ユーアーウェルカム!
ラジオの前のレーディースアンドジェントルメン! いい子にしてたか?
癒し系音楽がはびこってる中、
空気も読めねぇロックジャンキーな俺たちの時間だぜ!
俺たちに必要なのは押し付けがましい誰かの優しさか?
ノー!
知ったかぶりな理解者か?
ノー!!
金か? 女か? ドラッグか?
NO!
そう、何もいらない。
ただそこにCoolな音さえあればいい。
はじまるぜ、Postal of the ROCK にようこそ!
さぁてまずはラジオネーム”いつも見てます”さんからおくられた腹立たしい手紙を読み上げよう。
どこがむかつくかって?
聞いてっか? いつも見てますさんよぉ
……ここはPostal! お前が書いてんのはHospital!
使い古したギャグぶりかえすんじゃねぇよ オツムのお薬でも処方してもらってくれ
お前でちょうど百人目だよ……、オメデトウゴザイマス!
つかスタッフ! よく届いたなコレ!
んん? 何でそんなやつの拾ったかって?
……まじで百人目ということももちろんある。
悔しいことにリクエスト曲がいいセンスしてんだよ
まぁ、俺の嫌いなJ-Hopなトコが気になるんだが、食わず嫌いはいけねぇなと考えさせたれた一曲だ。
さてはて、あんたたちは自分が変なやつだって自覚はあるかい?
自分にとって普通なことが、他人にとっては奇妙なことに映る、そんな経験は?
俺がいつも言うように、常識ってなんだ?
こんな番組毎回聞いてるようなやつにまとも何はいねぇって突っ込みはノーサンキューだ。
たまには頭を使ってみようぜ。
自分たちの頭の中にある常識から、一歩出ればそこは異世界だ。
そこには人間はいるが、自分と同じイキモノとは限らない。
腹のそこでは何を考えているのか、そいつらの目には自分はどんな風に見えているのか。
そんなことを考えながら聞くと、けっこうおもしろいかもしれないぜ?
常識の扉を開けてみな! Knock! Knock! 意外と向こうからやってくるかもな?
J-Hopきっての癒し系バンドが、ぶち切れたとしか思えない異色のロックナンバー!
……覚悟はいいかい?
さぁ、どんな「 」を上げようか
見上げる空はどこまでも朱く
第十八話
「 」の中でそれは嗤う 前編
教育用に使用されるテレビ番組、又はその他の映像作品は、総じてそれを見る対象の子供達が興味をひくような構成となっているはずだった。
可愛いキャラクターがゴミ処理施設の解説をし、やたらと声を張る女性が科学の実験をする。
大袈裟な表現を伴ったそれらは、扱う事柄をほどよくかみ砕いた物でわかりやすく、理解する楽しさがあり、何より派手な見た目は、普段は教師の言うことをろくに聞かない生徒ですら勤勉な生徒へと変える。
しかし、何事にも例外は存在する。
今、とある小学校の教室、五年一組の生徒が受けている図工の時間に作品紹介という名目で、やや古めかしいテレビに映し出されている映像は、まさしくその類のものだった。
映し出されている映像は、それはそれは美しい絵画、ゆっくりと細部にわたって見せつけてくれる。
小学生には、まず理解できないようなそれを。
複雑難解な抽象画は、普通の小学五年生には自分たちでも描けそうな落書きにしか見えない。
ただでさえつまらないモノを見せられて、授業に対するやる気も興味すらも失っているところへとどめを刺すのは、その絵を一つ一つを懇切丁寧に説明するナレーション。
語り口は紹介作品に先入観を与えないためにひどく無機質。昼休み明けのクラス全員を教師生徒の区別無く、穏やかな眠りに誘いゆくに十分だった。
結果、その教育用映像作品をまじめに見ている生徒はごく少数だった。
そしてその少数の一人に、藤元カナミはいた。
(もう、先生まで)
カナミはちらりと、ゆっくりと船をこいでいる担任教師を盗み見た。
彼女は常日頃から、学級委員の一人として、一部のクラスメイト達の素行の悪さを何とかまとめさせるために日々心を砕いていたが、その一端は実はこの担任に在るのではとも考えていた。
寝ている生徒を注意してほしい。図工の先生がお休みだからってこんな風に手を抜かないでほしい。
一通り文句を思い浮かべた後、彼女はその元来の気の弱さから、それらすべてをため息に変えて吐き出した。
カナミは、自分が学級委員に選ばれたときも、こんな気分だった事を思い出した。
まとまりがないクラス。
