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No.246の一覧
[0] 見上げる空はどこまでも朱く【エヴァ】[haniwa](2009/11/30 10:37)
[1] 見上げた空はどこまでも朱く[haniwa](2006/07/23 17:23)
[2] 見上げる空はどこまでも朱く[haniwa](2006/07/23 17:15)
[3] 見上げた空はどこまでも朱く[haniwa](2006/08/12 02:52)
[4] 見上げた空はどこまでも朱く 第四話[haniwa](2006/08/12 02:56)
[5] 見上げた空はどこまでも朱く 第五話[haniwa](2006/08/12 03:05)
[6] 間幕[haniwa](2006/07/23 18:03)
[7] 見上げる空はどこまでも朱く   第六話[haniwa](2006/07/23 18:24)
[8] 世間話[haniwa](2006/07/23 03:37)
[9] 見上げる空はどこまでも朱く  第七話[haniwa](2006/07/24 19:51)
[10] 見上げる空はどこまでも朱く  第八話[haniwa](2006/08/16 15:28)
[11] 見上げる空はどこまでも朱く  第九話[haniwa](2006/08/08 16:49)
[12] 見上げる空はどこまでも朱く  第十話[haniwa](2006/08/10 17:13)
[13] 見上げる空はどこまでも朱く  第十一話 前編[haniwa](2006/09/12 00:34)
[14] 見上げる空はどこまでも朱く  第十一話 後編[haniwa](2006/09/12 00:36)
[15] あとがき[haniwa](2006/08/14 20:35)
[16] 見上げれる空はどこまでも朱く 第十二話 前編[haniwa](2006/09/12 00:27)
[17] 見上げれる空はどこまでも朱く 第十二話 後編[haniwa](2006/09/12 00:30)
[18] 後書き[haniwa](2006/09/12 00:32)
[19] 見上げる空はどこまでも朱く 第十三話[haniwa](2006/09/24 21:57)
[20] 見上げる空はどこまでも朱く 第十四話 前編[haniwa](2006/10/09 10:45)
[21] 見上げる空はどこまでも朱く 第十四話 後編[haniwa](2006/10/02 15:13)
[22] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 Ⅰ 】[haniwa](2006/10/19 16:56)
[23] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 Ⅱ 】[haniwa](2006/11/14 22:26)
[24] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 Ⅲ 】[haniwa](2006/11/22 10:01)
[25] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 The End 】[haniwa](2007/01/09 21:32)
[26] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 For Begin 】[haniwa](2007/01/09 21:41)
[27] エピローグ《Ⅰ》[haniwa](2007/01/09 21:47)
[28] 第十六話[haniwa](2007/03/19 16:50)
[29] 第十七話[haniwa](2007/06/25 11:38)
[30] 第十八話 前編[haniwa](2008/06/01 16:46)
[31] ミソラージュ  その一[haniwa](2007/01/24 14:51)
[32] 没ネタ[haniwa](2007/07/10 13:49)
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[246] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 The End 】
Name: haniwa 前を表示する / 次を表示する
Date: 2007/01/09 21:32
消し去ることは叶わず
覆い隠すことは叶わず
忘れ去ることは叶わず
否定することは叶わず


打ち勝つことは到底敵わず
重ね積むことは無論適わず


手を伸ばすことを撥ね付けて
声を上げることに意味はなく
瞼を閉じることは許されない


朽ちることはない
諦めることはない
篝火を絶やすことはない


理解せずともその身を蝕み
経験を以てしても抗えない


そして


諦めたそのときに
耳元で、そっとささやく






城山 タイゾウ著「目録」より






見上げる空はどこまでも朱く


第十五話


Lost in the red
And
Given by the red


      【 The End 】






 曇りにもかかわらず、空が次第に明るくなっていくことをどこか不思議に思いながら、彼は椅子に体を預け窓から見える空を眺めていた。その表情は曇り空を写し取ったかのように不機嫌そうで、いささか近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。しかし、彼と同じような顔をした同僚たちが、今も鳴り止まない電話の対応に追われていて、そのことを咎める者などにもいなかった。
 彼は、そんな光景をどこか、遠いところにいる自分を見ているような気分で眺めながら、やがてそれから視線を逸らすと、目の前にあった自分の携帯電話へと手を延ばし、どこかに電話をかけた。
 短縮ダイヤルを操作すると、すぐに呼び出し音が聞こえ始める。

 プルルルル、プルルルル、プルルッ、カチャッ

『はい、中野です。』

 数回の呼び出し音の後に聞こえてきたのは、落ち着きのある女性の声。

「……僕だよ」
『あら、どうしたのあなた? 今忙しいんじゃありません?』
「あぁ、その通りなんだ。保護者からの電話がひっきりなし。ちょっと疲れたよ」
『ははぁん? それで仕事中にも関わらず、愛しい私の声が聞きたくなった?』
「…まぁ、そんなところだ」

 彼は、女性の明るい声にやや落ち込んだ声で答えた。

『……どうしたの? 何かあった?』
「まぁ、いろいろとね。教師の辛い所だってことなんだろうけど」
『…』
「……ちょっと、愚痴ってもいいかな?」
『ええ、聞いて差し上げます』
「あはは、…ありがとう」

 そして彼は、この電話をかけるに至った経緯を女性に語りだした。






『そう、そんなことが……』
「……なぁ」
『なぁに?』
「僕は……、自分をこんなに無力だと感じた事は無いよ」

 それは自分に対する苛立たしさを隠さない、棘を持った言い方だった。

『いいえ、あなたはその子に向き合おうとしたじゃない』
「けれど、それは彼に拒絶されてしまった。あんな顔で、あんなことを言われてしまっては、正直もう、どうしていいかわからない」
『……私が思うに、あなたはやり方を間違えただけだと思うわ」

 彼の苦悩が滲み出してきそうなその声とは裏腹に、女性は一瞬の沈黙のあと、明るい声でそう言葉を続けた。

「というと?」
『手を差し伸べてあげるんじゃなくて、そういう子は引きずり回してあげるのよ』
「……は?」
『だから、その子が悩んでる暇も無いくらい引きずり回してあげればいいわ。そして言ってあげるの、「あなたは一人ぼっちじゃない」って』

 自分の思い悩んでいた事を、さも問題でないと言わんばかりの突拍子も無いその考えは、数瞬、彼の思考能力を奪った。そしてその言葉に驚き、嗚呼そうかと納得させられている自分がおかしくなった。

「……あはは! 君は、ちっとも変わらないな」
『あらそうかしら。その分あなたは老け込んじゃったんじゃない?』
「違いない」
『とにかく、その子ともう一度話をしてみたら?』
「いや、僕なんかより、もっと適任がいるよ」
『?』
「彼女も、……傷ついている。けれど、自分が立ち直るついでに皆を引っ張っていくことくらい、軽くやってみせるだろうね」

 電話の向こう側にいる女性には、何のことだか分からない。しかしすぐに、彼が何を言おうとしているのかは察しがついた。

『……その子は、強い子なのね』
「あぁ、強い。彼女には時々僕もはっとさせられることがあるよ。ただ……」
『どうしたの』
「……ただ一つ、気がかりな事があるんだ」
『何?』
「……いや、これは杞憂だろう。じゃあ、仕事に戻るよ。悪いけど、帰りは遅くなりそうだ」
『ええ、どうぞごゆっくり。……あまり根をつめないでね』
「ああ、分かってる。じゃあね」

 そうして、彼は電話を切った。その表情を見ると幾らか気分も晴れたようだ。しかし、机に向かい本来の自分の仕事に手をつけようとしたとき、先ほど言いかけた不安の種が、ちらりと彼の脳裏に過ぎる。

 それは、

 (彼女は確かに強い。そして同じくらい優しい子だ)

 (しかし)

 (彼女の、強さと優しささえ、彼には重荷になってしまうんじゃないか)

 (もし、そうなら)


 (彼は誰にも救えない)






