葛城家の夕食は遅い。作戦部長である自分の帰宅がどうしても遅めになるからだ。
「ねえミサト。あれ貸してよ。ラベンダーの香水」
デザートのレモンケーキを食べているのは自分だけ。急いで咀嚼する。
子供たちは夕飯までのつなぎとして食べてしまっているのだ。
「いいわよ。部屋に入って構わないから好きに使って」
気候変動で手に入らなくなったものは多い。本物の生花から抽出した香料なども、そうだろう。
セカンドインパクト前に製造された貴重品を、いろんな意味で彼女が大切にしていたであろうことが、今の自分には判る。
けれど、薄情な自分にとっては、アスカのご機嫌を損ねてまで惜しむ程の価値はなかった。
「ダンケ、ミサト」
「どういたしまして」
使い終わった食器をキッチンへ。
「お茶のお替わり、いかが?」
「あっ……、はい」
「ワタシはいいわ」
「…希望します」
「クワっ」
ティーポットにお湯を足して、ダイニングに戻る。
リツコさんの影響でコーヒー党になった自分は、紅茶の入れ方がぞんざいだった。
アスカがお替りをしないのは、そのせいだろう。
まず、彼のティーカップに紅茶を注ぐ。
続いて、綾波のティーカップの前、余分に置いておいたマグカップに注いだ。
しばらく置いて、綾波のティーカップに紅茶を移す。すこし待ってマグカップへ。またティーカップへ。
生まれてこのかた、サプリメントと固形バランス栄養食ばかりで暮らしてきたらしい綾波は、若干ながら猫舌気味だった。
――ネグレクトなどで、暖かい食事にあまり恵まれなかった子供によく見られる症状である――
同居当初、食後のお茶になかなか手を出さないので訊いてみたら、熱いのは苦手だと言うのだ。
ラーメンなど、少なめにとった麺を空気にさらして器用に冷ましながら食べていたので気付かなかった。
そういえば、スープの類には手をつけないか後回しにしていたように思える。
冷まし方を教えたので、ふうふうと懸命に息を吹きかける綾波の可愛らしい姿を見られるようになったのだが、できるかぎりはこうして手早く冷ましてやっていた。
…ありがとう。どういたしまして。との遣り取りにアスカが一瞥を投げかけてくる。
やぶにらみ気味なのは、気のない振りなのだろう。それはつまり、不機嫌ではないことの現れだ。
アスカは一見、感情表現豊かに見える。
だが、その多くが演技であることは、アスカが感情を押し隠そうとした時にわかるだろう。
隠すのが下手で、過剰に反応してしまうために攻撃的に見えるのだから。
その姿はまるで、子供を匿った巣穴をふさぐために頭を突っ込むヤマアラシのよう。
使うつもりのない棘が、居もしない外敵を意味もなく威嚇するのだ。
あるべき自分を演出して、懸命に取り繕っているつもりでいる。それが惣流・アスカ・ラングレィという少女だった。
「そういえば、アスカ…ちゃんに、お願いがあるんだけど?」
「なに?」
視線だけをこちらに向けたのは、身構えてない。ということだろう。そういう状態が増えているのは、いい傾向だと思う。
「デザートの買出しを、アスカ…ちゃんに頼めないかと思って」
「え~! ワタシ、ミサトの手作りの方がいい」
自分の分を注ぐ。
琉球ガラスのカフェオレボウルは、アスカの沖縄土産だ。
勝手に使徒を斃した罰。だとか言ってなかなか渡してくれなかったけれど。
夫婦茶碗のような大小2個組みで、小さい方をアスカが使っている。
アスカ自身が気に入ったらしく、2個組みなら丁度いいから。と選んだらしいが、当然のようにあらぬ憶測を呼んだらしい。
手渡されたときに、他意はないわよ。と念を押されてしまった。
「今だって、毎日手作りしているわけではないのよ」
ベビーチェアの上にペンペンの姿がない。お茶のお替わりは要らないということだろう。
「お店で買ってくることもあるし、今日のだってマヤ…ちゃんの差し入れよ」
紅茶を一口。
「そうなの?」
そうなのだ。3人の食事はおろかデザートまで手作りしていることを知って、お手製デザートを差し入れてくれたのだった。
「手抜き反対よ!」
「そう言われると辛いんだけど、最近忙しいのよ」
忙しいのは間違いではないが、食事の準備の片手間でやってるデザート作りを削ったところでいかほどのことでもない。
――デザートを手作りしていたのは、それが子供に効くからである。