そんなクラスの学級委員に他のクラスメイト達に、示し合わせたように一致団結したクラスメイト達に推薦され、そのまま就任させられた。
少しサイズの合わない大きな眼鏡。後ろできっちり一つに結んだ髪。学校で決められた位置に正しく着けられた名札。
カナミのそんな容姿が推薦の理由だというのに、担任教師は何も言わずその日のホームルームを終了した。
なってしまえばそれ以上文句も言えず、結局は学級委員をやる羽目になっていた。
自分の周りに流されやすい性格と気の弱さにため息を一つ吐いた。
もっと物事をはっきりと言える強さが自分に在ればと、願わずにいられない。
そう、例えば隣のクラスの山川ユカリのような。
(あんな風に、はっきり言えたらなぁ)
彼女は背も高く、男子にも見劣りしない。成績もいいし、運動だって男子にも負けない。
けれど、彼女のすごいところはそんな外見によるところだけじゃない。
文化祭で上級生達に混じり華々しく役を演じ、音楽会で率先してみんなを引っ張って、体の大きな男子に物怖じすることなく意見を言える。
そのどれもが自分にはまぶしすぎる姿、自分からは遠すぎる姿。
別に学級委員でも何でもない彼女は、それでも義務や責任など無いのに率先してそういうことが出来る。
自分とは違って。
結局は無い物ねだりなのよねと、心の中で呟いてもう一度吐いたため息とともに吐き出し、カナミは意識をつまらない授業に戻した。
相変わらず、テレビにはよく分からない絵が映っていて、まじめに見ているのは彼女を含めて十人程度。
他の生徒はほぼ全員が、ノートと筆箱を枕にすでに眠りこけている。
こんな状況では、まじめにやっていることがバカのように思えてくる。
よく見れば、未だ起きている生徒も眠たげに口を大きく開いている者が居る。
それにつられて、今まで我慢していた欠伸をしかけたとき、カナミの視界にある生徒の背中が映った。
カナミは慌てて欠伸を噛み殺した。
彼は、カナミよりも前に座っているのだから気が付きようがないと言うのに、大きく口を開きかけたことが恥ずかしくなった。
少し赤くなった頬を押さえ、わずかに高まっていた動悸が収まってから、カナミはもう一度、彼に視線を戻した。
その生徒は、小さな男の子だった。
彼の名前は、碇シンジ。
今も、この怠惰な空気が流れる教室の中、カナミとほとんど変わらない小さな背筋をまっすぐ伸ばして、ただ画面に見入っている。
周囲の気だるさを感じさせないその様子に、カナミは少しばかり見とれていた。
カナミにとって学級委員で一つだけいいことがあったとするなら、シンジがそのもう一人だということだった。
シンジもカナミと同じような理由から学級委員になった。
けれども、シンジはその事に文句を言おうとする素振りさえ見せなかった。それどころか嫌な顔一つせず、「自分で良ければ」とさえ言っていた。
その後も学級委員の仕事をしている際に、カナミはシンジが不平不満を言っているところを聞いたことがない。
いついかなる時も、シンジは笑顔で人に接している。
学級委員になったときも、誰かに何かを頼まれたときも、誰と居るときでも、彼は少し前髪に隠れたその笑顔を崩さない。
自分はきっとあんな風に振る舞えないと、どこかシンジと自分を隔てる壁のようなモノをカナミは確かに感じていた。
(でも、碇君は違う)
シンジの小さな背中を改めて見直して、カナミは思う。
ユカリと自分の間に感じた絶望的ともいえる距離感を、彼には感じない。
はっきりと自覚したのは、つい最近のことだった。
あれはそう、今も色あせずに思い出すことが出来る。
───────────────
風が強い日だった。
その日、カナミは例によって例のごとく、クラスメイトの頼みごとを断りきれず遅くまで学校に残っていた。
「うぅ、みんなひどいよ。私一人に実験のまとめ任せるなんて」
プリントの束を抱えなおしながら、カナミは一人放課後の廊下で呟いた。
すでに他の生徒達は下校して、学校に残っているのは先生かクラブ活動にまじめな生徒だけになっているような時間。
カナミはやや駆け足で教室へと向かっていた。
すでに日はだいぶ傾き、今歩いている廊下でさえ少し薄暗く気味が悪く、見慣れているはずの教室は、そのほとんどが電気が消えて人の気配が無い。
明るくて当たり前の場所、人がいて当たり前の場所が、どこかに迷い込んだかのような、昼間とは違う印象をカナミにに思い起こさせ、さらにその足を速めさせた。
