あの時もそう思った。
今もそう思う。
この光景はまるでビルが、ボクを追い詰めているようだと。
そう錯覚した。
もはや錯覚ですらない
だから、
夕陽を背にして、決して振り返ることなく、
走っていた。
一人で歩いた道、彼女と歩いた道、買い物帰りに歩いた道を、
ボクは走っていた。
闇雲に走った挙句、人にぶつかっても、見たこともない道に迷い込んだとしても、決して振り返らず、引き返すこともなく、
ボクは走り続けた。
何処へとも着かない、何処に行こうとしている訳でもない、何処かへたどり着こうと考えているわけでもないのに、
ボクは走り続けていた。
ただ、足を下ろしている場所から、
一歩でも遠くへ
ただ、次に足を下ろす場所から
一歩でも先へ
あいつの目の届かない
光の届かない
夕陽の作り出す闇の中へ
そして、ボクはそんな闇の中へ自ら望んで進んでいった。
飼育小屋の前に立つ二年二組の生徒たちは、すでに夕陽も沈みかけているにもかかわらず、その場から動けずにいた。
すでに彼らがここにいる目的はない。
シンジはもうここにいない。自分たちに背を向けて、何もかもを振り切るように、何処かへ走っていってしまった。
もう、シンジに抱く心情は、決して彼に対しても辛いものではなくなっていた。しかしそれは、決してシンジに対して甘いものでもなかった。
シンジが口にした言葉、本当にしたこと、嘘をついていたこと。これらをすべて目の当りにしたからこそ、彼らの中に生まれた葛藤がそうさせていた。同情かもしれないし、憎しみかもしれない。ただ単純に悲しいだけなのかもしれないし、怒っているのかもしれない。
そして何より、シンジが最後に見せたあの表情は何を意味していたのかが、解らない。
自分たちを見回した後、ほんの一瞬見せた最後のあの表情は。
いまだ彼らがその場を動けないでいたのは、シンジの最後の表情を一番近くで見ていた彼女が、今も座り込んだままその場を動こうとしなかったから。どう声を掛けていいかも解らず、どうすればいいかも解らなかったから。
だってシンジの怯えた表情は、何より彼女を恐れているように見えたから。
彼らは途方にくれて、その場にたたずんでいることしか出来なかった。
「ねぇ、みんな」
だから、呟きのようにしか聞こえない彼女の声に、彼らはすぐに気がつくことができた。
「ねぇ、みんな。聞いて、欲しい事があるの」
誰も返事をしなかった。
「聞いて欲しいの。本当は、言わないでねってお願いされてるんだけど、みんなには聞いて欲しいの。……シンジのこと。」
彼女は振り返った。
もう随分と沈んでしまった夕陽に淡く照らされた目は、ほんの少し、赤くはれていた。
「……この話を聞いた後は、もうみんなの好きにすればいい。だから聞いて欲しいの」
彼らのうち、一人だけがこくんと頷いた。
「ありがとう」
それを見て、僅かに微笑んだ。
「じゃあ、みんな、……碇シンジの、話をしましょう」
そういって、山川ユカリは話し始めた
口の中が気持悪い。
何かがひっきりなしにこみ上げてくる。それを何度も飲み下すように喉を動かして耐える。
それでもまだ、シンジは走り続けていた。もうここが何処だか解らない。ただ入り組んでいる道を、前も見ずに、がむしゃらに走り続けた。
先程から、心臓に何かが突き刺さったように痛む。肺に穴でも開いたような空気をいくら吸っても満たされない、そんな息苦しさ。足が木の棒を引きずるようにしか前へ進まなくなっていても、それが今の彼の限界の速度で、その意識は今も走っていると感じていた。そうして、何故走っているのか判らなくなっていても、彼は足を前に出し続けた。
そんな風に自分を追い詰めても、人は考えることを完全にやめる事はできない。
どうして、ボクはこんな風に走り続けているんだろう。
クラスメイト達から逃げるため?
いいや、違う。
彼らがボクの前に立った理由は解りきっている。
ボクがウサギを殺したから。
ボクが嘘をついていたから。
ボクが同じように彼らを傷つけるから。
知ってる。理由は知ってる。
でもその【意味】は、知らない。
何故ボクは、走り続けてる?