お店に並んでいるようなスイーツを目の前で手作りしてやると、子供は魔法を見るように憧れるのだ。
主に綾波対策で始めたのだが、親子の触れ合いを知らないという点では3人とも変わりがなく、誰も日々の楽しみにしている節があった――
それを敢えてやめるのは、アスカにいくつか「お仕事」を与えたいと思ったからだ。
パイロットとしての任務ではなく、家庭内でのお手伝いを経験させたい。
「職務怠慢ね」
親の事情を察し、家庭の運営に関わっていくことも子供の成長に必要なのだ。
「私が貴女たちを預かっているのは、それが職務だからではないわよ?」
一息ついたので、ノートパソコンを取り出して立ち上げる。
「それはわかっているけど…」
渋っているのは、アスカもやはり親の愛情に餓えているからだろう。
彼も綾波も特に口出ししないのは、アスカに同意して任せているからに違いない。
「…この選出の根拠は?」
いや、綾波は不満なのかな? アスカが指名されたことに不服があるのか。
「アスカ…ちゃんが、一番お菓子とかお店を知っているからよ」
「…そう」
ちょっと寂しそうだ。
ビープ音に催促されてIDとパスワードを入力。
「ファーストには荷が重いってことよ」
ささやかながら自己顕示欲を刺激されたらしいアスカが、満足げにふんぞり返った。
「もちろん毎日とは言わないわ。
休みの日と、その次の日の分は作るから」
次の段階へ移るための踊場。という意味合いもある。
作ってもらうことと自ら選んで買い求めることを経験したら、その先には、一緒に作る。という選択肢だってありえるのだ。
3人のうちの誰かが、お菓子の作り方を教えてくれと言い出す日が来るのを、ちょっと楽しみにしていた。
肉球印のソフトを呼び出し、ファイルを開く。
「わかったわ。やったげる」
内面の問題が片付いたらしく、アスカが頷いた。
k
「ありがとう。お願いするわね」
a
はいはい。とばかりに手を振って椅子にもたれかかる。
z
不満があればいつまでも文句を言うか捨てゼリフで立ち去るのがアスカだから、気のない振りは照れ隠しでもあるのだろう。
o
…なぜ弐号機パイロットはどういたしましてと言わないの。との綾波の呟きは無視されるようだ。
k
「…レイちゃんも、食べてみたいお菓子があったらアスカ…ちゃんに相談するのよ。
新しいお店とかを見つけたら教えてあげてね」
「…はい」
u
顔を上げて応えた綾波が、ぽつぽつと呟き始めた。
自身の能力を正確に推し量れる綾波は、アスカの補佐という地位に満足したのだろう。少なくとも今は。
ディスプレイに表示された数字の群れに、新たな数値を加えていく。
「それで、ミサトはさっきから何やってんのよ?」
「これ? みんなの栄養管理よ」
差し出して見せたノートパソコンには4人の摂取したカロリーや栄養成分、消費カロリーなど事細かに書き込まれている。
「ふうん? まっエヴァのパイロットなんだから、これくらいは当然よね」
自分の記録を遡ってみたアスカが、眉をしかめた。
「何でワタシの履歴、ここに来てからの分しかないの?」
「それ、私がプライベートにつけてる管理簿ですもの」
「ネルフの仕事じゃないの?」
栄養管理を習慣づけるようになったのは学生時代のことだ。
当時、女性の体に慣れなくてしょっちゅう貧血やら生理不順やらを引き起こしていた自分は、その対策としてリツコさんに管理ソフトを組んでもらったのだった。
「違うわ」
これはその最新バージョン。MAGI・バルタザールのサポートを受けられる優れモノ。
メルキオールのほうが向いてるのに。と文句をいうリツコさんをなだめて、つい先日に切り替えてもらったのだ。
ま、カスパーよりはマシだけれど。と悪態をつくので、つい貰ったばかりのレモンケーキで口をふさいでしまった。
怒るかと思っていたマヤさんが、なぜか機嫌がよくなったのが不思議だったのだが。
「成長期の貴女たちを預かるんですもの、保護者として普通に必要なことなのよ」
このソフトのお陰でここ8年間ほど体型を維持できているのだが、その延長として子供たちの栄養管理をするのはさほど労力がいることでもない。
しかもMAGIのサポートを受けられるようになってからは、携帯端末のオーガナイザー機能を利用できるので入力の手間も格段に減った。
