外伝、ミソラージュを御覧になる方へ
1、これは外伝です。本編とは違い、明るいお話がメインです。
2、本編以上に原作から遠く離れています。オリジナルほぼ100%です。
3、本編のお話と、あまりリンクしていないかもしれません。
4、「あれ? あんなことがあった後なのにシンジ君がとっても明るい?」……気にしないでください
5、「何でこんなに楽器上手いの?」……気にしないでください
6、楽しいお話なので、haniwaが少々暴走気味です。
では、どうぞ御覧ください。
午後を、少し過ぎた頃。
シンジは二階の叔父夫婦の部屋の前にいた。すでに開けられているドア。部屋の中では、鏡に向かい身支度を整えている叔母がいた。
「それじゃあ、行ってきます」
その背中に向けて声を掛けた。
「今日は遅くなるの?」
彼女は、振り返らぬまま彼に質問だけを返した。すでにその場を立ち去るために足を向けていたシンジは、その背中に少しだけ振り返り答えた。
彼を呼び止めた叔母の顔が、彼女の向かう鏡に映って見ることが出来た。
「……修理に出しておいたチェロを受け取りに行くだけですから、そんなに遅くならないと思います」
「私はこれから仕事だけど、もし遅くなるようなら電話しなさい」
「……」
「何? 用が済んだのなら早く行きなさい」
「はい。……行ってきます」
最後の言葉に返事はない。
一度だけ、鏡の隅に映ったシンジに視線を送ると、すぐに視線を自分の顔に戻した。
シンジは、それを気に留める様子も無く、そのまま階段を下りて玄関に向かう。
降りきったところで、一度階段の上を見上げる。電気を消した階段の先に見えた二階の薄暗い天井が、僅かに見えるだけだった。
そこから、シンジを見送ろうとする誰かが出てくる事は、無い。
どのくらいそうしていただろうか。やがて彼は、再びその足を玄関へ向けた。
「あっ! シンジ、どっか行くの?」
彼女が居間からひょっこり顔を出したのは、ちょうどそのときだった。
ミソラージュ その一
僕と、彼女と、二人組み
商店街からほど近い、少々入り組んだ場所にあるその店は、少し古びた印象を受ける店構えだった。洋風なつくりの外壁には、少し枯れたツタがからみつき、古ぼけた印象に拍車をかけている。一瞬、もうここは廃墟なのでは、と周囲に思わせるほどだった。
しかし、出窓のように壁からせり出したショウウインドーには、そこで扱われている商品が綺麗に陳列されていた。
手入れの行き届いた楽器類。スタンダードな楽器から、特徴のある変わった楽器まで、様々なものがそこには置かれていた。そしてその楽器たちの隙間を縫うように、店内の様子を見ることが出来た。
そこには、棚に陳列されている商品とにらめっこをしている少年と、店内に設置されていたテーブルに突っ伏しながらその少年をあきれたように見ている少女の姿があった。
「ねぇ~、シンジー、まーだー?」
ごろごろとテーブルの上で頭を転がせながら暇そうに山川ユカリは聞いた。久し振りに穿いたスカートがめくれるのもかまわずに足をばたつかせた。それほどまでに彼女は暇だった。かれこれ二時間はこの店にいる。店内には静かなクラシックが流れ、落ち着いた雰囲気の中、彼女は持参した本をじっくり読むことが出来た。少年はユカリに話しかけることも無く、ゆっくりと店内をめぐり、ユカリはそんな彼を邪魔しないようにと気を使ったのが彼女の失敗の始まりだった。
そんな状態が続いたのも一時間まで。彼女は最近習得した速読で、持参していた本二冊もあっという間に読みつくし、それから更に一時間経った今ではすでに禁断症状まで出ていた。しかし、何より彼女が機嫌の悪い理由は別のところにもあった。
「もうちょっとですから……」
店内にそろえられていた商品は、彼の予想より数が多く、そして彼の優柔不断さはこんな所でこそ存分に発揮されていた。 テーブルからほど近い場所にある棚の前に立っている少年、碇シンジは、そんな彼女の険悪な雰囲気に気がつくことも無く、目の前の棚を戸惑いの表情で見ていた。
しかし、その表情の奥に隠れている感情がどこか楽しげなものであるとユカリは睨んでいた。
自分をほったらかしにして。
「さっきから何してんのよ」
「……いえ、弦を探してるんですけど、どれにしようか迷ってて」
「弦ってそんなに種類があんのー?」
少しだけ、ユカリがこちらに興味をもってくれたことが嬉しかったのか、シンジはそれまでの表面だけの険しい顔をたちまち崩し、
「はい! それはもう! スチール弦にガット弦、ラーセン弦っていうのがあるんです。このラーセンって言うのが一番高いんですけどどうもしっくりこなくてスチール弦やガット弦にも表面にまいてあるものの違いでクロム巻銀巻スチール巻タングステン巻があって僕はラーセンを使ってたんですけど最近スチール弦に変えてみるとこっちのほうがしっくり来るんです。でもスチール巻かタングステン巻か悩んでてアマチュアの人はスチール弦のクロム巻で十分だって言う人もいるんですけどソロでやってる人のお話ではタングステン巻もいいって良く聞くんです。はぁー……ユカリさんはどっちがいいと思いますか?」
一気にまくし立てた。
普段の彼からは想像もできないほどの言葉の量。まるで取り付かれたかのよう説明し、一息ついてやっと向きなおると、そこには見事にシンジの言葉の圧力に潰され、ぐったりとテーブルにうつぶせになっているユカリがいた。
「ねーねー、ユカリさんはどっちがいいと思いますか?」
ユカリのそんな様子を気に留めることも無く、シンジはユカリを揺さぶる。