カナミが五年一組の教室に辿り着いたときには、すっかり息が上がっていた。
やはりその教室も明かりはすでに消えていて、人の気配は感じられない。荒く呼吸を整える自分の声が妙に大きく聞こえた。
それでも少し、目の前の扉を開けることを躊躇ってしまった。
教室のドアには曇りガラスが張られていて、中の様子をうかがうことは出来ない。
「ま、まだ夕方だし、お化けさんだって出てくるのはもう少し遅くなってからだよ、ね?」
少し上ずった声で自分に言い聞かせた。
動機が収まり、ほっと一息吐いたところでようやく教室の扉に手を伸ばしたとき、
「――――」
「っ!」
誰もいないはずの教室から、わずかに音が聞こえた。
けれど、それは確かに人の声。
なんとか手に持っているプリントを落とさず、上げそうになった悲鳴をこらえる事だけは出来た。
「だ、誰か居るの?」
呟くような小さな声が原因か、それとも本当に教室に人はいないのか、返事は無い。
(ど、どうしよう)
このまま帰ってしまいたかった。
しかし、カナミの鞄は未だ教室の中にあり、加えて今日はたくさん宿題が出されていた。
わずかに目に涙を浮かべて、カナミは教室前で立ちつくしていた。
カナミがそうして迷っている間も、時折吹く風がざわざわと木々を揺らし、開いた窓から入り込み恐ろしげな悲鳴を上げ、さらに陽は刻々と傾き人気のない廊下が暗がりをましてゆく。
(鞄、とってこないと宿題が出来ないし、でも中にはいるのは恐いよぅ。でもでも早く帰らないと塾に間に合わないし、ママにも怒られるし。でもでもでも中に入ってお化けが出てきたら――――)
キーン コーン カーン コーン
「っ!!」
一部ループしかけた思考にふけっていたカナミは、突然鳴りその響いた鐘の音で、身を飛び上がらせ、驚きすぎて喉がつまった。
『下校の、時間になりました。学校内に残っている、生徒は速やかに帰宅しましょう。繰り返します。下校の――――』
しばらくまた、扉の前で呆然としていた。
鐘の音に続いた少しぎこちないアナウンスが、カナミに多少の余裕を与えた。
「あははは……、はぁーー。」
カナミの乾いた笑いと深いため息が、薄暗い廊下に響いて消えていく。
目の前に在るのはただの扉。その先に広がるのは、変わらぬ教室の風景だけ。
今度はそう自分に言い聞かせ、カナミはようやく教室の扉に手をかけた。
ほんの少しだけ扉を開ける。
隙間から漏れてきたひんやりとした空気が、カナミの汗ばんだ頬を撫でた。
その感触にまたドキリとしながらも、教室を覗き込んだ。
誰も、いない。
教室の教壇側の開けっ放しにされた窓から入り込だ風がカーテンをはためかせ、夕日が差し込んで茜色に染まった教室の中には、誰もいない。
物言わぬ机が少し乱雑に並べられ、教室の床一杯に、細長く、歪な陰を作っている。
カナミは音を立てないようにそろそろと中にはいると、まっすぐ自分の机に向かう。
廊下側から二列目、前から五番目の席。カナミの荷物はきちんと机に掛かっていた。
それは当然で、当たり前のことなのに、カナミはその事に廊下でのことを忘れるくらい、酷く安堵していた。
鞄に必要な物を詰め込むと、さっと教室を見渡した。
(窓、しめなくちゃ……)
鞄を手に持ったまま、机をよけて開けっ放しになっていた窓に近づこうとした。
しかしそこへ、ひらりと風に運ばれてきた何かが彼女の目に留まる。
一枚の紙が、カナミのすぐ足下に飛んできた。
それは何度も書き直したせいで書くところが無くなるくらい真っ黒に汚れた紙だった。
何気なく飛んできた方向を見やると、そこには床に直接座り込んだ誰かの足が見えた。
「!」
限界を超えた呼吸が今度こそ上げそうになたったカナミの悲鳴を押しとどめさせた。
足に主は、乱雑に並んだ机の陰に隠れて見えない。
しかし、まさに開け放たれた窓のすぐ下にそれはいる。
カナミは鞄を盾のように構えながら机の間を縫うように、さらに近づいた。
一枚、二枚と床に散らばる紙が増えていき、やがてそれはカナミの前に現れた。
「! ……碇君!?」
机の陰に隠れ、紙に埋もれるようにして教室の床に座り込んでいた彼女のクラスメイト、碇シンジは、カナミに気が付かないまま少し俯き気味に耳に付けたヘッドホンに聞き入っていた。
その彼から、わずかにメロディが聞こえてくた。
「~~♪」
鼻歌。
シンジは聞いている曲を口ずさんでいた。
(……つまり、これはどういう事なのかしら?)