「嘘おっしゃい。こんなこと普通にやってる親なんて居るもんですか」
アスカは気付いただろうが、4人とも必要なカロリーや栄養成分が違うのである。
「みんな忙しいのよ。
それに、あなたたちほど厳密さが必要なわけではないし」
「ほれ見なさい。結局ワタシたちがパイロットだからやってるんでしょうが」
「違うわ。
あなたたちがパイロットだからしてるんじゃなくて、あなたたちがパイロットでもあるから、してることに厳密さが要求されるだけよ」
子供たちがパイロットだから、義務で栄養管理をやっているわけではない。
保護者として必要だから、なにより、自分がそうしたいからやっているのだ。ただ彼らはパイロットだから、普通の子供よりも気を配らなければならないだけ。
「私の履歴、開いてみてくれる?もともと8年前からの習慣なのよ」
実際のところ、子供たちの栄養管理を行っているのは司令部に対するパフォーマンスという側面が強かった。
貴重なチルドレンを預かる以上、監督能力があることをアピールしておく必要があるのだ。
医療部に提供することで検診項目を軽減できたり、献立のアドバイスを受けられるというメリットもあるが。
だが「エヴァのパイロットだから見てもらえる」のだと、子供たちに誤解させたくはない。
「…ペンペンのもある」
横手から覗きこんだ綾波がデータを見つけたらしい。それには気付いて欲しくなかったかも。
「なんだか、ペンギンの方が力が入っているような気がするわ」
それは目の錯覚だ。人間とはパラメータが違うのである。
そもそもこの世に温泉ペンギンの栄養管理ソフトなんて存在しない。
ペンペンを引き取った時に一緒に譲り受けた臨床データを元に、リツコさんにでっち上げて貰ったのだ。インタフェースがおざなりなのは仕方がなかった。
「入力項目が違うから、そう見えるだけよ
あの子は遺伝子操作で生み出された新種で、そのうえ実験動物でしょう。栄養管理が大変なの
しかも生魚が嫌いで、必ず焼かせるものだからビタミンも不足がちだし」
嘆息。
よちよち。という感じで歩いてきたペンペンがベビーチェアによじ登る。
どうやら、棚まで栄養サプリメントを取りに行ってきたらしい。
テーブルの上に置いたボトルからカプレットを数錠取り出すと、水もなしに飲み下した。丸呑みはペンギンの得意技だ。
「せめて生魚を食べてくれれば、少なくともビタミンCの補給は要らないのにね」
「…ペンペン。好き嫌い……ダメ」
綾波。君が何を言っているのか解からないよ。
「むしろ、あなたたちより難しいのよ」
ちょっと、苦笑い。
ノートパソコンを引き寄せて、今しがたのビタミン摂取を計上。
「天下のチルドレンより、ペンギンの方に手間割いてるってわけね」
やっぱり、怒ったかな?
すっと左手を伸ばして、ペンペンのくちばしの下を掻いている。
自身で手入れできない部分を掻いてもらうのは、動物にとって至福だ。
幸せそうに目を細めた温泉ペンギンが、嬉しげにそのくちばしをアスカの手に擦り付けた。
「まっ、ペンギン相手にナニ言っても始まらないか」
ペンギンですら……。その呟きの続きは、空気に溶けて届かない。
……
ペンペンの反応を窺いながらさまよう左手が、その後頭部にまで達した。
「ねぇ、ミサト。
ワタシたちがパイロットじゃなくても、やっていた?」
歓ぶ温泉ペンギンのほうを向いたまま。アスカにしては上手な感情の隠し方だ。
「もちろんよ。
そりゃあ、ここまで事細かくする必要はなくなるでしょうけれどね。
私がやりたいから、こうしているの。あなたたちがパイロットかどうかなんて二の次、三の次よ」
それは嘘だと言われれば、返す言葉はないだろう。チルドレンだから引き取ったのは間違いないのだから。
エヴァにかかわった不幸をすこしでも軽減してやりたいという思いに嘘はないのに、それを素直に告げられないのはちょっと、つらい。
「この世に存在するチルドレンを全て囲っといて説得力ないけど、まあいいわ。
それ、ワタシにもアクセスできるようにしといて」
「…私も」
「共有スペースに“葛城”フォルダがあるわ。パスワードは“kazoku”よ」
あからさまなパスワードに当惑したアスカは視線を泳がせた結果、自らの隣りにいけにえを見つける。
「バカシンジ、アンタなに一人でそしらぬ顔してんのよ!」
サーチ&デストロイはアスカの信条だろうか?