うつ伏せになったユカリの表情はわからない。しかし次第に、その肩が揺さぶられているものではない、何かを耐えるように細かく震えていることがシンジに伝わる。
シンジは、思わずその手を止めるが、すでに彼女の肩の戦慄きは、すでに目に見えるまでに大きくなっていた。
そしてその震えが突然止まったとき、彼女はポツリと呟いた。
「……どっちでもいい」
「え?」
「どっちでもいいって言ったの! もう! 他のお店しまっちゃうじゃない! いつまで此処で悩んでるつもり!」
その場に立ち上がると、先程のシンジ以上の勢いで吼えた。シンジはそんな彼女を何とかなだめるためにぎこちなく微笑んで見せながら、話題を逸らしに掛かった
「……僕はここにいますから、ユカリさんは本屋さんに行っててもいいんですよ? ほら、ここの向かいは本屋さんですし」
「そ、それだと来た意味が無いじゃない……。それに! シンジをこんないかがわしい所に一人でおいて置けないし……」
「どうして? 此処はとってもいいお店ですよ? 確かに来たのは今日が2度目ですけど、チェロの弦の張替えと、駒の調整もこちらでしてくださるそうなので、終わるまでまだ時間がありますから」
「……」
黙りこんでしまったユカリをシンジはそっと覗き込む。ユカリとシンジの身長差からすると殆ど見上げる形にしかならなかった。それでもシンジは、俯いてしまったユカリを不思議そうに見上げた。
「ユカリさん?」
「知らない! もういいわ! 私、ひ・と・り・で行ってくるから! あんたなんかここでカビが生えるまでうだうだやってればいいのよー!」
そういうとそのまま、シンジと目を合わせることも無く、店の出入り口を目指した。入り組んだ棚の間を駆け抜けるように通り過ぎると乱暴にドアを開け、そのまま外へと出て行った。
扉に着いた鈴の音が、ガランと大きく鳴り響き、再び店内に元の落ち着いた雰囲気が戻ってきた。
「…………ユカリさん、機嫌が悪かったのかな?」
シンジ一人を、店内に残して。
「何よ、何よ、せっかく久しぶりに買い物にきったっていうのに! 自分の事にかかりっきりなんだから!」
ユカリは一人店から出ると、正面の本屋には向かわず、不満の声を上げながら商店街に向けてその足を進めていた。
こんな気分では大好きな本を読んでも落ち着かない。
いらいらとした思考を、どうしてこうなったのかという解決の道を探すための方向に向ける
せっかくの休みなのに、遊ぶ約束をしていた友人が突然の断りの電話をしてきた。それは仕方の無いことだったが、せっかくのお休みに何もしないのはつまらない。
どうやってこの暇を潰そうかと思案していた時に、黙って出て行こうとするシンジを玄関先で捕まえられた事は、ユカリにとっては幸運なことだった。
シンジの話をその場で聞くと、ユカリはすぐさま階段を駆け上がり、身支度をあっという間に整えると、母親への断りもほどほどにシンジの手を引っ張ってこうしてお出かけへと興じたのだ。
きっと楽しいお出かけになると、彼女は意気揚々と家を出た。
シンジの目的地に到着するまでは。
着いたところは、元はおしゃれだったかもしれないが、壁のツタがなんともいかがわしい。店内の様子は清潔だったが、ずらりと楽器が並べられているだけのその様子は、何もわからないユカリにはつまらないものだった。
しかしそれも、シンジがいればいろいろと楽しいだろうと、思いなおそうとした矢先、彼の様子は一変していたのだった。
先程のように。
ユカリの楽しい予想は、そうして見事に外れてしまった。
「何やってるんだろう、私」
俯いた視線の先には、むなしくゆれるスカートの裾が目に入った。
どうして自分は、こんなものを穿いているんだろう?
どうして自分は、こんなところを一人で歩いてるんだろう?
全部シンジのせいだ
「もう知らない! あんな音楽馬鹿!」
いい切ると気分を変え、その辺をぶらつこうと足を向けた。
そうしてユカリが進む方向を決めたとき、進んでいた道の先に、その男はいた。
(うわー……、でっかい人)
それがユカリの最初の印象だった。
その人物に目をつけたのは、道に人がいなかったという理由のほかに、彼が大きなギターケースを抱えていたことと、その身長のせいだった。
離れていても、その身長が高いことがわかる。
190センチはあるだろうか。裾の擦り切れたジーパンと、白いTシャツ。心なしかその方に背負われているギターケースが小さく見える。
ユカリがそうして、ちらちらと視線を送っていると、僅かに電子音が聞こえてきた。
すると男は、ごそごそとポケットから携帯を取り出すと、ユカリに気がついていないのか、少し大きめな声で話し始めた。
「あー遅れる? いいよいいよ気にすんな。店の場所知ってるだろ? テキトーに時間潰して先にスタジオに入ってるから。うん、……だからもう謝んなって。……もともとあの弦寿命でそろそろ変え時だなって思ってた……あ? いや、お前が珍しく自分から謝るから、黙ってたほうがなんとなく面白そうだなって……!! うわ! うっせーな、携帯で怒鳴るなよって、……きりやがったあの野郎……」
いけないと判っていても、そうして聞き耳を立ててしまった。
「ん?」
その視線に気がついたのか、その男はユカリのほうへ振り向いた。そしてユカリと視線が合う。
「ご、ごめんなさい!」
「……」
そして、思わず大きく頭を下げながらあやまって、再び頭を上げることもそこそこに、反対方向へと走って逃げた。気恥ずかしさと会話を盗み聞きしていた後ろめたさから、彼女は振り返ることも出来なかった。
