『同58分15秒。
… 初号機のATフィールドにより、目標甲および乙の拘束に成功』
おしくらまんじゅうのようにひしめき合った使徒の姿が映し出される。
スライドが切り替わった。
別アングル。
使徒を手前に見て、初号機と弐号機の姿。
後退する青い零号機の様子も写っている。要塞使徒戦で被害がなかったため、戦闘就役改修が間に合ったのだ。
『午前11時03分。
… 零号機(改)、弐号機による目標ATフィールドの中和。
… 零号機(改)によるN2爆雷の投入。点火』
ブリーフィングルームは今、薄暗い映写室になっていた。
『 … 構成物質の28%を焼却に成功』
スクリーンに映し出される数々のスライド。分裂使徒戦の過程だ。
要塞使徒の残骸が片付かない今、第3新東京市での迎撃は難しい。
そのために、こうしてこちらから出向いて邀撃戦を仕掛けたわけだが、おかげでN2爆雷で足止めなどという無法きわまりない戦法を取ることが出来た。
『同05分。
… 初号機・弐号機の攻撃によりパターン青消滅、使徒殲滅を確認』
室内灯がともされる。
3人のチルドレンが、思い思いの席に腰掛けていた。自分以外で大人は日向さんのみ。
作戦そのものは成功したため、ブリーフィングの参加者は最低限だ。
本来なら今から論功行賞を行うべきだが、パイロットが子供なだけに無神経な真似はできない。
「それでは現時点をもって作戦行動を終了。解散」
真っ先に退出しようとするアスカに手招き、これからが本番だ。
その意図を察したらしい日向さんが、彼と綾波を急きたてている。
何を言われるか、見当がついているのだろう。アスカの表情が硬い。
席を勧め、前の席の椅子を回して自分も座る。
「お小言なら聞かないわよ」
腕を組んでそっぽを向いた。
「どうして?」
「聞く必要はないわ。ワタシは間違ってない!」
左手の人差し指が、いらだたしく右の二ノ腕を叩いている。
「正しいなら、なぜ堂々としてないの?」
「ワタシは堂々としてるわよ」
足を組んだ。そういう意味じゃないよ、アスカ。
「なら、私の顔を見て話して」
「ミサトの顔なんか見る価値ないわ」
酷い言いようである。本人が聞いたら烈火の如く怒るに違いない。
「じゃあそのままで聞いて」
「聞く必要はないって言ってるでしょ!」
バンッと左手で机を叩く。
睨みつけられると、かつてを思い出してちょっと…辛い。
「ようやくこっちを向いてくれたわね。でも……」
「何よ!」
「そんな顔してたら、せっかくの美貌が台無しよ?」
虚を突かれた様子のアスカは、なにやら色々と葛藤した挙句、さらにまなじりを吊り上げた。
「おもねれば思い通りにできるなんて思わないことね。
ワタシをみくびるんじゃないわよ!」
さんざん文句をつけながらも立ち去らないのは、アスカも解かってはいるからだ。
ただ、完璧さを求めるあまり、失敗を認められない。
高すぎる理想が強迫観念となって、自分の限界を見極められない。
エヴァに全てをかける一途さが疑心暗鬼を生んで、他人を受け入れられない。
アスカの身上調書を見て解かったのは、親に認めてもらいたい子供の心だった。
親の目にとまるように、誰よりも前に出ようとする子供の努力だった。
親に振り向いて欲しいがためだけに声をふりしぼる、子供の懸命さだった。
アスカは純粋なのだ。
だから、哀しい。
誉めて欲しい母親は、もう居ないのだから。
だめだ、強がるアスカが痛ましくて、見ていられない。
でも、逃げちゃダメだ。
ここで逃げたら、なんにもならない。
口篭もった自分をどう思ったのか、アスカがまたそっぽを向く。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
何か言わなきゃ。アスカに何か言ってやらねば。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
でも、かける言葉が見つからない。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
見つかるはずがなかった。上っ面の言葉など、アスカの心に届くはずがない。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
アスカの心に届く。そんな言葉があるなら、ドイツ時代に何とか出来ていただろうに。
いや、違う。いまここでアスカに言ってやれる言葉が見つからないのは、ドイツ時代にできることをやらなかった報いだった。
たった一度の失敗を引き摺って恐れ、貴重な機会を荏染と放過していたのだ。
…
自分ではアスカを救えない。 …その事実に、
失敗を恐れて踏み出せなかった。 …その臆病さに、
それらのことを今更になって自覚した。 …その愚かさに、
逃げたい。逃げたい。今すぐ逃げだしたい。 …その弱さに、
…打ちのめされる。
…
こみあがる涙を隠すために立ち上がり、ことさらゆっくりと出口へ。涙がこぼれないように。
「ちょっと!どこ行くのよ!」
「どこだっていいでしょ」
逃げ出す理由。逃げ出す理由。アスカから逃げ出すための理由。
「プロ意識のない人に何を言っても無駄だわ。
引き留めてごめんなさい」
駆け出す。
なんでこんな言葉ならすんなり出てくるんだ。逃げ口上ばかり上手くて……、やっぱり自分は……!