「なんだよ! そんなの僕の勝手じゃないか」
パイロットとしての自覚が足りないわ! パスワードは聞こえてたんだから後で見ようと思ったんだよ。…そう、よかったわね。クワっクワワ。などと口ゲンカを始めたので、ノートを閉じてお風呂にお湯を張りにいくことにした。
時は常夏、
日は夜、
夜は九時、
綾波に露みちて、
アスカなのりいで、
彼、床に這ひ、
ペンペン、そこに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
……なんてね。
****
ぼすぼす。ふすまのノックは間抜けだ。
「シンジ君、ちょっといい?」
『……ミサトさん? どうぞ』
ふすまを開ける。
「夜中にごめんなさいね」
ベッドの上でSDATを聞いていたらしい彼は、上半身を起こしてイヤフォンを抜いたところだった。
「いえ」
彼の前まで来て、床に正座。
「どうかしたんですか?」
「明日のことを聞いておこうと思ったの」
明らかに動揺した彼がSDATを取り落とす。
「明日のお墓参り、気が進まないなら無理に行かなくてもいいのよ?」
「……でも」
かぶりを振る。
「まず、シンジ君の気持ちが大切なのよ。大人の都合は後回しでいいの」
「……僕の……、気持ちですか?」
今度は首肯。
「お墓参りっていうのは気持ちなの、亡くなった方へのね。
だから本人の気持ちが伴っていなければ却ってお母さんに失礼よ?」
本当のところ、墓参りというのは生きている者が己のために行うものだと思う。
かつて父さんが言っていたことも、つまりはそう云うことだったのではないのだろうか。
もっとも、父さんの真意は綾波の正体を悟らせない事にあったのかもしれなかったが。
いくら自分や彼が鈍感でも、母さんの写真を見ればそれが誰に似ているのか気付いたことだろう。
気付いたところで、母方の親戚だと誤魔化されるのがオチのような気もするけれど。
それはともかく。
墓参りそのものが嫌でないことは解かりきってる。これは誘い水だ。
「……墓参りが嫌ってわけじゃないんです。その……」
彼の視線が泳ぐ。
だが、いくら捜したところで助けになるようなものなどあるはずもなく。
「……父さんが苦手で」
「ご一緒したくないのね?」
彼が頷いた。
「私は父を憎んでいたからシンジ君とは少し違うけど、気持ちは解かるつもりよ」
「憎んで……、ですか?」
「私の父はね、自分の研究、夢の中に生きる人だったわ。
そんな父を赦せなかった。憎んでさえいたわ。母や私、家族のことなど構ってくれなかった。
周りの人たちは繊細な人だと言っていたわ。
でも本当は心の弱い、現実から、私たち家族という現実から逃げてばかりいた人だったのよ。
子供みたいな人だったわ。
母が父と別れた時もすぐに賛成した、母はいつも泣いてばかりいたもの。
父はショックだったみたいだけど、その時は自業自得だと嗤ったわ。
けど最後は私の身代わりになって死んだの、セカンドインパクトの時にね。
私には判らなくなったわ、父を憎んでいたのか好きだったのか」
胸のロザリオを弄ぶ。
かつて聞かされた言葉を元に彼女の記憶を掬い上げると、まるで我が事のように胸が痛んだ。
自分が彼女に共感するように、彼女も自分に共感してくれているのなら心強いのだけど。
「一緒に行きたくないなら、時間をずらしていってもいいのよ?