 広い校庭のあまり整理されていない、今や人を寄せ付けない雰囲気を持ってしまった飼育小屋の前。とあるクラスの殆どのメンバーがそこに集まり、一人の少年を取り囲んでいた。彼らは皆一様に顔をこわばらせ、先程から飼育小屋の背にして自分たちの前に立つ少年を凝視していた。

 どうしてそうなってしまったのか。

 すべてはその少年が呟いた、たった一言が原因だった。
 いつもの空の下、いつもの教室、いつものやり取り、いつもの日常の中でなら、それをクラスで一番人気のある少女の影に、いつも隠れている少年の珍しい冗談だと受け流したかもしれない。それほどまでにその言葉の持っていた意味は、少年のイメージからかけ離れていたからだ。

 けれども今は違う。

 曇り空、飼育小屋の前、一方通行な言葉、それらに包まれている非日常の中で、それは起こった。その少年、碇シンジは、その一言を口にした。

「僕が、ウサギを、殺した」

 言葉の持つ冷さとは裏腹に、ざわめくクラスメイト達の耳へと届いたものは、とても暖かく柔らかな響きをもっていた。そしてその一言で、無秩序に動いていた彼らの口は言葉を発することを止めた。ゆくっりシンジに向けられたその視線には、シンジがどこかで自分達の言葉を否定してくれることを、ほんの少し期待していたのかもしれない。しかしそんな彼らの思惑は続くシンジの言葉によって打ち砕かれる。

「足をバラバラにして、お腹を切り裂いて」

 言葉が持つ暴力的な響きに酔いしれるわけでもなく、あくまで穏かに、ささやくように、シンジは告げる。その破壊力は、クラスメイト達の理解能力を微塵に破壊し、その意味を把握することすら許さない。
 故に彼らは、シンジの言葉に、聞き返すような反応しか示すことができず、口を挟むことも、その場から逃げ出すこともできずにいた。
 シンジの言葉が一つ区切られるたび、クラスメイト達の体が戸惑いから小さく震えている。シンジは彼らのそんな様子に目を細め、さらに言葉を続けた。

「首を捻じ切って、耳を掴んで振り回して、壁に叩きつけて、引きちぎって、鳥は翼をもぎ取って、もがいている所を踏みにじって。真っ赤な血がたくさん出て、辺りが血で真っ赤になって、僕の手も真っ赤になった。服にも付いて気持ちが悪かった。そんな風にして、みーんな『僕が』殺したんだ」

 祈るように両手を合わせてそれをこすりあわせるように捻る。握りこぶしを同じように擦り合わせながら今度は力を込めて引き離す。何かを掴んで振り回しているかのように腕を動かすと地面に叩きつけて、まるで本当にそこに何かがあるかのように踏みにじる。
 やがて、言葉を重ね、身振りを重ね、視線を一つ動かすごとに、いつしかシンジの声が、慈悲でも嗜虐でもない感情に震えだす。その表情に、歪みが徐々になくなり、不自然さが無くなってゆく。

 この状況では一番不自然な微笑を浮かべて。

 普段ですら目にすることも稀なそんなシンジの笑顔と、その口から紡がれる行為。徐々に、浸み込むように、恐怖と共にその意味を知る。クラスメイト達は、まるで今朝の出来事が今まさに自分たちの目の前で起こっているような錯覚に陥っていた。




 辺りが血に染まり

 飛沫が降り注ぎ

 自分たちは

 それを払うどころか

 腕一つ動かすことができず

 その情景に魅入られたかのように

 息を呑むことすら忘れて……




 不意に、シンジの右手が、彼らに見せ付けるように彼らの前に差し出された。その手は血に染まり、その赤が自分たちの瞳に飛び込んできたような感覚に襲われた。

「ほら、見て……」

 今迄で、一番優しげな声。
 その一言に、今まで反応しなかったクラスメイト達の瞼が一瞬閉じられる。彼らが次に、ゆっくりと目を開けると、そこには少しも血など一滴もついていないシンジの小さな右手があるだけ。しかし、その手は治りかけのものを含めて様々な傷跡があった。シンジは自分を取り囲んでいる誰もがその傷を目にできるように彼らの前に広げてみせる。

「この傷、白いウサギに咬まれた傷なんだ」

 その言葉を聞いたクラスメイト達が、声に出さずとも、衝撃を受けていることが、シンジには手に取るように解った。
 シンジは言いながら右手を胸元に引き寄せ、ゆっくりと傷跡を撫でる。その右手は震えだし、シンジは左手で押さえつけようとするが、それは収まらず、ついにはその小さな体全体が小刻みに震えだす。そして、とうとう堪えきれなくなった。

「あはっ、あははっ! ……あっっはははははははははははははははははははははは!!!」
 
 右手をその胸に抱いたまま体を折り曲げ、震える体の中から湧き上がってくるものを、そのまますべて吐き出すような笑い声を上げる。肺の空気が空っぽになり、掠れて聞こえなくなるまで。その突然の笑い声に、クラスメイト達はびくりと一度だけその身を震わせた。

 まるで夢のよう。

 シンジは、体を起こし、空気を求め喘ぐ意識の底で、そんな自分を困惑と恐怖の入り混じった眼差しで見ているクラスメイト達をぼんやりと眺める。




 僕は、ずっと怖かった。

 怖くて、怖くて、仕方が無かった。

 みんなの目が、みんなの言葉が、みんなと一緒に居る事が、怖くて怖くて。

 いつ、みんなの目が僕に向けられるか判らなくて
 いつ、みんなの言葉が僕に向けられるか判らなくて
 いつ、みんなと離れることになるのか判らなくて

 でも、もう怖くない。僕は、みんなが望んだものになればよかったんだ。言いつけられたとおりに、ただその通りにすればよかったんだ。今までずっと、言いつけどおりに出来ていなかったから、怖かったんだ。

 だから、今は何も怖くなんかない。

 僕は、スポットライトに照らされた舞台に立ってる。みんなと同じ、舞台の上に。台本どおりの台詞をしゃべって、台本どおりの結末を迎える。

 僕は、もう結末を知ってる。

 だって、何度も繰り返してきたのも

 この光景、立ち位置、彼らの言葉、これからの最後

 全部、

 見慣れた、

 僕の世界




 歪んだ喜びにシンジの体が震える。

 まるで永遠に続くと思ってしまうような夢。

 シンジ自身も囚われていた。シンジは、自分の思うがままにその中を進む。

「彼女は!!」

 弾けるようなシンジの声。それでも笑みを崩さず、言葉は続く。

「あの白い奴は、きっと一番抵抗してたよ。みんなを守ろうとしたのかな。そのほかの皆が一目散に逃げていくのに、彼女は僕の前に出てきたんだ。だから彼女は一番最初に、一番時間を掛けて殺した。動かなくなるまで蹴ったあと、振り回して彼女の体を引きちぎった」

 クラスメイト達は、もはやその表情を蒼白に変えていた。

 シンジの言葉から紡ぎだされるその情景から、クラスメイトの誰もが、その恐怖からどうにかして逃れるために、思考をめぐらせていた。あるものは耳に手を、あるものはその瞳を堅く閉じた。
 そんな中、彼らの中の一人の女の子が、その涙の浮かんだ瞳をシンジから逸らした。そしてその先にあったものにまた目が留まる。『ウサギに餌を与えないでください』との文字と下手糞なウサギの描かれている看板。今や、そこに在ったモノの存在を唯一示すそれに、乱暴に拭った血の跡がついていた。彼女は釘付けになる。それは、シンジの言葉が決して夢ではなく、現実に、ここで起こったことであることを示していた。
 彼女の中の最期の堰は、そこで崩れ落ちた。

