ぷるるるるっ、ぷるる「ガチャっ」
「あっ・・・、叔母さん・・・ですか?」
『どちら様ですか?』
「・・・・すみません。僕です。碇シンジです。」
『あらどうしたの。今学校でしょう。』
「はい・・・あの、ちょっと学校を見て回りたいので、・・・帰るのが少し遅くなります。」
『・・・・そうなの。お昼はどうするの?』
「どこかその辺のコンビニですませようかなって・・・」
『んー、あんまりそう言うのは進められないけれど。お金は在るの?』
「はい、持ってきています」
『わかったわ。あまり遅くならないようにね。』
「はい・・・・」
『あっあの・・・。』
「まだ何か?」
『・・・・ゆかりさんはおきましたか?』
「ええ。あの子ったら食パン加えてすぐ遊びに行っちゃったの。」
『そうなんですか。』
「じゃあそろそろ切るわね。仕事が残ってるの。」
『あっすみません。夕飯前には帰りますから。』
「じゃあね。」
「ふんっ。」
見上げる空はどこまでも朱く
第七話
その身に打ち込まれる痛みのない楔
はぁ
誰もいない職員室で叔母への連絡をすませたシンジは一人ため息をついていた。職員室には今、シンジ以外誰もいない。少し冷房が効いているのだろうか、太陽の位置が高くなり日にさらされた廊下を歩いてきて少し汗ばんだシンジの頬を、さらっと冷たい風がなでる。日曜日の学校という物は普段のそれからは想像も出来ないくらい静かだ。生徒達が廊下を走る音もしない、校庭でいくつかのグループが遊んでる声も聞こえない。その奈々シンジが動かなければ今は静かに脈打つ心臓の音さえ聞き取れてしまいそうだ。生徒や教師達が居ない学校はただ大きな建物でさながらその空気は廃墟に似ていた。
まだ少し叔母と話をするのはつらかった。他の人と話すことも今の自分には難しいだろう。
シンジは置いた受話器に手を乗せたままじっと電話を見つめた。シンジの体のほんの少しだけ取り戻した温もりは、今叔母や叔父の言葉や表情に隠れた冷たさにほんの少し晒さらされただけで消えてしまいそうなほど、わずかな暖かさだった。シンジはやっと取り戻した体温が部屋の涼しさにさえ奪われてしまいそうになるのを押さえるように、シンジはもう一度その体を自分の両腕でそっと抱きしめた。
シンジの顔には、もう先ほどまでの冷たすぎる雰囲気はない。その出で立ちは確かに明るい雰囲気は無いが、今は先ほどよりもしっかりとした存在感があった。憑き物が落ちた、そこまでは行かないにしてもその方に掛かっていた荷物が少し軽くなって、やっと今休んでいる。そんなところかもしれない。
中野教師はもう帰ってしまったのだろうか。シンジは朝見た中野教師の机の上を見る。そこでふと、整理された机の上にいろんな写真が張ってあるのが目に映った。それは中野教師ととその他の生徒達の集合写真だったり、数人とのふざけてとったものだったりした。そのすべてが笑顔によって彩られている。
シンジは己でも気づかぬうちにそれらに手を伸ばしていた。写真の中の人たちは、シンジがそっと、その一つ一つに指をはわせても、変わらぬ笑みをシンジに向けている。
その中の一つにも手を伸ばそうとしたところで、その手が止まった。
中野教師の家族の写真だった。他の物とは違い3人しか映ってない。中野教師と、彼と同じくらい年齢のベットに横たわっている女性がその腕に生まれたばかりであろう赤ん坊を抱いている様子が映っている。写真の雰囲気を見ると2・3年ほど前の物のようだ。映っている中野教師夫婦は他の写真同様、二人とも笑顔だった。シンジは他の写真よりもずっと長くその写真にふれていた。
まるでそれが自分の思い出であるかのように。
ゆっくりと手を離す。知らぬ家に、シンジは微笑んでいた。
シンジは中野教師の机に背を向けると職員室の出口に向かった。その足取りに重い陰はない。
