するものだから、かしましいことこの上ない。 人間よりはるかに高性能で鋭敏な感覚器官から送り込まれる情報は洪水のようで、毎回のごとく酔う。 使いこなせれば、集音器代わりに使えて便利かもしれないけれど。 さて、まずは運動性能の披露だ。 英国紳士のような気取った会釈をして見せて、軽く走り出した。 **** ジオフロントにはまだアンビリカルケーブルが敷設されてないし、内部電源の容量も少ない。ゲインモードもまだ試験搭載に過ぎないので、午前の部のデモンストレーションは僅かに1分間だ。 さらには機体の排熱機構もテスト段階なので、熱を持った初号機を冷ましてやる必要がある。いったんケィジに下がって、その間に私も休憩しよう。 ある意味、精神汚染されきってしまったと云っても過言ではない直接制御は、それ以上の精神汚染の心配やハーモニクスなどの諸問題とは無縁だった。 その代わり、身体感覚の違う肉体を直に操ることは実に神経を使う。 例えばその質量。エヴァは人間の20倍以上の身長だから、その質量は単純計算で8000倍にもおよぶ。一方、筋力の指標となる筋肉の断面積は400倍でしかない。 その体格に見合う以上の筋力があるから重いと感じるわけではないが、かかる慣性が桁違いなので筋肉の使い方が人間とは異なるのだ。 案外、参号機や量産機が前傾姿勢なのは、そういったことと無縁ではないかもしれない。…そちらの方が効率的だったとしても、真似したいとは思わないけれど。 …ぷかぷかとLCLに浮いたまま、待った。 実験段階だから、エントリープラグは固定されている。自動的にプラグごと搬出など、望むべくもない。 LCLの圧力が減ったので、ゆっくりと振り仰いだ。仄暗いプラグの中、見上げる先に二十六夜月のような外光。 重い水密ハッチが開かれる瞬間の、この光景は嫌いではない。 バイタルモニターに取り付けられたコード類に引きずられ、水面へと顔を出す。待ち構えていたスタッフたちが、上半身が出るまで引っ張ってくれる。 手際よくうつ伏せにされたところで、キャットウォークの床面に肺の中のLCLをぶちまけた。一緒になってぽとんと落ちたのは、外れたマウスピースだ。 それが終わるのを見計らって、スタッフたちが体を引きずり出してくれる。初号機を動かしたあと、しばらくは自分の体をうまく扱えなかった。電力を消費して動けなくなった初号機の感覚を、肉体が麻痺として受け止めているのだろう。 「お疲れ様でした」 床にへたり込んでいたら、なにやら羽織らせてくれた気配。声からするとリツコさんだが、顔を上げるのも、返事をするのも、今は難しい。 「肩をお貸ししましょうか?」 視界の端に、跪いたらしいリツコさんの膝。 初号機を直接制御下に置くようなプロセスを経て、ようやく自分の体の感覚がよみがえる。慣れてきて、これでも随分早くなったのだ。 もう大丈夫です。と言った、自分の声がかすれた。 キャットウォークは、初号機の延髄に接するように張り出している。8畳間ほどのスペースに長椅子を持ち込んだのは、接触実験の直後だったか。 引き摺るように身体を運んで、だらしなく長椅子に寝そべる。体は動かせるようになったが、疲れきっていることに変わりはない。 「本当に大変なんですね」 「…制御方法の確立していない弐号機も、似たような状況にあると思われます。 小指一本動かすのにも、全身全霊を篭めてると報告がありましたから」 ささやくような声に、リツコさんが耳を寄せてきた。 「それを何とかするのが、私の仕事ですね」 「…期待しています」 LCLが冷えて、肌寒い。初号機を冷却する必要があって、ケィジそのものも冷房が効いているのだ。 更衣室に戻らなくては。と思いつつ、全身を襲う倦怠感に負けて、まぶたを閉じる。 ちょっと失礼します。との言葉は、ちゃんとリツコさんに届いただろうか。 **** 目を覚ますと、周囲が随分と暖かい。 体を起こしたら、大判のタオルがはらりと落ちた。リツコさんが掛けてくれたらしい。 気配を感じたのだろう。初号機を見上げていたリツコさんがこちらを向いた。 「…先ほどから、周囲の気温が上昇したのですけれど?」 「ええ、初号機がじゃれ付いてるんです」 「初号機が、ですか?」 はい。と頷く。 非常に未熟ながら自我を持った初号機は、その肉体を動かすことを好む。赤子が、己の体を動かすことそのものを娯楽とするように。 だが、弐号機と違ってOSとして意識の統合を図っていない初号機は、己の意志では満足に体を動かせない。私が乗り込んで操ることで初めて、その能力を発揮できるのだ。 1分間も運動した後だというのに、私がその傍らを離れないものだから、また乗ってもらえるかもしれないと期待しているのだろう。散歩の時間を待ちわびる仔犬のように。 「ATフィールドを伸ばして、早く乗って欲しいと催促してるのでしょう」 では、この温もりは。とリツコさんが初号機を見上げた。 「ATフィールドの、いえ、初号機の心のぬくもりです」 資料にあるから、初号機に自我があることは知っていようが。 … 「…猫を。お飼いになったこと、おありですか?」 初号機を見上げたままの、リツコさんの目元が優しい。 「いいえ」 「祖母のところに預けてきたのですけど、うちの仔。自分の持ち物にマーキングするんです。こう、頭を擦り付けて…」 右手の握りこぶしを、左の掌にこすりつけて。その所作を見守る視線は、己が手を通して何を見ているのだろう。 「タンスや柱とかにする時と違って、好きな人にする時だけ喉を鳴らすんです。