「白い奴が殺されちゃったら、みーんな大人しくなった」

「……て」

 やがて、その小さな唇が震えながら動き出す。けれども、喉も振るえていて一つ目は言葉にならなかった。

「僕に殺されるのを順番に、何の抵抗できず、何の抵抗もせず。そんな彼らを、僕が引き裂いたんだ」

「……めて」

 二つ目はその隙間から漏れ出すような音にしかならない。
 もう一度、深く息を吸い込み、先程よりも力を溜め込むために唇を噛む。

「それから……」

 目をつぶり、耳を手で押さえ、自分を世界から閉ざし、目の前にある光景をすべて否定して、シンジの言葉をもうそれ以上聞けないようにして、やっとその言葉は彼女の口から飛び出した。

「もうやめて!!」

 一瞬だけ響く叫び声。

 びくりと、その場の全員の体が跳ね上がる。シンジさえ例外ではなかった。

 その大きな一声で、全員が息を吹き返した。シンジ以外の全員が、忘れていた呼吸を取り戻す。静まり返る中、自分の心臓の音を聞き、まだその場で生きていることに安堵し、どっと全身に汗が流れていくのを実感する。

 「もう、やめ……やだぁ……うぁ、うわぁぁぁぁぁ!」

 大きな声を上げたその女子は、体から力が抜けて行く感覚のままにその場で泣き始めた。そうして一人が泣き出すと、一人二人とその人数は増えていく。しばらくあたりにはそんな彼らの泣き声と、思い出したかのように鳴きだした蝉の声だけが響き、辺りを満たした。

 シンジは、何人かの涙を流すクラスメイトに、にっこりと笑いかけた。

「どうしたの?」

 優しく、柔らかく、静かに質問する。
 その声に、泣いている何人かの表情が再び凍りつく。
 しかし彼らも、もはや黙っているだけではなかった。かろうじて、自分を取り戻した彼らの何人かは、シンジをきつく睨みつけた。

 碇シンジは一人きり。自分たちはたくさん。碇シンジはウサギを殺した犯人で、自分たちはそれを問い詰めに来たのだと。よして何より、自分たちの【正しさ】は揺るぎようもなく、立場もこちらが有利。

 その中で一番に気がつき、一番に行動を起こしたのが、彼らの一番前に立っていた田中ユウだった。

「ッの野郎!! 笑ってんじゃねぇ!!」

「……ぁ…ッ!?」

 その声がしたとき、シンジの額に無理やり視線を動かされるほどの重い衝撃が襲った。思わずよろけながらもシンジが自分の足元を見ると、先程まではなかった小さな石が転がっていた。
 それをシンジに投げつけた田中ユウはさらに叫ぶ。

「シンジを捕まえろ!! 誰か、先生呼んでこい。碇、……そこを動くなよ!!」

 彼は、シンジを取り押さえるため声を張り上げる。
 けれども、誰もシンジの傍には寄ろうとはしなかった。先程までの余韻が、シンジを睨み返すという自由しか許さなかった。そして田中ユウ自身も、そんな自分たちを眺めるシンジから、視線を逸らせず、自分を動かそうとする【正しさ】と、引きとめようとする恐怖がせめぎ合っていた。

 シンジと彼らとの間に、不思議な膠着状態が出来上がりかけていた。

 シンジは、心臓の鼓動にあわせてジクジクと痛む額を、右手でそっと押さえながら、自分を睨みつけるクラスメイト達をぼんやりと眺めた。

 もう終わる、もうすぐ終わる、やっと終わる。

 そして、繰り返す。

 これは、期待か、それとも諦めか。

 けれども、それは叶うことはなかった。






「皆、なにしてんの?」





どんな夢も、やがて目覚めが訪れる。



例えそれが、



自ら望んだ悪夢だとしても。
 





「……ユカリさん?」

 そんなはずはないと、否定の言葉を期待してその名を呼ぶ。
 しかし、クラスメイト達が振り返った先にあったその姿は、シンジにもすぐに確認できてしまった。

 彼女は確かにそこに居た。そこに居るのが当たり前のように。
 訝しげな面持ちで、シンジを含むみんなの顔をきょろきょろと見回していた。そうしてユカリは、シンジを見つけると、彼のほうへ近寄ってきた。

「ちょっと、碇何やってんの? てゆうかどうなってんの? 鞄取りに行くのに何時間掛かってんのよ。おかげでお腹ペコペコじゃない。私朝から何も食べてないんだからね! あっ、朝といえば、ベーコンの焼き加減、あれは焼きすぎよ。もう一歩手前くらいがいいのよ。あんたもまだまだね」

「え? ……どういうこと? 何でユカリちゃんのベーコン、碇君が焼いてるの?」

「あれ、知らなかったっけ? コイツうちに住んでるのよ」

「え? って! ええ!!!」

「知らない知らない!!」

「聞いてない聞いてない!!」

「まーまー、それについてはまた今度話すから……」

 あははと、ユカリの笑い声が上がる。途中何度か軽い混乱の中にあったクラスメイト達の質問に、ひらひらと手を振りながら答えながら。やがて、ユカリは、二、三歩間をあけてシンジの前にたどり着いた。

「ほら碇、帰ろ」

 ユカリは、シンジに手を差し出す。その何気ない動作に、シンジがびくりと震えた。

「……碇? どうし……」

 自分が出した手に、シンジのまるで怯えているような仕草に、ユカリは眉をひそめるが、次の瞬間大声がその場に響いた。

「山川!! ソイツから離れろ!!」

 その声とその意味に、ユカリは少しだけシンジから意識を逸らしてその声に返事を返した。

「・・・なんで?」

「こいつがウサギを殺したんだ!!」

「!」

 ユカリは声の方へ振り返った。そこには射殺さんとするようにシンジを睨みつけている田中ユウがいた。そして彼の言葉によって、ここでなにが起こっていたかを思い出したクラスメイト達がそれに続いた。

「ソイツが、月さんたちを殺したんだ!」

「そうよ!! ユカリちゃんあぶないから早く!」

「ソイツから離れて!!」

「……」

 皆は、状況が解っていないであろうユカリに必死に呼びかけた。しかしそんな彼らに対して、ユカリの反応は意外なものだった。

「……ぷっ、あっははははははは!」

 彼女は耐えかねたかのように笑い始めた。拍子抜けさせられてしまうような普通の笑い方。

「あはは、なにそれ。あんなにウサギが好きだった碇に、そんなことできるわけないじゃない」

「なっ!!」

 そして、後に続く言葉は彼らに苛立たしささえ感じさせるほど、彼らの予想とは外れたものだった。

「で、でも、みんな知ってるんだぞ! 月さんたち碇にちっとも懐いてなかったじゃんか」

しかし、ユカリは、そんな彼らを無視して、おかしそうに自分の脇へ指を突き出した。

「……それ、誰が作ったと思う?」

「……」

 大半が目を向けた。そこには先程のへたくそな看板が目に付くだけだった。

「へたくそでしょ? 私もやめときなさいって言ったのよ? でも碇ったら聞かなくってさ」

 その言葉の意味することは、もう一度彼らを驚かせた。

「これ、……碇が作ったのか?」

「いつの間にか立ってたから、あたし……先生が造ったと思ってた」

「そうなのよ。指もたくさん切って、それでも嬉しそうにたった一人で。懐かないからウサギが嫌いなんてていってる奴に、こんなことできないでしょ?」

 そのときのことをを思い出してか、ユカリはまた楽しそうに笑った。ユカリはそれですべてが片付いた気でいたが、事はそう簡単に済む話ではなかった。

「それがどないしたゆうんや。ええか? 昨日、ここで碇を見たゆう奴もおるんやぞ」

「あー、それね」

 彼女は一度看板に視線を送った後、何か考えるそぶりを見せた。ちらりとシンジを見てみると、彼はもはやユカリすらも見ていなかった。どこか辛そうに足元に視線を落としている。
 仕方がない、どこか諦めたかのようにユカリは溜息を吐いた。