彼女がその場にいたから。ユカリさんがいたから。
どうして?
彼女は、またボクに手を差し伸べてくれたじゃないか。また、一緒に帰ろうと言ってくれたじゃないか。
どうしてその手をとることが出来なかったんだ?
その手を取ることが出来ないと解っていたからだ。
どうして?
彼女は、ボクだから。
そしてボクは、……お父さんだった。
ぴたりと、その足が止まった。今、何気なく思いついた言葉に目を見開いて。視線の先に見えた道は、薄暗かった。
恐る恐る、本当にゆっくりと、シンジはそれまで振り返ることのなかった後ろを振り返った。
陽は、すでに堕ちていた。そのまま顔を上げると、そこには満天の星。
「……あぁ……」
思わずそう声が漏れてしまうほど、シンジはその光景に見とれてしまった。そして、星が出ている、そのことにもう一度驚いた。
もう、走らなくらなくていい。あたりは真っ暗で、夕陽はとっくの昔に山の向こうへと消えていた。
シンジは走るのをやめた。やめたと言うよりも、もう一歩も足が前へ進んでくれない。そして、もうその必要はない。
逃げた
もう逃げ切った。
「―――ははっ!」
へとへとだった。もう、動けないほど疲れていたけれど、かまいやしない。もう逃げる必要な無いんだから。
その場に両足を投げ出して寝転がる。堅いけれど、冷たいアスファルトの感触が心地よかった。
辺りはあまりにも静かで、大きく脈打つ心臓が今にも爆発してしまいそうで、耳に届くその音が川の流れる音のように聞こえて、肺が今にも擦り切れてしまいそうで胸が苦しく、呼吸のし過ぎでかすれた喉が痛む。
その苦痛と、泥のようにまとわりつく疲労感すら、気にならない。
逃げ切った。
そう、逃げ切れた。
周りはもう真っ暗で、ここが何処だか見当もつかない。随分と遠くまで走ってきたように思える。
それでも、恐怖も焦燥も感じることはなかった。
「ははは……」
シンジは力なく笑い続けた。
どうして、ここまで逃げてきたか?
そんなモノ、どうだっていい。
もう、どうでもいい
どうでも、……いいから、
もうこのまま、何処までも落ちてゆけそうな気分のまま、
静かに、消えてしまえれば……
――――――!!
胸の楔がドクンと軋み、
ズキリと、額が痛む。
すばやく体を起こす。
温いものがゆっくりと額を伝い、目をよけて、頬から顎を伝って、ぽとりと地面に小さなシミを作った。
シンジは誰かに、名前を呼ばれたような気がした。
きょろきょろと、辺りを見渡す。
そして、今まで自分が進んでいたほうへ視線を向けると―――――
――――――――――――――碇シンジは、死んだ。
心臓が止まり、肺が空気を吐き出し、瞳孔は開ききった。
そう、一度そこで死んだ。
シンジが完全に逃げ切ったと思って顔を向けた先に、逃げ切ったと思っていたものがその先で待ち構えていた。
それだけなら、シンジはまた逃げれたはずだ。足は疲労がたまって震えている。けれど、そんなことは関係なしに今まで走ってきた。
しかし、シンジに追いついたそれは、シンジのそんな意識のかけらさえ、根こそぎ奪い取った。
もう立てない。
もう逃れられない。
それは何か。
どこまでも細く、どこまでも薄く、
血のような色をした、下弦の月。
なりふり構わず、逃げることしか出来なかったあの朱が、そこにあった。
ゆっくりと、瞳孔が引き絞られ、肺が冷たい夜の空気で満たされ、弱弱しいくも心臓が鼓動を取り戻した。
その理解は唐突で、しかしそれにシンジは戸惑う事はなかった。
―――――あぁ、そっか。……そうだった。
彼女は、ボクだ。
彼女はボクを知っていた。ボクはお父さんを知っていた。
彼女は、ボクに手を伸ばしてくれた。ボクは、……お父さんから逃げた。
だから、ユカリさんが恐くて仕方がなかった。
そのことに気がつきたくなかったから
ボクは、ここに来ることになったとき、お父さんと離ればなれになるとき、ほっとした。