先に行ってお花でも供えておけば、司令にも伝わるでしょうし」
提案の内容を呑みこんで、彼がちょっと呆ける。
3年前に逃げ出して以来、別個に行くという選択肢すら思い浮かばなかったのだろう。自分にもそんな憶えがある。
彼が望まないのなら、無理に会わせる必要などないのだ。
ペアレンテクトミーという治療法がある。
気管支炎や喘息、血管神経性浮腫などの心因性の疾患の対策として、子供を問題のある親から引き離す手法だ。
病気の原因になりうるほどに、子供にとって親の存在が大きいということだろう。
それは、逃げるとか逃げないとか、そういうレベルの問題ではない。
彼と父さんの関係に当てはめるのはいささか強引だが、彼の自立に役立ちそうなので参考にしている。
それに、中途半端に相手を理解した気になると、却って後々の傷が大きくなるのだ。
……
しかし、
「……いえ、折角ですから父さんと一緒に行きます」
しばらく考え込んだのちの、彼の返答は予想外だった。
……
「大丈夫なの?」
はい。と頷いて。
「ミサトさんの話を聞いてて、生きてる間に向き合わなきゃって思いました。
ミサトさん、後悔してるんでしょ。お父さんのこと」
彼の言葉が、胸の傷から彼女の記憶を吹き出させる。2年間の、心の迷宮の軌跡。
それは、ぬか喜びと自己嫌悪を詰めて、後悔で封じた万華鏡だった。
何度でも形を変えて現れ、自分を引きこもうとする。
……
「ミサトさん」
気付くと彼の顔がそばにあった。ベッドを降りてひざまずいている。
いけない。彼女の記憶に囚われて、また泣いたらしい。
ポケットからハンカチを取り出す。楝色のそれは、ほかならぬ彼からの昇進祝いだ。
「ごめんなさい。
私が出来なかったことをシンジ君がしてくれてるようで、嬉しかったの」
嘘だ。彼女の記憶ゆえに涙した。
でも、本音だった。
自分に出来なかったことを彼が乗り越えようとしていることを、心の底から歓んだ。
本当は怖いです。と頭を掻いた彼を抱きしめてあげたかった。
****
ぼすぼす。ふすまのノックは間抜けだ。
『…葛城三佐』
「…レイちゃん? いいわよ」
ふすまが開いた。枕を抱えた綾波が入ってくる。
もともとノックも挨拶もなく唐突に入室してきたものだが、アスカに見つかった途端に殲滅……もとい、矯正された。
「いつでも来ていいと葛城一尉は言ったのに」と恨みがましくアスカを見つめていた綾波が可愛いらしかった憶えがある。
「先にお布団に入っていてね」
――綾波の部屋にベッドが運び入れられた日、彼女のシンクロ率は暴落した。
リツコさんがヒステリーを起こす横で、その日一日の出来事を反芻したものだ。
もしやと思って耳元でささやいたのち、急回復したシンクロ率に、リツコさんに詰め寄られたりした。
以来、頻度は徐々に減ってきつつあるが、綾波が寝床に忍んでくるようになったのだ――
ブラシでくしけずっていた髪をネットでまとめ、化粧水を手にしたところで鏡に映る綾波の様子に気付いた。
自分の枕を備えつけ終えた彼女は、体育座りで自分の作業を見守っていたようだ。
「…レイちゃん。こっちにおいでなさい」
無言でやってきた綾波を、鏡台の前に座らせる。
おろしたてのパジャマ姿。
藍染めのグラデーションは、染め残された襟元から白殺し~瓶覗~水浅葱~浅葱~露草と徐々に色味を増してゆき、裾に至るまでに薄縹~縹~藍~納戸~紺と色づいてゆく。青裾濃という伝統的な染め方を現代風にアレンジしてあった。
このご時世、紺掻き職人は少なくて手に入れるのには苦労したが、その甲斐あってかとても似合っている。
このパジャマのように、綾波自身も色を重ねてくれると嬉しいのだが。
もちろん、この寝間着を与えるまでにも一悶着あった。
普段着など、色々と買い揃えるために連れていったデパート。
最後に寄った寝装具売り場を一瞥した綾波は、あれがいいから。と呟いたきり口を閉ざしたのだ。
こうなると綾波は、ATフィールドでも張ったかのように何者をも受け付けない。
その場は仕方なく戦略的撤退を図った。
おそらく、なにか刷り込みでもあったのだろう。
綾波にとって、お下がりのあのパジャマが大切なものになったのだ。ライナスの毛布のように。
拘りができることは、子供の成長にとって悪いことではない。自我が芽生えた証拠でもある。
ただ、毎日洗濯すべきパジャマに拘られると不都合があった。洗い替えがないのだから。