鞄を抱えて身構えていた自分、そんなことなど露とも知らず楽しげに音楽を聴いているクラスメイト。
おそらく、廊下で自分が聞いた人の声というのも、目の前の彼が犯人だ。
(あぁ、わたしが廊下で悩んでたことはなんだったんだろう)
結論に思い至ったカナミは、シンジに気づかれることの無いまま、一人肩を落とした。
そして、じろりと恨めしげにシンジを見た。
(それにしても、楽しそう)
時折首を揺らしながらリズムを刻み、メロディを口ずさんで。
カナミが思わず前髪に少し隠れたその顔を覗き込もうとしたときだった。
くるっと、シンジがこちらを振り向いた。
「……きゃぁぁ! っていったぁい!」
カナミは今度こそ悲鳴を上げた。
あまりに驚きすぎて足下に飛んできた紙を踏みつけ盛大にすっころんでしまった。
「うぅ」
「大丈夫ですか?」
「え! うん、大丈夫! あっでもお尻がとっても痛い……って、違うの! そうじゃなくって、えっと、えーとぉぉ……」
ぶつけたお尻の痛みと、一人で慌てて転んだという羞恥が、カナミにその声が誰かを忘れさせた。
いろんな物がないまぜになった感情がカナミを襲い、その瞳にはうっすら涙がにじむ。
はっと、気がついたときには、彼女の足下にすっと小さな陰が重なっていた。
「はい、落ち着いてください」
カナミが陰の主を追い視線を上げると、そこにはいつの間にか立ち上がったシンジが心配そうにカナミを覗き込んでいた。
自然と、いつも前髪で隠れているシンジの顔を、カナミは見上げる形になっていた。
パッチリと開いている瞳が、ちょうど沈みかけた夕日に照らされた顔とともに、心配そうに自分を見ている。
普段、微笑みの奥に隠れている瞳が、自分だけをまっすぐに。
その姿を見たとき、混濁した感情が一瞬にして消え去った。
変わりに降って沸いたものが、カナミの胸を熱くした。
「い、碇君!」
沸騰した思考の勢いのまま、裏返った声も気にならずにカナミは声を上げていた。
何かいいたいことがあったはずだ、それを早く目の前の彼に伝えなくては。
そればかりが頭を埋め尽くし、肝心のものがさっぱり浮かんでこなくなってしまった。
何を聞いてたの? 楽しそうだったね、私にも聞かせて――――
「何でしょう?」
そんなカナミの様子を見かねてか、シンジが声をかけた。
「えっと、その……」
パクパクと、伝えたい言葉が空気を震わせずにカナミの口から出て行った。
ただ、苦し紛れに視線を泳がせた先に、教室の時計が視界に移り、
「……も、もう下校時間だよ!」
とっさにそう叫んでいた。
「あれ?、もうそんな時間ですか。すみません」
「あっ」
シンジの気をそらすことには成功した。
しかし、
(そうじゃないのぉ~)
自分の荷物を片付けているシンジを見ながらカナミは頭を抱えていた。
「どうしたんですか委員長さん、早く帰りましょう」
「あぅ……」
一人葛藤を続けていたカナミを尻目に、シンジはあっという間に、あたりに散らばっていた紙を片付け、帰る準備を整えてしまっていた。
シンジの手には彼の傍らにあったナップサックのほかに、先ほど取り落としたカナミの鞄まで携えていた。
そして、輝く笑顔。
カナミはひそかに心の中で白旗を振った。
//////
見回りの職員がつけたのか、蛍光灯が妙に明るく見える廊下を二人は並んで歩いていた。
言葉はなく、カナミは少し息苦しいと感じながら、隣を歩くシンジを時々盗み見ていた。
先ほどと違い、シンジより少し背の高いカナミからは彼の表情は目が前髪に隠れて判然としなかった。
ただ、自分をおいてゆくでもなく、遅れるでもなく同じペースで下駄箱までの道を歩いていた。
「ね、ねぇ、碇君」
「はい、何でしょう?」
もしかしたら無視されるかも、と考えていたが、カナミがおずおずと話しかけると、まるでそれを待っていたような速さで聞き返してきた。
カナミは、思い切って整理された質問をぶつけてみることにした。
「教室で何してたの?」
