「適格者の調査選抜…機関ですか?」 「ああ、ゼーレに提唱しようと思う」 タオルケットを引き寄せながら、上半身を起こした。 人類補完計画は、阻止する約束だったはずだが。 「…どういう、おつもりです?」 常夜灯の薄明かりの下では、ゲンドウさんの表情は読み取れない。 「今から話す。まずは落ち着け」 言われて、サイドテーブルの水差しから水を一杯。 俺も一口貰おう。と起き上がったゲンドウさんに、飲み残しを渡した。 「…ぬるいな」 「そのほうが、体にいいんです」 こっちの顔色を窺うような視線を、ふいっと逸らす。 ふっ。と苦笑する気配。最近、ゲンドウさんにゆとりが見られるようになった。それはとても良いことだと思う。 「ゼーレが世界中に作ったダミー企業、ペーパーカンパニーはあまりにも膨大で、その全容が掴めない」 返されたグラスを、サイドテーブルに戻す。 「そこで、適格者の調査選抜という大義名分を与えてやる」 「大義名分ですか?」 「ああ、ややこしい口実をその都度一々でっち上げなくても、国連から堂々と金を引き出せるようなヤツをな」 それは解かるが。 「その為に、ゼーレは手持ちのダミー企業をこぞってその機関に登録するだろう」 なるほど。 「…ゼーレの資金源とルートを、炙り出すんですね」 「そうだ」 まあ、一部だろうがな。と、押し直そうとしたメガネが目元にないことに、ゲンドウさんが気付く。 「ゼーレが、乗るでしょうか?」 「ゼーレの資産は莫大だが、これまでそれを表立っては使えなかった。 この案は、マネーロンダリングにもうってつけだからな」 なるほど。とサイドテーブルから取ったメガネを、ゲンドウさんに。 「こちらの要求として、日本国内のダミー企業の収益と、実質的な適格者選抜の権利を要求しておく」 つるを開いて、メガネをかけて。 「金は有るにこしたことはないが、まあ目眩ましだ」 確かに、欲得ずくだと思われたほうが却って疑念を持たれないだろう。 「適格者選抜の権利を押さえておけば、弐号機パイロットのような事例を防止、牽制できる」 味方につけたとき、この人ほど頼りになる人は居ないかもしれない。 「…その機関の名は?」 やつらの流儀に合わせるまでもあるまいからな。と、にやり。「マルドゥック機関と名づける」 あまり聞きたくない名称だったせいか、肩口に粟が立つ。 四季がなくなったとはいえ、暦の上では冬の、夜気が肌に冷たかった。 **** 「熱も退いたし、ポツポツさんも減ったし、もう大丈夫そうね。焼きリンゴさん、食べる?」 「うん」 冬月副司令のお見舞いに紅玉が入っていたので、焼いてみたのだけど…。よかった。食欲が出てきたようで。 「はい、あ~んして」「あ~ん♪」 ………… 子供というものは、きちんと早めに寝かしつけておけば早起きなものだ。 シンジも、6時になるかならないかの頃合からベッドの中でごそごそし始める。目覚まし代わりにちょうど良かった。 ところが、その日の朝。珍しいことに我が家の目覚し時計が仕事をしたのだ。 アラームを止め、怪訝に思ってシンジを探す。寝相が悪いので、下手をすると足元で逆さまになっていたりするからだ。 薄闇の中で目を凝らすと、あにはからんや私の隣りできちんと寝ている。ただ、その呼吸が荒い。 首筋に手を差し込み、延髄で熱を測る。少々熱が出ているようだ。 呼吸音に喘鳴がないから、喘息などの呼吸器系の疾患ではないと思う。 掛け布団を捲ってみると、小さな腕にポツポツと発疹が見られた。 「…何事だ」 「あら、ゲンドウさん。起こしてしまいましたか?」 「問題ない。それで?」 シンジの掛け布団をかけなおす。 「シンジが病気のようです」 「なんだとっ」 跳ね起きたゲンドウさんが、まじまじとシンジの様子を観察する。 「いかん。すぐ病院に搬送だ」 今にも飛び出さんばかりのゲンドウさんの腕を掴み、引き寄せた。 「落ち着いてください。まだ6時ですよ」 「たたき起こせば済むことだ」 こうして一緒に起居するようになって驚いたのは、ゲンドウさんが意外に子煩悩、というか親莫迦だということだ。ミニトマトの一件以来、特に距離が縮まっているように見受けられる。 その不器用さを受け止めてくれる者が居るなら、この人なりに他者を愛せる。と言うことなのだろう。 その事を一目で見抜いたらしい母さんの、人を見る目には恐れ入るばかりだ。 「ですから、落ち着いてください。大した病状ではなさそうですよ」 「そっ、そうか?」 ええ。と頷いて。 「発疹がありますから水疱瘡だと思います。ゲンドウさんは?」 「ああ、小学生の時にやっている」 「それなら大丈夫ですね」 あれ? 母さんの記憶によると、シンジは2歳の時に水疱瘡に罹っている筈だけど…? 「今日は在宅勤務に切り替えて、私が病院に連れて行きます」 「そうか…、後は頼む」 「はい」 **** 病院で診察してもらったところ、シンジの病気は手足口病というらしい。 その名のとおり、手足や口腔内に水疱性の発疹が出る病気で、5歳までの幼児に多いそうだ。 調べてみるとコクサッキーA16などがひきおこす急性ウィルス性感染症で、去年、今年とマレーシアやシンガポール、カリマンタン島などで猛威を振るったらしい。 コクサッキーウイルスと云えば夏風邪の原因の一つくらいとしか認識していなかったので、幼児相手にこんな症状を起こさせるとは意外だった。 大した病気ではないが、口内にできた発疹が痛いらしくて、食欲が減退しているのが可哀想でしょうがない。もっとも本人は案外けろりとしていて、私が傍に居ることを歓んでいたようだが。 結局、3日間ほど在宅勤務にして付き添った。 つづく