そうして本日、バスルームにて再戦と相成ったのである。
この日のために用意された専用言霊決戦兵器「毎晩着ると傷むわよ」は、綾波のATフィールドを完膚なきにまで粉砕。
すかさず繰り出した「一所懸命探したの、…レイちゃんに似合いそうなパジャマ」はプログナイフより滑らかに綾波のコアを貫いたようだ。
こうして、用意しておいた寝間着を装備させるに至ったのであった。
ブラシを手にして、色素のない綾波の髪をくしけずる。
太陽光では浅葱色に見紛う綾波の頭髪は、暖色の蛍光燈の下で淡い菖蒲色に見えた。
「…なぜ」
「こうして毛先を揃えておくと、髪が傷みにくくなるのよ」
「…すぐにまた乱れるわ」
「そうね。でも小さな積み重ねが大きな違いに育つのよ」
「…解る気がする」
ブラッシング中でもお構いなしに頷くので油断ならない。
しゅっ、と髪を梳く音だけが部屋を満たす。
……
「…今日、碇君に言われました。
お母さんって感じがした……と」
そういえば、自分もそんな事を言った憶えがあった。
「…主婦が似合ってるかも……と」
……
「そう。
それで…レイちゃんはどう思ったの?」
こちらが微笑むのを鏡越しに見止めて、綾波は頬を染める。
「…頬が熱くなりました。私、恥ずかしかったの? …なぜ、恥ずかしいの?」
当時は、てっきり怒らせたものだと思っていたが。それとも前回とはちがうのか。
「……それは、自分の将来を想像したからじゃあないかしら」
「…将来?」
「ええ。
男の人に惹かれて、結ばれて、子供を産んで。女の子の幸せの一つね」
しゅっ、と髪を梳く音だけが部屋を満たす。
「自分がそうなった姿を想像したんじゃない?」
「…わからない」
しゅっ、と髪を梳く音だけが部屋を満たす。
「男の子が女の子にそういうことを言うのは、その子にそうなって欲しいから。その相手が自分だと良いと思うからよ」
綾波の体がこわばった。
「…碇君は、私とそうなりたいの?」
鏡越しに苦笑を見咎められてしまった。
自分もそうだったが、彼も特に深い意味で言ったわけではあるまい。単なる場つなぎ、その場しのぎだ。
「シンジ君はそこまで具体的に考えているわけではないと思うわ。
でも、…レイちゃんとのそういう可能性を考えることがやぶさかではないのね。
好ましいと感じているのよ」
「…好ましい?」
「女の子として魅力的ってことよ」
こわばりをほぐすように、あいた手で肩をなでてやる。
「…魅力的。人が人に感じる憧憬。
異性をひきつける要素をもつこと。
…異性。違っていて惹かれるもの。
結びついて補うもの。つがい。
…つがい。人の絆の一形態。
補完された異性。
ヒトの単位。
次代を生む組合せ。
異性に求められること。
それはヒトとしての悦び。選ばれたことの歓び。補完されることの喜び。
そう。私、求められたことが嬉しいのね」
ぽつぽつと呟いていた綾波が、視線を上げた。
髪を梳きすく仕種を目で追う。
しゅっ、と髪を梳く音だけが部屋を満たす。
…
「…私は、葛城三佐が、お母さんって感じがする。…なぜ?」
鏡越しにこちらの様子を伺っていた綾波が、探るように視線を合わせてくる。
「あなたたちが居るからよ」
「…私たちは葛城三佐の子供じゃない」
いいえ。と、かぶりを振る。
「血の繋がりは関係ないわ。
子供がいて、見守るものが居る。それが親子よ。
親という字は、木の上に立って見ている。と書くでしょう。それは、子供を心配している姿なのよ。
逆に、血が繋がっていても親子じゃないものも居る。親であることには自覚と努力が必要なの。
私の父親やシンジ君の父親は自覚のない親ね」
左手で、胸にさげたロザリオを弄ぶ。
「…碇司令は父親ではない?」
「そうね。子供を見ない親は親ではないわ。
親子の絆は固いけれど、それはヒトが最初に与えられる絆だから、もっとも長い時間をかけて育まれる絆だから。
それを投げかけてあげられない者は、親ではないわ」
彼女の記憶、自分の記憶。十文字に交わって形をなした錨が、左手の中で重い。
深みへと引き摺られて、浮き逃れるあぶくのように涙を搾り取られそうになる。
「…私、碇君に言った。
碇司令の子供でしょ、信じられないのお父さんの仕事が。と」
ぶってしまった。と見つめているのはその右の掌。
「…私、羨ましかったの?
私よりも確かな絆を、碇君が持ってるように見えたから?」
きゅっと握りしめた。
「…私、怒ったの?