「……昨日はね、碇は遅くまでチェロの練習してたの。ただでさえ遅くなってたってのに、その後、こっそりウサギに餌上げに行ってたのよ。たぶん、見たのはそのときね」

「……」

 クラスメイト達全員が彼女の言葉に耳を傾けていた。しかしユカリの、シンジを擁護するような言葉には誰も納得していない。その視線は険しく、それに気がついたユカリはその意味を取り違えてしまった。

「みんなは知ってるんでしょ? 碇が、月さんたちに手渡しで餌あげたことなかったの。あ! でも、碇がそんな風に餌あげたの、それが初めてなのよ? それにね、碇ッたらそのとき初めて月さんに触れたって、もうすっごい嬉しそうで、……その、……だから、勝手に餌上げたのは許して欲しいなぁって」

 見つかったいたずらを、ごまかすような苦笑いを浮かべながら、ユカリはあたふたと言葉を続けた。
 その様子は、いつものユカリの姿だった。彼女は、当の昔に壊れてしまった日常を、こともなげに連れてきて、その場の空気をそこに居るだけで変えてしまった。それが不快なものでないだけに、クラスメイト達は容易くそれを受け入れ始めていた。
 もし、そのまま彼女のもたらした日常を受け入れたなら、何もかもそこで終わったかもしれない。

 しかし、彼らの恐怖の残滓は、それを許さなかった。

「……ソイツは自分で言ったんだ」

「え?」

 彼らのうち、誰かがポツリと噛みしめるように呟いた。ユカリはそれをはっきりと聞き取ったが、理解はできなかった。そして、その声は一つでは終わらなかった。

「ソイツは、自分がやったって言ったんだ!」

「どうやって……殺したかも!」

「ここにいるみんなが、それを聞いてたんだ」

「ソイツの右手を見てみろよ! そのとき咬まれた傷だってあったんだ」

「あんな、ひどいことを平気で……」

「だから、ユカリちゃん、こっちに来て!」

「そんな奴から、早くはなれて!」

 まるでそうしていないと呼吸が止まってしまう焦燥感に駆られているかのように、彼らはユカリが言葉を差し挟む間もなくまくし立て、おぼれるものが皆そうするように手を突き出し、そんな様子に混乱する彼女を引き寄せようとした。
 しかし最後、その混乱さえ奪ったのは、たった一言だった。




「そうだよ」




 グチャグチャに線を引いた紙を、消しゴムで一気に白紙に戻したような感覚。
 その一言で、無秩序な声は止まった。ありえないほどの静寂がその場の全員を縛りつけた。
 まとわりつくそれをゆっくり拭うように、ユカリは振り返って彼の名を呼んだ。

「……碇?」

 ユカリの声は、やけにはっきりとその場に響いた。そして、続いたシンジの言葉も。

「僕、なんだ」

 相変わらず伏せられたその顔は、シンジよりも背の高いユカリからは見る事はできない。
 けれど、ユカリはその姿に見覚えがあった。それはつい最近で、その記憶は夕陽に照らされていて……






 それはいつもと同じ帰り道でのことだった

 何度も、同じ道を行き、同じ道を帰った。

 その日の彼女は幾らか不機嫌で、すっかり茜色に染まっている空に、愚痴を吐き出しながらその道を歩いていた。その二、三歩後ろを歩いていた彼は、そんな彼女を困ったように微笑みながら見つめていた。
 彼らはそうしてお互いの顔を見ていなかったが、おしゃべりに支障はなかった。

「みんな、餌だけはやりたがるんだから!」

「そうですね」

 もっとも、おしゃべりといっても彼女の愚痴に、彼が相槌を打つという一方通行なものだったが、彼らにはそれで十分だった。

「あー、でもご飯食べてる月さんたちは可愛いんだけどね」

「……はぁ」

「こう、なんていうのかしら。一生懸命になって食べてくれるのよね。あげてる餌をさ、まるで私の手から奪うような勢いで食べるんだから。引っ張られて、いつも途中で手を離しちゃうのよね」

「……はぁ」

「どうしたの?」

 話題を変え、うっとりとその情景を説明する彼女に、彼は息を吐くような返事しか返さなくなった。前を歩いていた彼女は、足を止めて振り返った。地面を向いて歩いていた彼は、突然、意気揚々と自分の前を歩いていた赤い靴が、自分のほうを向いたことに驚いて、思わず彼女の顔を見上げた。

「い、いえ……何でもないんです」

「ん~~、本当に?」

「……本当ですよ?」

「ふ~~ん」

 歯切れの悪い返事を返す彼に、彼女は静かに詰め寄った。彼女の顔が近づくにつれて、彼は顔を彼女から逸らした。もちろんそれで彼女の追求が弱まるわけも無く、何度か彼の正面に回り込もうとするが、彼はことごとく逃げた。

「……」

「……」

「……ほーら、私の目を見なさい?」

「! ……」

 止めと言わんばかりに、彼女は声を落として静かに言う。彼女のこういった話し方はそれを向けられたものに、多大なプレッシャーを与える。しかしそれでも、彼は頑なに彼女のほうを向こうとはしなかった。
 当然、彼女はおもしろくない。不機嫌な顔を隠そうともせず、いまだ目を合わせまいと、自分から顔を逸らす目の前の彼を見つめた。
 しばらく、無言で道の真ん中に立ち尽くした。

 一方は目の前に立つ人物から気まずげに視線を逸らしている彼。方や、そんな彼を、眉間に幾らかの皺を作りながら見下ろす彼女。

「……」

「……ウサギ」

 彼女の呟きに、ぴくっと彼の肩が動いた。彼女はそれを見逃さなかった。

「餌」

 ぴくっ

「手」

 ぴくっ

「食べる」

 ……

 これは違うかと本格的に腕を組み、キーワードのようなもので彼の様子を探っている。まるで犯人を追い詰めた刑事のようだ。

「……食べさせる?」

 ぴくっ

「……、あーーー」

 そしてなにやら得心いったようにうなずくと、不機嫌だった顔を崩し、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「そっかぁ、ふーん」

「な・なんですか……」

「あんた、……月さんたちに手渡しで餌あげたこと無いわね!!」

 びし!! と空気のはじける音が聞こえそうなほど、力強く右手の一指し指を突き出した。

「……」

「どうよ!! アタリ? あんたも度胸が無いわねー。あーんなに可愛いのにぃー」

 彼女は、それがどういうことなのか良く考慮する前に、彼の考えていることを、自分が見事言い当てたであろうことに、その身をくるっとひるがえらせて、無邪気にはしゃいだ。
 しかしすぐに、いつもの反応が無いことに気がつく。もう一度、彼に振り向いてみると、いつものように困ったような顔でなく、すこし悲しそうな表情を浮かべている彼がいた。

「ちょっと?」

「……はい」

「……ごめん。気にしてたの?」

「あ……、違うんです」

「?」

 彼女の謝罪を聞くと、彼は首を振りながら困ったように笑った。彼は、そうっと覗き込む彼女の視線から、今度は目を逸らさなかった。

「あげようと、した事はあるんです。けど、……食べてくれませんでした。それに、僕、触ったことすらありませんし……」

「……」

「えへへ、それだけなんです」

 まるで恥ずかしいことなんだと言わんばかりに、自分のことを笑った。帰りましょうと、彼は彼女をを促すように自身が歩き出した。寂しそうな、悲しそうな笑顔を浮かべたまま。
 それを、彼女の良く通る大きな声がさえぎった。

「違うわよ!」

「え?」

 その声に驚いて今度は彼が振り返ると、夕日を背にした彼女は、それを見た彼がびっくりするほどのキレイな微笑を浮かべていた。そんな彼女が、穏かに口を開いた。

「知ってる? ちょっと前の話しなんだけど。月さんねぇ餌を蹴っ飛ばして、ひっくり返しちゃったことがあるの。しかもそれに口もつけずに。今までそんなことなかったのに、おかしいなぁって先生ってたわ」