そうして、彼女が走り去った後、自分の顔を撫でながらその大きな肩を小さくたたむ男の姿があった。
残ったっ店内にて、シンジはいまだに商品について悩んでいた。
「おーい坊や」
そんなシンジを呼ぶ声が聞こえてきた。一端手を休め、声のほうへと向かった。
店の奥にある、作業場のようなカウンター。そこには白いひげを蓄え、丸いめがねをかけた人のよさそうな老人がいた。その手には大きな楽器、シンジのチェロを持っていた。
それをカウンターに静かに横たえながらその老人はシンジを待っていた。
「はい、もう終わっちゃったんですか?」
シンジはカウンターに着くと、もう殆ど仕上がっているように見えるチェロを見てそういった。
「うむ、もう殆ど終わっとる。じゃがなぁ、ほれ、此処の駒なんじゃが……」
老人はそういうと、チェロの中ほどで弦を支えている駒を指した。
「はい、昔変えたことがあるんですが、良くわからなくて。お店の人のお勧めで変えてもらったんですけど」
「これはいかんよ、今時こんなものを使っとる奴はおらん」
「……そうなんですか」
少し残念そうに肩を落とすシンジに、老人は見かねて声を掛けた。
「ふむ。いいかね? 君が今まで使っとったのはベルギー産のものでの、少々音が中に篭るんじゃよ。早い話があまり音がよくでん。フランス産のいいものがこの間入荷したからの、良かったらこれも変えておこう。まぁ、よしあしは後で弾いて確かめてみるといい」
「……えっと、此処でですか?」
「まさか。この下はスタジオになっておるんじゃ。……ところで、君はこれまでどこ弾いとったんじゃ?」
「自分の部屋でですけど、どうしてですか?」
「ふむ? もしかして、独学でやっとるのかね?」
カウンターから少々身を乗り出して老人はシンジに問い詰める。
「はい。あっ、時々学校の先生に教えてもらってます」
「ふむ……」
それきり、老人は少しの間考え込んでしまった。その視線はシンジからはずれ、その手元にあるチェロに注がれていた。
「あの……」
シンジはその様子を不思議そうに覗き込んでいると、気がついた老人はにっこりとシンジに微笑んだ。
「いや、すまんね。君みたいに小さい子が、独学で、此処まで使い込むほど練習してるのが不思議でねぇ。修理を頼まれたときもびっくりしての。ほれ、この左手を置く場所なんじゃが、指板のところがひどく痛んでおっての。一体どうやったら此処まで使い込めるのかと……」
「……ごめんなさい」
「いやいや、別に怒っているわけではないよ。……良く練習しておるのが伝わってきての。感心しとったんじゃ」
「……」
老人はその皺だらけの手でシンジのチェロを優しく撫でながらそういった。そして目じりを皺いっぱいにしてシンジに微笑んだ。なんとなく、その眼差しが気恥ずかしくて、シンジは目を逸らして俯いてしまった。
「しかしな、もしかしたら手入れの仕方を知らんのじゃないかね?」
「えっと、詳しくは……」
「ふむ、中に少々埃が溜まっとってな、この取り方なんじゃが、まずお米を一握り入れての……」
「はぁ……なるほど……」
シンジはメモを片手に、老人の話に耳を傾けた。老人はその様子に更に目を細めた。
「これで一通り教えたんじゃが、後はためし弾きをしてもらわんと。しばらくはあまり思い通りの音がでんかもしれんが、弦がなじむまでしばらく掛かる」
「はい、いろいろありがとうございます」
たくさん書き込まれたメモをポケットにしまいこみながら、仕上がったチェロを受け取った。
「じゃあ、これがスタジオのカギ……しまった。今日は珍しく予約がはいっとったのをすっかり忘れとった」
「あっ! いえ、今日はもういいんです。僕はかまいませんから」
「いや、こういうのは実際に弾き心地を試して調整をせんと……」
シンジと老人がカウンター越しにそうしていると、来客を告げる扉の鈴がなった。
「おー、いらっしゃい。ひさしぶりじゃなぁ。元気にしとったか」
「まあまあだよ。ワリィね、また下、使わせてもらうよ」
「ああ、ちょうど良かった。いまそのことで話をし取ったんじゃ」
「ん? また修理の話か? なら俺は後でもいいよ、ってまさか……」
「お兄さん?」
シンジが振り返ると、そこにはいつの日かシンジのことをバスで送り届けてくれた二人組の片割れが立っていた。その肩にはギターを担ぎ、白いシャツに裾の擦り切れたジーパンをはいていた。
「よー!! チェロの子じゃないか。久しぶりだなー。元気にしてたか? ちょっと背も伸びたみたいだな」
シンジに気がついたその男性はぐりぐりとシンジの頭を撫でた。
「何じゃ、知り合いか?」
「ん、まーね。お! これ、あのときのチェロか。……触ってみてもいいか?」
「はい。えっと、どうぞ」
カウンターにおいてあったチェロをそっと渡す。男性はそれを受け取ると、静かに弦を撫でた後、一本だけピンと弾いてその音を確かめた。
「ん、やっぱり、こういうのは手にしっくりくるなぁ」
「気をつけぇよ。それ、ホントにいいもんだぞ?」
その様子を見ていた老人が、面白そうに男性の手の中にあるシンジのチェロを指差した。
「……いくらくらい?」
「お前さんのギターが、それこそ二十本は買える」
「げ!」
「しかも、フルスペックでな」
「これが……」
ごくっと男性の喉がなる音が聞こえる。すると途端にその挙動が危なっかしいものになる。そしてぼそりと呟いた一言が彼を見つめていたシンジの耳に届いた.