もう一度、あの音楽室へいこう。今度は心からチェロが弾きたい。
きっと今弾けば悲しいだけの音なんかでないから。
音楽室にシンジはまた一人、先ほどと同じように弓を握っている。其処に硬さはなく、幻のような雰囲気もない。ただの八歳の少年としてのシンジがいた。
添えていなかった左手を、今度は少々大きいチェロに何とか回してきちんと添える。そこでちょっとだけ、きゅっとチェロを抱きしめる。涼しい教室の日陰に置いていたはずのチェロは、シンジが抱きしめることにほっとする暖かさを返した。
冷房はつけていない音楽室の中も涼しい。校舎の陰にあるせいで今は陽が入らない。窓は開け放たれていて風も入ってくる。
シンジはそんな中、そっと周りの音に耳を傾ける。
さわさわ、さわさわ。
ミーーン、ミーーー・・・
それだけで様々な音が聞こえる。それだけで素敵なメロディに聞こえる。その音をじゃましないように、融け込むように、と祈りながらシンジはゆっくりと弓を現に当て動かした。
最初は先ほどまでと同じ、ただ弓を引くだけだった。一つ一つの音を今一度確認した後、音を一つずつ出すだけではなく音の切れ目無く弾きだした。決まったフレーズなんてどこにもない、流れるようにそれは奏でられた。聞こえてくるメロディにはシンジがテレビで聞いた音楽や街角で聞こえてきた音楽だったりした。それらを思いつくまま、よどみなくシンジは引き続けた。
これが先ほどまで心を締め付けるような音を奏でていた物と同じ楽器だろうか。悲しみなんてどこにもない。小さな歓び、ただそれだけ。その音を聞く人が在ればそれはとても凡庸な弾き方、凡庸な表現だったことだろう。ちゃんとした一つの音楽ですらないのだから。けれど籠められている思いは決して凡庸の一言に尽きない深みのある物だったろう。
シンジは思い出していた。
初めて母にチェロをさわらせてもらった瞬間を。母に手を添えてもらい初めて自分で音を出せたときの感動を、自分出だしたい音を望み、自分の音が出せたときの感動を。
思い出の中の母はいつも微笑んでいた。
自分に、
そして、いつもそばにいる父に。
怒った所なんて見たことがない。声を荒げた所なんて聞いたことがない。その手を挙げる所なんて想像すら出来ない。
母はとても穏やかな人だった。
いつも、少女のように微笑んで、楽しそうな笑い声を上げ、自分の頬を撫でてくれるその手が、
シンジは大好きだった。
だから母が死んだとき、眼の前で居なくなってしまったときは、泣くことも忘れるほど悲しんだ。
いつまでもいつまでも明けることなんてもう無いんだと思うくらい目の前が真っ暗になった。
それは父も同じだったろう。
僕にはこのチェロがあったから、真っ暗な夜を歩き続け、また朝を迎えることが出来た。
お父さんはどうだったんだろう。
父も母が大好きだったはずだ。それは自分がよく知っている。
もしかしたら父は今も傷つき、暗い道を歩き続けているのかもしれない。
じゃあ今度、お父さんにお母さんの曲を聴かせてあげよう。だからしっかり練習しなくちゃ。
シンジは少し弾き方を変える。今まではただ指を動かして音を出すだけの、とぎれないように弓を引く素朴な響きがあるだけのものだっただった。それが少し一つのメロディを持とうとし始めた。其処に滑らかさは失われ、無理矢理弾こうとしたために、耳障りな音を出してしまうこともあった。
今までの一つ一つの音を大切に弾き、流れだけを気にした物ではない。決められた流れを弾こうとしていた。それは、すぐにはちゃんとした音にはならない。弾こうとしている音と、シンジの技量に差があるからだ。
シンジは必死にその差を埋めるために、何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、弓を動かし続けた。