「この間のアンケートをまとめていたんです。帰ろうとしたら先生に呼び止められて、今日までにまとめておくようにって」
「あっ、それってクラス委員の仕事? ごめんなさい! 私、化学室で頼まれごとしてて……」
「いいえ、時間は掛かりませんでしたから、そんなに謝らないでください」
「……ごめんなさい」
カナミが申し訳なさに襲われて頭を下げた。
「あれ? それじゃあ、どうしてこんなに遅く?」
「え!? ……えー、とその……」
頭を下げた姿勢のまま、カナミがシンジの顔を遠慮がちに覗き込むと、シンジはあからさまに身じろぎ、さらに軽く肩にかけていたナップサックを大急ぎで体の後ろに隠した。
シンジの取り乱したその様子に、カナミはますます興味をそそられ、さらに聞いた。
「なんなの、それ?」
「これはその、……ちゃんと許可はいただいてるんですが、その……」
シンジはいいにくそうに口ごもると、そろそろと隠していたナップサックをカナミの前に広げて見せた。
そうして、歩きながらシンジは自分が教室でしていたことをカナミに説明した。
誰もいない教室はとても静かで、しっかりと音を聞き取るにとても適していた。
アンケートの仕事を終えた後、ついついそれが長引いてしまったこと。
床に散らばっていた楽譜は日ごろの成果だということ。
カナミはそれを目を輝かせながら聞いていた。
「へー、碇君ってそんなこと出来るんだ。すごいなぁ」
「そんなことありませんよ」
シンジは照れたように頭をかいた。
「でも、こんな遅くまでやってちゃいけないと思うの」
「……はい、すみません」
「碇君、副委員長なんだから気をつけてね」
正しい委員長としての態度で注意するカナミに、シンジは頭をかいていた手をそのままに、今度は頭を下げた。
素直に自分の言うことに反応するシンジに気を良くしてか、カナミはいつの間にかお姉さんぶってシンジに接していた。
「あの、一つご相談があります、委員長さん」
「何でしょう?」
カナミは、わざとシンジの口調を真似て答えた。
「このことは、クラスの人には秘密にして頂けませんか?」
「えっ? かまわないけど、どうしてなの?」
しかし、先ほどまで少しふざけていた雰囲気をまったく消してこちらに向かい合うシンジに、カナミはたずねた。
「クラスの人たちに知られないと言うのが、これを学校に持ってきてもいい条件なんです。僕も、お昼休みと放課後以外、先生と約束したところにしまって、それ以外では決して触れないようにしています。今度は、こんなに遅くなったりしないよう気をつけますから、どうかお願いします」
シンジは深々と頭を下げた。
それは、いたずらが見つかった男子という類のものではなく、ましてや同級生に対して示す態度ではなかった。
その態度は、彼にとって切実な何かがあることをカナミに気づかせた。
「うん、いいよ。じゃあ、碇君がそれをどこにしまってたかも、黙ってたほうがいいよね」
「はい、お願いします」
カナミが快く承諾したことに安堵してか、シンジはほっと笑みを浮かべていた。
下駄箱のある玄関まで、二人はそうして歩いていった。
カナミは日ごろからは考えられないほど、シンジに話しかけた。
内容はずいぶん表面的なものだった。
今日の授業はどうだったか、お昼休みは何をしてたのか、この間のテストはむずかしかった、等。
しかし、どの教科が好きで、何が苦手なのか、そうしたシンジ個人への踏み込んだ話題にまで発展させられなかった。
シンジはカナミの話題をすべて聞き、決してそれを否定することなく受け答えはしてくれる。
何でだろうと、カナミは考える。
おそらくシンジは、話せば答えてくれるだろう。
そんな確信がもてても、カナミはそこではいつものように踏みとどまってしまっていた。
けれどもそれは、自分のふがいなさを感じるいつものもやもやとしたものが押し止めているのではなく、むしろ高鳴りを抑えきれず、言葉を選び、タイミングを計っているうちに、その機を逃してしまっていた。
カナミは、これはいつもと同じじゃない、けれど何も変わってない、と自分でも整理のつかない思いを抱き始めていた。