「それだけあればローンが……」
それを聞いて、今度はシンジの顔が青くなる。
「ご、ごめんなさい。か、返してもらえませんか……」
「いやいや冗談だって」
笑いながら彼はシンジにチェロを返した。
「で、どうするんだ? スタジオはこの地下だから、すぐにでも弾けるけど」
「……お邪魔じゃ、ありませんか?」
「変わってないな。そんなことないって」
「でも、……」
「いいからいいから。それにほら、俺だってチェロどんなのか聞いてみたいし、な?」
「……」
シンジは手元に戻ってきたチェロと、自分に微笑みかける男性の顔を困ったように、交互に見た。
「だめかな?」
「い、いいえ! えっと、その、……お願いします」
「ん、よろしい」
そうすると、もう一度シンジの頭に手を置いて、ぐりぐりと乱暴に撫でた。
「うわぁ、結構広いんですね」
「だろ? ここなら思いっきり音出して弾けるから気持いいんだ」
カウンターの脇にあった扉を開けて地下に降りると、そこには本格的なスタジオがあった。階段を下りて扉を開けた奥の部屋は、シンジが見ても解らない様々なメーターがついた操作盤のある部屋だった。操作盤の前の壁はガラス張りで、その向こうの部屋が見えるようになっている。シンジの前を歩いていた彼は、更にその奥へと進んだ。
「ほら、此処は編集をするところだから、それを弾きたいんならこっちに来て」
「あっ、はい」
その部屋の雰囲気に飲まれそうになっていたシンジは、慌ててそちらのほうに駆けていった。
そして彼に連れられて入った部屋は、先程ガラス越しに見えていた部屋だった。その部屋は先程の部屋よりも、少し印象の異なる部屋だった。備え付けられてたマイクやアンプのほかに、ドラムセットや何本かのギターやベースが少々乱雑に置かれたその場所は、清潔とはいえなかったが、その雑多な雰囲気はどこか不思議な雰囲気が漂っていた。
そうしてシンジがそわそわと辺りを見渡していると、ギターを出して準備をしていた彼はそれをおかしそうに眺めていた。
「こういう所は初めてか?」
「はい。いつもは部屋か、学校の音楽室を貸してもらってるんですけど。なんだか、不思議な感じですね」
「あぁ、音が散らないんだ。だから演奏した自分の音がよく判る」
「へぇー……」
「ほら、早速聞かせてくれよ」
「は、はい」
いそいそとケースにしまったチェロを取り出す。傍にあった椅子を引き寄せて座った。大事にしまわれたチェロを、そっと取り出す。シンジは、そのまましばらく手に取った感触を確かめた。つやつやとした感触と、しかしそれでいて手になじむ木の感触、磨きなおされた指板、張り替えられた真新しい弦。
そして、静かに弓をそえる。一本一本の音を確かめるように、ゆっくりと動かした。その音は、シンジが耳慣れていた音よりもわずかに高い音だったが、気にならなかったそれよりも、今この手にあるこの楽器が、今また自分の手によって奏でられていることの喜びのほうが大きかった。
しかし、そこで自分を見ている目があることを思い出してしまった。ちらりと自分を見る彼に目を向けると、彼はうれしそうにシンジを見ていた。彼は何もいわず、目を閉じると、そのままシンジの演奏を待った。
シンジはそれに答えるために、再び弓を握りなおした。今度は音を出すだけではなく、しっかりとしたメロディを奏でるために。
しかし、そうなると今度は上手く弾けなくなってしまった。緊張で手が震える。老人がさっき言っていた以上に自分の思い通りの音が出せない。
するとそこへ、聞きなれない音が聞こえてきた。細かく震えるような音。少しだけ手を止めて顔を見上げてみる。するとそこには、目を閉じて、自分の楽器に集中している彼の姿があった。
何も気負う必要は無い。ただ目の前にある楽器に集中すればいいんだよと、その姿は言っていた。
シンジは深呼吸をして、再び弓を握りなおし、もう一度静かに弦にそえた。今度はやわらかく、その音は滑り出すようにその部屋に響いた。
シンジのチェロの音と、彼のギターの音。シンジのチェロの音はチェロ本来の重厚で高すぎず、けれども決して低すぎることの無い静かな音。
いつの間にかその音色に沿うように響いていたギターの音は、その音の発生は弦を弾いた一瞬のはずなのに、彼らを包む空気を震わせて、いつまでもその場に残ろうとした。
その空気は、どこまでも心地のいいものだった。
そうして二人とも各々の音楽を引き始めた。もちろん、最初はかみ合わない。無理にあわせようとして、シンジのチェロは不快な音を立ててしまったし、それにつられてギターの男性も少しだけ音をはずした。
それでも次第にお互いの呼吸を覚え、目配せで合図を送るようになると、次第に奇妙な音楽が生まれだした。
そんな二つの音は微妙にずれながらも、まるでジャズのセッションのように、即興で出来上がっていく音楽を、二人は思う存分弾き合った。
そして最後、音を合わせてその演奏を終えたとき、ほんの少しだけ、お互いの心に寂しさを残して、二人は手を止めた。
「……」
「……」
お互い顔を見合わせると、気恥ずかしい空気が流れ、お互いがそれをごまかすように話し始めた。
「いや!! 本当に上手だなぁ。恐れ入ったよ。チェロってこんなによく響く楽器だったんだな」
「いえ! 駒を変えてもらったせいだと思いますよ。本当にこんなに音が変わるなんて思いもしませんでした」
「いいもんだなぁ、チェロって……」
「お兄さんのギターもかっこよかったです」
「おう、サンキュー」
「……えへへ」
「……あはは」
そしてそのごまかし方のほうが恥ずかしくなってくると、今度は二人とも顔を見合わせて笑いあった。
そして、彼がシンジにギターの弾き方を教えているときだった。
シンジは彼の膝の上に座らせてもらい、その手をとってもらってギターを弾いていた。