碇君がそれを、ないがしろにしているように思えたから?」
かすかに震えている。
「…そう。
私、妬んだのね」
何かを求めるように、おずおずと開かれた。
自らの裡の暗い情念に、綾波は初めて気付いたのだろう。
大丈夫だよ、綾波。それはヒトならば必ず通る道なんだ。
綾波の、成長の証なんだよ。
「…私、何も知らないのに。自分本意に思い込んで、一方的に碇君を……傷つけた?」
さまよった綾波の右手が、ロザリオを握りしめた左手に触れてきた。
心なしか、十字架がその重みを減じたような。
「どうかしら」
傷ついたわけではなかった。ただ驚いて、解からなくて、落ち込んだだけだった。
今なら解かる。
あれが綾波なりの拙いパトスの発露だったことに。外界を受容して内面に生まれた、綾波の心のさざなみだと。
「…こういう時、どうしたらいいか知らないの」
「言わなければ良かったと思ってる?」
こくん。
「なら、謝ればいいの「ごめんなさい」って。
過ちを認める言葉、謝罪の言葉、赦免を請う言葉よ」
「…赦さ……れる?」
「赦してもらえなくても、まず謝罪することが大切なの」
涙を押しとどめて、鏡の中の綾波に微笑みかける。
「一時の感情がその人のすべてではないわ。だから、人は赦すことを憶えるの」
それは、本当に綾波に向けた言葉だったのだろうか?
なぜか、こわばっていた左手が自然とほどけてゆくのだ。
「大丈夫。シンジ君は赦してくれるわ」
音をたてて、銀のロザリオが滑り落ちた。
「もし、赦してくれなくても、それもまた一時の感情なの。
それがシンジ君のすべてではない」
その掌に刻まれるように残された十字架の跡。たとえ今は消えなくとも、生きていけば、いつか。
「そのときは、…レイちゃん。あなたが赦してあげるのよ」
…はい。と頷く綾波の体を、ぎゅっと抱きしめた。
****
「そろそろお暇するわ。仕事も残っているし」
リツコさんが一足先に帰ったとき、唐突に綾波のことを思い出したのは、彼女に隠れて見えなかった位置に活けてあった紫陽花の色のせいか。
かつての記憶では、この日。綾波は父さんと行動をともにし、しばらく学校を休んでいる。
作戦部に提出された予定では定期的な精密検査となっていたが、健康面の管理者たるリツコさんが居なくて誰が、何を検査しているのだろう?
昨晩、綾波が寝所にもぐりこんできたのは、それと無関係ではなかったかもしれない。気付いてあげるべきだった。
「なに、考えてるんだ?」
ロックのグラスを、カランと鳴らしてキザに。加持さんだ。
視線の先の紫陽花をなんと見ただろう。
「子供たちのことよ」
学生時代の友人の、結婚式の帰り。ホテルの最上階ラウンジで、3人だけでの3次会だった。
「つれないなぁ。こんな佳い男が隣りに居るっていうのに」
TOKYO-3のグラスに口をつける。
ウォッカベースにミルクとフランジェリコの2層仕立て。
表面に各種ナッツパウダーで描かれる図形は毎回異なるらしく1杯目はアーモンドのハートで、2杯目はピスタチオの花。今回はヘーゼルナッツの星だった。
強いアルコールを甘さと香ばしさで覆い隠した、まさに第3新東京市のようなカクテルだ。
「母親は子供が最優先よ」
一口ごとにミルクとフランジェリコの混ざり具合が変わって、口当たりを変えてゆく。それを愉しんでいるうちにウォッカに殲滅される。そんなレシピだった。
「すっかり母親稼業が板についたな」
「……意外だった?」
「ああ」
出会ったときはまるで男だったからな。と傾けるグラスの中で、同意してか氷が鳴る。
初めて加持さんに出合った時に突きつけられたのは、かつて彼女と加持さんが付き合っていた事実だった。
今から思えば迂闊だったとしか言いようがないが、その姿を目にするまですっかりそのことを失念していたのだ。
いや、憶えていたとして、じゃあ加持さんと女として付き合えるか? と問われれば、そんな覚悟はとてもできない。と答えるしかなかっただろうが。
いま考えればたいしたミスではないと思えるが、当時の自分は違った。
男女のなれそめとしては最低の部類に入る出会い方をしてしまい。歴史のボタンを掛け違えてしまったと思い詰めて動揺し苦悩し絶望した。
たまたま月の障りが酷かったことも重なってすっかり自暴自棄になり、1週間も閉じこもったのだ。
リツコさんが様子を見にきてくれたことで立ち直り、最終的には加持さんとの友情も結ぶことができたが、この一件はかなり尾を引いて自分を苛み、以降の交友関係に影を落とした。