もう記憶にあるだけの母の曲を必死にたぐる寄せるように、そうすることで目の前にいない父に追いつけるように。メロディが一つ合うようになる度に、父に一歩、歩み寄れている気がして、止まることなく手を動かし続けた。
今は亡き母を求め、幻想の父を追いかける
その行為を人はむなしいと、決めつけるかもしれない。
思うように母の曲が弾けない。思い出せない。最後に母がシンジにこの曲を聴かせたのはもうずっと前のこと。記憶に引っかかっているそれを何度も同じところを弾く。思うように進まないその作業はだんだんシンジの不安を煽りだした
しかし、シンジには作業に固執するしかなかった。後ろを振り返り、その手を止めてしまえば追いかけてくる暗い不安の闇にとらえられそうな気がしていた。必死になればなるほど、シンジは自分の中の暗闇が晴れてく気がしたから。何かに夢中になることで不安を忘れることが出来た。
だからその手を止めることが出来なかった。
シンジがその手を止めたのは、次第に最初の目的も忘れ始めた頃、やっと一節、かすかに記憶にある母と同じように弾けたときだった。
どれほど弾き続けていただろうか。音楽室の時計を見てみると、時間はもう少しで四時を半分まで回ろうとしていた。
最後に、ざぁっと強い風が吹いた。教室の中にはき出したシンジの心の澱みをなぎ払っていくように、シンジの目の前の窓から入り、後ろの窓へと吹き抜けていった。その風をシンジは少し驚いたような顔をして見送った。
ほっと息をつく。そこで自分が少しだけ泣いていることに気づく。本当に少しだけで、もう乾いて跡になりかけている。本当に最後の澱みがさっきの風で流された跡だったかもしれない。
左手でその跡を拭おうとしたとき、
ズキッ「イタッ」
突然、左手に痛みが走る。手を見てみると指先が赤くなっていて、チェロの弦にも血の跡がついている。ずいぶんと必死で弾いていたんだなと、他人事のようにシンジは思った。
痛みにかまわず左手を握りしめ、その手をじっと見つめる。
「いたいなぁ。」
シンジはその痛みを口にする。決して無視できる痛みではない。
必死だった。必死になって、例え幻想だとしても父の陰を追いかけた。分かり合いたくて、必死になった。この痛みはその証拠だ。
シンジはこんな自分を知らなかった。時間を忘れるほどチェロを弾ける自分も、痛みを忘れるほどチェロを弾き続けた自分も。そんな自分を驚きながらも好意的に受け止めている自分も。
「もう・・・、先生のうちに・・・帰ろう。」
今なら、なんとか先生達の前に立てそうな気がした。体も、演奏を続けたせいか、熱いくらいだ。それにここは自分でも知らなかった自分がいる。もしかしたらあの冷たさにも耐えられる自分がいるかもしれない。
それに、いつまでもここにいるわけにもいかない。
音楽室の戸締まりをしっかりと行い、チェロを準備室にしまう。少し寂しい。チェロを学校に置くことに決めたのは、庭に追い出されたく無かったからだ。学校に置いておけば叔父もその理由が無くなるだろうと思った。シンジは名残惜しく、寂しく感じながらもチェロをしまった。
さあ帰ろう。『あの瞳』にさらされることもこれからは学校がある。手伝いを申し出ているとはいえ、先生たちに向かい合う機会は少なくなるだろう。きっと大丈夫。
自分にそう言い聞かせ、彼は家路についた。
「ここどこ?」
そして即座に道に迷っていた。
最初のうちはその足取りも軽いものだった。今から帰ろうとしている家にも、新しい望みを胸にしたシンジにはそれほど悲観するようなものでもなかった。ただ明るい可能性だけに目を向けることが出来た。ただ問題なのは、
目の前の道に見覚えがなったことだろうか?それとも、希望が出来たことがうれしくて、よく知らない道を走って帰ろうとしたことだろうか?