「……」

「それでね、落ちてた餌を、いろんな人に見せてみたんだって。そしたら、給食の小母さんがね、これ痛んでから、昨日ごみに出したやつだよって。」

「……」

「食べてたらきっと、お腹壊してたろうねって言ってたんだって。うーん、月さんはすごいわね! もう半分化けウサギかも!」

 あはは、と彼女は声を上げて笑った。あさっての方向へ喋っている言葉は、独り言のようで、それでいて、目の前に立っている彼に向けてその言葉は放たれていた。彼は彼女の意図には気づけてはいなかったが、彼女のその声は、とても優しかった。

「だから、ね? 違うのよ」

 彼女は一端そこで言葉を区切ると彼に、もう一度その輝く夕陽にも負けない笑顔を向けた。

「月さんは、シンジのこと、嫌ってなんかいないわ」

「!」

「今度、ニンジンでも持っていってみようね。皆に、内緒で。」

「……」

「ね?」

「……はい」

 そうして彼女、山川ユカリは人差し指を口に当てて、彼、碇シンジに向けてもう一度微笑んだ。
 一瞬呆気にとられていたシンジも、つられてぎこちなく微笑んだ。二人の間には、いたずらの計画を一緒に立てているような、心地よい連帯感が生まれる。ユカリは、シンジの返事に満足げに頷くと、もう一度シンジに笑いかけた。

「まったく、せっかく明るくなってきたって思ってたらこれだもの。相変わらず暗いんだから。」

「……えへへ、すみません」

 そうした、やり取り。和やかなやり取り。


 いつまでもこんな日が続けばいいと思っていた。


 そして後ろを振り返り、夕陽が作る闇を見て思う。


 何時までもこんな日が続くはずはないと。


 でもこんなに早く、終わりが訪れるなんて。


 こんなにあっけなく崩れ去ってしまうなんて。






 どうして


 僕は、もう諦めたんだ! 受け入れたんだ!!


 繰り返しの中に、貴方はいないのに!!


 なのに、どうして……


 どうして、あなたがそこにいるんだ!




 ズキリと額に走る痛みが、シンジの意識を飼育小屋の前に連れ戻す。彼の前にはユカリがいて、クラスメイト達がいる。

「碇?」

 ユカリが、シンジの名前を心配そうに呼ぶ。
 その声に、歯の根が震えそうになる。
 早まり続ける心臓の鼓動にあわせ、ズキズキと額が痛む。
 だからシンジは、震える声を誤魔化すように、声を張り上げる。

「僕が! 僕が! ウサギが、彼女があんな風になったのは僕の……」

「……あんた、なにを……」

 けれども、彼女が自分をどんな風に見ているか想像しかけて、言葉が止まってしまった。
 【それはどれだけ恐ろしいか】と、
 また、額がズキリと痛む。
 じゃりっと砂を踏む音が聞こえた。ユカリが、シンジへと振り返り、そちらへ駆け寄ろうと踏み出した音だった。

 胃の中身をすべてぶちまけてしまいそうなほどの悪寒が足元からせり上がってくる。

 絶叫を上げて、それを振り払う。

「近寄るなぁ!!!」

 ばっと、前に右手を向ける。それは先程と同じように、ユカリを含めその場の全員に、その掌の内が見えるように広げられた。
 ひっ、と誰かが息を呑む声が聞こえる。
 再び、辺りの音が消える。砂を踏む音も、すすり泣く声も、僅かに吹く風どころかその場にいるクラスメイト達の呼吸さえ聞こえなくなる。聞こえるのはただ、荒く、深く、空気を求める自分の呼吸だけ。
 右手で抑えていたところから、なにか温い物が額を伝い、地面に落ちる。それは、地面に落ちると、小さく、赤い、染みを作った。そしてその右手からも、僅かながら血が滴っていた。
 しかしシンジはそれにかまわず、声を張り上げた。今度こそ、自分の中に再び湧き上がってきたソレを消し去るために。

「僕が殺した! 僕が! 殺したんだ!!」

 自分の血にまみれた右手を、更に前へと突き出しながら、もはや悲鳴に近い声で叫ぶ。

「僕が彼女を引き裂いて! 僕が彼女を赤くした! この手を赤くして! 血まみれにして! 血まみれになって!」

 もはやその声に、先程のような歪んだ喜びは影もなく、まるで追い詰められた人間のそれだった。
 肺の中の空気をすべて絞りつくして、叫んだ。空になった空気を求めて肺が大きく動く。それにあわせて首から耳の後ろ、そしてこめかみにかけて、ドクンと大きな鼓動を感じる。そしてまた、ズキリと額が痛んだ。

「……シンジ」

 再び、ユカリがシンジの名前を呼ぶ。もはやその場では、彼女しか呼ぶことのなくなった彼の名前を。
 それはとても静かな声だった。静かだけれども冷たさはなく、けれども先程の明るい声とも違った。ユカリの予想とは違った変化に、クラスメイト達は再び息を呑んだ。
 じゃりっと砂を踏みしめる音。それは彼女が再びシンジに近づこうとする音。シンジは、またビクリとその身を震わせた。
 ズキリと、額の痛みが全身をしびれさせる。

「私を見なさい」

 彼女がどんな表情をしているかは、その背中を見ているクラスメイト達にはわからない。下を向いてるシンジにも解らない。けれども決して顔を上げる事はできない。
 その言葉を自分に向けるユカリが、どんな表情で自分を見ているかシンジは知っていたから。
 恐ろしくて、顔を上げるなんてできなかった。

「あんたじゃないわ」

 シンジは息を呑み、

 肺の空気は圧縮され、

 心臓が悲鳴を上げて、

「あんたじゃない、あんたが、……そんなことする分けないじゃない」

 ズキリと、額が痛む

 じゃりっと砂を踏む音が近づいてくる。ユカリが、シンジにゆっくり近づく。シンジの言葉を否定し、シンジ自身を肯定する言葉をあたりに響かせながら。

「私は知ってるんだから。あんたがどれだけ、一生懸命世話をしていたか、掃除をするときだって、餌をあげてるときだって。看板作ってるときのあんたが、どれだけ嬉しそうにしてたかも」

   ズキリ

 ユカリが一歩進むたび、目に見えない何かに押されるように、シンジは一歩後ろに下がる。

「……違う、……違う違う違う! 彼女なんて大きらいだった! いつも僕の手を噛むんだ。僕になついてくれなくて、いつも皆にばかり触らせて。月さんなんて、大きらいだったんだ! だから、……だから!」

「私は!!」

   ズキリ

 カシャンと、シンジの背中でフェンスの擦れる音がする。
 シンジの視界に、近づくユカリの靴が映り、もはや逃げ場を失ったシンジには顔を逸らすことでしか、それから逃れる術はない。

「……私は、ちゃんと知ってるんだから。シンジが、どれだけ月さんが好きだったか、知ってるわ。何度手を噛まれても、どんなに蹴られても、毎日毎日月さんに話しかけて。昨日の夜だってあんなに、あんなに嬉しそうに、初めて触らせてもらったんだよって、いってたじゃない」

   ズキリ

「知らない、そんなの知らない! 僕は知らない!」

 目を堅く閉じ、耳を強く押さえつけた。けれど、いくら首を横に振っても、彼女の言葉を否定しても、ユカリの存在はシンジの前から消えてくれない。
 もはや彼女の呼吸すら肌に感じ取れるほど、彼女の存在を近くに感じるというのに。

「私は、知ってる」

   ズキリ

 彼女の声がこんなにも、力強く聞こえてくるというのに。

 耳を塞いでいても聞こえていた砂を踏む音が、唐突に消えた。
 シンジは、さらに強く身構えた。
 次にくる彼女の、どんな言葉にも、どんな想いにも耐えられるようにと、より硬く、より強く。なにものをも通さない絶対の壁を思い浮かべて。