「―――んで、ここをこの指で押さえて」
「はい、あ、此処はちょっとチェロに似てますね」
「あぁ、そうなんだ。そういえば、ジャズバンドに、こんな風に弾いて演奏してるのを見たことがあるな。まぁ、チェロとはまた違う楽器だったけど、お前のでも出来るんじゃないかな」
「本当ですか?」
「あ、ああきっと、……たぶん」
自分を振り向いたときの、そのシンジの目の輝きに、一瞬、彼は目をあわせられなかった。
「じゃあ、僕頑張ります!」
「あ、あははは……」
シンジの純粋な言葉に、彼はまた、いつか感じたような何ともいえない居たたまれなさを感じた。
しかし、そこでちくりと刺すような視線に気がついた。
ガラス越しに、スタジオの入り口に目をやると、ちょうどそこに扉を開けて中に入ってきた一人の少女の姿があった。
彼女は、彼がその姿をはっきりと確認する間もなくあっという間に録音室の扉までかけると、一気にその扉を開けた。
その音に反応して、シンジがギターに向かっていた顔を上げる。そして、その視界に移った人物の名を呼ぼうとした。
「あ、ユカ―――」
「ちょっと! あんたこんなとこで何やってるのよ! 私外でずっと待ってたんだから!」
「うわぁ! ご、ごめんなさい!」
しかし、シンジが口を開くまもなく、その場に現れたユカリは大声で黙らせた。
彼は、その姿を見ておや、と思う。
「ん? きみはさっきの?」
「! さっきのでかい人! ……こいつをどうするつもりですか?」
彼が声を掛けると、事情を知らないユカリは警戒心を露にして、彼からシンジを引き剥がし、自分の後ろに隠した。
「いや、どうするって?」
「あのー?」
ユカリの後ろに隠れ、申し訳なさそうに身を縮めていたシンジが、おずおずとユカリの服の袖を引っ張った。
「なによ。だいたいあんたねぇ、知らない人にほいほいついていったらだめじゃない! あんたは早くそれ仕舞って! 逃げる準備しなさいよ!」
「いえ、その、話しを聞いてください」
「えーと、何か誤解があるようだが……」
「近寄らないで!!」
誤解を解こうと、シンジがユカリの気を引いているときに話しかけたのが悪かったのか、振り向きざまに彼の手を叩き落としたユカリは、更に彼に向かって牙を剥くように睨み付けた。
「ああ……どうしよう」
彼はその光景を前に呟く。
そうして、シンジとユカリと彼による奇妙な膠着状態が生まれつつあったとき、最後の火種は訪れた。
「あー!! チェロの子がいるー! どうしてどうして!! ひっさしぶり! 元気だった? 彼女さんも」
その場にいた誰もが、その声が聞こえたときに初めてその存在に気がついた。
「「お姉さん?」」
そこにはいつかの日と同じように、ジーンズの生地のスカートに、白いブラウス、そして青いベストに身を包み、長い黒髪を後ろに束ねていた。
「たすかった……」
男性はその女性の登場に、思ったままの安堵の言葉を口にしたが、ユカリの一言がそれを打ち砕いた。
「お姉さん助けて! この人、誘拐犯なの!」
「えっ、うそ!!」
シンジを引っ張り、ユカリはいつかのようにその女性に駆け寄り、厳しい瞳のまま彼を指差した。
ユカリの言葉に驚いた女性は、自分の彼氏と、自分にすり寄るかわいらしい女の子との間に挟まれた。そしてその視線は驚きに見開かれたまま、彼とユカリを何度も行き来した。
「ええ! ちょっと待て! いや、だから違うんだって」
彼がそうして声を掛けると、女性は一度彼に視線を固定した。しかし、彼女は何も言わず、じっと彼を見つめるだけ。その表情は、どことなく疑わしげに見えた。
何も言わずそんな表情で自分を見続ける彼女に痺れを切らし、彼のほうから切り出した。
「なぁ、黙ってないで。その子に説明してくれよ」
「……」
「おい、聴いてるか?」
「……ずるい……」
そうして、彼女が再び口を開いたその一言は、彼の期待を大きく裏切るものだった。
「は?」
「あたしには、止めろとか何とか散々言ってたくせに……」
「おいちょっと待て。まさかお前……」
ぶつぶつと独り言のように呟かれるその声は、その部屋にいるせいか、その場にいる全員に届き、更なる困惑を呼び寄せていく。
そして、彼女はゆっくりと自分の一番近くにいたユカリを抱き上げ、
「え! ちょっとお姉さん!!」
困惑するゆかりをよそに、彼女は男性に向かって、にやりと不敵に笑って見せた。
その瞳を見た彼は確かに見た。
彼女の瞳が、すでに理性を失っていることを。
「ずるい、ずるいずるいずるい!! 自分だけずるーい!! あたしもお持ち帰りするんだからーー!!」
そう叫ぶと、彼女は出口に向かって駆け出した。
「キャーーーー!?」
「ま、まってー!!」
担がれたユカリに、それをとめようと追いかけるシンジ。
「こ、このどアホー!! やめんか!!」
「あいた!」
事前に危機を察知していた彼が傍にあったマイクを彼女に投げつけた。まっすぐ飛んでいったそれは見事に頭部に命中する。
弾みでスイッチが入ったのか、キーンという厭な音が室内に響いた。彼女の肩に担がれたユカリや、それを追いかけていたシンジは耳を抑えた。
彼女はその場に立ち止まった。心なしか痛みに耐えるようにその肩が震えている。さすがにやりすぎたと思ったのか気まずげに彼は言った。
「あ……す、すまん。つい力が……」
「ふふ……」
「……あ?」
しかし、予想に反して、彼女の肩に手をかけたとき聞こえてきた声は、低い笑い声だった。
「ふははははは! この程度であたしを止められると思うなよー!!」
「うわ! うわーん!! おにいさん! 助けてー!!」
そしてユカリを抱えたまま、彼を交わし、今度はシンジまでをもその手に抱え、彼女は再び走り出した。
彼は、そっと天井を仰ぎ見る。
あぁ、神様…………この野郎!