もともとそんなに方向感覚もないうえ、ここは昨日始めてきた場所なのだ。そのときも散々迷い、バス停から歩いて十分も掛からないところから、一時間も迷った。そのときも、重い荷物を抱えてあるこのがやっとで、周りの道を覚えるなんて器用な真似はシンジには出来なかった。
日もだいぶ沈みかけている。赤い夕日は、道に迷って不安なシンジの心を否応なしにかき乱す。
「うぅ・・・・、うぇっ・・・・」
半分以上その表情には泣きが入っている。その思考もあっという間に暗いものに変わっている。
あーあ、何でいつもこうなんだろう。そういえば、幼稚園のときも初めてみた海に感動して浮き輪で沖に出ちゃったことがあったな。あれは怖かったなー。何せ周りが海しかなくて、先生たちが遠くのほうで蟻みたいに小さくなってたよなー。自力で戻ろうとしても波に流されてちっとも岸に着かなかったし。ようやく戻れたと思ったときは、お昼ご飯が終わってて、そのときいなかったせいで幼稚園の先生にものすごく怒られたし、事情を話したらもっと怒られたし。小学生になったっても、山の遠足のときに靴の紐が切れちゃって何とか結んで応急処置をして、気づいてみたらみんなどこかにいってるんだもんな。もう山を降りちゃったのかなと思って、急いで道を下っていったら誰もいなくて。どうしようどうしようって考えてもいいことが思いつかなくて。結局まだ山の上にいた先生たちが降りてくるまでその場に座り込んでたんだよな。そういえば玄関でお父さんのことを待っていたことがあったな。その日は帰ってくるのがいつもよりもだいぶ遅くて、なぜか知らないけどお父さんが迷子になっちゃたんじゃにかって思ってもうだいぶ暗くなってたのにサンダルで外を探しに行ったんだっけ。結局今みたいに迷子になって知らない日とだらけの中を歩くのも怖かったけれど、その後誰もとおらなくなっちゃったときは僕もう本気で帰れないんじゃないかって思った。結局おまわりさんに捕まって家に連れて行ってもらったんだ。そしたらお父さんが玄関でったって待ってたんだよな。あの時は怒られるんじゃないかって怖かったけど、お父さん、僕が泣きながら謝っても何にも答えてくれなかったんだ。やっとただいまって行ったら遅かったなって。それだけなのお父さんなんて、なんだかまた悲しくなってそのままげんかんでなきとうしたっけ。そういえばお母さんがまだいたとき・・・・・・・・・・
延々とシンジの頭の中でそれらの愚痴は繰り返される。それでも足を引きずる様に動かし、ここが何処だか解らないにもかかわらず家へと向かおうとした。
そのとき、
「あれ?碇、こんなとこで何してんの?」
意外な声がシンジの背中にかけられた。
「・・・・ゆかりさん?」
「だから、ゆかりさんは辞めなさいって行ってるでしょう。」
ゆかりは沈みかけている太陽を背にしてそこに立っていた。ロゴの入った白いシャツに青いジーンズという、活発は雰囲気を持つ彼女にとてもよく似合っていた。その顔には意外な人物に出会ったことへの驚きと、なぜこんなところをその人物が歩いているのかという疑問が浮かんでいるのが逆光の眩しさにくらむシンジにもよく見て取れた。
「で?、あんたはいったいこんなところで何をしているのかしら。今日は朝から学校にいってたんでしょう?何だってこんな時間にこんなとこ歩いてるの?」
「・・・うん、その・・・」
シンジは今時分が置かれている状況を、目の前にいる同居人の少女に話そうかどうか悩んでいた。ありのままを話してしまうと、自分がとっても情けなくなると思った。
「ちょっと、この辺を散歩に。ほら!僕まだこの辺のことに詳しくないから・・・・」
「ふーん。」
何とかごまかそうとしたものの、彼女は初めて出会ったときと同様、なにやら観察するような目でシンジのことを見つめる。