聞き捨てなんないわよ。と追いかけてくる足音。
来るな。来るな。来るなアスカ。
全力でないと引き離せない。涙を拭くことも隠すこともできずにひたすら走る。
土地鑑のないアスカを撒くために、何度も通路を折れた。
自分に与えられた執務室に駆け込んで、殴り付けるようにロック。
扉に背中を預けて、ずるずるとくずおれた。
自分はぜんぜん毅くなっていない。弱いままだ。
やり直す機会を得たとき、すべてに向かい合うと、逃げないと誓ったのに。
世界を滅ぼした罪を、少しでも償うのだと。
優しくない世界を、少しでも優しくするのだと。
涙が溢れ出した。嗚咽が止まらなかった。自戒が止めどなかった。
扉が叩かれる。呼び鈴が鳴らされる。怒号が浴びせかけられる。
いやだ。いやだ。いやだ。
弱い自分が嫌だ。優しくできない自分が嫌だ。諦めかけてる自分が嫌だ。逃げ出した自分が嫌だ。
自分はダメだ。
弱くてダメだ。優しくないからダメだ。諦めてしまうからダメだ。逃げ出してしまったからダメだ。
償えないよ。救えないよ。優しくなんてできないよ。
助けてよ。誰か助けてよ。誰か自分に手を差し伸べてよ。
ひとりでは、一人では、独りでは、出来ないよ。
誰も彼もじゃなくていい。
ただ一人。この胸の中に眠る彼女の言葉があればいい。その毅さが少しでもにじみ出てくれればいい。
自分に、彼女の代役は勤まらないよ。
一所懸命に演じてきたけれど、やはり自分には無理なんだ。
自分は、ここに居てもいいの?
……
左手が痛い。
いつのまにか握りしめていた掌の中には、銀色のロザリオがあるのだろう。見るまでもなく。
それは、自分が背負うべくして彼女から受け継いだ十字架。
……
そう……
そうだよな。
この自分を差し置いて、ほかの誰がこんな事をしなければならないというのだ。
嘆いたところで、いまさら引き返せない。
逃げ出そうにも、逃げ帰る場所すらない。
たとえ請われても、誰にも押し付けられない。
嫌だからといって、放り出す勇気すらない。
……自分って、最低だ。
……
すすりあげた。
涙は止まりつつある。薄情だから、悲しみすらも持続しない。
「……泣くのは、反則よ」
「えっ! アっアスカ?」
気付くと、仰向けに倒れていた。ロックしたはずの扉が開いている。
なぜ自分は、アスカに膝枕されているのだろう?
「ドアによりかかってんじゃないわよ。頭うつとこだったわよ」
倒れかかった自分をとっさに支え、そのまま膝を貸してくれたのか。
「いい大人が、子供の前であられもなく泣かないでよ。恥ずかしい」
自分は一体どれほどの間、アスカの膝枕で泣いていたのだろう?
「ちゃんと隠れて泣いてたわよぅ……」
上半身を起こし、アスカに向き直る。
「はいはい悪かったわよ、むりやり開けたりして。
でも、だからって気付きもせずにヒトの膝であんなに泣く?」
「だって……」
「だってじゃないわよ!