ごろごろと、」 一歩。踏み出したリツコさんが、初号機の首元に触れた。 「…その時感じていたような気持ちに、なりました」 **** できれば、この場でATフィールドを公開したかった。 使徒に対抗できるのはエヴァだけだと証明するのに、これ以上の存在はないのだから。 だが、使徒と同じ能力を持つことが知られれば、その出所を探られることになるだろう。それでエヴァが使徒のコピーだと露見すれば、全てはゲヒルンの自作自演と見做される恐れがあった。 今の段階で、それは拙い。 権限もあり非公開組織であるネルフならば、やりようもあるのだろうけど。 それに、ATフィールドではデモンストレーションにならない可能性もある。 現にJAの披露会のとき、責任者はATフィールドを問題視していなかった。それを、無知ゆえの暴言と切り捨てるのは容易い。荒唐無稽すぎて過小評価しているのでは? と当時は思ったが、JAの影にゼーレの思惑がちらつく以上、楽観視は危険だ。 それに、あの責任者は、時間の問題だとも言っていた。どうするつもりかは想像もつかないが、あの無謀な設計も、ATフィールドの搭載を前提としているならありうる選択だろう。 もっとも、初号機の完成度や技術力の格差だけでJAを開発中止にできるとは思っていない。このデモンストレーションの真意は、ゼーレ内部の互いに対する牽制を激化させることにある。 だから、このデモンストレーションの主役は、観覧席でそれとなく立ち回るゲンドウさんと冬月副司令だった。 午後の部のデモンストレーションでは、まずエヴァの作業能力をお披露目する。派手に動き回ることはないから、ケィジからケーブルを延ばして対応することにした。 手にしたH鋼は、長さ12メートルの鉄の柱だ。断面がHの字型をした鋼材は重量にして2トンを超えるが、初号機にとっては重いものではない。 それを、あらかじめ掘ってあった穴に差し込んで、立てる。 5メートルほど離れた場所にも、もう一本。 続いて手にしたのは、5メートル×2メートルの鉄板だ。プラスティックでコーティングしてあるが、厚さは5センチほど。 横向きに立てたそれを、2本の柱の間に差し入れていく。H字型の、溝を利用して。 あと3枚。同じようにして積み重ねた。 まるで乗馬競技用の障害物だな。と冬月副司令が評していたか。 作業を終え、観覧席に向かって一礼する。 さて、これからが本番。 履帯をきしらせて会場に現れたのは、国連軍の74式戦車だ。3輌が横一列になって進んでくる。 若干距離をおいて、停車した。 向かって右端の車輌の、砲塔から姿を見せているのは部隊長さんだろうか? 会場に向けて敬礼している。 続けてこちらにも敬礼してきたので、初号機で敬礼を返した。 しゃがみこみ、左の手のひら全体を使って、後ろから鉄板をささえる。 準備OK。と手を振った途端に、74式の105mm砲が火を噴く。 殺到した徹甲弾が、鉄板の表面ではじけた。 …様に見えただろう。実際にはじいたのはATフィールドだ。 エヴァに採用が予定されている特殊装甲素材の試作品だと、観客には説明されている。 もちろん本当は、プラスチックでコーティングしただけの単なる鉄板だ。 ATフィールドを披露できない代わりの苦肉の策が、このインチキ芝居だった。これを真に受けてエヴァに対抗しようとすれば、装甲の厚さがとんでもないことになるだろう。 砲撃が終わったのを見て取って、柱の間から鉄板を抜き取る。 もっとも着弾が集中した、上から2枚目の鉄板を持って、観覧席に向かった。 傷ひとつない表面を、観客に見せつける。機密だと嘯いて、手の届かない距離から。 驚嘆の表情で見上げる観客の中に、JAの完成披露会で見た顔があった。 **** 抱き渡されたレイの手足が暖かい。 どうやら、おねむの時間のようだ。このまましばらく抱いて寝かしつけ、それからベビーベッドに運ぶとしよう。 オリエンテーションの間、リツコさんには我が家に逗留してもらっていた。 初号機のデモンストレーションを控えていたので、所内でそれだけにかかりきりになっている暇がなかったのだ。 少しでもレクチャーを進めておきたい。そのための処置だった…のだが。 「リツコおねぇちゃん。あしたからドイツにいってしまうの?」 「ええ、そうよ」 「ええ~!おねがい、リツコおねぇちゃん。ずっとここにいて~」 シンジが、すっかりリツコさんに懐いてしまったのだ。 まあ、リツコさんが実は面倒見のいい性格であることは知っていたから、子供に好かれるだろうことは予想の範疇だったけれど。 頭の中にMAGIを飼っているリツコさんは、レクチャー内容を整理。予習復習をしながら、シンジがねだるままにゲームの相手や絵本を読んでやったりする。これは余人には真似のできない芸当だ。 子供にしてみれば、自分のわがままを全部聞いてくれる相手なわけで、得難い遊び相手だっただろう。 初対面の時に、染められた金髪に怖気づいていたことが嘘のような懐きようだった。 今もそのスカートにしがみついて、シンジが懇願し続けている。 「リツコお姉ちゃんが困ってるでしょう。わがまま言わないの」 「い~だ。おかあちゃんのいじわるぅ」 きら~い。とシンジが、リツコさんの影に隠れた。 親離れが一気に進んで、それはそれで歓ばしいことではあるけれど。 … リツコさんと目があって、お互いに苦笑した。 つづく2007.05.18 PUBLISHED2007.05.21 REVISED