もう、皆につらいことを言われずにすむ、あんなつらい毎日はもう終わるんだって。
お父さんがどんなに悲しい思いをしていたかボクは知っていたのに。
ボクだけはもう、つらい思いをしなくて済むんだって、お父さんと離ればなれになることを、喜んでいたんだ。
心の底から。
だから、きっと罰なんだ。
みんながあんな風にボクの前に立ったその意味が、やっと解った。
月さんが死に、あの女の人が僕の前に現れ、先生が僕に声を掛けて、ユカリさんが手を伸ばしてくれた。そして、その手をとることができないと理解してしまっていることも。
きっと、お父さんがあの時振り返ってくれなかったのも。
きっと、ぼくの罰なんだ。
だから
だから、あの月は
そんなこともわからずおろおろと逃げ回ってる
ボクを、哂ってるんだ
「……キレイだな」
見上げる空はどこまでも朱く
第十五話
Lost in the red
And
Given by the red
【 For Begin 】
彼女には時間がなかった。自分が追いかけているものは、きっとこんな小さな自分すらも逃しはせず、容赦もしないことも彼女はわかっていたから。
だから、彼女は小さな子供に発信機を取り付けるなんてことも、小さな子供に余裕をなくさせるため、彼の過去を彼の同級生の一人に教えるなんてことも平気で出来た。それを、自分が追いかけているもの同様容赦も慈悲もないことだと、気がつけなかった。
そして、彼の住んでいるところから突然彼が消えてしまったことに焦りを覚え、あわてて飛び出した先、走り回った挙句、隣町の坂の上で彼を見つけたときは迷わず声を掛けた。最後の仕上げをするために。
街灯の光に僅かに照らされながら、彼女と、その小さな子供は再び出会う
「あら? シンジ君。また、会えたわね」
そういう彼女に、その子供は振り返らなかった。ただ、顔の左側だけを向けて、空を見上げていた。けれども、彼女はそんな些細な事は気にならない。
「そうそう、あなたのお友達に、あなたのこと聞かれたから教えてあげたんだけど、気に入ってもらえたかしら?」
彼女はその子供の反応を探る。ピクリともしない。しかし、自分の声は、聞こえているはずだ。周りには人も車も通らず、こんなにも静かなのだから。だから、自分は最後の仕上げをするだけでいい。
「……あの日、なにがあったか教えてほしいの。あなたは知ってるでしょう だって――――――」
最後のこの言葉を、自分はこの追い詰められた子供に告げるだけでいい。
「――――――あなたはその場にいたんだから」
ピクリと、薄暗い街灯の下でその小さな肩が震えた。
「あら? もしかして大当たり?」
予想通りとはいかなかったものの、彼は確かに反応を見せた。彼女にはそれで十分だった。今までの苦労が実ったのだと、彼女は心の中で勝ち誇った。そして、それは到底胸のうちに仕舞い込んでおけるものではなかった。
「どうしてそれをって? 苦労したのよ~。その日のあなたのスケジュールを調べたり、当時の研究員を探し出して、今みたいに『お話』を聞きに行ったり、ね? それでも、私みたいな情報を扱う人間としては、まだまだあの研究所の管理は穴だらけなのよね。第七世代有機コンピューターだかなんだか知らないけれど、入館パスさえ何とかしてしまえば、後は館内の端末から―――……」
彼女は、上機嫌に自分のしたことを、この追い詰められた哀れな子供にすべて語って見せた。
いつの間にか、彼が彼女を、薄闇の中からその左目で見つめていたというのに。
「―――いやー、せっかくこのことを突き止めたときに、君居なくなってるんだもの。お姉さん困っちゃったー」
それに気がつかず彼女はゆっくりと彼に近づいてゆく。
「でもこうして、あえてとっても嬉しいわ」
そして彼女の手が、伸ばせばすぐにその子供に届くところまで彼女が近づいたとき、
