逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
ちらりと横目に見る視線の先に、【相田ケンスケ】と書き込まれたプレート。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
ノックすべく持ち上げた右手に紙袋。見舞いの品を提げていたことすら失念している。
落ち着け。
ギプスの先から覗いている左手の指先に取っ手をかけてみると、ちょっと痛い。
思案した挙句、とりあえず傍らの壁の手すりの上に置くことにした。
深呼吸。
あらためて持ち上げる右手。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
……
こんこん。ついつい控えめになったノックの音は、室内から聞こえてきた爆笑の声にかき消される。
爆笑?
なんだか室内は、ずいぶんと盛り上がっているようだ。
無意味そうなのでノックは諦めてドアを開けると、室内はケンスケ独演会の会場になっていた。
「あ~れ~、シンジさまぁ! お戯れはお止しになって~」
おどけた感じで熱演しているのは、どうもダミープラグ支配下の初号機に蹂躙される場面らしい。
ベッドの上のケンスケが、よよよ。と泣き崩れて見せる。
「ちっ違うんだ。あれはエヴァが……」
彼の頭を優しく突ついたのはアスカだ。
「……じゃなくて、……かっ体が勝手に……」
反論するさまが必死そうなのは、つらいからではなくて、恥ずかしいから……みたいなのだが……?
「体が勝手に!? 本能なのね。このケダモノっ」
胸元をかばって後退るケンスケの演技に、爆笑がまた。
口の端を少し持ち上げて微笑していた綾波が、こちらに気付いて近づいてくる。
「…レイちゃん。何事なの?」
「…鈴原君と洞木さんに事情を説明するために、相田君が始めました」
なるほど、ベッドサイドのこちら側にトウジと洞木さん。向こう側に我が家の子供たちがいたのはそのためか。
…私の出番は終わり。呟く綾波の雰囲気も優しい。
「つまり、エヴァンゲリオンがわやになってもぅたんで、こないなった。っちゅーこっちゃな」
「……相田君、大変だったのね」
「いやいや、俺はちょ~っと痛いのを我慢すれば良かったんだから、たいしたことないさ」
いつもどおり、実に屈託なく笑うケンスケ。
いや、むしろ普段よりテンションが高いように見受けられるのが、ケンスケなりの恐さの表現であったのかもしれない。
「むしろキツいのはシンジの方さ」
「そんなことないよ! ケンスケの痛みに較べたら僕なんて」
「い~や! シンジの方がつらいね」
身を乗り出したケンスケが、人差し指を彼の鼻先に突きつける。
「ケンスケのほうだよ!」
「そうか?」
身を引いて、腕組み。
「そうだよ!」
にやりと笑ったケンスケが、メガネを押しなおした。
「じゃあ、たいしたことないんだから、もう気にしないよな。シンジ」
「ええっ!?」
なるほど、そうきたか。
「一本取られたわね、シンジ。
やるじゃない、ケンスケ。見直したわ」
人差し指で彼の頭を突ついたアスカが、ケンスケに向かってサムズアップ。
「いやいや、それほどでもあるよ」
「す~ぐ調子にのりくさってからに」
トウジのツッコミに。また、爆笑。
釈然としない様子ながらも、彼も一緒に笑って、笑って……いる。
……
「…葛城三佐」
綾波が差し出してくれたハンカチを受け取った。
受け取ったけれど、まだ涙は拭かない。少しでも長く、この光景を……
「あ~もう! せっかく和やかにやってんのに、湿っぽくすんじゃないわよ」
だって! だって、だって!