そうして彼も走り出した。
何とか事態が落ち着いたのは、子供二人とはいえ、それを抱えて走り回っていた彼女が疲れ、彼に捕まったということもあるが、最終的にはシンジがその場で泣き始めたことが試合終了の合図だった。
「えーと、すみませんでした」
「いやこっちも、このあほがとんだ迷惑を……」
スタジオに戻ったユカリと彼がお互いに頭を下げた。その脇では、落ち着きを取り戻した彼女が、シンジをあやしていた。
シンジを膝の上に乗せ後ろから抱きしめるようにしていた彼女は、その感触にご満悦だった。
そしてシンジも、彼女の膝の上で、うれしそうにチェロの説明をしていた。
「へー、弦って、そんなに種類があるのね」
「はい」
そんな風にうれしそうに話す二人を、ユカリは複雑な面持ちで見ていた。普段は穿かないスカートのすそを、弄んでは放している。
それを見ていた彼は、彼女が以前に言っていたことを思い出した。
ああ、なるほど。これは可愛い。
彼は、ほころびそうになる顔を必死に抑えた。そして、ユカリがとうとう耐え切れなくなって動き出したのも、彼はしっかりと見ていた。
彼女とシンジは、まだそのことに気がついていない。
「ねぇねぇ、何か聞かせてくれないかしら?」
「あっ、はい。えっと、じゃあ、何弾こうかな?」
シンジが悩んでいると、その傍に来ていたユカリがシンジの手を引いた。シンジを彼女から引き離し、自分の前に立たせた。
彼女は突然引き離されたシンジと、引き離したユカリを驚いた目で見た。
そしてそれはシンジも同じだった。
「? どうしたんですかユカ―――」
「あれがいいんじゃない? ほら、いつか音楽室で聞かせてくれたヤツ」
ユカリはシンジが驚いているのにもかまわず、シンジの言葉を遮るように言った。シンジはユカリの真意を理解できていなかったが、言わんとしていることはわかった。
「―――あれ、ですか? でもあの曲、本当はぜんぜん出来てないんですよ?」
「いいじゃない。あれだったら、私歌えるし」
「……歌うんですか?」
「歌うのよ。というか歌わせなさい」
「……はい」
そういうと、シンジはチェロの準備を始める。彼女はその様子をあっけに取られたまま眺めていたが、ユカリがこちらを見ているのに気がついた。
その表情は、どこか勝ち誇ったかのように、にやりと微笑んでいた。
彼女はその様子の意味するところをすぐに把握できず、それを見ていた彼は、ユカリの仕草が、何ともかわいいくて、みなにわからぬように小さく笑った。
「では、いきます」
そして、シンジの演奏が始まった。
それは、いつかシンジが音楽室でユカリに聞かせた曲
それは、いつかユカリが音楽室でシンジに聞かせた歌
あの時と同じように、シンジは弓を動かし
あの時と同じように、ユカリは喉を振るわせた
シンジの演奏はその時と少し変わっていて
ユカリの声は、その時よりもよく響いた
互いが、互いの小さな変化に気づき
驚きいて相手に視線を向けると、互いの目があった
それがおかしくて、
それが楽しくて、
それがうれしくて、
シンジはそれを弓に乗せて、
ユカリはそれを歌声に乗せて
そして、ユカリが歌い終わり、シンジがその手を止めた時、その演奏は終わった。
いつの間にか、彼と彼女は目をつぶってその演奏を聴いていた。そして演奏が終わった時、二人が目を開けると、満足げに見詰め合っていたシンジとユカリがいた。
彼と彼女は拍手を送った.。
シンジとユカリは、その拍手に答えてお辞儀を返した。
その様子が妙に芝居がかっていて、シンジとユカリは顔を上げたとき、目が合った彼と彼女と一緒に、小さく笑った。
「ふー……。やっぱり、久しぶりだと音忘れてるわね」
「そんな事ありませんでしたよ?」
「えへへ、アリガト」
シンジとユカリが、そうして話をしているところへ、先ほどの歌を反芻していた彼女が、不思議そうに話しかけてきた。
「ねぇねぇ! さっきのなんていう歌なの?」
「あっ、名前はないんです」
「?」
シンジが答えた。
「もともと、この曲は僕のお母さんがよく弾いてたもので、それに歌詞をつけたんです」
「その歌詞って、やっぱり君が考えたの?」
「いいえ、ユカ―――」
「私よ!!」
シンジの言葉を遮って、ユカリが胸を張って答えた。彼女は納得したようにユカリに視線を移した。
「……なるほど。その歌詞って、もしかしてUnseasonable Father Christmas? あっ、えーと、【季節はずれのサンタクロース】?」
「!! どうして……」
「貴方の役って【彼女】でしょ? 私もね、その役やったことあるの」
「……」
そういいながら彼女は椅子から立ち上がると、先ほどよりもさらに複雑そうに顔をゆがめているユカリの頭を、うれしそうになでた。なでられたユカリの顔をそっとシンジが覗き込むと、どこか悔しそうに下唇を突き出していた。
シンジは、ユカリがどうしてそんな顔をするのか気にはなったが、こうなった時に下手に声を掛ければとばっちりが来るのを知っていたシンジは、ユカリをそっとしておくことにした。
立ち上がった彼女は、ぐっと背伸びをすると楽しそうにシンジたちに向き直った。
「よーし! いいもん聞かせてもらっちゃったから、あたしも久しぶりに歌うかー! ……というわけだから、よろしく」
「よし」
彼女が彼に視線を向けると、彼は心得たようにギターを握りながら立ち上がった。彼女は近くにあったスタンドマイクを引き寄せて、準備を整える。
彼もギターを肩に掛け、本格的に準備を整えると、彼と彼女はお互いの肩に手を置き、二人だけの円陣を組む
そしてほとんど額をくっつけるようにして顔を見合わせ、
「ロックに必要なのは!!」
「ソウルとビートだ」
「一発決めろ!!」
「Oh! Yeah!」
大きく声を掛け合った。
そして、二人は離れ際に手を打ち鳴らす。
それが始まりの合図だった