「あなたは、だぁれ?」
「……え?」
どこか感情を自分の言葉に乗せることが下手な、小さな子供のような口調で、彼は初めて口を聞いた。
そして、彼は顔を彼女に向けた。
「―――ヒッ!」
彼女は小さく悲鳴を上げて後ずさった。
彼女に向けられた彼の、まだ男の子とも女の子とも判別のはっきりとしない幼い顔は、その半分が無かった。ただ、限界まで見開かれたその右目が、まるで闇に解けた右半分の顔から取り残され、そこに浮いているように見えた。
「あなたはだれ?」
残った左側も、感情らしいものを一切欠落させた虚ろな表情がそこには張り付いていた。彼は、おぼつかない足取りで彼女に近づいてゆく。
彼女は、更に後ろに下がり彼から逃げた。追いすがるように、彼はその後を追った。
「……おとうさんをしりませんか?」
やがて、彼が、街灯の真下に来たとき、その正体に気がついた。
彼は、その額に怪我を負っていた。ただ、もうその血は止まりかけ、乾いたところが赤黒く変色している。
「おとうさんが、どこにもいないんです……おかあさんは、ずっとまえに、しんじゃったんだけど」
彼は、自分のその傷にまったく頓着する様子を見せず、今も彼女に腕を伸ばす。その様子は、ただの子供だった。
「あなたは、おとうさんをしってる? ぼくを、おとうさんのところへ、つれていってくれる?」
「……えぇ、連れて行ってあげる」
僅かに気後れしながらも、彼女がそういうと、彼は僅かに微笑んだ。
それは、その他の感情がすべて消えかかっていたからこそ、浮かび上がってきた、小さく、本当に儚い笑顔。
それを見た彼女が、自分はいいことをしているんだと感じてしまうような、そんな本当に嬉しそうな笑顔。
彼女は彼に手を伸ばし、彼がその手を取ろうとしたとき、
「おっと、そこまで」
彼女が最後に聞いた声は、タバコの吸い過ぎでややかれた声だった。
「失礼」
「はいはい、おっ疲れさん」
街灯の作り出す光の領域の外から腕を伸ばした黒服は、服装を赤で統一したその女性をしっかりと抱きとめた。その隣で、彼女を気絶させた黒い棒をくるくるとその手で回しているもう一人が溜息をつく。シンジは、その様子を見ていることしかでできず、伸ばしたその手は誰にも捕まれることのないまま、空中で行き場を失った。
「だれ?」
「碇シンジ」
シンジの問いかけに、その腕は答えることもなかった。しかしシンジのすぐ隣に、その頭に幾らか白いものの混じり始めた男の人が立っていた。彼は高いところから、身をかがめることも無くシンジに高圧的に言った。
「この女に何かしゃべったか?」
「……」
「分からないならいい」
それだけ言うと、シンジの正面に立っていたもう一人の男の人から気を失った女性を受け取ると、いつの間にかそこにあった車にさっさと行ってしまった。
そして、残った二人もそのあとを追おうとした。
「……まって……まって!! もしかしておとうさんのことしってるひと……なの?」
「……」
「ぼくもつれていって! おとうさんのところへ!」
親愛はその場を去ろうと足を進めていた彼らを、必死に呼び止めた。一人はそれをさっさと無視し、手に持っていた黒い棒を手のひらで弄びながら車に向かっていた。しかし、もう一人がその足を止め、シンジのいるところへ引き返した。
彼は暗闇の中でも決してはずすことの無かったサングラスを懐にしまい、身をかがめ、シンジの肩に優しく両手を置くと、しっかりと彼に視線を合わせながら口を開いた。
「それは、……できないんだ」
「って! おい!」
それを見たもう一人がそれを咎める。しかしそれを無視して、その人はシンジに語りかける。
「いいかい? 君のお父さんは、人類を守る立派な仕事をしているんだ。だから……」
「……そんなのしらない!!」
しかしシンジは、そんな彼の言葉を全身で拒んだ。彼を睨みつけるシンジの瞳には、すでに涙で濡れていた。