 あの日、父の背中を思い浮かべて。


 けれどもそんな彼が次に感じたものは、そっと手に触れる温かさだった。

 そして、ユカリはシンジに囁きかけた。

「……だから、だからお願い。そんな悲しいこと、……言わないで」




 ズキッ




 その暖かさに続く言葉は、耳元でささやかれなければ消えてしまいそうなほど、細く、小さく、弱弱しい声だった。
 シンジは、ハッと目を見張った。
 ユカリとの距離が、それこそ触れ合うほどまでに近づいたことで、シンジはそれを感じ取れた。
 彼女の呼吸、彼女の声、そして何より今も自分の手を、自分の血で汚れた手を掴んでいる彼女の手が、僅かに震えていることに。
 そこで、初めて顔を上げる。
 そこには、ユカリの顔があった。シンジが見たこともないほど、悲しそうに、辛そうに歪められた彼女の顔が。けれどもシンジと目が合った瞬間、安心したように微笑んだ彼女の顔が、そこにあった。


 その目は、やっぱり、とってもキレイだった


 シンジの体から、ふっと力が向けていく。自分の手に触れている彼女の手を、そっと握り返した。
 あぁ、やっぱりだ。
 シンジは、そんな彼女の瞳の奥を見つめて思う
 自分をまっすぐ見つめる彼女が、自分は何よりも恐い。
 もはやその恐怖は、額の痛みさえ凌駕し、全身の感覚のみならず、感情すらも麻痺させていく。






 繰り返しの中にいるという、諦めの中の安心はもはやそこにはなかった。
 ユカリがここに現れたせいで。
 シンジの繰り返しの中に彼女はいない。彼女のような存在はいない。

 以前とは比べようもないくらい、あまりにも明るい日々の中で忘れようとしていた。

 それは、ここに来る前のこと。

 誰かがどこかで泣いていれば、それは自分のせいだった。
 誰かがどこかで怪我をすれば、それは自分のせいだった。
 教室で何か物が無くなれば、それは自分のせいだった。
 どこかで何かが壊されれば、それは自分のせいだった。

 逃れようとしたこともあったけれど、それは無駄で、受け入れるしかなかった。
 認めて、
 謝って、
 殴られて、蹴られて、物をぶつけられて、
 無視されて、独りぼっちにされて終わる。

 どうすればいいのかなんて解りきっていたのに

 行き先が決まっていれば、恐いものなんてなにもない。
 結末が決まっていれば、恐いものなんてなにもない。
 そこに何があるかわかってる暗闇なんて、光に照らされているのと同じだと信じた。

 それなのに、ユカリさんはこうして僕の前に立っている。
 あの時と同じような、微笑を浮かべて。僕に手を差し伸べてくれた、あの日のままの。

 どうして、この手はこんなにも温かいのだろう

 どうして、この人の瞳は、今も自分をまっすぐ見てくれるのだろう

 どうして、この人の温もりがこんなにも恐いんだろう

 どうして……






「……どうして、ユカリさんは、そこまで……」

 数瞬の、麻痺してぼやけた思考の後に、シンジは今も自分の目の前にいるユカリに、小さく問いかけた。もはやそこには錯乱めいた様子はなく、その口調も穏かな問いかけだった。
 ユカリは、顔を上げたシンジの額に、今も血を流している傷を少し不安げに確認し、それほど深くはなかったことに安堵していた。そこへ、先程のシンジの声が聞こえてきた。

「理由なんて、必要ないじゃない」

 ユカリは当然のように言い切った。
 その瞳はシンジの怪我を気遣いながらも、その視線を外すことはなかった。 

「……どうして」

 まるで眩しいものを見上げるように目を細め、ユカリの視線を受け止めながら、シンジは先程よりも短く質問を繰り返した。
 ユカリは、少し驚いたような表情を作り、何かを考えるそぶりを見せた後に、楽しそうに語り始めた。

「んー……、シンジは、ここに来る前に教室に鞄を置きに行ってるわね?」

「はい」

「そして、私がここに来るまで、ここにいた。一歩も外へは出ずに」

「……はい」

「それで十分なのよ」

「どうしてそれだけで?」

 シンジが、不思議そうに聞くと、ユカリは得意げに胸を張りながら、そこで一度言葉を切った。

「ふっふ~ん、甘いわねワトソン君。それじゃあ、どうして【外側のドアノブに血の後がついてたのかしら?】」

「……ぁ、あぁ、そうか、……そうですね」

「そういうこと」

 ユカリは、種明かしをするときのような、いたずらっぽい笑みを浮かべて、嬉しそうに言った。シンジは一瞬だけ目を細め、僅かに考える様子を見せた後、彼もまた困ったように微笑んだ。
 不意にシンジが、自分の手を握っているユカリの手に視線を落とした。


 そして、静かに口を開いた。


「……でもね、ユカリさん」

「なーに?」

「やっぱり、月さんたちを殺したのは、僕なんですよ」

 そう言った後、ユカリを見上げた顔は、困ったように眉をよせた、いつものシンジの笑顔だった。

「!」

 ユカリは目を見張った。それは、シンジの言葉の内容に対してだけでなく、その声はどこか抑揚が欠けていて、覗き込んだその瞳が、ガラスのように澄んでいたから。
 何かを言おうとして、何か言わなければと口を開きかけて、そんな彼に掛ける言葉を見つけられず口をただ動かす。
 そんなユカリを、シンジは首を横に振って止めた。

「だって、僕は、ユカリさんに信じてもらえるような奴じゃない。……だって、僕は……」

「碇は、俺たちにずっと嘘付いてたんだ」

 勝ち誇った声が、シンジの言葉を遮った。






  ユカリとシンジの成り行きを見守り、最後は気まずそうに二人から視線を逸らしていたクラスメイト達とはちがい、田中ユウだけはシンジを睨み続けていた。
 そして、彼は自分の中の【正しさ】をいまや確固たるものと位置づけ、笑みすら浮かべて。

「そいつの親父、今刑務所にいるはずなんだ」

「……なんで?」

 ユウの言葉を聴いたユカリは、視線を僅かにそちらに向け、静かに訊いた。

「碇の親父が、人を殺してるからさ」

 それに対してユウは言葉を続けていた。

「それも、ただ殺しただけじゃない、人体実験だ。そいつの親父はイカレてんだよ。いいか? 親父がそんな奴なんだ。こいつだって同じようなこと考えてたに違いないんだ。気味が悪いんだよ。そんな奴が、ずっと同じクラスに居たなんて。……キモチワルいんだ」

 ユウはユカリからシンジに視線を移し、最後の言葉をことさらに強調して、彼にぶつけた。
 シンジの体が小さく跳ねる。
 そしてそれは、その手を握っているユカリにも伝わった。

「……もしかして、みんなもこれを聞いたから、シンジが犯人だと思ったの?」

 ユカリは、ほんの少しだけ、先程よりも体を彼らに向けつつ彼らに問いかけた。
 田中ユウを除くクラスメイト全員が、先程までの笑みを消したユカリの視線から、気まずげに目を逸らすことでそれに答えた。

「……あぁ、そういうこと。なんだかおかしいと思ったのよ。私も、ちょっと勘違いしてたみたい」

 堅く瞼を閉じ、ユカリは一度彼らを視界から完全に消した。その溜息混じりの呟きには、明らかな落胆の色があった

「ところで、どうして【アンタごとき】が、そんなこと知ってるの?」

 そして、次にユカリが田中ユウに視線を戻したとき、口調は優しく、声も穏かに、しかしその内容は完全に彼を見下していた。

「ッ! これだよ。見てみろよこの新聞記事。これだけじゃないんだぜ? 俺が頼めば、あの人まだ証拠を見せてくれるって……」

 彼は一瞬たじろいだが、その手に握り締めていたものを、まるで今思い出したかのように広げてみせた。
 ユカリは、くしゃくしゃになった紙切れを無感情に流し見ると、一度だけ、深く大きな溜息をついた。そして、彼らを見ずに自分の手と、シンジの手に視線を落とした。
 シンジの手は、もう握り返すこともなくただ震えるだけだった。