彼が傍らにおいてあったドラムを一度だけ、景気付けに叩く
ドンと、空気を震わせるようなドラムの音
空気の振動が収まるのを待たずに、肩にかけてあったギターを静かに弾き出す
徐々に早められていくビート
それにつられて鼓動も早まっていく
もっと早く、もっと強く
体の奥の破壊的な欲望のままに
暴力的な音の波に飛び込んでくるように彼女の声はわって入ってきた
その声は、周りの音に負けないくらい力強く、先程までの激しい音が、いつの間にか彼女のために在るもののように錯覚させる
見事に彼女の支配下に、その歌声の導くままに
そのあまりの統率力に、そのあまりの力の奔流に、シンジたちの思考は真っ白に吹き飛ばされていく
掻き乱されるわけではなく、むしろその力の流れに、自分から身を委ねたいと、思ってしまうような
自分の心の暗く淀んだところを、真っ白に吹き飛ばしてくれるような
そんな、心地よさが
それは、始まるのも突然なら、終わるのも突然だった。
最後に大きくギターの弦が室内に鳴り響き、そこでその歌は終わった。
はっと、辺りを見渡すと、そこは先程までいたとおりの、薄暗く、静かなスタジオの中だった。
しかし余韻は、いつまでも部屋の空気を熱くしてその場に残った。
演奏が終わってしばらく、シンジとユカリは目をしばたかせ、驚いたような表情を作り、演奏を終えた二人を見ていた。
その様子を見た二人はひそひそと耳打ち合う。
「……やりすぎたんじゃないか?」
「や、やっぱり?」
心配そうに、彼女はシンジたちを覗き込んだ
「ど、どうだったかな?」
彼女に話しかけられたシンジは、ぱっと目が覚めたように背筋を伸ばし、あわてた様子で話し始めた。
「えっと、その! ……何ていうんだろ? ものすごく音が大きくて、ものすごく恐い気もしたんですけど……」
シンジは困ったように隣のユカリに目を向ける。そして彼女も同様に、どこか気の抜けたようにシンジを見ていた。
ユカリは、シンジが忙しそうに離すのとは対照的に、どこかまだ衝撃の抜けきらない面持ちのままポツリとつぶやく。
「……カッコイイ?」
「うん、とってもかっこよかった。でも、体が震えて、それが止まらなくて。何ていうか。……うん、止まらなくて」
コクコクと何度も頷きながら体の震えを抑えるように自分の体を抱くシンジ。放心したようにどこか虚空に視線をやるユカリ。
しかし次第に、その瞳に光が戻ってくる。
「何でだろ? 私も、私たちも、とっても歌いたい!」
「はい!」
ユカリの言葉に、シンジが答える。
「うん、じゃあ、あんた弾きなさい」
「はい、じゃあ、歌ってください」
にっこりと笑みを浮かべて顔を見合わせる
今度はシンジがチェロを手に取り、ユカリが彼女からマイクをひったくる。そして二人で彼女を見据えて、
「負けないんだから!」
「負けませんから!」
それぞれの手にマイクとチェロを構え、彼女に向き直った。
その笑顔に、彼女はもう一度理性を失いかけるくらい、胸が躍った。
「よーし! じゃあ、カラオケ大会よー!!」
「「おー!!」」
彼女が高々と拳を掲げ、シンジとユカリがそれに習った
「元気だなぁー」
そんな三人に乗り遅れた彼は一人、ピックを握りなおした。
「くはーー! もう声が出ない~……」
歌い終えた彼女は、喉を押さえてぐったりと椅子に座り込んだ。それを見たユカリは鼻で笑った。
「うふふ、甘いわねーお姉さん。次よ!」
勝ち誇ったようにユカリはシンジへと振り返るが、そこには、彼女よりもぐったりと椅子に座り込んでいるシンジの姿があった。
「ごめ、んなさい……。僕、もうレパートリーが、ありません……あと、へとへとですー。腕がー、腕が、上がりません」
「な! もーー! だらしがないわね」
「っていうか、お前ら、いい加減にしろよ。何曲歌い倒したと思ってんだ。この時間なら、カラオケのほうがまだ安上がりだ」
その様子を見ていた彼は、息を切らしながら腕時計を見た。
「あれ? 今何時?」
「八時半ぐらい……」
それを聞いたゆかりの動きがピタリと止まる。そして、油の切れたロボットのような動作で彼に振り返ると、彼の掲げた腕時計を見て再び止まった。
「……やっちゃったーーー!! 」
「!!」
「え! なになに! 何があったの?」
「……むにゃ」
持っていたマイクで思わず叫ぶ。
彼は思わず耳を押さえ、彼女は椅子から飛び上がったが、シンジは委細かまわず眠りこけていた。
「ちょっと、あんた、なに寝てんのよ! 起きなさい! 帰るわよ!」
「えう? ……なんで?」
「いいから! 大変もうこんな時間! 早く帰らなくちゃママに怒られる! ていうか、怒られるの確実!!」
「……ありゃ?」
「もう! いつまで寝ぼけてんのよ!」
いつまでも寝ぼけていたシンジに、ユカリは手に持っていたマイクで一撃を加える。
「あいたー!」
シンジの声と、マイクの具使った音が再び室内に増幅されて響いた。ユカリはそれにかまわず、急いでシンジのチェロを仕舞い、シンジをほとんど引きずるように引っ張って出口へ向かった。
「それじゃあ、お姉さんにお兄さん。またねー!!」
「ま、またね~……お兄さんお姉さん~」
がたがたといろんな音をさせながら、ユカリたちは会談へと消えていった。
最後に見えた、ユカリに引きずられながら二人組みに力なく手を振るシンジが、なんとも印象的だった。
「……いっちゃった」
「……台風みたいな子だな」
ユカリを呼び止めようとして、挙げかけたまま止まった彼と彼女の手が、その台風の激しさを物語っていた
シンジとユカリの帰り道にて
ユカリは、いまだ目をこすりながら歩くシンジの手をとって、すっかり暗くなった道を歩いていた。
夜の冷たい空気を大きく吸い込むと、走ったせいで火照った体を冷やした。
「あー……、気持ちよかったねー」
「そうですねぇ~」
隣を歩くシンジは、まだどこか眠そうな声で答えた。その歩調も危なっかしく、ユカリは一度足を止めた。目をこするシンジの顔をそっと覗き込んだ。