言いたいことがあれば言えばいいじゃない! なんで泣いて逃げるのよ。人聞きの悪い」
「……言わせてくれなかったくせに……」
なぜかハンカチが見つからないので、ぐしぐしとジャケットの袖で頬を拭った。
メイクが崩れただろうが、いまさら気にしても始まるまい。
「ワタシは聞かないって言っただけで、言うなとは言ってないわ」
「詭弁よぉ」
「事実よ。認めなさい」
「アスカ…ちゃんがいじめっ子だってことは、認めるわ」
「聞き捨てならないわね」
アスカが片膝立ちになる。
「事実よ。認めなさい」
自分も片膝立ちに。
「言いたいことも言えないような泣き虫に言われたくないわ」
アスカが腰を浮かす。
「言うわよ。言ってやるわよ。
なんで私の命令を無視して、突出したのよ」
自分も腰を浮かした。
「エースのワタシが前に出なくて、どうするのよ」
アスカが立ち上がる。
「切り札がほいほい前でてどうするのよ」
自分も立ち上がった。
「戦力の逐次投入なんてナンセンスよ」
ぐっと身を乗り出すアスカ。
「任務は威力偵察だって、言ったでしょ」
自分も身を乗り出す。
「決戦兵器に偵察なんかさせんじゃないわよ」
額を押しつけあう。
「UN海軍じゃ無視されるんだから、仕方ないじゃない」
真っ向から視線がぶつかる。
「威力偵察なら、技量に勝るワタシがワントップで足留め役が最適でしょうが」
「ATフィールドに長けたシンジ君が、防御力の点で適任だと判断したのよ。
何のための具申権、何のための抗命権なの?
言ってくれればいいじゃない。進言すればいいじゃない。訊けばいいじゃない。
なんでいきなり命令無視、独断専行なの。アスカにとって相談する値打もないからよ。
それが悔しい……」
違う。悔しいのは自分に対してだ。
機会はあったのに、アスカとの信頼関係を構築しておけなかった自分への憤りだった。
だめだ。興奮して、また涙が。
「泣くのは反則よ」
アスカが視線を逸らす。
「……その、悪かったわよ。確かに相談すべきだった」
す……っと、体が離れた。
「太平洋でもミサトはワタシに訊いてくれたのに、解かってなかったわ」
……
「反省してる?」
所在なげな右手が左腕を掴んで、握り締めている。
「……してるわ」
「そう……」
嘆息。ようやく体から、力が抜けた。
仕事は山積みだが、今日はもうそんな気力はない。
こんな時、彼女ならどうするか。
……
日向さんには悪いが、サボらせてもらおう。
「それなら今日1日、私に付き合ってもらうわよ」
「へっ? なんでそうなるのよ」
「これから仕事なんて気分に、なれるわけないでしょう。
責任とって、とことん付き合ってもらうからね」
アスカの手を強引に引き、むやみに長い廊下を歩き出す。
「勝手に決めんじゃないわよ」
言葉とは裏腹に、抵抗はなかった。
****
「ああ、これね? セカンドインパクトの時、ちょっとね」
ふうん。と、そらされる視線。
アスカに少し場所を譲ってもらって、自分もお湯につかる。
こんなこともあろうかと、バスルームは広めだ。湯船も、詰めればもう1人くらいなんとか。
「知ってるんでしょ、ワタシのことも……みんな」
「身上調書で、押し付けられた情報ならね」
傷痕を指でなぞる。
「でも、紙に書けるような表面的なことで、人は理解できないわ」
反応をうかがうような視線。
入浴剤で色づいたお湯の中、逡巡する肌色。
そのアスカの右手をとって、胸の傷痕に、そっと押し当てる。
「父親を殺した使徒に復讐したかった。セカンドインパクトに奪われたものを取り戻したかった」
これは嘘。「葛城ミサト」としての理由。
「私は、エヴァのパイロットになりたかった」
これは本当。伊達や酔狂で適格性検査を受けたりはしない。
「十年……以上、前になるかしら。使徒を斃せる兵器が開発中だって聞いたの」
虚実、ない交ぜに。
開発中なのは知っていた。いや、幼い頃の記憶を掘り起こし、リツコさんの言葉を思い起こして考えれば判ることだ。
実際の情報は、葛城教授の知り合いから手に入れることができたが。
「そのパイロットになりたくて、なりかたが判らなくて、とにかく1番になりたがったわ。
選考基準がなんであれ、人類で1番なら選ばれないわけないと思って」
嘘、……ではない。
だが、そんな努力が意味をなさないことはなんとなく解かっていた。エヴァはそんな代物ではないのだから。
努力と根性だけで何とかなる。そんな優しい世界じゃない。
ただ、一縷の望みと、彼女の占めていた位置を掴むために頑張った。