「アンタが、それをみんなに、……シンジに見せたのね」

「……それがどうしたんだよ」

「シンジの手、見た?」

「あぁ、見た。ここにいる全員が見た。ソイツが言ったとおりウサギに咬まれた傷だらけの手が、どうかしたのかよ」

「……あんた、自分がやってることの意味、ちゃんと解ってんでしょうね」

「何だよ、何が言いたいんだよ! はっきり言えよ!」

「あんたは、…………お前は、どうしようもない馬鹿だっていってんのよ」

「な!」

 ユカリはそう吐き捨てると、その言葉に顔を引きつらせている田中ユウから視線をはずした。

「シンジ」

「……はい」

 ユカリの声に、シンジは小さく答えた。

「『左手』見せなさい」

「あ!、……ィヤ!!」

「いいから、見せなさい」

 自分の左手に手を伸ばしたユカリの手からシンジは体ごと隠した。

 しかしユカリは、そんなシンジには一切かまわずシンジの左手を開かせながらみんなの前に突き出させた。

「皆、ちゃんと見えてるかしら。これ何か解る?」

「切り…傷?」

 突き出されたそれを目にしたクラスメイトの一人が言った。
 シンジの左手は、右手に劣らずボロボロだった。
 一番目立つ指先には幾筋もの赤い切り傷のような傷がいくつもあり、指の付け根には、分厚く堅くなったマメがいくつもあった。

「うぅん、違うわ。これ火傷なの。チェロを早く弾きすぎたり、弦を強く抑えすぎたり、長い時間弾き続けたりするとこんな風になっちゃうの。ここなんかマメになって何回もつぶれてるし。みんな、何でか解る?」

「……」

 ユカリは、そこでシンジの手を離した。シンジは今度こそ、左手を腕ごと隠すように胸で抱きしめた。
 クラスメイト達は、ユカリが何を聞こうとしているのか解らず、彼らの一番前で彼女に対峙しているはずの田中ユウは、ユカリが自分を否定した理由が解らずにいた。
 そして、シンジだけがユカリが言おうとしている事を理解できた。

「ユカリさんやめてくだ……」

「シンジは黙ってて」

 ユカリはシンジの制止を、静かな声で遮った。
 そして再びクラスメイト達に向き直ったとき、その口は笑みを形作ろうとしていたが、その目は険しく彼らを見据えていた。

「今までずっと避けてきたのに、家にチェロを持ち帰って、パパやママに怒られても夜遅くまで練習して。けど、重たい楽器を学校まで背負っていくところを見られたくなくて、毎日毎日早起きして学校に行くの。お昼休みも、放課後も、ずっと音楽室に篭って」

 声が震えて、言葉にならなくなってくると、一度大きく息を吸った。

「みんなは知らないでしょ? シンジね、この前音楽室で倒れたの」

 それでも震えが止まらなくて、今度はぐっと胸をむしり取るような勢いで掴み、震えを無理やり止め、深く深く、声を震わせていた感情を体に押し込める。もう皆を安心させるための笑みを作る努力すらしない。

「こんなに小さいくせに、根性無いくせに、柄にも無く頑張るもんだから、とうとう目を回して倒れちゃった。私、黒田先生にすっごい怒られたんだから。『二組の人は、碇君だけにこんなに練習させて何してるのか!』って。あの先生怒るとすっごく怖いの。……何でか、解る? シンジが倒れるほどチェロの練習してた理由が、あんたに解る? みんなに解る? 私、シンジに聞い たの。どうして、そんなに頑張るのかって。でもシンジ、答えてくれなくて、みんなには言わないでって、それだけしか言わないの。言ってくれないの」

 記憶を思い起こして、そのときの無力感がユカリの中で呼び起こされる。それでも彼女は言葉をとめなかった。止められなくなっていた。
 そんなユカリを前にして、彼らは何も言えず立ち尽くしていた。
 ユカリは、そんな彼らをもどかしそうに睨み続ける。

「……みんな、シンジにチェロを頼んだとき何て言ったか、覚えてる? 『任せた』、『期待してる』、『碇君なら大丈夫』。……シンジはね、みんなのそんな言葉だけで、みんなの期待に応えようとしただけで、倒れるまでチェロが弾けちゃう、そんな馬鹿なのよ。……そんなシンジが、アブナイ? キミガワルイ? キモチワルイ?」

 押さえつけすぎた言葉は、何かを目の前にいる彼らにぶつけようとしては、まるでユカリが自問しているかの様だった

「シンジにも、悪いところはあったかもしれない。でも、……それでもよ!! どうしてシンジを信じてあげなかったの!」

 ユカリは叫ぶ。

「あんたこれでも! あんたたちこれでも!! シンジに何を言ってるのか判らない?  シンジがあんた達に何かしたの!! シンジがあんた達を傷つけた? 今までシンジの何を見てきたのよ!!」

 ユカリはギリギリと歯が鳴るほどに噛み締めた。その瞳が目の前の彼らを射抜くように睨みつける。感情に振り回されるままに叫び続け、息が上がっていた。肩で大きく息を整える。激昂がそうしてほんの少しの間を置いたとき、ユカリの服の袖が遠慮がちに引っ張られた。

「ユカリさん」

 それだけでは振り向いてくれないユカリに、シンジは小さく声を掛ける。

「……なに、シンジ?」

 目の前のクラスメイト達を、今だにきつく睨みつけたまま、返事をした。シンジは彼女の陰に隠れたまま、ポツリと言った。

「もういいんです」

「よくないわ。何が、いいのよ! ……徹底的にやってやる」

「ケンカ、……しないで」

「……」

「ユカリさんが、みんなとケンカしちゃったら、僕、きっと悲しいです」

 ガラスにさす光が歪むように、透明なしずくが、僅かな赤をにじませながらシンジの頬を伝い地面に落ちてゆく。
 振り返ったユカリは、それが地面に小さな染みを作るのを見た。
 シンジは、ユカリの服を握り締めながら言う。

「僕、嬉しかった。皆に、任せたって言ってもらって、上手だねって言ってもらって。本当に嬉しかった、月さんに触れて、ちょっとだけ好きになってもらったような気がして。本当に、嬉しかった」

「シンジ……」

「……でも、僕はそんな奴じゃない。今朝だって、本当はだめだってわかってたくせに、餌を上げに行きたくて。また、僕の手から、食べてもらいたくて。でも、当番の人より早く行かないと、月さんたちもお腹がいっぱいで食べてくれないと思って。やっぱり、僕は、皆に、月さんに、……好きになってもらえるような奴なんかじゃないんだ」

「……そんなことない。そんなことないったら!」

「僕が、……殺したんだ! ……僕が、月さん達を……」

「あんた達、シンジに何いったの」

 そんなシンジを見ていられず、ユカリは気まずげにたたずむ彼らに振り向いた。
 しかしそれを、

「違うんです!!」

「なにがよ!!」

 更に強く、ユカリの服を引き寄せたシンジに止められる。
 ユカリはシンジの手を振りほどきながら、シンジに振り返った。振り払われた勢いで、シンジはフェンスにぶつかった。

「あ……」

「あっ」

 重なったその声は、カシャンと響くフェンスの音にかき消される。
 肩を抑えるシンジにユカリは思わず手を伸ばそうとするが、

「……違うんだ」

 ぶつかった肩や、今も僅かに血が流れる額とは比べ物にならないような痛みに耐えるように声を震わせながら呟いたシンジの言葉に、ユカリは口を開くことすらできなかった。
 涙で汚れた瞳は、もはやガラスの様とは形容しがたく、黒い何かに歪んでいた。
 彼は、恐怖と、悲しみと、そのどちらでもない感情を、一度に表に出した。
 そして、次のその言葉も、耐えられない何かに押し出されるかのように彼の口からこぼれ出た。