特にドイツ第3支部勤務時代など、かつての知己としては3人目となるアスカに対して中途半端な態度を示してしまったことを、今でも悔やんでいる。
加持さんと交渉のない今回、アスカと打ち解ける最大の機会だったというのに。
結局この呪縛が解けたのは、無事に作戦部長を拝命し、第3新東京市に赴任してきた時だっただろう。
大勢のかつての知己との初対面に、多少の人間関係の誤差などどうでもよかったのではないか? と考えられるようになったのは。
「最悪の出会いだったわよね。私たち」
「……そうだな」
飲み干したグラスを掲げて、ボーイを呼んでいる。
かつての加持さんの行方を、自分は知らない。
留守電の内容と彼女の態度から、死んだのではないかと推測できるだけだ。
彼女が大好物のビールを一切口にしなくなったほどの出来事とは、それぐらいではないかと。
…………
『遅いなぁ、葛城。化粧でも直してんのか?』
『京都、何しに行ってきたの?』
『あれぇ松代だよ、その土産』
『とぼけても無駄、あまり深入りすると火傷するわよ。
これは友人としての忠告』
『真摯に聴いとくよ』
…………
さっき席を外した時、自分のバッグに仕掛けておいたマイクが拾った会話。
こんなこともあろうかと仕組んだ、真ん中の席。
加持さんがスパイであるのは間違いがない。上層部がそれを把握していることも。
彼が死んだとすれば、原因はおそらくそれだろう。
問題は自分がどうしたいか、だが。
いや、もちろん救けたい。自分にとっても加持さんは大切な人だった。
恋人であった彼女にとっては言うまでもなかろう。
かつて、泣き崩れる彼女に対して、子供だった自分は何もしてあげられなかった。
それが慰めになるというのなら、減るもんじゃなし、肉体なんかいくらでも与えればよかったのに。
傷の舐め合いすら怖れた自分の臆病さに、今更ながら反吐が出る。
だから、彼女の体を借りている今、彼女の代わりに全力を尽くすことは必要なことだと思われた。
蘇比色のワンピースは優しいオレンジの色合いで、一番のお気に入り。
合わせたボレロは深めのグリーン。深木賊色。
花橘と呼ばれる伝統的な配色を、自分なりにアレンジしてある。
銀色のロザリオには不似合いだが、それは致し方ない。十字架から、逃れ得るはずもなく。
まとう香りはカーブチーと月桃のブレンド。
綾波の沖縄土産の香袋は、このコーディネートのためにあつらえたかのようだ。
「加持…君。……私、変わったかな?」
高いヒールは苦手だけど、今日は我慢。
イヤリングで耳が痛いけど、それも我慢。
「綺麗になった」
奨められるままに使徒殺しの異名を持つカクテルを干したのは、覚悟したからだ。
「……あなたは変わらないわね。ふらふらとしてて、いつ居なくなるか判らない」
彼女に出来なかったことが、自分に出来るとは思えない。
だが彼女の知らない結末を知っていることがアドバンテージになるはず。
「……お酒、好きじゃないの知っているでしょう? 甘いのを奨めてくれてありがとう」
さっき席を外した、本当の理由。1階のフロントまで往復してきたから。
「……私は、あなたの錨になれるかしら?」
13年目にして、ようやくできた覚悟。
カードキーをカウンターに置いた。
つづく
special thanks to ジョニー満さま(@johnny_michiru)
ジョニー満さん(@johnny_michiru)に、この話のイラストを描いて頂きました。ありがとうございました。
(パジャマ姿の綾波が最高に可愛いです。d(>_<))
Twitterで、dragonfly(@dragonfly_lynce)を検索してみてくださいませ。
special thanks to ジョニー満さま(@johnny_michiru)
ジョニー満さん(@johnny_michiru)に、ミサトの勝負服姿のイラストを描いて頂きました。ありがとうございました。
(とても似合ってるのに決死の覚悟な表情で雰囲気を台無しにしちゃうミサト(シンジ)が愛おしいです d(>_<))
Twitterで、dragonfly(@dragonfly_lynce)を検索してみてくださいませ。
2006.09.19 PUBLISHED
..2006.11.02 REVISED
2021.05.20 ILLUSTRATED
2021.10.16 ILLUSTRATED