「色々頑張ってね。なりふり構わないで突っ走ったわ。
誰も彼も私を蹴落とそうとする敵に見えた……」
アスカの指が、やさしく傷痕を撫でてくれる。
「……加持さんに聞いたことあるわ。
初めて見たとき、男だと思ったって」
それは、まだ女であることを受け入れきれてなかったからだろう……
「……本当になりふり構わなかったから。
でもね、どんなに努力しても、たとえ一番でもエヴァのパイロットにはなれないことが判ったの」
?、いぶかしがる気配。
「エヴァを操るには、特殊な因子を生まれつき持っていることが必要だった」
これは正確ではない。
正しくは、近親者をエヴァに取り込ませること。なのだろうから。
クラスメイトが全て候補生であることは彼女に聞かされていたから、赴任後すぐにコード707の資料に目を通しておいた。
気になるのは、誰も母親が居ないことだ。
それに符合するように、初号機に消えた母さん、弐号機に蝕まれたアスカの母親。
そこから導かれる推論だった。
もちろん、そのことを今すぐアスカに教える気はない。
だが、エヴァとパイロットの関係を示唆するには、これで充分のはずだ。
その証拠に、傷痕に爪をたてられた。
「そのために努力していたのに、全てを棄てて、そのために」
胸が痛い。肉体も、精神も。
「目標がなくなって自暴自棄になったわ。
何もする気がおきなくて、碌に食事も摂らずに一週間も部屋に閉じこもった」
これもちょっと違う。
加持さんと出会ったことで突きつけられた問題に打ちのめされて、すべてを諦めて自暴自棄になったのだ。
「……それで?」
血を流させるほど傷つけていたことに気付いて、驚いてアスカが手を引っ込めた。
構わないのに。
平気で嘘八百をならべる自分への罰には、到底およばない。
「パイロットになれないなら、せめて手助けできるようになりたいと思って」
アスカの手が、再び傷痕によせられる。
「それで、作戦部長に?」
「ええ」
これはすり替えだ。
今更その時期に志したわけじゃない。やはり「葛城ミサト」としての理由。
本当は、様子を見に来てくれたリツコさんの、5月病か燃え尽き症候群あたりと勘違いしての一言だった。
「貴女が何でそんなに我武者羅なのか知らないけど、女を棄ててるわね。女であることを無視したって能力は伸びないのよ」と……
彼女に申し訳なかった。
彼女の体を奪い取っておきながら、気遣うこともなく、ないがしろにしていたのだ。
だから、まず女であることを自覚しようとした。
リツコさんに教わりながら女らしさを磨いた。彼女のような素敵な女性であろうと努めた。
いつ、この体を返すことになっても問題がないように。との思いも込めて。
それは新鮮な出来事の連続で、おかげで自分は少し救われたような気がする。
そのためか今では、女を演じることに苦痛はない。
身も心もなりきるまでには、至ってないが。
「……だから、解かるような気がするのよ。
一つのことだけに打ち込むことの脆さが、全てをなげうつことの危うさが」
「……解かったようなクチ、きかないでよ」
血を洗い流し、改めて傷口をなぞってくれる。やさしく、いたわるように。
「アスカ…ちゃんのことを解かっているわけではないことは、判っているの。
ただ、そういう経験をしたことのある人間の話として聞いてくれれば、嬉しい」
アスカの手を掴む。
「いつまでも使徒が来続けるとは限らないわ。
アスカ…ちゃんも、いつかエヴァを降りるときが来る。
自分のために、自分の力で自分の人生を歩む時が来る」
空いた手でアスカの後頭部を抱いて、胸元に引き寄せた。
「私じゃ物足りないでしょうけど、いつも貴女を見ているわ。
だから真剣に考えてね。自分の将来のこと」
預けられてくる体の重さが心地よい。
……
「1日中引き廻して、ようやく聞かせてくれた話が、それ?」
両手で押しのけるようにして、体を引き離された。
「武道場でみっちり格闘訓練。
モンスターみたいに巨大なチョコパフェ。
ショッピング。
ゲームセンターでプリクラとクレーンゲーム。
ネイルサロン。
自宅に引きずり込んで、ご馳走責め。
4人でパーティーゲーム。
お風呂にまで押しかけてきて、さんざん人の体を磨き立てて、
のぼせそうになるほど湯船に引き留めておいて聞かせたのが、それだけ?」
指折り数えて、顔をしかめている。
「あら? 今晩は同じお布団で眠るんですもの。まだ時間はたっぷりあるわ」
「……勘弁してよ」
疲れたような苦笑が、屈託のない笑顔に変わるのに時間はかからなかった。
こんな笑顔は、見たことなかったな。
つづく