盛大に溜息をついたアスカが、視線をベッドの向い側に。
「トウジ、ヒカリ。面会時間終わりでしょ。ゲートまで送るわ」
「もう、そないな時間かいな」
「ホント、お暇しなくちゃ」
それじゃ、また。などと言葉を交わして、子供たちが病室を後にする。
挨拶なんかいいから、泣き虫は放っときなさい。とアスカがみんなを追い立てた。誕生パーティの夜から、アスカはぐっと優しくなったように思う。
「自分は、志願するつもりでしたから」
こっちが落ち着くのを狙いすましたように、ケンスケの一言。
憑き物でも落ちたかのような、爽やかな笑顔で。
かつて電話口で言われたことを思えば、こんな結果でもケンスケにとっては悪いことではなかったのかもしれない。
それからしばらく、今後のことでケンスケと話し合った。それとなくカウンセリングも織り交ぜて。
戦力になれなかったことを残念がっている節はあるが、無理している様子はなかった。
主治医からも太鼓判を押されていたが、確かにこれなら大丈夫だろう。
****
「葛城作戦部長」
お見舞いからの帰り道、呼び止めたのはケンスケの主治医だった。
ケンスケの経過報告をまとめたデータディスクを渡される。
まだ周知徹底がなされてないようだが、自分は作戦課長に任命されていた。
降格、というわけではない。
アメリカ第二支部消滅、エヴァ参号機の移管に伴い、多くの人員が本部へと異動になった。
人数が増えれば役職を増やさなければならないのが組織というもので、そのために行われた組織再編の結果なのだ。
作戦部の下に作戦課が設けられたり、特殊監査部も特殊監察部に名称変更されたりした。
作戦部長職は名目だけで着任者が居ないので、自分の職責に変わりはないのだ。
ただ、リツコさんが技術部長のままであることを考えると、深淵使徒戦で初号機をないがしろにし、憑依使徒戦後に反抗した自分への、父さんからの意趣返しかもしれないけれど。
****
受け取ったばかりの経過報告を執務室で確認しようとしたら、リツコさんからのメールが届いていた。
内容はケンスケの左脚についてだ。
クローン技術で複製した脚を移植するのがベストだろう。とのことだが、予算がないという。
人手や備品の持ち出しはある程度可能だが、新規購入が必要な装置・薬品に充てる費用の宛てがないらしい。
……たいした額ではなさそうなのに。
搭乗するエヴァが健在ならば話はまた違うのだろうし、地下の施設が使えればコストダウンできると思うのだが。
愚痴を言っていても仕方ないので慶弔見舞規程、 業務上災害補償規程、福利厚生規程、制服及び安全用具/装具等の貸与規程(内規)などから考え得る限りの手当、支給をはじき出す。
足りない分はWHOにでも掛け合って、クローニング医療の臨床例として助成金を出させるのはどうだろう? 打診してみる価値はある。
国連軍への出向時代に知り合った軍医や国境なき医師団の参加者に、そうしたツテを持つものが居たはずだ。
それでも足りなければ、自分の蓄えを切り崩してもいいだろう。
結果をまとめてリツコさんに返信を送った。
嘆息。
なんだか最近、この手の規定を逆手に取ったり組み合わせて用途に間に合わせるような仕事が上手くなってきたような気がする。
それもこれもネルフという組織がしっかりした枠組みを持たない割に、運用などは規定通りで杓子定規のお役所仕事的に融通が利かないからだ。
こと組織運営に関しては、元が調査研究機関であることと国連監督下の組織になったことの悪い面ばかりが浮き出ているように思える。
それを痛感したのがケンスケの後処理だった。
搭乗機を失ってチルドレンを解任されたケンスケは、そのまま放擲されかねなかった。
就業中の事故ということで回復するまでの医療施設での治療は認められていたものの、それ以外の補償はろくになかったのだ。
調べてみると、確かにチルドレンに関する規定はほとんどない。
正式雇用されたネルフの職員と較べると戦時徴用兵、いや、それ以下のアルバイトより劣る扱いだった。
我が家の子供たちは自分の庇護下にあったので気にはしつつも急がなかったのだが、ケンスケはそうもいかない。
規定されてないことを逆手にとって、遡って雇用契約。
その上で人事/労務規程を掘り返し、嘱託規程、定年による再雇用に関する規程、業務上災害補償規程、福利厚生規程、保養施設利用規則、社宅(寮)管理規程、制服及び安全用具/装具等の貸与規程(内規)などを組み合わせてケンスケの身分を保証したのだ。
一種の予備役としてでっち上げたといってよいだろう。
口実さえあればなんとでもなるのも、ネルフらしいと言えば云えるのだが……
つづく
- 次 回 予 告 -
エヴァの損耗を狙い澄ましたように進攻する最強の使徒
弐号機しか出撃が間に合わない状況で、ミサトはジオフロントでの迎撃を決意する
孤軍奮闘のアスカを支援する、ミサトの策とは、その効果はいかに
次回「シンジのシンジによるシンジのための補完 第拾四話」
この次もサービスしちゃうわよ♪