「な、なんですか?・・・・」
「別に~。私はてっきり、道に迷って泣きべそかいてたのかなあーと思ってたもんだから。」
「!!み、見てたんですか?」
「あら、やっぱそうなの?ばかね~。」
あきれたようにゆかりは目の前にいるシンジを見ていた。
あっという間に手玉に取られてしまうシンジ。そこにはもう逃げ場は存在していなかった。まだからかわれるんだろうなと考えていたシンジをよそに、ゆかりはきびすを返した。
「なにやってんの?ほら、帰るわよ。」
「!?。案内してくれるの?」
ボーっと突っ立ったままのシンジに、ゆかりは背を向けたままそういった。シンジは意外そうに目の前を歩いていこうとする少女を見た。
「当たり前でしょう?あんた、誰んちに昨日から住み始めたか、今日になってもう忘れたの?」
「う、ううんそうじゃないけど・・・・」
「なら早く帰るわよ。もうすぐ夕飯なんだし。私おなか減ったし。」
「・・・・そう、ですね。帰ろうか。」
そういって二人は同じ道を歩き始めた。シンジは照れたように笑った。その顔を見たゆかりは少し驚いていた。
「・・・・あんた笑えたのね。顔の筋肉、その暗そうな顔のまま神経切れてんのかと思ってたわ。」
「・・・・そんなことない、ですよ。ひどいなぁ。」
「だってあんた昨日の夕食んときもずっとくらーいまんまだったじゃない。」
「ああいうのにまだなれてなくて・・・・その、」
「うわっ、やっぱあんたって、暗ーい。何いってんのよ、あれくらい何処でもフツーでしょうが。」
「・・・・うん。そう・・・ですね。」
「?」
シンジは俯き、その顔にはそっと暗い影が出来た。ゆかりのいう暗い顔というものとは違う、より深刻なものだ。
ふいっとゆかりは視線をシンジから離した。しばらくの間、二人は黙って歩き続けた。
次に沈黙を破ったのはゆかりからだった。
「ねぇ、碇!!。」
その一声は少しいらだっているようにも聞こえた。
「はっはい?」
「あんた、何でそんなに暗いの?」
何の気なしに出した言葉。ただの世間話を始めるためのきっかけ。シンジは少し驚いたものの、ゆかりの言葉の意味をそう受け止めた。
「・・・・そんなことを言われても。僕はまえからこんなだし・・・」
「あーーくらい。顔はうつむいたままだし、声も小さいし。」
「・・・・・」
あんまりな言葉に、シンジが二の句を告げないでいると、シンジが彼女の口から一番聞きたくない言葉が聞こえてきた。
「こえれじゃぁ、パパやママがあんなこと言うのも無理ないかも。」
さっと、世界が音を立てて崩れていくのがシンジには聞こえた。視線を地面に向けたまま顔を上げることができない。
「・・・・どういう・・こと?」
「あら?あんたも昨日の晩聞いてたじゃない、パパとママの話。」
「・・・・・・・・どう・・・して!!、・・・・君が知ってるの?」
あなたには知られたくなかったのに。シンジの動揺した様子が気に入ったのか、ゆかりはシンジの反応を楽しむように言葉を続けた。
「あの時わたしもねぇ、階段のところにいたんだよ?」
「!!!・・・・・・・」
「だからねー、勝手に耳に入ってきちゃっさー。」
何でもないことのように彼女は明るい口調のままそういった。
「・・・・・」
「そうだ、このこと明日みんなに聞いてもらおうかなー。」
「!!」
彼女の一見無邪気な一言は、シンジに決定的な影を落とした。シンジの脳裏に『あの目』で囲まれて見られている自分が思い浮かぶ。学校という逃げ道までふさがれてしまうのか。シンジに暗い影が追いつき、その足を止めさせ目の前を暗く閉ざしてしまう。
「ねぇ、碇シンジ君?どうするー?」