言いたいことはたくさんあるのに、失敗が怖くて、拒絶されることが怖くて、肝心のものは出てこない。
下駄箱が近づくにつれて言葉もなくなり、シンジがそれを不振がっていないかとカナミが彼を盗み見ると、彼は迷うことなく玄関へと足を進めていた。
次に彼女の胸中に生まれたものは結局、いつもと同じ自己嫌悪と諦めだった。
やがて、シンジとカナミは玄関にたどり着いた。
もう日もだいぶ傾き、正面の扉から入り込んだ日差しが下駄箱を照らし、玄関広場を赤く染めながら二人のところまで長い影を作っていた。
二人は別れ、それぞれの下駄箱に向かった。
下駄箱の間に敷いてあるすのこが、二人が歩いたせいでカタカタとなり、薄い鉄製の下駄箱は錆付いているせいか、キイキイと耳障りな音を立てた。
一足早く靴を履き替えたカナミは、正面の下駄箱ごしにシンジがいるであろう方向に目を向けた。
シンジは履き替えてる途中なのか、ごそごそと動いている気配が伝わってきた。
「……碇君って、結構話しやすいんだね」
カナミは、冷たい校舎に響かないように、そっと声を出した。
下駄箱越しに、動く気配が一瞬止まった。
「そうですか?」
「なんか今までクラスの仕事でしか話したこと無かったし、すごい人だなーって勝手に思ってた」
直接シンジを見ていないせいか、カナミは自然と、いままで胸につかえていたことがうそのように、素直な気持ちを吐き出せていた。
「僕が、ですか?」
「うん。だって、めんどくさいこともいやなことも、みーんな引き受けちゃって、ちゃんと最後までやって、しんどそうなのに、でも笑えてる碇君はすごい人だなーって」
変なことを口走っているという自覚はあった。
しかし、今ここで言ってしまわないと、もうこんなことは二度といえない。
そんな気がして、カナミは勢いに任せてくちばしった。
「そんなんじゃありませんよ、僕は。はっきり断れないだけなんです」
「あはは、わたしも……」
「僕、ユカリさんみたいにはっきりものが言えたらなって、いつも思います」
「えっ? ユカリさんって一組の、山川ユカリさん?」
何気なくいったシンジの一言に、カナミは耳を疑った。
「はい」
「……そうなんだ。碇君も……」
続けようとした言葉を頭に思い浮かべたとたん、カッと胸が熱くなった。
「も?」
「あっ! ううん、違うの今のは」
「?」
カナミは見えてもいない相手にあわてて手を振り、ごまかした。
一瞬、彼も自分と同じように山川ユカリにあこがれていたと考えたとたん、急に気恥ずかしくなっていった。
シンジが靴を履き終えるのを待って、二人は校門へと歩いていった。
再び横に並ぶとまた何もいえなくなってしまったカナミは、それでも何か言いたそうに時折シンジを盗み見ては小さくため息をついていた。
「きれいな夕日ですね」
初めて、シンジからカナミに話しかけた。
自分がため息をついていたことに気がつかれたのかと、一瞬体をこわばらせたカナミだったが、すぐに隣を歩くシンジを見ると、彼はただまっすぐ空を見上げていた。
空は、少し夜の気配を漂わせていた。
もうほとんど沈んでしまった夕日が、粒のような輝きを放ちながら、二人の歩く坂道の下に広がるビルが形作るいびつな地平線の向こうへと消えようとしていた。
空には一番星がどれかもわからないほどのたくさんの星が、深い青に染まり始めていた空を飾り付けていた。
カナミがその光景にすっと息を呑む。その空気さえにわかに冷たくなり始めていた。
「とってもきれい」
素直にそういえた。
「よかった」
「えっ……」
ふいに、横を歩いていたシンジがつぶやいた言葉に、わけもわからずカナミは振り向いた。
「藤元さん、なんだか元気がなかったみたいでしたから」
シンジは微笑んでいた。
そのとき、カナミは気がついた。
碇君は、本当に優しいひと。
私は、誰にも嫌われたくないから、みんなが怖くて頼みを断れない。
でも、やっぱり碇君は、私とは違う人なんだ。