「まだ眠いの?」
「いいえ、大丈夫です。でも……」
「何よ」
すっとシンジは夜空を見上げ、しみじみといった。
「……ロックってカッコイイですね」
それは、眠たげな目のせいで瞳が潤んでいたせいだろうか。
それとも夜空の星をその瞳に映したせいだろうか。
その瞳はきらきらと輝いていた。
「えーと、碇君? やめときなさい?」
「ロックかー……」
つぶやきながら、シンジはふらふらと歩き出した。
「シンジくーん? 聞こえてるー?」
ユカリはそのあとを追った。この先、シンジの音楽性に危険な因子が入り込んでしまったのではないかと、少し不安に感じながら。
彼と彼女の帰り道にて
彼女は、楽器店を出たすぐ傍で、自動販売機で買った飲み物で歌いすぎで痛むのどを冷やしていた。
「ぷはー、久し振りに歌ったわー」
「……手が痛てぇ」
その隣でつらそうに手をもんでいる彼は、そんな彼女を非難がましい目で見ていた。
「まぁ、いいじゃない。あのこのチェロも聴けたし、今日は楽し、かっ……た?」
そんな彼を横目にもう一度ペットボトルを傾けようとしていた彼女の動きが不自然に止まった。
何か気づいてはいけない事実があるような、ないような
そして、今度はすがるような目つきで彼を見て口を開こうとした時、彼がそれに気がついた。
「あ、名前聞くの、また忘れたなぁ」
「わ、忘れたじゃないわよ! 何で訊いとかないのよー!」
「お前だって忘れてただろ、俺に噛み付くなよ」
ほえる彼女に、彼は耳を押さえながら答えた。彼女は彼のそんな態度と言葉に対して、不満を顔いっぱいに表した。
「……明日も行く」
「お前、仕事だろ」
「ならあさっては」
「一緒だろ」
「じゃあ週末」
「俺、出張」
「じゃあ来週!!」
「……残念、今週であの店、なくなっちまうんだ」
「えっ! 嘘、なんで?」
彼女は単純な落胆と、意外な事実に対しての驚きに目を見張った。
そんな彼女の反応を見ながら、彼はさびしそうに続けた。
「おっちゃんさ、体がもうきついんだと。だからおっちゃんが店畳む前に、最後にお前と一緒に行っときたかったんだ」
「そう、なんだ」
手に持ったペットボトルを両手で包み、寂しげに視線を落とす彼女に、彼は勤めて明るく振舞った。
「……そう落ち込むなって。今日みたいにまた会えたんだ。いつかまた会えるさ」
「でも……それっていつ? この前最後にあったのだって、もう三年も前なんだよ? 次いつ会えるかわかんないのにー」
「まぁ、チャンスを物にできなかったのはお前の責任だからな。俺は知らん」
「何よー! ぐれてやるー!」
「……その歳からだと、みっともないだけだな」
「チクショー! 飲み明かしてやるー!!」
「俺は付き合わんぞ。明日俺だって仕事だし」
「……」
「……なんだよ」
「脱げ!!」
「なに!!」
「今からつくる!!」
「いやー!! ……ってなにやらせんだ!!」
まるで彼の胸を掴むように彼女は後ろから抱きついた。
「よいではないかよいではないか」
それを振りほどき、彼は彼女と対峙する。彼女は両手をわきわきと動かし、じりじりと間合いを詰めてくる。その様子は先ほどまでの落ち込んだ様子はない。彼は彼女の手を警戒しつつ、少しだけ安堵するようにため息を漏らした。
「はぁー……、わかった。わかったから、付き合ってやるから……公共の場でこれ以上のセクハラは、カンベンしてくれ」
彼が両手を上げて降参の意を表すと、彼女は満足そうに胸を張った。
「勝った」
「はいはい」
そして彼が差し出した手を見ると、彼女はその腕に抱きつき、二人はその場から歩き出した。
道こそ違えど、その二組は同じ空の下を、そうしてそれぞれの家路についた。
ミソラージュ その一
僕と、彼女と、二人組み
終わり
シンジとユカリは、楽器店をあわてて出発してからおよそ一時間後、ようやく家にたどり着いた。
「……あー、気が重いなぁ。きっとママ怒ってるんだろうなぁ」
「まぁ、仕方がありませんよ。ちゃんと謝りましょう」
「ふーんだ、あんたはそれでいいかも知れないけどね、私の場合おこずかいがもうピンチなのよ!」
「……また、本買ったんですか?」
「…………うん。だから、また、しばらくシンジの部屋に置かせてねー」
「はいはい」
そして玄関をくぐると、そこでシンジは歩む方向を変えた。
それに気がついたユカリは、すぐにシンジへ振り返った。
「……あっ、シンジ?」
「はい?」
ユカリが振り返った先には、相変わらず微笑んでいるシンジがいた。
「えっと、その……」
「……大丈夫ですよ」
不自然にシンジを呼び止めてしまったユカリは気まずそうに視線を泳がせていると、シンジが先に言葉を掛けた。
「そんな顔しないでください、ユカリさん。これは、僕が決めたことです」
「でも!」
「大丈夫です。これを置いたら、僕もすぐに行きますから、先に行ってください」
シンジは担いでいたチェロを指差して、それでもまだ心配そうに自分を見るユカリに微笑んで見せた。
「……うん、わかった。でも、すぐに来るのよ!」
「はい」
ユカリはそれでも不満そうにしていたが、最後にはシンジに釘を刺し、シンジを引き止めるのをあきらめた。
そして、シンジは、ユカリが玄関に向かうのを見届けた後、庭のほうへ足を向けた。
あとがき
カシスさんリクエスト、あの二人組みの出てくるお話をお送りしました。二人組みの名前を明かすわけにはいかなかったので大変読みにくい……。スミマセン。カシスさんに喜んでいただければいいんですが。彼=男性、彼女=女性ということで文中では統一したんですが。読みにくいですよネェ……。スミマセン。あと、キャラクターがめちゃくちゃぶれてる気がする。スミマセン。
最後の部分は、実はこれが五年生編の一部だったという罠を用意してみました。一応この部分はおまけということで。