明るい彼女の声がシンジの耳が届く。それはとても楽しげで、シンジの心を抉る。もう自分にはこの流れを止めることもできない。逃げ道もふさがれてしまった。引くことも進むこともとどまることも叶わない。
「・・・・・・ぃで・・・・」
「ん?なーにー、よくきこえないよー?。」
「ぉ・・・ぃ・・・・・・わないで・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・」
どんどん声の小さくなるシンジに、ゆかりは耳を近づける。
「お願い、・・・・・みんなには、言わないで・・・・。君の言うこと、何でも聞いてもいいから・・・・・・・・お願い。」
シンジは俺だけを言うとそのまま黙ってしまった。もうそれしか、自分が助かる道はないとでも続けるように。
自分の身など、どう使われてもかまわない。あの頃のように『あの瞳』で見られ続けるくらいならいっそ・・・・・。
ゆかりはシンジのその言葉を聞くと、さっとシンジから身を離した。シンジは顔伏せて気がつけないが、その顔は驚き、次第に険しいものとなっていく。
「・・・・・・・・・・・・」
「お願い・・・・・・・」
最後にシンジがそう呟くのを聞き届けると、引き金を引かれたようにゆかりは、シンジに背を向けて怒鳴った。
「・・・・・・・つまんない!!。」
「・・・・え?」
シンジは驚いて思わずゆかりの背中をみる。しかしそれ以上は視線を上げることは適わなかった。もしゆかりが振り返り、その瞳を見ることがあればその瞳はきっと物言わぬほど黒く、自分を見つめることだろうと思い怖かった。それに、
「言ったりしないわよ。あーーでも、言うことは何でも聞いてもらおうかしら?」
「・・・・・・」
彼女の次の言葉はきっと自分にとってよくないものだろうと、シンジは身を硬くして彼女の次の言葉を待った。
「笑いなさい。」
「・・・・・・・え?」
然し、またもや彼女の言葉はシンジを驚かせた。シンジは戸惑ったままその真意を測りかねていた。
「あんたもっと笑いなさい。そんな辛気臭い顔ばっかされたんじゃこっちまで暗くなるんだから。いいわね!!まだまだいっぱい在るけど、いまはこれだけにしといてあげるわ。わかった?」
「・・・う、うん。」
「言ったそばから・・・・。顔上げなさいよ。」
そっと顔を上げる。まだシンジは怖かった。記憶にある『あの目』でシンジのことを見ているゆかりがいるのではないかと。だから顔を上げても彼女の顔は見れなかった。
それを見届けたゆかりはさっさと歩き出してしまった。シンジがその足取りを、ボーと見送っているとそれに気づいたゆかりがシンジのへ振り返った。
「ん?ほら、あんた私の言うこときくんでしょ?ならさっさと付いてきなさいよ。」
ゆかりはシンジにそう促した。思わずシンジは彼女の顔を見、その瞳を、彼女を見た。
そこにいた彼女は、あの『朱い空』の下にいるのにもかかわらず、今まで見たいと思っていた、きっと綺麗だろうなと思っていた笑顔をその顔に浮かべていた。しかしその笑顔の真意も今のシンジには理解できなかった。
彼女の後ろに見える太陽はさらに沈みかけ、より一層その輝きを増している。それでも彼女の瞳は強くなる逆光の中でも目に見えるほど輝いて、シンジが考えていた暗いものなんて微塵もなく、見とれるほど澄んでいた。
そして戸惑うシンジと、微笑んでいるゆかりは家路に着いた。
そうして、陽は沈んでいった。
彼女はそっと僕の心に何かを打ち込んだ。
それは痛みを伴わず、重さだけを残してそっと心に残った。
僕はそれをどうしたらいいのかわからなかった
もう、どうなってもいいと感じたその体は軽くて、
どこまでも飛んでいってしまいそうだった。
だけどその楔は
そうして何処かに行ってしまいそうな僕の体をこの場所に止め続けた。
それがどんな意味を持つのかは、今の僕には解らない。