きっと、みんなのお願いを断れないのも、困った人の顔をみたくないからなんだ。
だって、私を心配して笑ってくれたときは、こんなにも悲しそうな顔なんだもの。
さぁ、帰りましょうと歩き始めたシンジの背中を見つめながら、カナミの胸は、また静かに熱くなり始めた。
ただ、もう少しシンジと、同じ道を歩いてみたいと―――
───────────────
「―――元、藤元! ……藤元カナミ!!」
「は、はい!」
カナミが名前を呼ばれて思わず立ち上がると、そこは美術室だった
慌てて周りを見渡すと、いつの間にかビデオは終わっていて、慌てて返事をしたカナミを笑う声がいくつか聞こえてきた。
「何だ、寝てたのか? しっかりしろよ学級委員、号令」
「……はい。起立、礼」
カッと顔が赤くなることを感じながら、カナミは小さくそう言うしかなかった。
カナミの声にあわせて、クラスメイトたちが挨拶を終えると、担任はビデオの片づけを終えてさっさと教室から出て行ってしまった。
その後に続くようにダラダラと生徒たちは移動を始めた。
どことなくみなの足にやる気がなさそうに見えるのは次のロングホームルームに面倒が待ってるからだ。
それを思うとカナミも思わずため息が出るが、自分も早く教室に戻らなければと、机の上に出していた道具を片付ける手を早めた。
教室には、カナミのほかにまだ無駄話をしている生徒が何人か残っていた。
カナミはその中で自分の斜め後ろを恨めしそうに見た。
「何だよー、結局今日ビデオ見ただけかー」
そこに座っていた、クラスでも一番体の大きな男子が、何か細長いものを手に取りいじりながら、けだるそうに言った。
「せっかく木削んのにもってきたのに無駄になっちまったなぁ」
「うお、かっけー、どうしたんだよそれ」
それを見ていた別の一人がその男子に駆け寄ってそれを覗き込んだ。
「親父が出張のおみやげにくれたんだ」
「ケンちゃんとこの親父って何してるんだ?」
「しらねー。いっつも家にいねぇし、たまに帰ってきても何も話しねえしな」
「なあなあ、それ、ちょっと貸してくんね?」
「あ? 何すんだよ」
「いいからいいから」
覗き込んでいた男子は顔を上げ、あたりを見渡した。
そして、カナミと目が合った。
いやな予感がして、カナミはすぐに教室を出ようとした。
カナミの後ろでガタッと机の動く音。
「逃げんなよ、いいんちょーう」
「ひぁ!」
ぐっとつかまれた腕の痛みと、頬に押し付けられた物の冷たさにカナミは小さく悲鳴を上げた。
「動くなよー。あんま動くと顔切れるぞ」
「ひっ……」
嗜虐にあふれた声が耳に届き、ひたひたと頬をたたく冷たい感触。
「ほら、かっこいいだろ? ケンちゃんのなんだけどさー」
すっと、それを突き出した。
カナミの目の前に鈍色のナイフが現れた。
「何、びびってる? 委員長」
それを見せ付けるように刃をきらめかせ、カナミがよけようと顔を背けるたび、ケタケタと笑い声を上げた。
「やめてやれよー、委員長かわいそうだろ」
離れてみていた体の大きな男子も、面白そうにそういった。
見渡せば、教室に残っていたほかの生徒も、自分がおびえる様子を面白そうに眺めるか、関わりたくないとそそくさと教室を出て行くものばかりだった。
カナミは怖くなってきた。
今も目の前を通り過ぎるナイフが、ではない。
ナイフが目の前を通り過ぎるたび、つい想像してしまう。
たとえば、今自分を捕まえている男子が、少し向きを変えるだけでいい。
この冷たい刃が自分の皮膚に触れるところ。
皮膚を裂き、肉に食い込み切り裂く。
自分が母を手伝い台所に立ち、包丁で誤って手を切ってしまったときのように。
ザリッと鶏肉を斬ったときのような手ごたえの後、冷たいのか熱いのか分からない鋭い痛み。
そこから流れ出る生暖かい、血の感触。
いつもは自分の失敗に厳しい母が血相を変えて手当てをしてくれた。
でも、今時分を取り囲むみんなは、どうするんだろう。
ふざけすぎたことを謝ってくれるかな。私を心配してくれる?