「……僕は、昨日わざと……、今日も、月さんたちに餌を上げたくて、わざと……鍵をかけなかった」

「……」

 それは事実。
 もはやシンジには意味のない。隠そうとして、受け入れようとして、結局はこうして彼女の前にさらけ出すしかなかった、もう終わったこと。

「僕がちゃんと……戸締まりをしていれば、あんなことには、月さんや、他のウサギがあんなことにはならなかったはずなんだ。死ななくて良かったはずなんだ。あっあんな。……僕の、僕のせいだ。僕の、せいだ。僕が、僕…が、……ぼくがぁ」

 視線をあらぬ方向に止めたまま言葉を漏らすシンジは、爪を立て、皮膚を引き裂かんばかりに自分の腕を抱いた。そして凍える体を温めるように身をかがめる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、月さん。ごめんなさい!! ごめんなさい!!!」

「……あんたのせいじゃない、シンジのせいじゃないから!」

 そういって、ユカリがシンジに手を伸ばそうとする。

「知ってますか? 死んじゃったのは、月さんたちだけじゃないんです」

 シンジが、さっと顔を上げる。痛々しいまでに歪んだその視線に捕まったユカリは、それから目を逸らすことはできず、そしてシンジに伸ばしかけた腕は行き場を失う

「月さん、赤ちゃんがいたんです。……ボク、大きくなったお腹も、触らせてもらったんです。……とっても暖かかった」

 血に汚れた右手と、キレイな左手を見比べる。

「ユカリさんみたいに、優しくて、心臓がトクン、トクンって、暖かくて。……でも今朝は、月さんも、赤ちゃんも冷たく……冷たく、て」

 シンジは、自分に向かって伸ばされていたユカリの手をとる。そこにある温もりを確かめるように。

「何でだろうって、月さんを『集めた』んです。でも起きてくれなくて。いつもみたいに、ボクの指を見ても噛まないんです。真っ赤な目が、ボクを確かに見てるはずなのに、ちっとも起きてくれなくて、それで、……それで、……ごめんなさい、皆を騙してるつもりはなかったんです」


でも、違うんです。


「……お父さんは、お父さんは! ボクの! お父さん、は…………ボクは、お父さんが大好きです。お母さんが大好きでした。お母さんもお父さんが大好きでした。お父さんもお母さんが大好きでした。きっと、今も一番はお母さんです。だから、お父さんをそんな風に言うのはやめてください」

……お願いです。だから、お父さんをいじめないで


 お父さんは、人殺しなんかじゃありません


 お母さんは、【人】じゃありません


 ボクの【お母さん】だ。


 だからお父さんはお母さんを殺してなんかいない


 どうしてみんな、お父さんのことをひどく言うの?


 お父さんのことを、何も知らないくせに!!


 お母さんのことを、何も知らないくせに!!


 知らない……くせに


 勝手なことを言うな!!




「ボクは知ってる」




 そうだ、知ってたはずだ

 お母さんの写真を焼いたのは、心の中にあるお母さんを一番にするためでしょ?

 お母さんの服を捨てたのは、そこにいたはずのお母さんを忘れないためでしょ?

 お仕事に、一生懸命になったのは、悲しくて仕方がなかったから

 何を言われても言い返さないのは、自分を責めているから

 ボクを見ないのは、お母さんを思い出すから、

 僕を預けたのは、【ボク】が邪魔だから?

 お話を聞いてほしいとき、助けて欲しいとき、ほめて欲しいとき、怒って欲しいとき、

 傍にいて欲しいときに

 傍にいてくれなかったのは、

 ボクが、

 ……?






「あ? あぁ……、アァァッ! ア゛ァ゛ァ゛ァァァァァァァァァァァァァ!!!!」 

 シンジがユカリの手を投げつけるように離し、自分の頭を抱え込むようにして抱くと、耳にした者すべてを竦みあがらせるような絶叫をあたりに響かせた。
 目の前にいる彼が上げている声だろうか。
 ユカリさえ例外にせず、誰もがまずそれを疑った。

 突然目を見開き自分たちを見つめるシンジ。耳を澄ましてやっと聞こえる小さな声で話し始め、ついにその声さえ聞こえなくなったとき、シンジの上げたその声は、本当にシンジから聞こえてくるのかと。

 そんな彼らが我に帰ったのは、肺の空気を本当にすべて絞りつくしたシンジが、呼吸に苦しみ出してからだった。
 一番近くにいたユカリがシンジの肩を揺らす。

「シンジ! 落ち着いて、ゆっくり息を・・・」

 苦しみに体を丸めていたシンジの顔を上げさせて無理やりにでも呼吸させる。
 ユカリは、シンジの半ば溺れた者のように混濁しかけていた瞳を心配そうに覗き込んだ。

「シンジ?」

 一度、一瞬だけ、シンジとユカリの視線が重なった。

 そして次の瞬間

 シンジは、ユカリを突き飛ばした。

「きゃっ!!」

「ユカリちゃん!!」

 ユカリは、予想以上に強い力を受けて地面に倒れた。
 すぐに彼女の傍に、今までユカリとシンジのやりとりを見守っていたクラスメイト達の二人の女子が彼女に駆け寄った。
 そんな彼女に目を向けることなく、シンジは自分を取り囲んでいた同級生達をせわしなく、追いつめられたように彼らを見回した。
 シンジからは、彼らの顔は見えていなかった。
 まるで、黒で塗りつぶしたように顔を見ることが出来ず、彼らが誰か、シンジには解らなくなっていた。
 そして、ユカリを突き飛ばしたことで、それまで彼女の体で遮られていた光が、シンジの黒い瞳に、吸い込まれるように差し込んできた。シンジは目を細めることもなく、顔を背けることもなく、瞬き一つせずその視線の先に映った光景に魅入られていた。

「ちょっと、碇君!」

「何するのよ!」

「ひどいじゃない!!」

「やっぱり、おまえ!!」

「ユカリちゃんに謝りなさいよ!」

「みんな? 私は大丈夫だから……」

 クラスメイト達はシンジに近寄ることなくシンジに言葉を浴びせる。それまで動けなかった気持ちをすべてシンジにぶつけて。

 それは罪悪感だった、それは不安感だった。それは正義感だった。そして、それは恐怖だった。
 直視できない、自分たちと同じ存在とは思えない、排斥せねばならない、同じ空間にいたくない。
 ユカリが、理不尽に突き飛ばされた。
 もはや彼らに残された、最後の【正しさ】が、彼らを動かしていた。
 
 しかし、そんな声は、シンジの耳には入っていなかった。
 自分にぶつけられている言葉が、誰が言っているのかさえ、シンジにはわからなくなっていた。
 シンジの視線は、その存在に釘付けになっていた。

 それは

 彼らの後ろからまばゆい光を放ち、
 今も空の大半を覆い隠す雲を、
 波立つ様子を下から照らし出し、
 彼らから個性を奪い
 シンジに迫りくるように、その手を伸ばす
 それは、




 赤く、紅く、緋く、




           どこまでも朱い、空




 深く、厚い、この雲に覆われていたはずのこの空に、しかしそれはその姿を垣間見せていた。
 まるで、シンジをじっと盗み見るように、
 あざ笑うかのように、
 雲と、山の、歪な地平線の間に出来た、ほんの少しの隙間から。






逃げなくちゃ……




逃げなくちゃ、早く、ここから、逃げなくちゃ


逃げなくちゃ

逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃにげなくちゃにげなくちゃにげなくちゃにげなくちゃにげなくちゃニゲナクチャニゲナクチャニゲナクチャニゲナクチャ…………


 どこへ?

 どこに?

 どうでもいい

 ここではないどこか

 ここに居ちゃいけない、ここに居ちゃいけない!!

 そうだ、あの時と同じように

 ここから、逃げなくちゃ・・・




 そして、ボクは、

 朱い空に背を向けた。












To Be Continude 【 For Begin 】


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