「そんなのぼくはしらない!! もう、そんなうそはたくさんだ!! おとうさんにあわせて!!」
嘘、と強く断じられたことに彼は目を見張った。シンジはそんな彼の当惑をよそに、自分の肩に置かれた大きな手を爪を立てるように掴む。
「どうしたらいい? ねぇ! ぼくはどうしたらいいの! どうしたらゆるしてもらえるの? どうしたら……おとうさんにあえるの?」
それを見ていたもう一人の黒服は、めんどくさそうにタバコに火をつけた。
「おとうさんに、ぁって、ぼく、あやまらなくちゃ……ごめんなさいって。……おね…がぃ、……おとうさんに、あわせてぇ……」
消え入りそうなその声に、彼の顔が苦渋に顔をしかめていたとき、
「おい! 面倒はごめんだ!」
くわえていたタバコを苛立たしげに踏み消し、タバコの男は二人に近づいてきた。
「分かってる。しかし……」
「……チッ! おめぇは、ホントに面倒くせぇな!!」
はっきりとした返答が出来ずにいる相方を通り過ぎ、今も男の手を泣きじゃくりながら握り締めるシンジを、彼は容赦なく蹴り飛ばした。
「ぅわ゛ぁ!!」
鈍い音をさせて、シンジは道路に蹴り飛ばされ、体のあちこちをぶつけながら硬いアスファルトの道路に転がった。ようやく勢いが収まったところで、お腹を押さえてその場に苦しそうにうめく。しかし、それでもなお、タバコの男はもう一手をくわえるべくシンジに近づこうとした。
それを見ていたサングラスの男は慌てて彼を止めた。
「止めろ! 相手は子供だぞ!!」
「関係あんのかよ? 邪魔するんなら、全部片付けちまうだけだ」
「あるだろう! この状況を作り出したのは俺たちじゃないか!」
「おぅよ。あそこの糞アマとっつかまえるためにな」
タバコの男は、自分を止める相棒に向き直り、車を顎で示して見せる。
「だったら、なおさら……」
「おぉっと、てめぇそれ以上喋んじゃねぇぞ?」
それでも彼を止めようと、口開きかけた彼は、タバコの男が懐から取り出したものを突きつけられる。
「台無しにするつもりかよ? んなことになったら、消される前に俺がてめぇをぶっ殺してやんよ」
「……お前は、本当にそれで平気なのかッ!!」
「いったろ? くだらねえモンは全部犬にでも喰わせろってよぉ!」
目を血走らせ、にらみ合いながら対峙する。ガチリと、金属の擦り合わせられるような音が聞こえる。
お互い一歩も譲らず、サングラスの男は突きつけられたものに気を払うわけでもなく、むしろそれに触発されたようにタバコの男に詰め寄る。タバコの男は、相棒が一歩も引く様子を見せないことに更に苛立ち、手に持っているものにますます力を込めようとしたとき、
「ゴホッ!……」
今も地面にうずくまるシンジの咳き込む声が聞こえてきた。
タバコの男がちらりと、うずくまるシンジに眼をやる。苦いものを飲み下したような表情を作ると、彼はその視線を胸ポケットに引っ掛けてあったサングラスで覆い隠した。
そして、呻くように口を開いた。
「……てめぇが、んなことしてるせいでな、全部が無駄になんだよ。いーか、全部がだ!! 俺たちがこうしてることも、てめぇが口先だけで助けようなんて思ってるそこの餓鬼のことも全部だ!! 俺より頭良いんだからよ、それくらい解んだろうがッ!」
一括し、その声があたりに響く。そしてゆっくりと手に持っていたものを再び懐に戻すと、自分の頭を少し小突き、バツが悪そうに相棒から視線を外した。
「……ワリィ、ちょっと頭に血ぃ上ってたわ」
「……すまん」
「だんなが睨んでる。いくぞ」
「あぁ」
そうして彼らが、上司の待つ車へとその足を向けたとき、這いずるような音と共に、シンジの声が聞こえてきた。
「まっ…て……」
しかし、二人は、今度こそ振り返る事は無かった。
「どうして……」
故に、シンジの意識が暗い闇に落ちる前に呟いたその声を、聞くものはいなかった。