私に刃物を押し付けてる彼を、私の代わりに怒ってくるれるのかな。
それなら、私は救われる。
今はこのナイフが怖いけれど、それならきっと私は救われる。
そんな気がする。
でも、もし。
もしも、みんなが、血を流す自分を見て、笑い続けたとしたら。
血を流す自分を面白そうに見るイキモノダトシタラ。
……こわい。
こわいよ
誰か、助けて
「あなたたち! 何してるの!」
「うわっ!」
すぐ後ろから鋭い声が割って入ってきた。
半ば自分の思考に没頭していたカナミは、自分を押さえつけていたクラスメートがびくりと体を振るわせたことを感じて、ゆっくり後ろを振り返った。
声の主は教室の入り口に立っていた。
すらりと背が高く、上下黒の服装と一くくりにまとめられた長い黒髪、そして一番印象的な切れ長のその目をさらにきつくしてこちらをみていた。
「やべぇ黒田先生だ…」
誰かがそういった。
黒田はそのとき教室にいた生徒を誰も逃がさないというかのように、一度にらみをきかせるとまっすぐにカナミたちの下へ近寄ってきた。
すると、いつの間にか自分の後ろに隠れていた男子の方をつかみ自分の前に引きずり出した。
その手にはまだあのナイフが握られていた。
黒田は何のためらいもなく、それを素手で握り締めた。
「これは、何?」
「う、わ、」
その場にいる全員が、すくみ上がるような厳しく、低い声だった。
黒田が突然現れたときから、どこか呆然としていたカナミも、この声で目が覚めた。
直接それを向けられた男子は、呼吸さえおぼつかなくなるほど動揺し、ナイフを持っていた手を反射的に振っていた。
しかしそれでも、黒田は手を放さなかった。
「これは、いったい何? あなた達はいったい何をしていたの?」
「う、うっせーな! 関係ねぇだろ!」
男子はその手から逃れようともがいたが、とうとう黒田にナイフを取り上げられた。
「これは没収します」
その一言に、カナミの後ろで立ち上がる男子がいた。
「ちょっとまてよ!」
カナミが振り返ると、先ほどケンと呼ばれていた男子が、にらみつけるような視線を黒田に向けていた。
「それ、俺のなんだけど」
「これは、あなたがもってきたの?」
「だから、俺のだってってるじゃん」
何を言ってるんだといわんばかりの態度で彼は言い放った。
「これは返せないわ。没収します」
「はっ、何だよそれ、委員長とちょっと遊んでただけじゃん」
おどけた態度をなおも崩さない彼に対し、黒田は一度カナミに視線を送ると、今まで握り締めていた手を開いた。
「ふざけても、やっていいことと、悪いことがあるのよ?」
その手を見て、ケンの眉がピクリと動いた。
ケンの前に突き出された手は、うっすらと赤く血をにじませていた。
一瞬だけ、彼の目つきが変わり、気まずそうな表情を作ったが、すぐにそれを不機嫌なものに変えて、彼は黒田に背を向けた。
「はっ! 勝手にすれば?」
「返してほしかったら放課後に職員室に来なさい」
「…、おら! 行くぞ」
ケンは、黒田にナイフを取り上げられた男子を蹴飛ばしながら教室から出て行った。
教室には、いつの間にか黒田とカナミしか残っていなかった。
「あなたは大丈夫?」
「え! あっ、はい大丈夫、です。大、丈夫っ……!」
答えながら、カナミの体は震えだしていた。
今になって、黒田の血に汚れた手を見て、恐怖が現実となってカナミを襲っていた。
あの掌のように自分も傷ついていたかもしれない。
私の代わりに傷ついた先生になんといていいのか分からない。
自分が傷つかなくてよかったと思ってほっとしている、そんな自分がいやでいやで仕方ない。
恐怖と罪悪感と、加えていつもの自己嫌悪にカナミが押しつぶされようとしていたときに、そっと、頭に手が優しく置かれた。
「?」
「怖かったでしょう、もう大丈夫だから」
黒田はそういって、カナミの頭をなでた。
その一言だけで、やわらかく心が包まれていく気がした。
その手の暖かさで、先ほどまでめぐっていた考えが、溶けて消えていくようだった。
カナミが、ほとんど涙目になりながら黒田の手を見つめている
「ん? ああ、あなたが気にすることじゃないわ。。それよりも、早くお礼を言いに行きなさい」
「え?」
黒田の言葉に戸惑いつつも、カナミは黒田のその言葉が、よりいっそう温かみを持っているように感じた。
それはなぜか。
「碇君、あなたがいじめられてるって教えてくれたの。碇君も着いてくるつもりみたいだったけど、彼は先に教室に行ってるように言っておいたから、理由は分かってあげてね」
一瞬、どういうことなのか分からなかった。
ただ、冷たい何かが差し込みかけていた体の中に、何か暖かいものが生まれ、広がってゆく。
「さぁ、早くしないと次の授業に遅れるわよ」
「はい!」
そう返事をして、教室から駆け出したカナミの表情には、暗い影はなくなっていた。